第6章 風雲急を告げる

第1節 疑い、

 ――自分の隣にいるのが誰か、知りもしないくせに。


 ノエの残したあの言葉は、夜になっても詩凪しいなたちの胸中に巣くっていた。談話室の爽やかな色合いも詩凪たち四人を慰めるには至らない。

 四人の間に漂う空気は、これまでにないほど重かった。


「どういう……意味なんだと思う?」


 キキの出した紅茶が冷めきった頃、沈黙に耐えきれなくなって、詩凪はとうとうまさき凌時りょうじに尋ねた。男性陣二人は、詩凪の右と左の斜向かいに、お互いには正面から向き合うように座っていて、険悪な雰囲気を漂わせている。


「この中に裏切者がいる。そういうことなんじゃないかな」


 腕を組み、足を組んでソファーに腰かけた柾は、問いかけた詩凪の方を全く見ないまま、凌時を見下ろしていた。


「はっ。下らねぇ。そんなの俺らを仲間割れさせるためのハッタリかなんかだろ」

「そうかもしれない。……でもね、桝水ますみ。僕は、君を疑っている」

「は?」


 吐息に近い凌時の声が、部屋の空気をさらに重くする。

 詩凪は息を詰めて事態を見守った。柾にすぐ発言を撤回するようにお願いしたい。けれどあまりに殺伐とした雰囲気に、声が出ない。ただせわしなく眼だけが動いて、二人の顔色を伺う。

 意外なことを言われた、とばかりの表情で柾を凝視していた凌時は、やがて頭を掻いてソファーにもたれた。け、と悪態を吐く。柾から僅かに逸らした顔には、怒りに満ちた眼と皮肉げに笑う表情があった。


「新参者は信用できないってか」

「つまるところ、そういうことだね。君は突然この家にやって来た。学費のために奉公するとか、そんな今時そうそう有り得ない理由でこの家に転がり込んできてさ。怪しく思っても仕方がないだろう?」

「一理あるけどな、俺はたまたま間宮さんに拾われただけだぞ。どうやって都合よくここに潜り込むってんだよ」

「そうなるよう、裏で仕向けたのかもしれない」

「……」


 凌時は笑みを引っ込め、ぎり、と音が鳴りそうなほど強い視線で柾を睨む。しかし柾の方は顔色一つ変えないまま冷笑を浮かべていた。


「ほら、言い返さない。心当たりがあるんじゃないかな?」

「てめぇ……」


 とうとう青筋立てて腰を浮かせた凌時を見て、詩凪は思わず声を張り上げた。


「やめて!」


 ぴたり、と二人の動きが止まった。止まってくれた。

 再び喧嘩にならないうちに、詩凪は急いで捲し立てる。


「私たちは、〈異録いろく〉のページを集める大事な仲間。裏切者なんていないし、ページを集めるためなら、そんなことはどうだって良い。こんな話をする必要なんてない。そうでしょう?」


 同意を求めて投げ掛けた言葉に、あろうことか、

頷く者は誰一人としていなかった。柾と凌時は、気まずそうに詩凪から視線を逸らす。

 詩凪、と背後から咎めるようなキキの静かな声が聴こえてきた。


「それは考えることをやめるということよ」


 キキを振り返った詩凪の表情が凍りついた。否定の言葉を吐き出そうとして、その言葉の軽さに気付いて引っ込める。

 本当は、キキの言うことを解っていた。裏切り者の存在が示唆された以上、それが真実であるかどうかも含めて、きちんと考えるべきなのだ。

 〝みんなを信じる?〟 綺麗事を言うのは簡単だ。聖人のような言葉を口にして場を収めてしまえば、そこには表面的に綺麗な形が残るだろう。ついでに、仲間を疑う自分に幻滅しなくても済む。

 だが、詩凪にはすることがある。せっかくページを集めても、最後の最後で台無しにされたら意味がない。そんなことにならないためにも、裏切り者を炙り出す必要があるだろう。


 解っている。

 ……それでも。


「だとしても、私は……みんなを疑いたくないよ」


 キキはそれこそ生まれたときからずっと詩凪の傍にいる、姉のような存在だ。彼女以上に心を許せる人はいないし、今は甘えてしまっているけれど、自分も彼女にたいしてそうありたいと思っている。詩凪にとってかけがえのない存在。疑いを持つことすら有り得ない。

 柾は小さな頃から幼馴染として一緒に過ごしてきた。困ったときはいつも詩凪の傍に居て、助けたり慰めてくれていた、兄のような人。いざというときにここまで頼ることができる人を、詩凪は他に知らなかった。

 凌時は確かに新参者だけど、いつも詩凪に優しくしてくれた。お金が目的かもしれないけれど、いつも楽しい話をしてくれて、会って間もない詩凪を真剣に守ってくれている。両親のいなくなった家を再び明るく暖かい場所に変えてくれた人。

 彼らのうち誰か一人でも欠けてしまったら、自分はいったいどうなるのだろう。想像しかけて、止める。例え自分がどうなっても、刹那的なものだとしても、現在を失いたくないと思ってしまう。


 詩凪の言葉をどのように受け止めたのか。誰一人言葉を発しなかった。柾は頬杖をついたままあらぬほうを睨み付け、凌時は俯いたまま拳を握り締める。キキはただ心配そうに詩凪を見つめていた。


「……寝る」


 素っ気なくそう言って凌時は立ち上がると、すたすたと談話室の出入口まで移動した。呼び止めようと立ち上がった詩凪にも、監視するように目で跡を追う柾にも一度たりと視線を寄越さない。

 乱暴にドアノブを掴んで扉を開けた後、ふと思い出したように凌時は停止した。視線だけで柾のほうを振り返る。


「霧沢、当面俺の前にツラ見せんな」


 吐き捨ててから、扉を閉める。苛立ち紛れに力一杯閉められた扉のあまりにも大きな音に、詩凪の心臓は縮み上がった。


「……僕も帰るよ」


 柾はソファーから立ち上がり、扉のほうを向いたまま動かない詩凪の傍へ寄った。


「ごめんね、詩凪」


 優しく頭を撫でられる。

 詩凪は何も返さなかった。俯いたまま「さようなら」も言わず、柾が出ていくのをただ見ていた。

 談話室に、詩凪とキキだけが残された。キキはきっと詩凪のことを見ているのだろう、俯いた頭の上に視線を感じた。

 それが同情なのか、失望なのか、確かめる勇気はなかった。


「どうして……こんなことに……」


 今の状況が悲しくて声を絞り出す。つい最近まで、四人で仲良くやって来たというのに。少年のただ一言で、あっさりと壊れてしまった日常がとても悲しかった。




 曇天の朝を迎えて、憂鬱な気分のまま詩凪は起き上がった。日常の習慣に身体が動くのに任せて支度を進め、階下に下りる。

 誰にも会いたくない。朝食も必要ない。そう思いつつも、他の行動を取ることもできなくて、結局いつものように食堂に顔を出した。

 薄暗い食堂は、広かった。まだ何も置かれていないテーブルだけがそこにある。


「お嬢様……」


 詩凪がやって来たのを察したのだろう。奥から顔を出した間宮は、皺の増えた顔を外と同じように曇らせて、詩凪の前に立った。


「……どうしたの?」


 間宮に続いて現れたキキが答えた。


「凌時さんが出ていったわ」

「え!?」


 いつも凌時が腰掛けている席を振り返る。何も置かれていないテーブル。その理由を後れ馳せながら悟る。


「どうして!」

「分かりません。書き置きもなく、荷物だけまとめて出ていかれたようで……。邸の結界にも引っ掛からず、足取りが掴めません」

「そんな……」


 足元が崩れていくような感覚に陥る。傍にあった椅子の背を掴んで、蹲るのをなんとか堪えた。

 出ていった。書き置きもなく。やはり昨日のことを気にしているのだ。でも、だからって、何も言わずに出ていくことはないのに……。


「まさか、本当に……」


 暗い瞳で憂鬱そうにキキは呟く。


「キキ?」

「あ……ううん。何でもないわ」


 呼びかければ、慌てて首を振る。詩凪の手前、誤魔化したつもりなのだろうか。けれども、キキが何を考えているか分からないほど、詩凪も鈍くはない。


「凌時さんは、裏切ったりしないよ」


 胸の前で祈るように両手を組み合わせた詩凪は、自分に言い聞かせるように繰り返した。


「凌時さんも、キキも、マサくんも。私の大切な仲間だもの……」


 どうあっても相手を信じようとする詩凪を、キキは哀れんだ眼で見つめている。

 おめでたいのかもしれないな、と自嘲する。ここまで決定的な出来事があって、どうして疑わずに居られるのか。

 辛い事実に視線を逸らす自分に嫌気が差しつつも、凌時を失う恐怖を前に、詩凪は思考を鈍化させることを選んだ。


「……お嬢様、このようなときではございますが、お食事を。学校に遅れてしまいます」

「でも……」


 こんなときに学校だなんて。どうせ行ったところで授業に集中できないし、そんなことよりも凌時を捜したほうがいいのではないのだろうか。


「彼は私どもで捜してみますから」


 諭すように言い聞かせる間宮の声に、ぱっと顔をあげる。


「私も捜す!」

「駄目よ! 裏切り者の可能性もやっぱり捨てきれないのよ。そんな相手を、迂闊に詩凪に会わせるわけにはいかないわ」


 ぴしゃりとキキは撥ね付けた。普段と変わらない厳しい口調も、今ばかりは拒絶の言葉に感じられ、詩凪は両目を見開いた。

 言い過ぎたことを察したキキは、ショックを受けた詩凪の肩に手を伸ばし、宥めるように撫でて優しい声で言い聞かせる。


「私だって、まだ信じられないの。でも、あなたのことを一番に考えなければいけないのよ。だから、私たちに任せて」


 詩凪はキキの言にしぶしぶ従った。


 朝食もそこそこに家を出て、駅までの道をとぼとぼと歩く。学校どころではないと思っていたが、普段通りの行動を始めてしまうと身体のほうが勝手に動いて、スケジュール通りに動こうとしてしまうらしい。時刻表に間に合うよう通学路の途中から走り出し、いつもの電車に一人で乗った。

 一人での通学は久し振りだった。ここ最近は、朝から時間割が埋まっている凌時と一緒に出掛けることが多かった。話をする相手も得られず、胸中に掛かった暗雲を取り払えないまま、四十分。長いようで短い時間だった。


 重い身体をひきずって人混みに流される。改札を出て、南側の階段を降りたところで、詩凪は彼を見つけた。


「ご機嫌は如何、お姫さま」

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