第1章 魔書とルリユール
第1節 新入
むかしむかし。フランスの何処かにあった、小さな街。
小さな丘に作られたその街で、悲しく恐ろしい出来事がありました。
でも、誰もそのことを覚えていません。
それどころか、街が存在していたことも、誰も知りません。
だって、その街は〝なかったこと〟にされてしまったから。
その街は、世界からも歴史からも切り取られてしまったから。
――ただ一冊の本、それだけが彼の街が存在していたその証明。
□ □ □
――荷物が少ない。
一週間後に大学生になる彼は、今日からこの穂稀の家に下宿する。家具家電、調理器具などは当然こちらが用意するので要らないにしても、収納容積三泊四日分のスーツケース一つの荷物量は、これから新生活を始めようとする人間のものとは思えない。
もう一度、目の前の青年に目を向ける。灰色のパーカーに古びたジーンズとラフな格好。少し目付きが悪い。適当に短く切られた髪の下の表情は、大家である詩凪の前でも無表情。クールな人なのかな、と想像する。脇に立つ使用人のキキと気が合いそうだ。彼女もまた、年齢に似合わず涼しい顔で、バリバリと家事をこなす。
その彼女が、物言いたげに詩凪を見ていた。なんだろう、とその意図を読み取ろうとして、気が付いた。こうして対面したのは良いが、挨拶がまだだった。
「はじめまして。私は穂稀詩凪。この家の――」
少し間を置いた。あれから一年。いい加減慣れるべきだと解ってはいても、いつもこの瞬間は切なくなってしまう。
そんな気持ちをグッと押し隠して、少女は愛想よく笑みを浮かべた。
「――穂稀家の、当主です」
詩凪の感傷的な気分に気付かずに居てくれたのか。青年もまた、はじめまして、と淡々と返して自己紹介してくれた。
「お世話になります」
低い声でぶっきらぼうに付け加えられた言葉に、詩凪は破顔した。見た目に反して、好い人だ。直感的にそう判じる。にこりともしないのも、少し声が固いのも、きっと緊張しているのだろう。
自分で言うのもなんだが、穂稀の家は名家である。家は洋館。応接室に並ぶ調度品は、まあそれなりの値段になる。ごく普通の一般家庭で育った詩凪の友人は、触るのが怖いと言っていた。彼もまたきっとそれ。きょろきょろと落ち着かなげに部屋の中に視線を走らせているのもその所為だ。
「これからよろしくお願いします。えーっと……」
まず何をすべきだろうか。応接室の入口付近に立つ執事に視線を向ける。五十近くになる間宮は、心得たとばかりに頷いて、凌時の正面に立った。
「まずはお荷物を置きましょう。お部屋にご案内いたします。お話はその後に」
凌時は頷いて、間宮に続く。ちら、とこちらを窺ったのを、手を振って見送った。
ぱたん、と静かに扉が閉じた頃合いに、息を吐く。彼が戻ってくるまでの間、暇になった。手持ち無沙汰なのが落ち着かなくて、詩凪はキキのほうを見た。
「……ここで待っていた方がいいかな?」
「荷物を置くだけだもの。そうでしょう」
彼女――間宮キキは、高校生の詩凪とたった三つしか歳が違わない。使用人という立場ではあるものの、詩凪にとっては姉のような存在だった。キキもまた同じ認識。だから、二人はいつも対等に話をしている。
「おとなしく座って待ってたら?」
そしてそれだけに、物言いに容赦がない。
詩凪が退屈して落ち着きがないのを咎めると、キキは部屋を出ていった。お茶を淹れに行ったのだ。
現代では珍しい、本物のメイド。きっちり一本に編まれた黒髪に、白いシャツと黒いロングスカートのシンプルなエプロン姿。硬派な楕円形の銀縁眼鏡も含めて、やることなすことまるで隙がなく、とても二十歳とは思えない。
頼りになる反面、自分の子供っぽさが目立って悔しくもある。
その、まだ子供を抜け出せていない詩凪は、キキの言いつけ通りおとなしくソファーに座って待っていた。座面の布をそっと撫でる。小さな花と蔦が一面に這う柄は、母の趣味だった。白と淡い緑色で構成された部屋は、春の風に似た清々しさを感じる。
来客が頻繁にあった頃は、ここでよく母がころころ笑っていたものだけど――。
やはり落ち着かなくなって、詩凪は席を立った。壁の方へと移動する。南側の大きな窓を避けるように、樫の木で作られた扉つきの本棚の前に立った。長いこと使われ、深みを増した褐色の棚にそっと手を触れると、そっと取っ手に手をかける。カタカタと音を小さく鳴らして扉が開いた。
扉の保護を受けて陳列されているのは、上製本。厚紙でできたものが大量出版の現代の主流であるのに対し、こちらは全て革製。表紙と背表紙に金で箔が押されている。文字はアルファベット。たまにギリシャ文字。日本語のものは一つも置かれていなかった。
その中の深緑の一冊を取ると、詩凪は表紙、背表紙、裏表紙と見返して、もう一度表紙に手を置いた。本は開かないまま、革の感触を確かめるようにそっと撫でる。ソファーを撫でたときと同じ手付き。
それもそのはず。これは父の最期の作品なのだから。
詩凪の両親は既にいない。一年前に唐突に失った。
十七の若さで当主を名乗っているのは、その所為だ。穂稀の家には、詩凪一人しか子はなかった。亡父に独身の妹はいるのだが、彼女は穂稀の技能を受け継いではいないので、跡継ぎ候補からは外れていた。
詩凪だけが、唯一穂稀の跡を継ぐ資格を持っていたのだ。
身内の争いがなかったのは、喜ばしいことだとは思う。詩凪も幼い頃から跡を継ぐ気でいたので、責を負う覚悟はできていた。
しかし、何も今でなくても良かっただろうに――。
感傷的な気分に十分に浸ったあと、詩凪はそれを脇に抱え、別の一冊を取った。今度は薄く大きな本だ。革製の表紙であることには変わりないのだが、左開きの茶色の表紙の真ん中には、リスのイラストが描かれた紙が埋められていた。洋書の並べられた中で異質を放っていた絵本である。精巧ながら可愛らしい水彩色鉛筆のリスに微笑みかけたあと、深緑の本と一緒に脇に抱えて棚を閉めようとした。
コンコン、と扉が鳴る。
「はい」
そっと扉の開いた先に立つ人物を見て、沈んでいた詩凪の心は、一瞬で浮上した。
「やあ、こんにちは」
すっとして高い背丈。明るい茶色に染まった癖毛に、柔らかい眼差し。ベージュのスーツパンツにサスペンダー、ストライプのシャツの上に金の刺繍の入った桑の実色のネクタイと、少しレトロ趣味なお洒落さん、霧沢柾は詩凪の優しい幼馴染だ。
家が隣同士であることから、お互いに大きくなった今でもこうして訪問し合う仲。ただし、それは次男の柾に限った話で、霧沢家の長男は最近めっきり姿を見なくなったのだが。
まあ、それはそれとして。
「マサくん、どうしたの?」
気楽に行き合う仲とはいえ、彼は何の用事もなく訪れたりはしない。しかし、今日は柾が来る予定はなかったはずだ。心当たりがなくて、詩凪は問い掛けた。
「それはもちろん、君に付いた虫を見に」
「……虫?」
詩凪は自身の身体を見回した。確かに春も本番、虫も飛び交うくらいに暖かくなったが、詩凪の刺繍をあしらった白いワンピースにも、羽織った薄紫のカーディガンにも、今この部屋の中の何処にも羽虫一匹見あたらない。
キョロキョロする詩凪をおかしそうに笑って、ずばりと柾は言った。
「新入り君が来てるんでしょう?」
虫、の指すところを知って、詩凪は僅かに頬をひきつらせた。本人がいないところでとはいえ、それはさすがに失礼すぎる。
「こちらから頼んで来てもらった人だよ。ちょっとひどいと思う」
「まあね。でも、悪い男だったりすると困るだろう?」
「マサくん過保護。間宮が実際に会って連れてきた人だよ、大丈夫に決まってる。……私も、好い人だと思う」
柾の柔和で、少し意地の悪い笑みが少し崩れた。
「へえ……」
それから感情を失った瞳で、詩凪のほうを見た。物言いたげなのだが、何を伝えたいのか判らずに詩凪は首を傾げる。それでも柾は答えてはくれなかった。
そうこうしている間に、ワゴンで茶器を運んできたキキが戻ってきた。
「やあ、キキ。お邪魔してるよ」
「ようこそ、柾さん。いらっしゃる頃だと思っていました」
詩凪と同じく柾と幼馴染であっても、客人ということもあってきっちり線引きしているキキは、柾相手に丁寧な態度で接している。
「件の方をお待ちしているところですが、先にお茶でも如何でしょう?」
「……さすが。準備がいいね」
いただくよ、と言って、柾は詩凪の隣に座った。キキは四つある茶器の一つを取り出し、紅茶を注ぐと柾の前に置く。詩凪の分も用意して、菓子の入った箱を置いたところで、凌時と間宮が戻ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます