第2節 工房の少女

 書斎を出て階段を下り、工房へ向かう途中で、凌時はずっと気になっていたことを訊いてみることにした。


「そういやお前、最近なにか悩んでるだろ」


 詩凪は思っていることが表情に出やすい。普段は朝早くと夜帰ってきてから寝るまでの短い時間しか顔を合わせることはないのだが、それでも一月あまり一緒に暮らせば、悩んでいることくらいは容易に汲み取れる。

 一瞬だけ動きを止めた詩凪は、少し沈んだ様子だった。うつむきながら話しはじめる


「あのね、もっと早くページの情報を仕入れる方法はないかなって考えていたの」


 なんでも週の始めに柾の兄が訪ねてきたらしい。そのときにページの回収が遅い、と苦言を呈されたそうだ。

 自分は手伝いもしないくせに、よく他所の家の事情に口出しできるものだ、とはじめは思ったが、考えてみれば霧沢は柾を戦力として送り込んでいる。弟を取られていることを考えると、そう言いたくなるのも仕方ないのかもしれない。

 詩凪もそう考えているようで、そちらについては割り切っているらしい。だが、一年かけて魔書一冊をまともな状態に戻せていないことについてはやはり気になるようで、どうにか手を打てないものかと考えているのだという。


「今までは、間宮さんの情報網と……あのアオイのタレコミが頼りだった、と」

「霧沢の伝手はマサくんが。あとは新聞とか細かくチェックして、それらしい事件はないかなって探してるんだけど……」


 なかなか見つからないんだ、と詩凪はため息を吐く。まあ、地方紙であっても、オカルト話をそうそう載せることはないので、無理もない。


「ネットは?」

「え?」

「掲示板。あるだろ、ほら、誰でも自由に書き込めるやつ。あれで噂を集めるとかは?」


 いまいちピンと来ていないのか、奇妙な表情で詩凪は首を傾げた。


「わかんねぇのかよ。携帯あんま弄んないのか……って、ああそうか。お前、ガラケーか」


 スマートフォンが主流のこの時代で、詩凪はまだ折り畳み式のガラパゴス携帯を使っていた。まだ高校生であるし、普通の家なら教育方針で、ということも考えられるが、詩凪の場合は――


「うん。間宮がああいうの好きじゃないし……だから、電話とメールだけ」

「あの人、機械音痴だからって主人にまでおしつけるかねぇ……実際、テレビすらねぇしなぁ」


 穂稀家の執事の間宮は、今時珍しく大の機械音痴、超アナログ人間である。だからこの家は、照明を除けば、電機の類いがほとんどない。携帯電話にテレビ、パソコン、OA機器をはじめ、レトロな部類のレコードプレイヤーまで拒絶されている。黒電話は置いてあるが、掛かってくることもないため、もはや置物だ。詩凪が携帯電話を持っているのが奇跡に等しい。

 執事がそこまで家を支配していいのか、と凌時は思うわけだが、詩凪の父も同じ機械アレルギーで同調していたというし、ないのが当たり前で育った詩凪は全く気にしないし、で上手いこと回っていたらしい。

 因みに、冷蔵庫と電子レンジと洗濯機、掃除機は、菊恵とキキの領分であるため、かろうじて設置されていた。少ない使用人の数で邸を保つには、やはりそれくらいは必要だろう。


「分かった、そっちは俺が試してみるわ」


 幸いというか、なんというか、凌時はスマートフォンだ。端末は高価だし通信費も痛いが、バイトの連絡や学部の同級生の情報共有も全てメッセージアプリで行われるため、金はなくとも手離せない。ネット通信料は上限のある定額制だから、データ使用量さえ気を付けていれば、掲示板くらいならほどほどに覗ける。


「お願いします」


 ペコリ、と詩凪は頭を下げる。女子高生は携帯命ではなかったか。少なくとも凌時の高校の同級生の女子はそうであったし、中学生の凌時の妹も、高校生になったらバイトしてスマホを買うんだ、と息巻いているのだが。


 それはさておき、魔書の修復である。


「うお……凄ぇな。ちゃんと工房って感じだ」


 穂稀家の邸の一階北側にはじめて立ち寄った凌時は、中の様子を見て感嘆の声をあげた。居候の身で気軽に入ってはいけないと遠慮していた場所は、作業台と機械(といっても手動であって電動ではない)と工具とが置かれているだけの無骨な部屋だ。

 連想するのは、学校の図工室、もしくは技術室。洒落た洋館にこんな部屋があっただなんて、誰も予想できなかったことだろう。

 掃除はされているようだが、それでも空気は埃っぽい。奇妙な匂いは、壁の棚に押し込められた革と、それから機械に差す油の所為だろうか。金持ちのお嬢様、だった詩凪の印象が一変する。髪を後頭部で一つに縛って、エプロンを着けて振り向いた彼女は、一端の技術者だ。


「私は本を綴じる準備をするから……凌時さんは、あそこの棚から表紙にする革と、見返しの紙を選んで」

「お、おう」


 いつもと違う雰囲気に圧倒されながら、凌時は詩凪の示した棚に向かう。赤、青、緑、紫、茶色に黒、白。とにかくいろんな色の革が巻物になった状態で立て掛けられていた。好きなもので良いと言うので、悩んだ末にマットな黒を選んだ。見返しの紙は、表紙に合わせて深紫こきむらさき


 選んだものを持っていくと、詩凪はそれを見ることもせず、そっちに置いておいて、と別の作業台を指差した。少し寂しくあったが、作業する彼女は真剣で、とても声を掛けられる状態ではない。

 本のページにあたる、両面に印刷され、二つ折りにした紙の束ことを折丁おりちょうと呼ぶ。一束はだいたい十六枚。これは本によって数が変わるらしいが、凌時の魔書は十六枚だった。

 詩凪はその折丁を十束ほど重ねると、台の上に張られた麻糸に背をあてがって、背に空けられた小さな孔に通した糸を絡めて綴じていく。当然しっかりと留めるわけだから、一つ一つの綴じ目は硬い。コツや技術がいるだろうその作業を、詩凪は手早くこなしていく。


 作業を見ているうちに、凌時は詩凪の手の皮が厚いことに気がついた。そこらの女子高生どころか、男である凌時のものと比べても厚いかもしれない。

 糸を扱い、革や紙を扱い、工具を扱うのだ。手に負担がかからないはずがなく、酷使すれば皮どころか骨にも影響していく。

 繊手と呼ぶにはほど遠い、技術者の手。

 年頃の女の子にとっては、きっと自慢できないだろう、節くれだった両手。


「…………」


 少女の選び取った道を示すその手を、凌時は感慨深く見つめた。彼女はそれだけ、この仕事に誇りを持っているのだろう。凄いな、と内心で思う。ここまできちんと自分の人生について、思い詰めたことがあっただろうか。


 紙の束を綴じ終えると、背を上に向けて糊を塗り付ける。乾かしている間に、厚紙カルトンに孔を空ける。そして、糊の乾いたページの束の背を木槌で叩いて丸みをつけると、厚紙の孔に麻糸を通した。短く切ったあと、木槌で糸を叩き潰して、糊付けする。その糸を隠すように裏表紙に紙を貼り、背に網布と紙を貼る。


 手持ちぶさたになるどころか、何もしないことに罪悪感を覚えるほどに時間の掛かる作業だった。簡単な作業でもあれば覚えたい、だなんてずいぶんとおこがましいことを思ったものだと後悔する。

 もちろんお願いした手前、作業の区切りがつくまで見学を続けた。物珍しいことには違いなかったし、合間合間で工房の中を見て回ったりすれば、意外に飽きは来ないものだ。


 本をプレス機に掛けたところで、ふう、と詩凪が息を吐いた。こちらを振り返り、気の抜けた表情で笑う。作業は一段落着いたようだった。

 ぱちぱち、と小さく拍手すれば、詩凪は恥ずかしさに身を捩った。このあたりで、もう技術者としての凄みがない、普通の少女だった。


「こういうのって、いつ頃からやり始めたんだ?」


 ああいう技術はどれくらいで身につくものなのかと思って尋ねてみると、


「本格的にはじめたのは、九歳か十歳のときかなぁ。それまではもっと簡単なメモ帳とかを作るくらいはしていたけど」


 はっきりとそう答えたあと、表情を曇らせた。


「私は結構頑張ってたつもりなんだけど、お父様が厳しくってね。私、よく反発していたの」


 つ、と詩凪の指先が手元の木槌を撫でる。長いこと使い込まれ木の色を深くしたそれは、握りの部分が黒く染まっていた。縁が削れているのも、打ち面に凹みがあるのも、彼女がずっと使い続けてきた証だろう。


「出来上がりを誉められたことなんて、一度もなかったなぁ……」


 慰めの言葉はなにも出てこず、代わりにとんとん、と背中を叩いた。詩凪は手の甲で目元を押したあと、大丈夫、と顔を上げてみせた。

 あまり大丈夫には見えなかった。当然だろう。彼女が父を喪って一年だ。加えて、今は両親の死の原因となった本を追っている。両親のことをただの思い出とするような状況にないのだから。


「……ごめんなさい、湿っぽくなっちゃって」


 そうして彼女は涙を誤魔化すように笑うと、


「なんだかお腹空いちゃった。キキに何か甘いものがないか訊いてみましょうか」


 凌時が何かを言う隙を与えまいとばかりに、一人先に工房の外に出ていった。

 ぽつんと一人残された凌時は、前髪を掻きあげるように、頭に手を当てた。


「……参ったな」


 髪を巻き込むように手を握りしめる。引っ張られた髪の痛みが衝動を押さえ付けた。


「あんな顔されちゃあなぁ……」


 先ほど詩凪の笑顔が、まだ脳裏に焼き付いていた。泣くまいと必死に堪える中で見せた痛々しい笑み。自分が守ってやらないといけない、と反射的に思ってしまった辺り、自分が案外簡単な人間なのだと思い知ってしまう。

 得てして男とは、ああいった強がっている女の表情に弱いものなのだ。

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