第2節 問われ、

「――ノエ」

「はは。昨日の今日で出てきたから、驚いた?」


 人を小馬鹿にしたような口振りで喋るその少年は、昨日詩凪たちの仲を引き裂いた張本人で。

 詩凪は人の流れの邪魔になるということも忘れ、思わず足を止めた。自然と視線が厳しくなるのは、昨晩のことを思えば無理もないだろう。


「どんな顔をしているか、見てやろうと思ってね」


 学友に会ったときのように親しげに話し掛けてくる少年の言葉は、悪意に満ちていた。


「あれはどういう意味なの。本当に凌時さんが――」

「さあね。どう思う?」


 ぎ、と愉しそうに嘲笑うノエを睨み付けた。

 ……その表情が、どうしても泣きそうなものになってしまうのは、詩凪に甘さが残っているからで――


「ふふふ、良い顔だ」


 睨みつけたところで、威嚇どころか、相手を悦ばせるだけでしかないのが、悔しくも情けなくもある。


「ずっと気に入らなかったんだよね。主様はずっとお前ばかりを気にかけてるから」


 主様、の下りで詩凪は眉を顰めた。彼が指すのは、〈グランギニョール〉の頭目のことだろう。そんな人物が詩凪のことを気にかけているなんて、心当たりがなさすぎる。

 ……いや、本当は、今となっては、ないこともない。今朝見なかった人物の顔が、詩凪の頭を過る。


「正直、君のどこが良いのかわかんない。周りからちやほやされて、頭ん中お花畑で、一人じゃなにもできないくせに、一人前のような顔してさぁ。いつかいたぶってやりたいってずっと思ってた」


 詩凪のことを悪し様に罵る少年の言葉は、どんどん冷たく、鋭くなっていく。


「ここで殺してやったって良いんだけどさ、僕だってあんたに死なれるのは困るから、我慢してやるよ」


 それからノエは右手をポケットから抜き、詩凪を誘うように手を伸ばした。視線は憎悪に満ちて、冷えたまま。


「――来い。あんたに用がある。大人しくついてこないと、周りの人が死ぬよ?」


 見せつけるように、左ポケットから手を抜く。掌に紐を巻き付けて掲げて見せたのは、西洋の剣を模したエンブレム。握りに躯、柄に翼、樋に頭と、尾の方から突き刺されたように竜の飾りがあしらわれたそれは、少年の使う魔具である。

 本気なのだ、と詩凪は感じた。応じなければ、彼は本当に、魔の力を振るうだろう。

 無関係な人を巻き込めない。おとなしく、観念することにした。


「…………分かった。言うとおりにする」


 だが、意に沿ってみせたというのに、ノエはその可愛らしい顔を憎悪に染めて、苛立たしげに詩凪を睨み付けた。


「ここの人全員知り合いって訳じゃないだろうに、守ろうとするなんてほんとイイコだね、お姫さま」


 乱暴にポケットにしまうと、低い声で吐き捨てる。


「そういう偽善ってムカつくよね」


 もう傷つきすぎて、心が鈍っているのだろうか。相変わらず棘を含んだノエの言葉に傷つくことはもうなく、ただ黙々と詩凪は彼の後に従った。




 連れてこられたのは、意外に近地。駅から十分ほど離れた商店街だった。といっても、商店街とは名ばかり。通りの大半を占めているのは、接待用の飲み屋ばかりだ。

 その中にひっそりと佇んでいた半分だけシャッターの下りた店が、目的の場所であるらしい。ノエがシャッターの下を潜り抜け、詩凪もそれに倣った。この通りが起きるのは、夜のこと。朝に少年少女がこのようなところに入り込むのを見咎める者は、誰もいなかった。


 シャッターの向こうは薄暗く、ひび割れたコンクリートの床が広がるばかりで何もなかった。何の店だったのかも分からない。ノエはその部屋を横断し、建物の奥に向かった。詩凪も黙って付き従う。店舗スペースのその向こうには、人ひとりだけ通れる幅の階段があって、そこを上っていった。

 二階に上がってすぐのニスが剥がれた木の扉を開けた先で、ようやく再び明るい光の下へと出られた。

 部屋は一階と同じで、剥き出しのコンクリートの壁と床で殺風景。だが、きれいに片付けられていて、廃屋の雰囲気はまるでなかった。扉から入った詩凪から見て、横長の長方形の部屋。大きさは十畳くらいだろうか。右側の窓の傍には勉強机とテレビ、円形の絨毯とちゃぶ台のような卓があり、左側にはパイプで作られたベッドとタンス、漫画本が詰まった小さな本棚。ノエの部屋なのか、と詩凪は推測する。ただ、こんなところで暮らしているとは信じがたかった。


 ノエは詩凪を居間の側に来るよう促すと、絨毯の上に座らせた。自分は机から椅子を引っ張り出してきて、詩凪と出口の間となる位置に置き、その上に座った。

 どうやら、監禁場所はここらしい。が、どうやら〈グランギニョール〉の本拠地というわけでもないようだ。


「どうして私を?」


 日本人らしく、靴を脱ぐか脱がないかをしばし悩んで――この部屋に来るまで、靴を脱ぐ機会はなかったから、きっと欧米式なのだろう――結局綺麗にローファを並べて、水色の絨毯に上がり込んだ詩凪は、偉そうにこちらを見下だすノエに尋ねた。コンクリートの上に直接敷いているからか、足元は硬く座り心地は悪かった。


「そんなん決まってるでしょ。ページの製本のためだよ。〈ルルー異録〉は、あんたしか直せる奴はいないんでしょう?」


 なるほど、と詩凪は納得した。魔書は、個人が好きなように使うにはやはり本の状態の方が都合が良いのだ。さもなければ、〈異録〉の怪異に見られるように、勝手に魔術が発動してしまう。そういった意味でも、〈異録〉の製本は必要事項だった。

 だけど、と詩凪は釘を刺す。


「〈異録〉は使うものじゃない。封印しておくものだよ」

「だったら直すとか言っていないで燃やしたら?」

「そう単純な話じゃないよ。そもそも、どうして〈異録〉を欲しがるの? 〈異録〉の魔術を使ってどうするつもり?」


 つまらなそうな顔をしたノエは答えない。


「〈グランギニョール〉の目的はなに?」

「さあね」


 少年は素っ気なく答えた後、詩凪をせせら笑った。


「あんたは今、〈異録〉は使うものじゃないって言ったけどさぁ。魔書はしまっておくものじゃない。使うものだよ」


 道具も本も使うためにあるというのに、その本分を果たしてやっていったい何が悪いのか、とノエは言う。


「でも、〈異録〉は人々の不幸の記録なのに。それでも使うというの?」

「さっきもそれ言ったけどさぁ、本当にそれを厭うなら、そもそも残しておくべきじゃないんだよ。なのに大事に大事に保管してあるってことは、いつか誰かが使うことを見越してのことでしょ?」


 否定する言葉が見当たらなくて、詩凪は押し黙る。


「あんたのご先祖さまもさ、ごたいそうな大義名分掲げてるけどさ。結局は、〈異録〉に書かれた魔術を独占したかったんじゃないのー?」

「そんなことない!」


 今度ばかりは、詩凪も否定した。

 反抗期であっても、詩凪は父のことをしっかりと見ていた。魔書に対する父の姿勢は真摯で厳格だった。製本のときも、魔書を管理するときも、そこには一切の私情を挟んでいないことが、幼かった詩凪にも察せられた。それほどまでに、父は、魔書を取り扱うルリユールであることに誇りを持っていた。

 父を見て、きっと祖父も曾祖父も、その前の先祖もきっと同じ想いであったに違いない、と詩凪は思っている。でなければ父はあそこまで厳格足り得ないし、詩凪もまた同じ想いを抱くことはできなかっただろうから。


「どうだか。本を封印しておくことに決めたのも、単に尻込みしただけだったりして」


 詩凪は同じ言葉を繰り返せなかった。実のところ、何を思って初代の当主が〈異録〉を手にしたかなど、詩凪は知らない。ただ興味から手に入れただけかもしれないし、封印したのも、単にその本の恐ろしさに尻込みしたからなのかもしれない。ノエの言葉を否定する要素を何も持ち合わせていなかった。


「僕ら〈グランギニョール〉は、そういう魔書を解放するために結成された。封印された知識を、今こそ我らのものにするために」


 ノエは椅子から飛び下りて、ポケットに手を突っ込んだまま詩凪のほうへ近づいた。身体を折り曲げて、詩凪の顔を覗き込む。詩凪の両目を捉えた紺碧の瞳は、目を逸らすことを許してはくれなかった。


「この世界に、あんたんとこみたいな下らない理由で奥底にしまわれている本がいくつあると思う? それこそ無数にあるんだよ。せっかく読まれるために書かれたというのに、もったいないと思わない? ねえ、本を修復するルリユールさん」

「それは……」


 詩凪は答えに窮した。ノエの言うことにも一理ある、と思ってしまったからだ。ルリユールの技術を持っているからこそ、詩凪は本そのものに対する思い入れが深い。ただ本というだけで、それそのものが好きだし、大切に読んであげるべきだと思っている。書棚の奥にしまわれたものを見れば、いつも“もったいない”と思ってしまっている。

 ……それは、ノエの言ったことと何が違うのか。

 魔書は例外だなんて、本当に言えるのか。


「それとも、この本だけ特別だっていうの? そんな風に区別してさ、あんた何様?」

「…………」


 反論できなくなってしまって、詩凪はとうとう俯いた。


 ――でも。

 この一年と半年近くに遭遇した怪異を振り返る。詩凪が見てきた〈異録〉の現象は、その大半が恐ろしくおぞましいものだった。命の危険を感じたことは、何度もある。彼ら〈グランギニョール〉がページを使って引き起こした現象は、少なくとも三人の人に恐怖と不安を与えたし、キキをおおいに困らせた。

 あれを好きにさせて良いのか、と自問して、否、と自答する。それが詩凪の本心だ。


「だからって、やっぱり人を危険に陥れるものを、好き勝手させるわけにはいかないよ」


 たとえどんな理由で手に入れたものであれ、所持しているのなら、管理する責任がある。〈ルルー異録〉に関しては、誰にも使わせないようにすることだ、と詩凪は判断した。

 顔を上げて反論すると、ノエは白けた顔をした。


「…………ほんと、面白くないな」


 拗ねた子供のように、足元を蹴った。

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