第4節 紙製の人形

 土曜日の正午。赤庭駅の駅ビルの一階に入った喫茶店に、凌時と詩凪は来ていた。日本各地に点在するコーヒーチェーン店だ。ブラックコーヒーに限らず、デザートのようなドリンクメニューも多いことで有名で、揃って甘い物好きな凌時と詩凪はクリームの島が浮かんだカフェラテを注文した。凌時はキャラメルのソースのトッピング。詩凪はストロベリー。季節限定もある中で無難なメニューに落ち着いた二人は、注文品を受けとると、店内の奥端を陣取った。

 石のように冷たく重い丸形のローテーブルに、灰色の一人掛けのソファー風チェアが四つ。店内が見渡せる位置に隣り合って座ると、特に会話をすることもなくぼうっと人を待つ。

 休日の昼食時とあって、店内は賑やかだった。デート中のカップルや、遊んでいる途中の学生たち、勉強場所を求めてやってきた受験生など、比較的若い年齢層で溢れている。この店は軽食もあるし、価格は手頃だ。小遣い程度の学生の財布では、ファミレスではなくここに行き着くのは必然だった。

 楽しそうにおしゃべりする客たちを眺めて、平和だな、と凌時は思う。如何にも学生って感じの生活だ。自分もその枠に入っているわけだが、どうだろう。端から見れば、彼らと同じように見えるのだろうか。


 あまりにぼんやりしていたのか。二人の前に人が立っても、凌時はすぐには気付かなかった。


「クロノさん……ですか?」


 名前に使われた漢字を由来とする凌時のハンドルネームを呼ばれ、凌時は顔を上げる。女性が一人不安そうにこちらを見ていることに気がつき、返事をしながらようやく立ち上がった。


「そちらは白鷺しろさぎさん?」


 林野幸羽ゆきはです、とその女性は名乗った。年頃は二十代はじめ。化粧は薄く、ナチュラルに。暗い茶色の髪を紺色のシュシュで一つにまとめている。服装は私服のようだが、勤め人なのか所作がきちんとした印象で、大学生にありがちな浮わついた様子が見られなかった。


 凌時もハンドルネーム白鷺こと幸羽に倣って本名を名乗ると、隣で立ち上がった詩凪を示した。


「こっちは、穂稀詩凪。話をした……専門家です」


 紹介された幸羽は、ポカンとした様子で詩凪を見る。


「驚いた……こんな若い子だったのね」

「腕は保証しますよ」


 なんでも良いわ、とその女性は言った。ずいぶんと倦んだ表情だ。相当人形に苦しめられているのかもしれない。その証拠に、半ば崩れ落ちるように凌時たちの向かい側のチェアに座り込んだ。凌時と詩凪もソファーに座る。


「それで……例の人形は?」

「置いてきました。……触るの、怖かったので」


 ぼそり、とかろうじて聞き取れるだけの声量で無感情に呟くと、幸羽は凌時を睨むように見上げた。その目は潤んでいて、切実な様子だ。


「うちに、来てくれますか」


 有無を言わさない強い口調で吐き出された言葉に、凌時は戸惑った。


「いや、でも、見ず知らずの俺たちを家にあげるのは……」


 初対面、それも詩凪はともかく凌時は男である。疚しいことなどするはずもないし、そもそもできようもない状況ではあるが、それでも遠慮なく、というわけにはいかない。


「知りません。そんなことはどうでも良いんです。なんでもいいから、早くあの人形をどうにかして!」


 喋るにつれて、幸羽の声がうわずっていく。金属が擦れるような甲高い声にもなっていて、店にいた従業員や客たちの注目を浴びるのを感じた。凌時は少し焦ったが、今ここで恐慌状態の彼女を宥めるのはかえって逆効果とも思えて、半ば腰を浮かせたまま幸羽の言葉を聴いていた。


「昨日から、喋るの! 夜中にぼそぼそと……外国の言葉みたいで、何を言っているのか分からないけど、なんだか私を呪っているかのように、こっちのほうをじぃっと見て。もう、怖くて……」


 幸羽はそこでまた俯くと、自分で自分を抱くようにして肩を震わせた。泣いているのだろうか、時折鼻を啜る音も聞こえる。

 どうしたものだろう、と凌時は頭を悩ませた。大丈夫ですよ、と安請け合いして大丈夫だろうか。柾の勘から彼女の悩みを聴くことになったが、正直この件が〈異録〉に関わることなのか、まだ判別ができていない。ここまで来たら、乗り掛かった船なのだから、何かするつもりではいるが……果たして、この件が〈異録〉と無関係だったときに、凌時たちに対処ができるのかどうか。

 ちら、と隣の少女に目を向ける。


 隣の詩凪が立ち上がり、彼女の肩にそっと手を伸ばす。


「どうにかしますから、大丈夫ですよ」


 柔らかく慈しむような詩凪の声に、幸羽だけでなく凌時もまた面食らった。まるで母親のように大きな包容力。まだまだ甘えが見える少女だと思っていたのだが、意外な一面だ。


「でも、貴女の家に行く前に、お話を聴かせてください。サンドウィッチでも食べながら、ね?」


 のろのろと幸羽が頷く。強ばっていた身体がゆっくりと弛緩していった。それを見て詩凪は彼女に微笑みかけると、元の席に戻った。

 一連のやり取りを見ていた凌時も、ようやく安心することができて、椅子に沈み込む。やれやれ、と一息吐いて喉を湿そうとドリンクに手を伸ばして……詩凪の言葉を思い出した。


 サンドウィッチを三人分。それからドリンクを一つ。買ってこなければならない。




「駅前で、月に一度フリーマーケットやっていますよね。あそこで、その人形を見つけたんです」


 腹も満たされ、温かいミルクティー――凌時たちはコールドドリンクを飲んでいたが、店内は冷房が効きすぎて肌寒いくらいだった――を飲んで人心地ついたのだろう。落ち着いた様子で、幸羽は人形のことを話しはじめた。


「人と会った帰りにたまたま通りがかって、たまたま目に入ったんです。いまどき紙でできた人形って珍しいなって思って。しかも外国のものだったんですよ。売り子さんも外国の綺麗な人だったし、真っ白だけど素朴で可愛くて、なんかいいなーって」


 で、なんとなく眺めていて気に入って、値段も大したことなかったこともあって、気紛れに買ってしまったのだそうだ。

 ただ、衝動買いであったためか、購入後はさほど愛着も持たず、ただ勿体ないからという理由だけで部屋に飾っていたのだという。自分の身長くらいの洋服ダンスの上。普段使わない鞄を入れて積み上げた箱の隣に、くじなどの景品で取ったぬいぐるみと一緒に並べておいた。


「あれです」


 幸羽は自室の床の上を指し示す。

 軽食を済ませた三人は、すぐに林野の住まいにやって来た。駅の北側徒歩五分のところにあるLDKのアパート。キッチン併設のダイニングを通りすぎたその向こうの六畳間の入り口で、三人固まって中を覗き込んでいた。

 幸羽の指の先には、二体の他のぬいぐるみに折り重なるようにして、掌ほどの大きさの真っ白い人形が俯せになっていた。いつも見るような切り絵のような人型ではない。立体的な人形だ。紙人形というより、紙製人形といったほうが良いだろうか。

 一見すると、地震などで崩れ落ちたぬいぐるみの山だった。だが、幸羽はそれはあり得ないという。


「人形もぬいぐるみも、はじめは壁につけて横に並べて置いていたんです」


 タンスの天板に注目する。奥行きは結構な幅が取られていて、畳んだシャツ二枚くらいなら縦に並べて置けそうだった。一般的なサイズのぬいぐるみなら真ん中においても落ちることなど滅多になさそうだ。


「まるで、自分が降りられるように、ぬいぐるみを落としてクッションがわりにしたみたい……そうでしょう?」


 そう言われると本当にそのように見えてくるのだから、凌時はぞっとした。弛い可愛さで大人気の熊のキャラクターのぬいぐるみは、大の字になって仰向けになって転がっている。その腹の上にある紙人形。偶然か、それとも故意か、熊が紙人形を受け止めたような構図だ。

 もし幸羽がこれをわざと作ったのでないとしたら……。


 凌時が悪寒を感じている一方で、詩凪はそろそろと室内に入ると、落ちている紙製人形に向かっていた。意を決して凌時も続く。

 この間、人形はぴくりとも動かなかった。〈異録〉の怪異に触れていなければ、幸羽の言葉を疑ってしまいそうなほどに、何事かが起きる気配がない。……それが、かえって不気味だった。


「どうだ、詩凪」

「うん。間違いないね」


 詩凪はその真白い人形を取ろうと手を伸ばした。もう少しで触れるというところで、ぴくり、と指先が動き、手が止まる。そのまま硬直。だが、詩凪の表情は険しくなっていく。


「…………まずい」


 普段聞いたことのない低い声が、詩凪から漏れた。これは只事ではない、と感じとり、凌時は鞄に手を伸ばす。

 人形から手を引っ込めた詩凪は、くるりとこちらを振り返った。険しい表情で幸羽を見つめると、固い声で言う。


「部屋から出てください」


 予想外だったのか、それとも事態の深刻さを感じ取ったからか、幸羽は口を少し開けて硬直した。凌時はそんな彼女の背を軽く押して、外に追いやる。


「すみません。いつ終わるか分かりませんけど、必ずどうにかしますから」


 不安そうに振り向く彼女に声を掛け、凌時は扉を閉めた。それから詩凪のほうを見れば、心得た彼女は肩に掛けた革のポシェットの中から箱を取り出して結界を張った。正方形の光が広がって、六畳間の隅々まで行き渡る。

 天井、床、四方の壁が白い微光を放つ。これで、一暴れしても大丈夫だ。

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