第5節 La nuit:リフレイン
「悪い、遅くなった!」
夜もだいぶ更けた頃になって、大学からなかなか帰ってこなかった凌時が食堂に飛び込んできた。重いリュックサックを背負っているというのによほど急いで来たのか、ぜいぜいと息を切らしている。
「ずいぶんと遅かったね。どこで遊んでいたのかな?」
結局あのまま居座り、夕食によばれた柾がからかうように言えば、
「遊んでねーよ! 大学の手伝い行ってただけだ」
と膝に手を付いたまま凌時が噛みついた。
「手伝い?」
「今日なんか会合があるとかで、その懇親会のセッティング。給金出るからと行ってみりゃあ、他の奴等がいつまでもちんたらとしてやがって、皿は見つからないわ、料理を置く場所は覚えてないわで、長引いて長引いて……」
働けよ、と苛立たしげに頭を掻きむしる。どうやら相当苦労してきたらしい。さすがの柾も哀れに思ったのか、それはお疲れさま、と労いの言葉をかけるにとどめた。
ひとしきり喚いて落ち着いたらしい、凌時はすっと顔を上げると詩凪を見た。
「本、頼めるか」
詩凪が送信したメールを読んで事情は分かっているらしい。言葉少なに尋ねる。
「まずは見せてもらわないと」
「持ってくる。ちょっと待ってろ」
慌ただしく食堂を後にする。どうせ出掛けるのは深夜近くになってからなのだから、急がなくてもいいのに、と思うのだが、気持ちが焦っているのだろうか、凌時は自分の魔書をひっつかんですぐに食堂に戻ってきた。
魔書を受け取り、中身を開く。
「ああ、綴じ糸が切れてほどけちゃってる。これは一度ばらさないと駄目かなぁ」
「ってことは、使えない?」
困り顔で尋ねてくる凌時に、詩凪は同じく困り顔で頷き返した。
参ったな、と凌時は後頭部に手をやって、掻く。
「……お前の盾にくらいはなれるか……?」
ぼそり、と呟かれた不穏な言葉に、部屋の隅で立っていたキキが目くじらを立てた。
「丸腰で? 馬鹿なことを。それはただの足手まといです」
住処を提供しているのはこちらだとはいえ、それでもお客様だから、と凌時に対して普段物腰柔らかく接していたというのに、今回ばかりは辛辣だった。
詩凪もそれは嬉しくない。
ただ一人、柾は感心しているが、それは置いておいてだ。
「かといって、じっとしているのもなぁ」
まあ、凌時としてもあまり良い案だとは思わなかったのだろう。腕を組み、眉間に皺を寄せて何かできないものかと頭を悩ませている。
とはいえ、
「では、こちらをお使いいただくのはどうでしょう?」
いつの間にか間宮が魔書を持って立っていた。
「基本的な術しか記載されておりませんが、助けにはなるかと」
凌時は差し出されたそれを申し訳なさそうに受け取り、パラパラと中身を捲った。談話室に置いてあっただろうそれは、詩凪にも見慣れたものだ。幼い頃に使っていた魔術の教則本の一つだったと思う。
「なんとか俺にも使えそうだけど。借りていいんですか?」
「お嬢様をお助けいただけるのであれば。構いませんね?」
こちらに視線を送る間宮に、詩凪は頷いて見せた。
「うちの蔵書だもの。好きに使って」
今は誰も使っていないものであるし、命の危険もある事を手伝ってもらっているわけなのだから、備品を貸与することには何の異存もない。さほど高価なものでもないので、気兼ねなく使って貰って構わないものだ。
「…………じゃあ、今回は遠慮なく借りるわ」
そう言って受け取った凌時の顔は、これで出撃できるというのに、なんだか少し不満そうだった。
□ □ □
今宵の〈異録〉の怪異は、詩凪にとって辛いものだった。
銀線峠の山頂へ向かう道路。真っ暗闇の森の中に一筋だけ伸びた人工物。白い区画線も引かれず、自動車が互いにすれ違うのがやっとの狭い道。冬の凍結の所為で
そして、それをおろおろしながら遠巻きに眺める、紙で模られた人々。
「――――っ!」
詩凪は喉の奥で唸った。昂る気持ちをどうにか押さえつけようとした所為で、声にならずに空気だけが漏れる。
道路の端に一本だけ立てられた薄暗い街灯をスポットライトにして、繰り広げられる〈異録〉の一場面。四人から少し離れた茂みの中に立ち、今日も楽しく怪異を観察している
相変わらず真っ白い光景で判りにくいが、馬が踏みつけているのは、人である。
二人の人間。一人はその暴れ馬に乗っていて振り落とされた。もう一人は、その人を助けようとして、巻き添えになった。
ルルーの町長夫妻――魔女の両親の最期の場面。
両親の死、というその符号は、形こそ異なるが、詩凪の両親の最期の記憶と結び付いた。
踏み荒らされて、とうとう破れはじめる人型に切り抜かれた紙。
書斎の絨毯の上に転がった母の、虚ろな瞳が脳裏によみがえる。
「止めてっ!」
頭の中が真っ白になった詩凪は、ロングスカートを翻して飛び出した。所詮過去の話だとしても、本に書かれている出来事を再現しているだけだとしても、詩凪はこれ以上〝両親〟が酷いことになるのは耐えられなかった。
どうにか馬を止めようと、野次馬の中へと飛び込んでいく。
「待ちなさい、詩凪!」
キキの制止する声が聞こえたが、止まれない。どうにか馬のところへ行こうと人混みを掻き分けて――。
両脇を押さえられた。
「……え?」
振り返る。目に入ったのは、詩凪の予想に反して白い顔の男たちだった。柾でも、凌時でもなく、のっぺらぼうの紙人形が二人、詩凪の両腕を抱え込んでいる。
何もない顔がこちらを見下ろたのを見て、詩凪は総毛立った。目も口もないくせに、間違いなく今、笑った。
ぐい、と腕が引っ張られる。二人の白い男たちは、どうやら詩凪を輪の中心へと引きずり出そうとしているらしい。中心では、まだ馬が暴れている。彼らの目的がなんであるかを悟って、詩凪の顔から血が引いた。
パレードのときと同じだ。〈異録〉のページたちは再現を求めている。空っぽの棺で満足できない神輿担ぎの連中と同じように、ここの野次馬たちは、新たな犠牲者を求めている――。
「詩凪!」
柾が、凌時が、キキが叫ぶ。助けを求めて振り返れば、柾と凌時が人混みに割って入るのが見えた。
その間に詩凪はずるずると引きずられていく。引き剥がそうともがくが、作りは紙でも男の力を持つ彼らは、詩凪の腕をがっちりと掴んだまま離さなかった。
抵抗虚しく、とうとう人垣の内周に至る。
最後の最後で身体を突き飛ばされた詩凪は、馬の数歩前に倒れ込んだ。ガツン、と間近で音がする。破れに破れた紙を穿った蹄が、アスファルトを叩いたのだ。どんな力だというのか、蹄鉄でアスファルトの表面が割れて破片が飛び散った。
ひっ、と詩凪の喉から悲鳴が漏れる。慌てて立ち上がって逃げようとしたのだが、何かに足を引っ張られて、立ち上がることができなかった。
振り返って見てみれば、千切れた白い手が足首を掴んでいた。〝両親〟のどちらかの手だ。詩凪を巻き添えにしようというのか。
暴れ馬が迫る。
観衆たちは、さっきまで怯えていたくせに、今は残酷なショーを期待する熱気に包まれている。
「――離してっ!」
アスファルトの僅かな
「詩凪っ」
どうにか逃げ出さんともがいている間に、凌時が人垣を割って、詩凪のところへ辿り着いた。姿を認めるや否や、詩凪に覆い被さる。
凌時の身体の向こうから、両前足を振りあげる馬の姿を見た。
抵抗も忘れて身動きができないまま、目を見開いてその足が凌時の背に振り下ろされる瞬間を見ている――。
「桝水! そのまま頭下げてろっ!」
何処からか飛んできた柾の声に反応して、詩凪の身体を抱える腕の力が強くなる。ますます目を見開いた詩凪は、凌時の肩越しに馬の両前足がすぱっと切れて飛んでいくのを見た。
バランスを崩した馬は仰け反って、そのまま背中から倒れる。
「詩凪、今だ!」
「〝鎮まって! 貴方の物語はもう終わり〟!」
悲鳴じみた声で唱える。頼むから終わってくれ、と力の限り叫んだ。
詩凪の願いを誰が聞き届けたのか。
途端、ぱさり、と。〈異録〉の怪異たちは、ただの紙へと変じた。ゆらゆらと身を揺らしながら、車通りのないアスファルトの上に落ちていく。
はあぁ、と頭の上から大きなため息が漏れた。恐る恐る目線を上げてみれば、詩凪を胸に抱えたままの凌時が、馬の居たほうを振り返って安堵している。
詩凪の視線に気づいた凌時の眼がこちらを向いた。
「無事か?」
柔らかく問いかけられながら、腕から解放される。それに小さく応える詩凪の胸中は、荒れていた。
――結局、凌時の身を盾にしてしまった。
詩凪が望んだからそうなったわけではないが、詩凪の行動の所為でそうさせてしまった。自分の迂闊さが腹立たしく、その一方で凌時が身を挺して助けてくれたことが嬉しくもある。
自分の浅ましさがあまりにも度し難く、詩凪はその場に座り込む。地面に目を向けて、ページが散らばったままであることを思い出し、手の届く範囲からのろのろと拾いはじめた。
そんな彼女の前に、目尻を釣り上げたキキが立ちはだかった。
「もう、この子は!」
ぴしゃり、と叱りつけるキキを前に詩凪は縮こまった。
「ごめんなさい……」
飛び出した詩凪を真っ先に止めたのはキキだった。さぞかし心配してくれたことだろう。それだけに、キキの怒りは謝罪だけでは鎮まらない。彼女の言葉を結果的に無視してしまった自分に後悔する。
「駄目だよ詩凪、もうこんな無茶をしちゃ」
優しく諭すように掛けられた柾の言葉は、今の詩凪には追い打ちでしかなかった。今日は皆に迷惑を掛けることしかしていない。自分の失態を悔やみに悔やみ、ついには夕方の榊の眼差しまで思い出された。悉く自分が子供なのだな、と実感する。
必要以上に落ち込む詩凪の様子に、柾とキキが訝るのを、詩凪自身は気付いていなかった。ページを拾う手すら止め、ただその場に蹲っていた。
その左肩に、温かな手が触れる。詩凪、と耳元に柾の声が吹き込まれ、詩凪は顔を持ち上げた。
秋を思わせる温かみのある薄茶の眼が、眦を下げて詩凪を覗き込む。その瞳に吸い込まれそうになりながら、詩凪は柾の言葉を聞いていた。
「僕らには大事な目的がある。そのためにも、自分を大事にしなくちゃ」
胸中に掛かった霧が晴れる。
目的。
そう、詩凪には目的があった。怪異を止めるだけではない、詩凪個人の理由が〈異録〉のページ集めにはあったのだ。
落ち込んでいる場合ではない。子供だからと甘えている場合でもない。そんなことをしている間に、真実は遠ざかる。
「そうだね。……うん。次から気を付ける」
すっかり生来の明るさを取り戻した詩凪は、二人に力強く頷いて見せた。柾とキキから安堵の表情が滲み出る。
それでは、と改めて決意を固めたところで、おーい、と遠くから声が掛けられた。
「そろそろ手伝ってくれよー」
柾たちの向こう、街灯の下で、アスファルトの上に這いつくばった凌時が手を上げている。落ち込む詩凪と慰める二人に代わって、一人でページを拾い集めていてくれたらしい。
周囲のページは柾たちに任せることにして、詩凪は慌てて腰を上げ、凌時の下へ走った。そして一緒になって地面に膝を着いて、ページを集めて回る。……本当は、詩凪の魔術一つで集めることができるのだが、さすがに現在これをするのは憚られた。地道に、一枚一枚紙を拾う。
――そういえば、藍。
彼は今宵、結局何も言わないまま、いつの間にか木々の向こうに消えていた。
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