第7章 揃ったページ

第1節 もう一度、冷静に

「別に、あの小娘を使うまでもないだろう」


 詩凪しいなの部屋から持ち出した〈異録いろく〉のページと、〈グランギニョール〉が集めた〈異録〉のページを差し出し、だが製本はまだだ、と伝えると、さかきは患わしそうにそう言った。それくらいの気を回してこいと言わんばかりである。


まさき、お前が製本すれば良い。一通り方法は習っているはずだ」


 そうしてまた事も無げに言って見せる。こちらの事情も少しは訊いて欲しい、と思いながら柾は口を開いた。


「普通の本ならそうだけど、魔書はそういうわけにはいかないよ」


 確かに柾は、穂稀ほまれの前当主が健在のときに製本作業を一通り習っていた。後継の詩凪のついでではあったが、本格的な手順を一通り覚えたことには変わりなく、今もその気になれば本の一冊くらい綴じられることだろう。

 だが、それは普通の本に限った話である。

 放っておけば自ら再現してしまう魔書は、ただ物理的にまとめれば良いというものではない。魔書専門のルリユールならでは技があり、それを実践しなければ〈異録〉を自由に扱えるようにすることはできない。そしてそれはすごく繊細な技術が必要で、見よう見まねでできるものではない。


 そう一通り説明すれば、榊はふて腐れながらも一応は納得してくれたらしく、それ以上文句を言うことはなかった。

 が。


「やはり、あの小娘をさっさと虜にしていればよかったか……」


 ぼそり、と榊が呟く。下衆だな、と柾は思った。


「そうすれば、〈異録〉に限らずいろんな場面で体よく扱えたものを」

「……」


 どうも兄は、男は打算で女を口説くものと思っている節があるようで、これまで何人か恋人がいたのだが、どのお相手もあまり長くは持たなかった。自分が手放したのもあるが、実はそれよりも女のほうから離れていったことのほうが多い。兄が使いたがるような聡くて気が利く女たちは、そういうところもまた聡かった、ということだ。


「てっきりお前が落とすと思ったのだがな」

「…………そうだね」


 だから引き下がってやったんだ、と言わんばかりの兄に、素っ気なく返す。どうせ、使えない奴、とでも思っているのだろうが、そもそも柾は他人に媚を売ることなど好まないので、そういうのを期待するほうがおかしいというものだ。


「とにかく、〈異録〉はきちんと直してもらわなければ困る。どんな手を使っても良いから、あいつに製本させろ」

「どんな手を、ねぇ。正直、その隙を狙って取られそうなのが心配なんだけど」

「あの小娘に、そんな悪知恵はないだろう。あっても、倫理観が邪魔をする」


 それはその通りなのだが。詩凪にその発想がなくても、キキや間宮や凌時りょうじなどの周囲はしかねないことに気付いて欲しい。


「そもそも、取られるというのがおかしな発想だ。もともと〈異録〉は我ら霧沢のもの。〝弟〟から手記を託され、街を切り離したのは我らの血脈だ。穂稀はただ、我らからさらに譲り受けただけに過ぎない」

「正確には霧沢じゃなくて、本家の方だけどね。〝鋏〟もあちらにあるし」


 本家が所持しているという、神の名を冠すほどの特別な触媒について持ち出してみれば、兄はぎろりと柾を睨みあげてみせた。

 やれやれ、と肩を竦める。


「分かったよ、榊兄さん。詩凪に製本させる」


 これ以上引き下がっても無駄だと判断し、柾は兄の要求を受諾する。どのみち、〈異録〉の製本化は避けては通れない道だ。早々に決着をつけてしまったほうが楽だろう。


「でも、その前に一つだけしないといけないことがある」



   □ □ □



「お嬢様、心配いたしました」


 ずぶ濡れで帰ってきた詩凪たちを、玄関先で間宮が迎えた。


「ごめんね、間宮」


 執事ので迎えに弱々しく微笑みかけた後、詩凪は身体を反転させて、キキと凌時の二人を見上げた。


「お願い、一人にして」


 踵を返し、足早に二階へ上がろうとした詩凪を、凌時が引き留めた。


「悪いけど、そういうわけにもいかない」


 逃げられないように手首を掴まれる。


「あいつがまた来る前に、対策を取らなきゃいけないだろ」

「マサくんはそんなことしない!」


 完全に柾を敵と見なしている凌時の発言に、反射的に詩凪は叫んだ。柾に鋏を突きつけられてなお、彼が敵だったという事実を飲み込めないでいる。それだけ付き合いが長かったし――なにより、頼りにしていたのだ。憧れに似た感情も抱いていた。

 柾といた時間の全てが偽りの上に成り立っているなんて、そんなこと信じたくない。


「いい加減にしろ! 現実を見ろよ。あいつはお前に牙を向いたんだ」

「詩凪。凌時さんの言うとおりよ。こういうこと、何回繰り返すつもり?」


 キキにまで厳しいことを言われて、詩凪は項垂れた。だが、確かにその通りだ。昨日、ノエに裏切り者がいることを示唆され皆が凌時を疑ったときも、詩凪はこうやって耳を塞ごうとした。結果、凌時は裏切者ではなかったが、そういうこともあるのだ、と詩凪は知っていたはずなのに。


「私だって、ショックを受けてる。貴女だけじゃないの」


 はっとして顔をあげる。詩凪を諭すキキの表情は、相変わらずの無表情。しかし、だからといって彼女が何も感じていないわけではない。キキと柾の間にだって、友情とまでは呼べなくても、絆はあるのだ。


「……そうだね。ごめん」


 キキだって、柾との付き合いは長い。同い年であることもあって、詩凪とはまた違った気安さもあったことだろう。裏切られたのは、キキも同じ。辛いのもまたそうだ。

 それでも、キキはきちんと現状を受け止めて考えようとしている。

 詩凪もそうしなければならない。〈異録〉を正しく守るために。


「ごめんなさい。きちんと考える」

「……よし」


 殊勝に頷いた詩凪に、凌時とキキは安堵の表情を浮かべた。


「では、まずお風呂にお入りください。身体を温めなくては」


 今、菊恵が準備しておりますから、と間宮は続ける。その用意の周到さに、詩凪は驚かされた。間宮はいったいいつ、詩凪たちがずぶ濡れであることを知ったのだろうか。


 ……そういえば、間宮はどこまで知っているのだろう。「心配した」は、単に学校に行っていない連絡を受けたからか、それとも〈グランギニョール〉と一緒にいたことを知っていたからか。

 凌時とキキが、商店街に来たのも何故なのか。

 疑問はいろいろあったが、とにかく風呂だ、とキキに浴室に押し込まれ、詩凪は仕方なく湯船に使った。


 身体が温まった頃合いを見計らって風呂から出て、私服に着替えた詩凪は談話室へと行く。そこでは、凌時が一人ソファーに寛いでいた。髪は濡れたままだが、服だけは着替えたらしい。いつか見た灰色のパーカーとジーンズ姿で、スマートフォンを弄っていた。


「お風呂は?」

「拭いて着替えるだけで済ませた」


 夏だからそこまで寒くないので入浴は拒否した、という。詩凪とキキは風呂に入れなければいけないが、凌時まで入るのは時間が惜しく思ったとのこと。

 その代わり間宮から温かいお茶を貰ったらしい。しかし、それもあまり口つけられていないようで、白磁のカップの中は半分ほど残っており、湯気は立っていなかった。

 しかし、長袖を着ているのは、やはり寒さからなのだろうか。よく分からない。

 詩凪も間宮からお茶を貰って、入れ替わりで風呂に入ったキキを待つ。


「……どうかしたの?」


 なにやらスマートフォンを操作している凌時に尋ねる。〈異録〉の怪異に関する件を除き、詩凪たちの前で凌時が携帯電話を弄るのは珍しい。


「バイトに連絡。今日は休むって」

「あ……」


 迷惑を掛けた。そう思った詩凪は表情を歪めた。


「必要ない、とか言うなよ。俺だって心配なんだから。とにかく早々に決着をつけちまおうぜ」

「……うん。そうだね」


 決着、と聴いて気分が暗くなる。決着つけるとか、つけないとか、柾とはそういう関係ではなかったはずなのに。

 俯いた視線の先、詩凪が握り締めたワンピースは、例によって柾の仕立てである。

 もしかするとこのまま対決することになるのか、と思うと、すごく複雑な気持ちだ。

 だから凌時は古い服を持ち出したのだろうか。


「そういえば、凌時さん。どうして私があそこにいたことが判ったの? ……というより、そもそも私が〈グランギニョール〉の人といることを……」

「えっ……あー……それはまあ……」


 戸惑った凌時は、人差し指で頬を掻いて、


「探ってたんだよ。疑われたままじゃ、癪だったから。で、見つけたと思ったら、お前もいるからさ……」


 どういった状況なのか、と様子を窺っていたのだ、という。

 朝突然いなくなったのも、凌時が突然乱入してきたのも、そのためなのか。


「そうだったんだ……」


 ひとまず納得。なんだかひどく迷惑を掛けたようで、申し訳ない気持ちになった。それでも助けに来てくれたというのだから、少し嬉しい。あのときは本当に誰も来てくれないと思っていたから。


「ありがとう、凌時さん。私を助けてくれて」


 そういえば、お礼を言っていなかったことを思い出し、詩凪は改めて感謝を口にする。


「お、おう……別に……」


 礼を言われた凌時のほうは、なにやら気後れしたような反応をし、


「……やべぇな。これはもしかすると、殺されるかも……」


 ぼそり、と何か言っていたが、詩凪にはよく聞こえなかった。




「状況は絶望的ね」


 ようやく戻ってきたキキは、話し合いの体勢に移るなりそう言った。


「ページが全部渡ってしまった。他の相手ならともかく、柾さんなら、詩凪ほどじゃなくても、〈異録〉を製本することはできるんじゃない?」


 キキの疑問を詩凪は肯定する。


「うん。マサくんも父様からルリユールの指導を受けていたことがあるから、基本は知っているはず」


 もし、柾がやろうと思えば、完全とはいかなくても、〈異録〉を魔術の触媒として使える状態で綴じることができるのではないか、と詩凪は思っている。


「なら、奪還することを考えるべきかしら」

「その必要はないと思いますよ」


 真剣な様子で強引な手段を検討するキキの言葉に反応し、凌時はパーカーのポケットをまさぐった。


「あいつらは、また俺たちの前に現れるはず」


 取り出したのは、四つ折りにされた一枚の紙。なんだろう、と思って覗き込んでみると、古びた紙面にアルファベットがみっちり書き込まれていた。

 綴りや記号からして、おそらくフランス語――


「ええっ!? これ――」


 詩凪は思わず凌時の手から紙を奪い取ると、記載を追った。一人称で記された、姉妹の魂と身体を入れ換えるという、陰鬱な実験の記録。

 信じられずに凌時を見上げれば、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。


「さすがに一枚抜けている状態では、製本なんてしないだろ?」


 間違いない。これは〈異録〉のページだ。


「いつの間に……!」


 柾がフランセットに箱を渡したときは、全てが〈グランギニョール〉の手に渡ってしまったのだと思っていた。柾だってあのとき、すべて揃ったはずだ、と。いったいいつ、凌時は詩凪の箱の中からページを抜き取ったのだろうか。


「まあ…………昨晩、あのあとで」


 歯切れ悪くそう言う。


「と、こういうわけだ。あいつらは向こうからやって来る。俺らは迎え撃って、ページを奪還すればいい」

「持ってくるとは限りませんよ」

「そうですか? 俺が悪党なら、ページを奪ったその場で脅したりなんなりして製本させますよ」


 なにせ、ここは設備が整っている。一度出直すよりよっぽど効率的だ、と凌時は語った。


「その通りだよ」


 突如、四人目の人物の声が割り込む。凌時とキキが勢いよく入り口のほうを振り返ったが、詩凪はその場で固まってしまった。

 耳慣れた声。けれど詩凪の知らない冷たさが込められて、詩凪の心臓を凍らせる。

 恐怖に耐えかねて、ようやく振り返る。

 談話室の扉を開けたその先には、間宮を抱えた柾が立っていた。

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