第5節 未熟者の意地

 目の前の人形を見据える。凌時たちが接近するまで大人しかった人形は、今はぬいぐるみの腹の上で立ち上がっていた。服装からおそらく少年の人形。真っ白な顔面に点と線で描かれた顔は、こちらをじっと窺っている。

 いつもの〈異録〉の怪異の人型とは違うが、視線の質は一緒。さすがに慣れてきた。だからまだ、冷静でいられるが、不気味でおぞけが走ることに変わりはない。


「俺と詩凪だけ、か……」


 凌時と詩凪は互いに視線を交わした。お互いに緊張しているのが分かる。視線は慣れても、命に関わる状況にはまだ慣れない。慣れる気がしない。詩凪だけを連れていくことを決めたときから、こういう状況は想定はしていた。していたが。


「キツいなぁ……」


 こちとら、つい最近まで魔術を使っていなかった未熟者である。修羅場は何度か潜り抜けたが、それは頼りになる――とは、少なくとも一人にはあまり言いたくないが――先輩方がいてこそだ。

 やはりキキくらいは連れてくれば良かったか、と一瞬後悔する。一瞬だけだ。すぐに切り換える。うじうじ悩んでいる暇はない。


「凌時さん、私にできることがあれば……」

「お前は下がってろ。お前がどうにかなったら、誰がこいつを封印するんだよ」


 応えて背中の黒いボディバッグから魔書を出す。詩凪に直してもらった凌時の魔書。あれから詩凪が合間を縫って直してくれたこの本は、新品のようにきれいになって戻ってきた。

 さらさらした手触りが心地よい黒い革の表紙。詩凪の施したルリユールの魔術を覆い隠した深紫の裏表紙。その二色ではあまりに地味だから、と詩凪が編んでくれた花布はなぎれは、暗い赤色だ。主張しすぎず、埋没しすぎないこの差し色で、使い古しだった凌時の魔書に洒落っ気が出てきている。詩凪が直してくれたというのもあって、ただの道具でしかなかったこの本が、今では相当気に入っている。


「直してもらっといて良かったよ」


 しみじみ呟いてから、閉じた魔書を前に突き出した。


「示せ、〝火の章、第二十七節〟」


 手を広げると、本が開く。そして、ぱらぱらと自らページが捲れて行き、凌時が指定したページへと行き着いた。ぴん、と真っ直ぐ立った一枚の紙。青白い燐光を放つそれのページには、英語の説明書きと魔方陣が描かれていた。


「〈藁束を掴むウィル・オ・ウィルウィスプ〉を此処へ!」


 青白く光るページを叩くと、光が右手に移動した。その手を振り払うように身体の横へ持っていけば、開いた掌から青白い光の球が浮かび上がる。その後ろにひっそりと現れる黒い人影。

藁束を掴むウィル・オ・ウィルウィスプ〉。聖人を欺き、煉獄を彷徨うことになった男の魂。

 妖精や妖魔を呼び出す招魔の術。これまで使ったことはなかったのだが、最近を柾の勧めがあって使い出した。といっても、これまで練習していただけであって、実戦で使うのははじめてだ。しかも、魔書修復の所為で、二週間ほどブランクがある。呼び出しては見たものの、正直不安が大きかった。


「詩凪を守れ」


 だが、杞憂だとばかりに、ウィルは凌時の命令に従って後方に下がった。すーっと宙を滑るような移動の仕方がやはり人でないことを感じさせる。役に立ってくれれば良いが、と祈るような気持ちで思う。


 そうこうしている間に、紙製の人形はぬいぐるみの柔らかな腹を踏み越えて、レモン色の絨毯に着地した。それからトストストストス、と音を立てながら、短い脚を必死に回転させて凌時たちに迫る。


「うわっ」


 滑稽ともいえる動きで脚に飛び付かれそうになったのを、慌てて避けた。背後の詩凪も避けて、勢い余って壁にぶつかった。軽い衝撃音と共に人形は止まる。

 しん、と沈黙が落ちる。予想を遥かに上回る、気の抜ける事態。まさかこれで終わりか、と少しだけ期待した。


 ……まあ、まさか、そんなはずもない。


 壁に激突した人形は、ゆっくりとこちらを振り返る。紙のからだに傷や凹みができた様子もなく、ゆらりと幽鬼のようにからだを揺らす。

 ひたひたと歩く様子があまりに不気味で、凌時は一歩後ずさった。動きはまるで外国のゾンビ映画。凌時の膝の高さにも満たない小さなからだでも、警戒心が沸き上がる。

 凌時はウィルに視線を向けた。フードを目深に被った黒いのっぺらぼうは、手に持つ藁束の松明を人形に向けて一振りした。松明の鬼火が分離して、青い火の玉となって人形へと飛んでいく。


 壁面に着弾し、弾けて消える火の玉。その風圧を受けたとでもいうのか、ふわっと人形のからだが持ち上がった。

 まるで糸で宙吊りにされたかのように、弧を描いてこちらへと飛んでくる人形。ペンで描いたような単純な顔をしていたはずのそれが、口を大きく開き鮫のような鋭い歯を見せていることに気が付いて、凌時は慌てて魔書を突きだした。


「〝火の章、第十二節〟――」


 開いた本が、望むページを探し出すはずだった。


 パラパラとページが捲れはじめた途端、凌時の中から何かが一気に抜け出すような感覚がした。身体から内臓でも引き抜かれそうな、そんな感覚。

 それも一方向からではなかった。魔書の方向と、それから〈藁束を掴むウィル・オ・ウィルウィスプ〉の方向と。まるで子どもが玩具を奪い合うように、凌時の力を引っ張り合う。


 いよいよ白い人形がこちらへ迫っているのが見えていたが、攻撃を諦めて凌時は本を閉じた。ふ、と魔書の方からの引力が消える。ウィルの方からはまだ引力を感じるが、今さっきのような強引なものではなくなった。

 余裕を取り戻した凌時は、咄嗟に人形を躱して床に転がり込んだ。くるりとそのまま回転し、腕立て伏せの体勢から立ち上がる。


 失敗だった。綺麗に着地した人形が、こちらを振り向いて口を開けたままニヤリと嗤うのを見ながら、凌時は臍を噛んだ。自立で動いてくれる招魔の術は便利だよ、と柾に教えられて使ってみたが、まさか他の魔術が使えなくなるとは思わなかった。……いや、想像力に欠けていたと言うべきか。とにかく、今ここで使うべきではなかった。

 しかし、還すのにも時間が掛かる。


「――っ、くそっ!」


 まさか解っていて教えたのではないだろうな、という考えが一瞬頭を過ったが、すぐに否定した。いくらそりが合わないからといって、柾は詩凪を危険に曝すようなことは絶対にしない。なら、失念していただけか。それはそれで腹立つが。


「凌時さん、大丈夫!?」

「……大丈夫だ」


 また凌時に襲い掛からんとする人形を見据えながら、心配そうな詩凪の声に応えて気づいた。詩凪の手には、薄い手帳のようなものが握られている。こんな場面で使う本など限られている。――あれは、詩凪の魔書なのだ。

 普通の魔書とは違うようだが。そういえば、オリジナルの魔書を作っていると言っていたか。


「四十七項〈滅光珠〉!」


 詩凪の魔書から無数の白い光の球が現れて、人形へと飛んでいく。人形は巧みに光を躱した。床を蹴り、宙を滑空し、からだを捻って。アクション映画でもなかなか見られない身のこなし振りだが、そんなことはどうでも良くて。


 この部屋に結界を張り、この後ページの封印のために力を分かっていながら、詩凪は魔術を使用した。彼女が攻撃しているところなんてはじめてみるが、そんなことよりも凌時に重要なのは、彼女が現在魔術を使ったというその事実。

 彼女は、同時に二つの術を使うことができるのだ。未熟者の凌時と違って。


 詩凪との実力の差を見せつけられた気がした。凌時なんかいなくても、彼女は立派に戦える。自分は彼女に――穂稀の家にお情けで雇ってもらって、衣食住を保証され、大学に行って――。


「――っさけねぇなぁ、ちくしょう!」


 叫びながら突っ込んでいく。なんのためにいるのだ、と自らを奮起した。弱いからなんだ。詩凪が戦えるからなんだ。自分の役割は、彼女を守ることだろう。

 凌時は詩凪に噛み付こうと跳んだ人形の脚を掴むと、そのまま壁へと放り投げた。

 ばん、と大きな音がする。


「ウィル!」


 凌時の一言で心得たウィルは、もう一度鬼火を投げ付ける。一度ならず、二度、三度。人形に当たらず壁にぶつかるが、結界のお陰で部屋の物が燃えることはないから心配はいらない。

 構わず凌時はウィルに攻撃を続けさせた。そして自分は詩凪を背後に庇って身構える。戦えないのなら、自分が詩凪を守るだけ。攻撃はウィルにさせればいい。


 とうとう〈藁束を掴むウィル・オ・ウィルウィスプ〉の鬼火を受けた紙人形は、からだをところどころ焦がしていた。直撃はしていなかったようだが、その身を文字通り燻らせて、ゆらりゆらりと凌時と詩凪の方へと歩み寄ってくる。


「――――」


 何事かを言っていた。幸羽の言っていた外国語だろうか。生憎声量が小さいこともあって、何を言っているのか聴こえない。


「……凌時さん」

「待ってろ」


 ぐ、と足下を踏み締める。あれを元の本のページに戻すには、詩凪が直接触れなければならない。が、あそこまで躍動的に動き回る小さな相手を捕まえることは、詩凪には困難だ。彼女はあまり運動が得意ではないらしいから。つまりここは凌時の出番。さっき脚を掴めたのだから、やろうと思えばできるはず。

 やれることはまだあった、とこんなときなのに歓喜が沸き上がる。役に立てるのは良いことだ。床を蹴り、人形へと飛び掛かる。ゾンビのようにゆらゆら揺れていた人形は凌時の動きに反応を遅らせてしまい、呆気なく両腕ごと胴体を拘束された。拘束した方は勢い余って床の上に倒れ込む。逃れようと身を捩る人形を押さえ付けながら、仰向けになって詩凪に向けて両腕を差し出した。

 そこに歩み寄ってきた詩凪が、そっと指先から人形に触れる。


「〝どうか鎮まって。貴方の物語はもう終わり〟」


 〈異録〉の怪異をページに戻すときのお決まりの台詞を口にする。が、今日はいつもと違って、


「もう、苦しまなくていいんだよ」


 優しく慰めるような言葉が付け加えられた。

 その言葉の理由が分からず、思わず手を緩めた凌時は詩凪を見つめるが、声にしない質問に返ってくる言葉はなく。


 逃げ出そうと思えば逃げ出せたはずの人形は、詩凪の言葉に安堵したかのような表情を浮かべ、大人しくその形を崩して紙の束に戻っていった。

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