第7話 できる人 その2

 佐伯さんは次の日からインフルエンザで1週間近く有休をとった。だからすでにその日は体調が悪くて少しイライラしていたのかもしれない。ダブルチェックをするから大丈夫だと言ったったのも佐伯さんだ。そして、そもそもあの書類はほかのパートさんと手分けして作成していたので、もしかしてもしかしたらひさこのミスではなかったかもしれない。だけどそれに気が付いたのはすでに数か月もたたったころだった。だから佐伯さんに「あの時のあれ…」と言ったところで「え?なんのこと?」という感じだろう。というよりも、そもそも数か月もそのことをずるずると引きずって悶々としていたのだから呆れたものである。


 とにもかくにもその一件がひさこのトラウマとなり、前よりもっと目を皿のようにして書類に目を通し、前よりもっと穴が開くほど何度もチェックを繰り返すようになった。しかし何年かたつうちに、佐伯さんもほかの人たちもひさこと同じぐらい、もしくはもっとかもしれないぐらいミスをすることに気が付いた。ただみんな上手に言い訳を使い、「○○しちゃったけど、別にいいよねぇ」と自分たちに寛大なだけだということが分かった。たまたまひさこが佐伯さんのミスをみつけてそれを伝えても「あ、じゃあ修正しておいてください」で終わりだった。だけどひさこがミスをすれば容赦なく「これ全部見直してください」と突っ返されるので、そのたびに震え上がった。


 去年の春、ひさこの息子の進学が決まって学費が家計をさらに圧迫することになった。それで新たに仕事を増やすことを考えた。転職も考えたが、せっかく苦労して仕事を覚えたのでそれをリセットするのは惜しいと感じた。なので今の出勤日以外で気軽にできる近所のパン屋さんなどを考えていた。パン屋だったら朝早くからやっているから自転車でさっと行ってさっと帰って来られるし、週末も働けるので都合がいいと思った。なんとなく目星をつけて候補を2か所ほどに絞った。


 ある日ひさこは職場でパン屋の計画を何とはなしに口に出した。するとその場にいた人全員が「えー!」と驚きの声をあげた。ひさこは「事務員が別の日にパン屋で働くっていうのは確かに驚かれるかな」と思った。ところが、そのときの佐伯さんの発言に耳を疑った。「信じられなぁい。ひさこさんみたいに仕事のできる人がぁ」もう一度聞き返したかったけど、そんなこともできるわけがなくただただ驚いた。え?そう思われてたの?騒ぎを聞きつけて事務長が「どうした?」と聞きに来た。ことのいきさつを聞いた事務長は、「え?だってパン屋なんて時給安いでしょ」と聞いた。ひさこの時給は相当低かったので、パン屋と大差なかった。それを聞いた事務長は「じゃあ、ちょっとその件は後で」と慌てた様子で言った。


 次の出勤日早々ひさこは事務長に呼ばれた。他で仕事をするのではなく、こちらで出勤日を増やしてほしいということだった。自信がなかったひさこはしばらく考えさせてもらったが、結局はそこで出勤日を週4に増やすことにした。


 できる人?ほんと?私できる人?


 それでもやはり冷たい声で「ひさこさぁん」と言われるとドキンとするし、出勤の時に何かしでかしてはいなかったかとひやひやするのは相変わらずであった。

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