第3節 決意したその後で、
「何をしているのです、ノエ」
部屋にいなかったはずの第三者の声に、詩凪だけでなくノエもまた肩を竦めた。彼は恐る恐る部屋の入り口のほうを振り返る。
「フランセット」
苦々しげに呟いた先には、前に詩凪とノエが接触した際に少年を止めた占い師の女性が立っていた。亜麻色のウェーブの掛かった髪を無造作に下ろし、それらしくフード付きの黒いマントに身を包んだ四、五歳歳上の彼女は、まるで人形のように無感動にノエを見つめている。
「なんだよ、邪魔すんなよ」
「するに決まっているでしょう。誰がその方を傷付けて良いと言いました」
詩凪を相手にしたとき以上に子供じみた威嚇をするノエをばっさりと切った後、彼女は目を伏せる。胸が一瞬大きく動いたことから、どうやらため息を吐いたらしい。
「そもそも、誘拐してくるとも聞いてません」
え、と詩凪はノエを凝視した。詩凪を誘拐した少年は、ばつが悪そうにフランセットから顔を背けている。
つまり、ノエの独断なのか。
なんだかな、と口の中が苦くなった。つまるところ、彼は詩凪に嫌がらせをしたかっただけではないだろうか。
「だって、止めるだろ」
「当然でしょう」
……やはりそうであったらしい。詩凪は急に虚しさを覚えた。いったいなんのために凌時の捜索を諦めて行くはずだった学校を休んでここにいるのだろう。不特定の人間を人質に取られたとはいえ、嫌がらせを甘受した自分も情けない。
詩凪の嘆きを察したのか、それともノエの説教に飽いたからか、フランセットは詩凪のほうを振り返ると、軽く頭を下げた。
「申し訳ございません、詩凪さま。うちの子が大変なご迷惑をお掛けしてしまって。まさか、誘拐してくるとは思わず……我々の管理不行き届きです。どうかご容赦を」
「え……あ、はい……」
ノエとは正反対と言っていいほど一転した、フランセットの詩凪に対する丁寧な扱いに、詩凪は目を白黒させながらも頷いた。佐重喜姉妹の件のときもそうなのだが、彼女は敵対しているとは思えない行動を度々する。
「ですが、ノエの言葉はおおよそ事実です。我々は〈異録〉を手に入れたい。そのためには、本を修復するルリユールが必要なのです。遅かれ早かれ、貴女にはこうしていただいたことでしょう」
つまり、と詩凪はフランセットの言葉を吟味する。
「予定外だったから謝罪はするけど、結局敵には変わりないから勘違いをするなってこと?」
「その通りです」
真面目な表情で頷く。
なら、何故わざわざ言うんだろう、と詩凪は思った。ノエの言葉から考えるに、彼らグランギニョールは詩凪のルリユールの技術が必要なはずなのだ。機嫌を取って懐柔した方が後々都合よく使えるだろうに。
しかしフランセットはそんな素振りを全く見せることはなく、誠実さをもって詩凪に告げた。
「ですから、お帰しはしかねます。危害を加える気はございませんので、どうかこのままここにご滞在を」
決して、甘くはなかったが。
それから、三時間ばかりが経過しただろうか。ぼんやりと部屋を見回し、外を眺め、鞄の中をあさって教科書やノートをパラパラとめくっているうちに、気付けば昼食時になっていた。
親切にも昼食を用意してくれたらしい、監視のノエと二人きりの部屋に、フランセットがお盆を抱えて入ってきた。盆に乗っているのはどんぶり。ラップに守られた中身はラーメンだ。
話だけは聞いたことのあるそれを、詩凪は奇妙な面持ちで眺めた。一応お嬢様、出前の珍しさもあったのだが、なにより占い師然として非日常めいたフランセットがそんなものを注文したというのがなんとも奇妙な感じを受ける。
フランセットはそのまま昼食をノエのテーブルに置くと、つまらなそうに詩凪の見張りをしていたノエを招き寄せた。そして、三人でテーブルを囲んで食事を取る。
誘拐犯と食卓を囲んでいるという奇怪さの所為で、麺が伸びていたこと以外の印象がないまま、和やかではないが、穏やかな昼食が終わって。
「つまんないのー」
食器を下げにフランセットが退室した後、再び詩凪の前に椅子に座り、何処から出したのか漫画雑誌を開いたノエは、口を尖らせた。
「全然、抵抗しないんだもんなーお嬢様は」
危なっかしく背を反らせてぐるりと椅子を回転させる。そのまま慣性に任せて五回転くらいした後、再び詩凪を正面に見据えた彼は、漫画を放って身を乗り出した。
「それとも、誰かが助けに来てくれることを待ってるの? 本当にお姫様気取りなんだ。仲間に裏切られたばかりだっていうのに、どんだけ頭ん中お花畑なの?」
「……なんとでも言って」
喧嘩を吹っ掛けているとしか思えない少年の言葉をそっけなく躱す。すでに詩凪は、彼と仲良くすることを諦めている。反論すればするほど相手を喜ばせるのは、ここまでの経験で学習済み。人には親切に接するべきと信条にしていた詩凪だが、ここまで悪意を向けてきて、取り合ってもくれない相手は例外にしてもいい気がした。
「だいたいさ、敵地で出されたご飯食べるとか、けっこう図太いよね。今時この日本で毒殺とか考えないのは分かるけどさ、せめて“敵の施しは受けない”くらいのプライドとかないの?」
「…………」
嬉々として攻撃してくるノエの台詞を黙殺し、詩凪は手帳を捲る。昨晩は結局使わなかったからか、魔方陣や呪文が書かれているそれに、ノエが気づいた様子はない。無視されていることに腹を立てながら、性懲りもなく口撃を続けている。
詩凪とて本当に助けを待っていたわけではない。そもそもノエの言うとおり、仲間の裏切りが疑われる中で、助けが来るのを信じていられるほど、能天気でいられるはずもなかった。
それに、詩凪だって、他人に頼るだけの人間になるつもりはない。
これまで呑気に過ごしているように見せていたのは、魔書を見ていることを気取られないためだ。アイボリーの下地に花を散らした模様の詩凪の魔書は、手帳に似せたオリジナル。
こういうときに慌てて行動するのは愚策だと、柾やキキに何度か言い聞かせられていた詩凪は、まず冷静になることに努め、次にどうやってここから逃げ出すか、何か使える術はないかと魔書を見返していた。
もちろん、度胸がある方ではないので、緊張で心拍数は上昇していたが。
一方で、頭の中は冷えきっていた。
誰も助けてくれないのだ、という絶望にも似た諦観。自分でどうにかするしかないのだ、という状況がある意味で、それが一番の原動力だったかもしれない。
反応のない詩凪に飽きたのか、ノエの口撃が止む。退屈そうにため息を吐いて、のろのろと雑誌を拾い上げ――
「第七項〈野薔薇の抱擁〉」
その瞬間、詩凪は魔書を開いた。
詩凪の足元から蔦が現れ、ノエに向かって襲いかかる。瞬く間に彼を拘束し、地面に転がしてしまった。
「何を――くそっ」
肩から膝にかけて蔦にぐるぐる巻きにされたノエは、整った顔に似合わぬ悪態を吐きながら、なんとか脱出しようともがく。
詩凪は立ち上がり、そんな彼に手帳を突きつけながら、興奮ぎみに声を張り上げた。
「ページを集めるようなことをしていて、自衛の手段を持っていないって、本当に思っていたの?」
さっきから彼は、ずいぶんと自分を侮ってくれた。それが腹立たしいと同時にひどく悔しい。
「私だって、やるときはやるの。みんなに頼ってばかりじゃないんだから!」
だが、拘束された方は詩凪の訴えを聞いているはずもなく、床に身を擦り付けて何とか蔦を切ったり外したりできないものかと試みていた。
「くっそ……フランセット!」
ノエの助けを聞き付けたのか、大きな音を立てて扉が開く。反射的に詩凪はそちらに向けて、手帳を突き付けた。
その先にいたのは、
「……凌時さん」
眉を潜めて事態を見極めんとする今日ははじめて会う青年の姿。
やはり裏切りを信じられない詩凪は、攻撃するのを躊躇った。
「なんだ。もう終わってるのか」
少し気抜けしたような声を出す。
固まったままの詩凪を一瞥して部屋の中に踏み込むと、凌時は少年の前まで来てしゃがみこんだ。
「ざまぁみろ、クソガキ。ナメたことするからだ」
「お前、何処から入った!」
「正面からだよ。こんなシャッターだけの店、厳重なセキュリティってわけでもないだろうに」
予想と違う二人の反応に、詩凪は目を瞬かせた。
無様に床に転がった少年を鼻で笑い、凌時は立ち上がって、詩凪の前へ来る。
「無事か、詩凪」
掛けられた声が、これまでと変わらぬ優しい声で、詩凪は敵地だというのに心が浮き立ってしまった。
「うん…………、うん!」
しつこいくらいに返事をする。
「悪かったな。疑われるようなことをして」
ぽんぽん、と頭を撫でられ、涙が込み上げてくる。間違いない。凌時は詩凪たちを裏切っていなかった。
凌時が帰ってきた、ただそれだけの事実がとても嬉しい。まだ一日も経過していないが、彼を疑うような状況は、詩凪にはとても辛かった。一方で、最後の方では裏切者なのだと信じかけていた罪悪感も少しあって申し訳なくもなる。
いろいろとあった所為で、感情の振れ幅が大きくなっているようだ。涙を溢さないよう、必死に堪える。
「詩凪!」
そんな中で、続いて飛び込んでくる、耳慣れた声。
「キキ!」
いつも綺麗に編み込まれている髪を少しだけ乱して、キキが駆け寄ってくる。
「怪我は!?」
凌時を突き飛ばし、得物のモップを放り出して詩凪の両肩を掴んだあと、頭の先から足の先、背中や脇腹のほうまでと、忙しなく視線を走らせる。傷痕も血の跡も、服の乱れたようすのないのも確認して、安堵のため息を漏らした。
「まったく、みすみす敵につれていかれるなんて」
甘いんだから、と説教まではじめる。なにも今ここでなくとも、と思わなくもないのだが、憂い事が何一つなくなった詩凪には、そんなことすらどうでもよく、にこにこと笑みを浮かべたままキキの言葉を聞いていた。
一通り言い聞かせて満足したのか、ようやくキキはいつもの冷徹なメイドに戻って。
「さてと、いい加減容赦しないから覚悟なさい、〈グランギニョール〉!」
転がるノエの目の前にモップを下ろし、キキは仁王立ちで少年を睥睨する。
細い銀縁の眼鏡の奥がぎらりと光るのを見て、ノエはギリギリと歯ぎしりした。その目は、キキに負けないほどギラギラと反抗的な光を宿している。
その少年の、拘束が突然解けた。
「好きにはさせませんよ」
今度ノエの部屋に入ってきたのは、フランセットだ。占い師姿は相変わらず。その手に頭が三日月の形をした樫の杖などを持っているのだから、ますます物語の占い師の印象だ。
「ごめん、抑えきれなかったよ」
更に続けて、柾が入ってくる。いつもの笑みが少し崩れ、息を切らせているのは、フランセットと対峙をしていたからなのだろうか。
「でももう、問題ないよね? なんていったって三対二。圧倒的に君たちが不利だ」
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