舟歌

三井葉介

舟歌

ルカの母が結婚した時に購入したというラジオは、しゃがれたピアノの音色を細々と奏でている。メロディは繊細で、時折途切れながら、低音が正体の知れぬセンチメンタルを呼び起こす。


 ルカはカーペットの上に座り込み、暖炉を灯りにして本を読んでいた。ラジオの音は聞き流していたが、その旋律に木の軋む音が重なった。


 すぐ隣のロッキングチェアが揺れている。見上げると、祖母の青白くてしわくちゃの顔。年と対照的に、爛々と輝くブルーの瞳と目が合った。


祖母はすぼまった口元を緩めた。祖母は一日に数回話せば多い方だったが、この時久しく掠れた、しかしはっきりとした声を発した。


「六月だ」


 六月。それは祖母がまだ現役の作家だった頃に執筆した小説のタイトルであった。


 彼女の作品を愛読していたルカは、すぐ頷いて立ち上がると、暖炉の横の本棚から赤い表紙の本を取り出した。本は所せましと並び、引き出すのに苦労した。


 祖母の短編集、『四季』の中に「六月」は収録されている。祖母はノスタルジックなピアノの音色に、自作を重ねたのだろう。ルカは埃を払ってまた祖母の隣に腰を降ろした。祖母が「六月」を書いたのはもう二十年も前の事、祖母は戦争作家であった。



 ルカの祖母はルカの母を生んですぐ離婚した。母すらもその祖父の顔を知らない。祖母曰く、祖父は異常のある人間では無かったという。ただ子どもを産んですぐ祖母は祖父を捨てた。


 血を絶やさないで。


 この執念深き祈りの言葉が祖母の口癖だった。


 

 ♢



 十四の初夏、私は南国境沿いの臨時病院に配属された。病院を抜け出したのは配属されて丁度一週間になる日の深夜だった。


 病院から一歩踏み出せばそこは未知の領域。ぐるっと私の周りをはるか高い針葉樹が見下ろし、隙間から底なしの闇が覗く。

目を開いても閉じても風景は変わらないような深い夜闇の中、私は混乱と焦燥に突き動かされ、裸足のまま一心不乱に駆けた。何度も木の根に足を取られ、石が足裏を刺したが痛みを感じる余裕も無かった。


 やがて遠くで水音がした。ざっと林が開けて、川辺に出た。足裏を冷たいものが撫でた。沼地だった。薄い看護服一枚で出てきたことを悔やむほど、冷えた空気が漂っている。


 川辺の端に小さな船着き場がある。昔この地の漁師が使っていたのだろうか。傍には木製の簡易な船がぷかぷか浮いている。これが私の脱走作戦の要であった。


 船着き場の湿った板は踏むたびに不安な音を立てた。病院からは十分離れていたが、この音が誰かに聞かれやしないかと心配だった。


 私はそっと小舟に足を降ろした。船が揺れて波を立てた。自分の気が変わらないうちに出発しようと、私は早速船着き場からロープを外すために船から身を乗り出した。何とかロープに手が届くものの、うまく外せない。


 一生懸命ロープをこねくり回していると、別の手が伸びて魔法のようにくるくるとロープを解いた。そして黒いブーツが船を踏みつけて止めた。


 見上げると黒々と光る瞳が私を見下ろしていた。私は声を出すことも忘れて、がたがたと船を揺らしながら端に身を縮こめた。


ポーチに護身用のナイフを入れていることも忘れて、ただその眼下で震えることしか出来なかった。

 相手は私のことなど認識していないかのように、狭い船に胡坐をかいて無遠慮に座った。


 そうしている間に船は動き出してしまった。


 一目見たところは背の高い青年であった。私より二つ三つは年上に見える。オリーブ色の軍服、褐色の肌、黒い髪。紛れもなく私にとっての敵兵であった。


 もうすでに船は川を下り始めている。今でこそ彼は何もしてこないが、いつ私に危害を加えるか分からない。


 今ならまだ流れは緩やかだ。川に飛び込んでも岸まで泳げるだろう。私は船体に手をかけて水面を覗いた。


 透き通った暗い水面に私の青白い顔が映っている。その方から手がにゅっと伸びて、私は船の中に引きずり戻された。


 例の男が、私の目の前で窘めるように人差し指を振った。私は仕方なくまた船に腰を降ろす。男は肩掛けカバンから何か取り出して船の底に広げた。


 文字は分からなかったが、それが国境周辺の地図だと理解するのに時間はかからなかった。彼は低い声で何か喋り、私に地図を見るよう促した。


 彼はまた何か言いながら、人指し指でトントン、と地図の中の青い線沿いを叩いた。現在地だ。

そして指はすぅっと川沿いを南へ下り、いくつもの枝分かれを迷いなく進み、やがて海の近くまで来ると川を逸れ、陸に上がると二本の指がてくてく東へ進み――人差し指が目的地をびしっと指した。


そこは私の国でも彼の国でもない、第三の国だった。


 彼もまた私と同じように逃げるのだということは伝わった。だからと言って私の安全が保障された訳ではない。


「私をどうするの?」


 彼の目を見て聞いた。彼は小首をかしげて、何も答えなかった。そして船から長いオールを取り出したかと思えば、私の方を見向きもせず、一心に漕ぎ続けるのだった。

 



 視界いっぱいに星が瞬く夜空も、見続けていれば単調なものだ。オールが水をかく音と、船の揺れる感覚に眠気を誘われる。


 私がうつらうつらしていると、男が喋った。オールを止めて、私と自分自身を交互に指さす。交代で見張りをしないかと提案しているのだ。


 そういう訳にはいかない。見知らぬ男の前で眠りこける女がいるだろうか。私は頑なに首を振った。


 男はそれ以上は何も言わず、無言で深い森に目をやった。おそらく何を見ている訳でもない、私が星を見るのと同じ。お互いに気まずい船の中から目線だけを逃がしていた。


 沈黙は暇を生む。緊張感や警戒心というものは、軍人でもない限り何時間も持たないものだ。私は軍人ではない。ひんやりとした夜の空気に包まれて、私はいつの間にか眠ってしまった。

 

 


 目を開けると、容赦ない陽光が目を刺して怯んだ。飛び起きて真っ先に自分の体を確認した。異変は無い。次にポシェットを開けて、中身を確認する。こちらも何も盗られた様子はない。


 目の前では、昨日と同じく男が座って、こちらの様子を怪訝そうに見つめている。帽子は脱いでいて、彼の黒髪が風に揺れていた。


ふと彼の口が短い言葉を漏らした。なんと言ったのだろう。分からない。彼はじっと私の目を見つめている。私はとっさに


「おはよう」


 と返した。彼は口の端を緩めて頷いた。年長の医者が私を褒めるときの表情に似ている。正解だっただろうか。


 昨日とはうってかわり、透き通った水面が陽光を受けて眩しいほどに輝いている。私は昨日と同じように水面を覗いた。


身を乗り出した時、足をぴりりと刺すような痛みが走った。昨日、森を駆けた時の擦り傷が痛み出したのだ。


 その時丁度、男がまたオールを取り出して、船を日陰の岸に着けた。ロープを持って岸に上がり、木に巻き付けて固定した。

船に戻ると、今度は紳士的にも私に手を差し伸べた。私はおとなしく彼の褐色の大きな手に自分の青白い手を乗せた。


 手を引かれて水辺の岩に座らされる。木陰が心地いい。ふいに彼は私の足元にしゃがんで、私のかかとを持った。思わぬことに私は息をのむ。


 彼は手で川の水をすくい、私の足にかけた。清らかな水が、こびりついた泥を流してくれる。優しいと感じてしまうほど丁重な手つきで、私は恥ずかしくなってしまう。


私は看護師なのだから、傷口を洗うくらいのことは自分でもできる。しかしそれを伝える術を知らない。抵抗するのも子どもっぽい気がして、私はされるがまま。



 男が自分の鞄から包帯を取り出そうとした。私はあわてて自分のポシェットから包帯を取り出して渡した。男はそれを手に取って頷き、器用に私の足に巻き付けた。私は彼の真剣な横顔に無意識に釘付けになっていた。


 治療が終わって初めて彼の顔を見つめていたことに気づき、悩ましい気持ちが私の胸の内で渦を巻いた。


 彼は私を見て、地面を指さした。ここに居ろと言っている。私が頷くと、彼は腰からピストルを一丁抜いて、私に差し出した。

 私が礼を言いつつ受け取ると、彼は踵を返して森へ入って行ってしまった。


 私はピストルをポシェットに押し込んだ。遠くの方で連続した破裂音が聞こえた。聞きなれた音ではあったが、まだ音が聞こえるほど戦場が近いのだと思えば、追われるような焦燥感が沸々と沸いた。

 もし今兵士と出くわせば私はどうなるか。それは火を見るよりも明らかだった。私には彼が必要だ。彼に私は必要なのだろうか。



 やっとのことで私が火おこしに成功し、石で取り囲んだ小枝の塊から炎が膨らんできた頃。


 彼は戻ってきた。片手にピストル、手袋をしたもう片方の手に兎と鳥の死骸を連れて。


 私は悲鳴をあげて両手で目を覆った。驚いて僅かに彼が後ずさる気配がした。私は顔をあげられない。私は血が何よりも怖かった。



 彼は私の見えないところで肉を捌き、焼いてくれた。これでは私は足手まといの赤子同然だった。何もかも頼るつもりはない。血さえ見なければ、調理は私がしたかった。


 そう伝えることも出来ず、私は跡形もなくこんがり焼かれて串刺しにされた鶏肉を黙って食べた。



 食事を終えた私達は再び出発した。まだ日は高い。小舟は比較的緩やかな水流に身を任せて進んでいる。船に揺られながら、私は身を乗り出し、透明な川の中を獣のような目つきで睨んでいた。

 彼は船を漕ぐ手を休めて座ったまま昼寝をしている。


 今だ、と思い川の中にしゃぼん、と思い切り手を沈めた。

 船がぐらりと傾き、彼の驚いた声がした。


 船が安定を取り戻した時、私は両手で細長い魚を一匹わしずかみにしていた。逃がすまいと白い手がさらに白くなるほど強く握りしめ、彼の前に突き出す。


 つるっと滑って私の手を逃れた魚は船の底でぴちぴち跳ねた。

 吹き出すような笑い声がした。


 彼が黒い瞳を細めて笑っていた。自然と私の口角も緩んだ。この時から、食事は私が魚を採り、彼が料理するというのが習慣になった。

 

 

 

 出発から二日が立った日の昼、船は黄土色に濁った水の上をのろのろと進んでいた。


 彼は船の上にまた地図を広げた。地図の川沿いの一点を指す。現在地だ。

 そしてそのすぐ川下を指して、彼は私の顔を見た。その場所は私もよく知っていた。


 その場所は岩場で水位が浅く、小舟が通るには問題は無いが、上から流れてきた様々なモノが流れ着き、岩に引っかかり、放置されている場所だった。上流から何が流れてくるかは容易に想像できる。私は覚悟を決めて頷いた。


 地図を丸めた彼は船を陸に寄せた。おそらくこの場所が清潔な水を確保できる最後の給水場所になるだろう。


 船を降りた私たちはゆっくり進んだ。私が裸足なので、彼は私に合わせて慎重に進むのだ。出来るだけ柔らかい苔の上を歩きながら、視界を妨げる木の葉や枝を払いつつ、奥へ進む。


 すると微かに涼しげな水の音が聞こえてきた。その方へ進むと岩場があり、隙間から透き通った水が湧き出ていた。



 彼は泉に歩み寄って、手で水を掬って飲んだ。味わうように口を動かした後、頷いてもう一度両てのひらに水を溜めて、今度は私の口元へ差し出した。


 長旅で水筒の水を切らし、喉を乾かしていた私は彼の大きな手を両手ですくい上げるようにして持ち、口を付けた。喉に冷たい水が流れ込み、心から美味しいと思う。彼が手を傾けて、私は少し舌を出して最後の一滴まで飲み干した。


 私が手を離すと、彼も手を引っ込めた。見上げると彼と目が合う。瞬間、彼はふいと顔を背けて水筒に水を汲み始めた。私は何となく自分の唇に触れた。やわらかく、潤って、温かかった。


 水を汲み、腹を満たして私達は出発した。進めば進むほど水から透明度が失われていった。私達はいつも向かい合って座るが、この日ばかりは、私は彼に寄り添うように座った。

 



 ――夕方。私達は地獄の中を進んでいた。私は目を閉じている。生暖かい風が吹き抜けて、耐え難い匂いが鼻を曲げる。


 岩場をぬうように進み、船が何度も鈍い音を立てて揺れる。私は彼がオールを漕ぐ音だけに集中していた。


 彼が今何を見ているのかは想像できる。しかし彼がどんな顔をしているか分からなかった。いつものように、涼しい顔をしているだろうか。今私が目を開けたら、彼は余裕の微笑を向けてくれるのだろうか。



 私はそっと目を開けた。途端に腐乱臭が目に染みる。濁った視界の中で、彼は帽子を深く被り、真っすぐ前を見つめていた。


 つと彼の顔から冷たい何かが私の手に落ちて、泉のように清らかで、豆粒ほどの水たまりを私の手の甲に残した。


「ごめんね」


 私は彼から視線を逸らさないようにして、彼の持つオールに両手をかけ、ぐいと引いて奪った。


 後ろに下がり、彼と向かい合うようにして座る。

 私は初めて、自分がどのような場所を漂っていたか目の当たりにした。


 船は最早木陰が見えぬ程どす黒い水の上を進む。悪臭の正体は、岩に引っかかった肉片。脂が溶け出し、水の上を漂っている。河原には所々ごろりとした塊が打ちあがって、肉塊には決まってずたずたに切り裂かれたオリーブ色の布切れが張り付いている。


 血なまぐさい景色の真ん中で、燃えるような朱色の空を背に、彼はうつむいて座っている。


 私は不器用にオールを扱いながら、一度ぐるりと船を回転させて、自分を上流の方へ向けた。そうでなければ漕ぎにくい。


 オールをかき分けるごとに水草に混ざって黒い髪の毛が引き上げられる。私の額に汗が滲む。

 悪臭には慣れてしまった。けれど力なく船に座る彼と、彼の両側を流れていく人間の残骸を見ていると、私は悲しい気持ちが溢れてやまなかった。


 私はぽろぽろ泣きながら船を漕いだ。両手がふさがって拭うことは叶わず、ただ止めどなく涙が頬を流れて落ちていった。



 途中、船は流れていく一つの帽子を追い越した。彼の帽子とそっくりだった。彼は無言で見送る。私はまだ啜り泣いていた。


 水面を見つめていた彼の口が僅かに開いた。喉仏が動いて、低くてよく通る声が旋律を紡ぎ、歌を歌った。私の知らぬ歌なのに、歌声がすっと胸に届く。分からない言葉なのに、まるで子守歌のような、懐かしい歌。



 聞いているうちに私の涙はいつの間にか止まっていた。

 小舟の中から見える屍の山は遠い別世界だと思えた。


 身の覚えのないふわふわとした理由で殺し合い、見境いを失って乱暴し、哀れにも死体となって川にぷかぷか浮いている。


 私達は同じようにはならない。きっと彼も同じ気持ちを抱えている。

 何もかもを置き去りにして、彼と二人、この小舟に揺られて新しい場所へ。


 私は彼の歌に合わせてハミングした。森を分けて進んでいく小舟の上、火のような夕日を背に胡坐をかいて、私の知らない言葉で彼は歌い続ける。

 まるで詩人のような彼の姿は、誰よりも高潔で美しく見えた。


 

 

 再び星が降りて、辺りを夜闇が包んだ。


 あの悪夢のような場所を抜け、水は透明度を取り戻してきた。月あかりが水面に揺れている。

 船の木材は湿気で劣化してしまい、揺れるたびに軋むような音を立てた。

 私達は漕ぐのをやめて、蓮の葉と一緒にゆるやかな流れに船体を任せている。


 今は私が見張りをする番で、彼は私の向かいで仮眠を取っていた。帽子を脱いで夜風に髪を揺らし、彼は穏やかに眠っている。もうここまでくれば目的地が近い。彼もようやっと安心して眠れるのだろう。



 目的地に着いたら、私達はどうなるのだろうか。

 そんな疑問が脳を掠めた。私は彼と二人で平和に暮らす未来を想像している。彼のことが好きだから。では、彼は?


 彼と言葉を交わしたことはない。彼の言葉も、感情も、全ては私の推察に過ぎない。私はぞっとした。

 もし、彼が私を好きでなかったら? 


 彼は一人でも生きていける。彼は私をどう思っているのか、分からない。私は途方に暮れそうになる。彼の思いを確かめなければ気が済まない。



 私はゆっくり彼の方へ這い寄るように近づいた。船はちゃぷちゃぷ揺れた。

 私は後ろで一つに結んでいた自慢のブロンドの髪をぱさっと解いた。薄汚れた看護服のボタンをふたつ開ける。


 こんなことをしておいて、私は彼にどうされたいのか分からない。彼に拒絶されるのは悲しい。けれどもし彼が私を組み敷くのなら、彼は高潔ではなくなってしまう。無為に傷つけあい、挙句の果て川に流れる兵士たちと変わらない。


 頭では躊躇いながらも私の恋心は止まらなかった。私は滑らかで健康的な彼の頬に手を添えた。私は半ば覆いかぶさるような形で彼の顔を見つめる。私の長い髪がカーテンのようにさらさら降りて彼の顔に影を落とす。



 彼はぱっと目を覚ました。黒い瞳が、私の青い瞳を捉えた瞬間、私の顔は急に熱くなって、赤くなっていくのを感じた。こんなの色気がない、と思った瞬間、彼が起き上がり、彼の手が私の看護服の襟を捉える。


見ると彼は悲しい影を落とした表情で、私の看護服のボタンをひとつ、ふたつ、と閉めてしまった。


 私は彼を少しでも疑ったことを恥じた。私は彼の顔を見ることが出来ない。私はなんて卑しく、軽薄な子どもなのだろうか。



 彼の動く気配がして、強い力で引かれて私の体が傾いた。あっと思った頃には唇を奪われていた。驚きの後、じわじわと熱くて心地いいものが体を満たしていく。

彼の腕が私の腰に回って、私は彼が離れないよう、彼の首に腕を回した。


 ああ、よかった。もう大丈夫。


 ゆっくりと唇を離して、私は彼の胸に身を預けた。彼の鼓動に耳を澄ませてこのまま眠ってしまいたかった。

 

「止まれ!」

 

 見知らぬ声が私を現実に引き戻した。

 途端に私は強い力で突き飛ばされる。 ぐらりと船が揺れて、隣で乾いた音が炸裂する。彼が岸に銃を向けていた。


 次の瞬間、鋭い音がして何かが船体を砕いた。木片が飛ぶ。


 事を理解した私はポシェットからピストルを取り出す。が、彼の腕が横から伸びて、強引に私のピストルを奪い取った。私はどっと船に倒れこむ。


 どうして。


 茫然としている間に、もうどちらのものか分からない程、無数の銃声が飛び交った。


 私は体を起こせない。何が起こっているのか分からない。不思議と私に銃弾は当たらない。何故。


 一際近い銃声が轟いて、近くでうめき声がした。 私は悲鳴を上げた。バリバリと音を立てて船が真っ二つに割れた。


 やむなく私達の体は冷たい川の中に放り出された。川は深く、流れは見た目より早い。

 混乱の中、私の体は川に沈む。


 私はどこかしこも青い水の中、どろりと溶け出す赤を見た。彼の体が赤を纏って流されていく。


 私は無我夢中で川面にはい出て、訳のわからないことを叫びながら、でたらめに水しぶきを立てて彼を追った。


 彼の体は半分沈むようにして流れに身を任せている。辛うじて浮いている彼の腕を、私は掴もうと腕を伸ばした。


その時、別の腕が岸から伸びて、後ろから私の片方の腕をつかんだ。知らない男の声が私を怒鳴りつける。


「何をしているんだ、早く上がってこい!」


 精一杯伸ばした私の腕は届かない。波が彼を連れ去ってしまう。彼と別れるのが嫌で、私は声の限り彼を呼ぼうとした。口がはくはくと動いただけで、声は出ない。私は彼の名前を知らなかった。


 

 ♢

 


 ルカは本を閉じた。祖母の方へ目をやると、彼女はいつの間にか目を閉じていた。

 眠っているのだろうか。


 暖炉の火が勢いを弱めて、彼女の白い顔を優しく照らしている。ルカは音を立てないように、そっと立ち上がり、本をもとの場所へ戻した。


 ラジオのピアノの音色は、今ちょうど名残惜しそうな旋律を残して途切れた。洒落た音楽と共に、ラジオの進行者が話し始める。

 

 いかがでしたでしょうか。本日は作曲家、ロン・ガルシア氏の名曲をお送りしました。


 本日は、ガルシアさんの三回忌となります。ガルシアさんは七十年前の国境南部の戦いの生き残りで、敗戦を経験した後、生涯音楽を通して平和の心をお伝えになりました。


 彼の曲を聴いている間は、自然と平和に思いを馳せる。彼の音楽にはそんな不思議な力が込められているようですね。


 では、本日もこれでお時間となりました。また来週、お会いしましょう。いい夢を。

 

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