第8話 信仰心 その1
ひさこはカトリックの信者だ。幼児洗礼ではなく、すっかりおばさんになってから洗礼を受けた。両親が信者でもなく、ミッションスクールに通っていたわけでもない人が洗礼を受けるのは結構珍しい方である。きっかけはと聞かれるときは、「それはね、イエス様との運命の赤い糸がねぇ」と言いながらいたずらっぽく笑う。大体聞いた人ははぐらかされたという顔をするのだが、ひさこはそれはあながち間違いではないなと思っている。実際運命的なきっかけがあったわけじゃなく、徐々に距離が縮まった感じである。あえて言うならば、危なっかしいひさこを放っておけないからイエス様がおいでおいでしてくださったと思っている。
つらつら思い出してみると、ほんの小さいころ父親の机の引き出しにあったラファエロの聖母子像の絵葉書をこっそり見るのが好きだった。もちろんラファエロなんて知らないし、どうしてこの人たちの頭の上に丸い輪っかがあるんだろう、どうしてこの子たちは裸なんだろうなんてことを思いながら眺めていた。
幼稚園生ぐらいの時は、ひさこの家に大量にあった絵本の中でイエス様の子供のころにまつわるエピソードを基にした本(というより小冊子)が大好きで何度も何度もくりかえし読んだ。
初めて教会に行ったのは学生のころ。いろいろあって頭の中がクエスチョンマークだらけで押しつぶされそうになったころだった。そこの教会の神父が外国人でまだあまり日本語ができなかったので、近所の修道院のシスターが教える聖書の勉強会を紹介された。
教えてくださったのがシスター荻野だった。今は珍しい修道服を着たぽっちゃりしたおばあちゃんだった。そこでの話は一つ一つ目から鱗だった。今までの価値観を覆すものだった。シスター荻野のことを心から信頼して、私はこの人についていきさえすればいいんだとまで思った。ところが長男の嫁として真宗のしきたりを守ってきたひさこの母は、教会に足しげく通うようになった娘に真っ向から反対した。キリスト教は邪教だと。「目には目を」などと恐ろしい思想を持っていると。「目には目を」はハムラビ法典でキリスト教徒は関係ないのだが、当時のひさこにはよくわからなかった。ただうろたえて、シスター荻野が別の支部に異動になって引っ越していったら、自然と足が遠のいてしまった。
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