第3章 居候は奮闘する
第1節 苦学生の魔書
「ごめんね、遅くなって」
先に一人書斎で待っていた
「いや、大丈夫だ。もとはといえば、俺の所為だしな」
先日詩凪に頼んだ凌時の魔書の修復は、延びに延びて、結局週末になってしまった。
家が貧しく、それでも大学に進学して苦学生となってしまった凌時は、平日の空き時間をほとんどアルバイトをして過ごしている。日中のほとんどの時間割に講義が入る一年生が作れる時間は夕方以降しかなく、凌時は毎日その時間にシフトを入れているため、帰ってくるのはいつも夜。
それから詩凪に魔書を修復してくれと頼むのも気が引けて……先延ばしにしているうちに週末を迎えてしまった。
それもこれも、自分が「修復作業を見たい」と言わなければ良かったわけだが。
本を作る作業、というのは、凌時はこれまで見たことがなかった。そもそも機械が作ったものが溢れる世の中、今でも手作業で作るなど思いも寄らなかった。だが、
ついでに、自分でできそうな簡単な作業でもあればそれを覚えたい、なんて下心もある。本は専門的なものになるほど値段が高い。万が一壊れたときに自分で直せれば便利だと思ったのだ。それで、見せてくれないか、と詩凪に頼んだところ、興味を持ってくれたのが嬉しかったのか、本人はあっさり許可してくれた。
それで今日に至るというわけだ。
ここまでの間、ページの怪奇がなかったのが幸いだった。壊れた魔書は、抑えが効かないので使えない。この前間宮に借りた魔書は、自分のものでないからか、やはり合わない。
「ずいぶん古い本だね。かなり使い込まれてる」
書斎の保管庫から取り出した凌時の、茶色の革表紙を撫でて詩凪は言う。彼女の言うとおり、本当に古い本で、表紙は擦れてつるつる。外からの僅かな光を反射している。
「ああ、親父のそのまま譲り受けた」
「
「いや、ただの初心者向けの教則本だ」
詩凪はパラパラと凌時の本を捲る。魔法陣やら呪文やら心得やらが雑多に書かれた、まさに魔法の教科書というべき本。〈ルルー
「本当だ」
「貧乏だからな。新しい物を買う余裕がないんだ。家にあるのもそれ一冊。昔はもっとあったが、全部売っちまった。文字通り糊口を凌ぐ生活だって訳だ」
実際は、公立だが高校にも通い、弟と妹が一人ずついてもそれなりの生活をしていくことができているのだから、そんな風に言うほどではないのだが、それでも〝貧しい〟に分類されることに代わりはない。できるだけ小さい部屋を借り、家族五人が暮らせるように、無駄なものは売り払った。魔書もその中に含まれていた。
凌時が魔術師であるように、凌時の父もまた魔術師だった。ただ、詩凪や柾のような名家とは訳が違い、本当に〝魔術を使える〟ことだけが特徴と言えるだけの、低級魔術師だった。
そんな程度の低い魔術師が、魔術などすっかり下火になった現代で全うに暮らせるはずもない。だから父は一般人よろしく企業に就職して稼いでいたのだが、世界的不況の余波を喰らって六年ほど前にリストラにあった。その後の就職活動は虚しく、定職には就けず。桝水家はあっという間に、世間の荒波に晒された。
だから凌時は、いつでも何処にでも需要のある職に就こうと考えた。そこで目をつけたのが、薬剤師。薬局、病院、製薬会社。働き口は何処にでもある。そして国家資格つきの専門職だから、それなりの収入が見込めるはず。
そうして勉強に励んでいたのだが、いざ大学受験直面したところで、学費の問題に突き当たった。周囲があまりに普通に進学を考えているものだから、大学教育を受けるのにもお金が掛かることを失念していたのだ。加えて、薬学部は六年間。父が企業に在籍していた頃に貯めてくれていた学資保険ではとても足りない。むしろそれは家族に残したい。だから、諦めて就職するか――。
間宮がスカウトにやってきたのは、そんなときだった。
魔術師として命の危険のある仕事を手伝う代わりに、学費と衣食住を補償する――食いつかないはずがない。危険な仕事だとしても、破格の待遇だと感じ、二つ返事で引き受けた。
そうして今、凌時はここにいる。
金持ちの家で、可愛い女の子との共同生活で、正直役得だ。下心があった訳ではないし、そう毎日浮かれた気分で過ごしている訳でもないが、たまに自らの幸運を振り返ってしまうのは否めない。
――まあ、
ちなみに、実のことを言うと、衣食住の〝衣〟を保証してくれているのは、その柾だった。自分が着なくなった服をお下がりの名目でたまに持ってきてくれているのである。上から目線で少しムカつくのだが、男子のなかでも高身長な自分の服を、袖や丈をわざわざ凌時の身長に合わせて詰めてきてくれるのだから、そうそう文句も言えない。むしろ感謝さえしていた。これで彼の生活に関する憂いは、一切取り払われているのだから。
黒檀でできた重そうな執務机で、真剣な表情で本を検分していた詩凪は、本を閉じると凌時を見上げた。
「表紙は作り替えた方がいいと思う。もう守りの術が擦りきれてきてる。このままだと、中の術が暴れだすと思うの」
落丁しそうなのを直すだけだと思っていたのだが、どうやらもっと大掛かりなことになりそうだ。
それほどまでに劣化していたのか、と思う。確かに古い本だが、特別大切に扱うこともしなかった。それが今ここに来て現れた、ということか。
「そうか……まあ、仕方ねぇな」
大事にはしてこなかったが、今の凌時にはその本が頼りだ。せっかくなのだし、徹底的に直してもらった方が良いだろう。
「ページの方は大丈夫みたいだけど……これ、このまま製本する?」
「どういう意味だ?」
修復以外の何事も想像していなかった凌時は、詩凪の意図が全くわからずに問い返した。
「必要のない魔術だったら抜くこともできるし、逆にこの本に書いていないものを追加することだってできるの。自分のオリジナルの魔書を作れるんだよ」
なんでも、詩凪もそうやって自分のオリジナルの魔書を作っているという。
「は!? 危ねぇだろ、それ!」
ページ集めを手伝うようになってすぐ、凌時は詩凪たちから魔書に関しての基本を教えられている。再現についてはもちろんのこと、ページの並び、表紙や見返し、糸のかがりに花切れまでもが魔術的要素で構成されていることも。
それら一つ一つの工程をきちんと行うことで、魔書の意志を押さえつけているのだ、と以前詩凪は言っていた。特に、表紙に掛ける術とページの並びは重要だと言っていたのだが、それを敢えて崩すだと……?
「まあ、魔書を扱うルリユールならではの裏技ではあるかな」
とんだ裏技もあったものだ、と思う。実は〈異録〉みたいな暴走事件はざらにあるんじゃ……、と邪推する。
「例えばこの前貸した本の術を追加することもできるし」
「ああ……」
間宮に借りた本の中身を思い出す。使い難かったとはいえ、確かに気になる術はあったのだが……。
「でも、追加するったってどうすんだよ。あの本までバラして合わせるってわけにはいかないだろ?」
「うちはそれでも構わないけど……」
つまりそれは、あの本まるまる一冊をくれるということだろうか。それはなんとも気前の良い話だが。
「駄目だ。俺の所有物じゃないんだ。さすがに断る」
詩凪のような専門家がいるだけあって、魔書は高価なものだ。なにせ神秘の秘術を伝える書。魔道を極めんとする魔術師はもちろんのこと、オカルト趣味や稀少本好きの好事家にも需要がある。凌時の家が魔書を手放したのは、手っ取り早く金を作るためということもあった。
そんなものを、既にいろいろと支援を受けている身で、あっさり有り難く貰うなんて厚かましいことができるはずもない。
「じゃあ、あとは専門家に頼むか、自分で書き写すしかないね」
自分で写したものでも良い、と聞いて少し心が動いたが、そもそも何故魔書の修復を頼んでいるのかを思い出した。凌時は魔術を極めに来ているのではない。詩凪のページ集めを手伝うために来たのだ。
「……いや、今は止めとく。いつページの怪異が来るとも知れねぇのに、いつまでも魔書を使えないままってわけにもいかねぇだろ」
「そっかぁ。残念」
どうやらやりたかったのは、詩凪のほうらしい。他人の魔書で何をする気だよ、と凌時は笑う。普段から控えめなところのある詩凪だが、ルリユールのこととなると積極的だ。自信があるからか、それとも好きだからか。いずれにしても、目をキラキラさせる姿には微笑ましいものがある。
「じゃあ、直すね」
本を持って立ち上がった詩凪は、ふと何かを思ってか後に続く凌時を振り返った。
「そういえば、バイトは?」
「今日は休みだ」
金はないし、稼げるなら稼ぎたいところだが、毎日毎日働きづめだ。必要以上の苦労をするほどの被虐心を凌時は持ち合わせていないので、たまにはこうして休みを取ることもある。まだ新しい生活には慣れきっていないことだし。
でもそのうち、休みの日にも、交通費のかからない近場でアルバイトをしようかな、とは思っていた。
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