第5話

「お兄ちゃん、お待たせ」


 千野の声に僕は現実へ引き戻される。


「もういいのかい?」

「はい。今日はこれでいいです。もう場所もわかったし」


 どうやら目的の本を見つけたらしく、カバーのついた本を何冊か胸に抱いていた。

 あんな大きな本、鞄に入れても重いだろうなあと考え、次に妹が鞄を持っていないことに今更ながら気がついた。


「今日は鞄持ってこなかったの? 今更だけど」

「小学校の頃から使っていたのが、あった、んですけど、丁度紐が切れてしまって」

「それは不便だね。新しいの買わないと」

「あ、えと。その、もうお小遣いが……」


 そう言って恥ずかしそうにうつむく。

 そういえばハードカバーって千円位しなかったっけ? それが二冊と文庫が二冊。中学生からみれば相当な出費だろう。


「それ貸してもらっていい?」

「あ、はい」


 受けとってずしりとした感触が手に伝わる。単行本が二冊もあるとちょっとした図鑑位の重さだ。

 文庫の中身をパラパラめくってみると一冊がミステリーで、一冊が海外出版の翻訳本だということはわかった。

 単行本の方はあらすじすらなく、確かめる気にすらならない。

 まあ読んだらすぐに眠たくなることは間違いないだろう。

 とりあえず中身は今の僕にはどうでもよかった。

 本をそのまま、自分の鞄にしまいこんだ。


「え、あの」

「鞄がないんでしょ? 持ったまま外を歩かせられないよ」


 やっぱり女の子にこんな重たいのを持たしてはいけないよね。


「えーと、ごめ……ありがとう」 


 顔を真っ赤にしながら千野がほほえむ。

 髪の毛に半分隠れた大きな目がほそめられて、唇の隙間から歯が見えた。

 背がほとんど変わらないこともあり、彼女の顔は僕のほぼ真正面にくる。

 素直にお礼をいわれるとさすがに照れる。

 でも謝られるよりは、お礼を言われる方がずっといい。

 しかし鞄がないというのもかわいそうだな。出掛けるのも不便だ。


「よしお兄ちゃんが新しいのを買ってあげよう」

「え?」


 我ながらいいアイディアだと思った。

 当然というか千野はこちらを向いて固まる。


「バイト代入った所だから丁度良かった。今のところ使う予定とかもなかったし」

「え、それは、ちょっと悪い……」

「気にしないで。入学祝いと思ってくれればいいから」

 ということで渋る妹をひっぱり、デパート近くのセンターモールに向かった。

 


「はあ……」


 見知ったセレクトショップに連れて行くと、店の前で千野がため息をついた。

 外観があまりにもおしゃれなものだから、入店するのにためらいがあるといった感じだった。


「さあ早く入ろう」

「え、でも」

「僕もさすがに女の子向けの店に男一人で入るのは恥ずかしいんだけど」


 そう言うと意を決したのか僕の後に隠れるようについて入店した。


「あら、いらっしゃいませ」


 二十代後半にみえる女性店員が営業スマイルで迎えてくれた。カジュアルな感じのスーツでびっしり決められていて、胸元にある名札には「妹尾」と書かれている。


「すみません。鞄を買おうと思うんですけど、最近はどういうのはやっています?」

「あら、彼女へのプレゼントですか?」

「いえ、妹です」


 僕は即答する。


「あらあら優しいお兄さんですね」


 妹尾という名の店員さんは千野ににっこりと笑いかけた。

 学校の先生以外の大人に話しかけられることがあまりないのか、千野はあきらかに動揺した仕草で僕と店員さんを交互に見回す。


「そうねえ、えーと妹さんは高校生かな?」

「い、いえ! 中学生です。なったばかり……」

「へえ、背が高くてスタイル良くてうらやましいわ」

「あ、いえ、そんな」


 千野はしどろもどろになりながらも店員に必死に返答する。

 あまりこういう店に入り慣れていないのは、店員に話しかけられるのが苦手というのもあるかもしれない。

 店員が見繕ってくれたいくつかの鞄を前に、千野が真剣にどれを購入するか考える。

 この辺りは妹の趣味とか嗜好の話になるので、よほど店員が高い鞄を押しつけ来ない限り口出しないようにした。

 話をきいているかぎりでは、この妹尾さんという人は親切に予算とか中学生ぐらいの子にあった物をセレクトしてくれているようだった。

 なんとなく店内を見回す。

 連休の為か幾人かの客があるいは試着をし、あるいは冷やかして店外へと出ていく。

 中には僕らのように店員が付いている客もいる。

 入口には鞄が所せましと並べられていて、店内の奥の方は入口よりは幾分通路に余裕を持たせて女の子向けの服やスカートが販売されていた。 

 あまり派手なデザインではなく、どちらかというとシックな感じで、かつ春服らしい明るい色合いをしている。

 千野にはぴったりかもしれない。


「こ、これ下さい」


 ようやく決まったのか、千野がベージュ色のシンプルなデザインの鞄を持って妹尾さんにそう言った。


「こちら包装しますか?」

「いえ、えーと……」

「今から使いますからそのままください」


 千野の言葉に付けたす。

 店員さんは「じゃあレシートはお渡ししておきますね」と言って手渡してくれた。


「千野。ついでだからここで春服も見繕ってもらおうか?」


 その提案に、妹は眼を大きく開いて驚いた表情になる。


「え、そんな、そこまで……」

「言っただろう、入学祝だって。家族なんだから遠慮するなよ。他に気にいった服があるならまた別のところで買ってもいいし」

「ありがとうございます」

 と妹尾さん。

「お金なら心配しなくていいよ。今日は結構持っているから」

「あら、それは嬉しいです」

「でもほどほどにしてくださいね。セレブというわけでもないんで」


 千野に合いそうな服とスカートを、店員に見つくろってもらう。


「とりあえず試着室で着せてもらおう。気にいったのが他にあれば一つにこだわらなくていいから」

「妹さんスタイルがいいからどんな服でも似合いそうですね」


 そう妹尾さんがつけたした。

 営業トークだろうけど、彼女の言うことはあながち嘘でもない。


「じゃあかわいくしてあげてください」

「はい。腕によりをかけてそうさせていただきます」

「念の為言いますが、ギャル風とかは無しでお願いします」


 後は専門家のお仕事である。

 店員さんに妹のコーディネートを頼み、僕は店内にある椅子で座って待つことにした。

 試着室に消えていくときに、不安げな眼でこちらに助けを求めているのには気がついたけど、あえて無視して笑顔で見送った。

 妹が着せ替え人形にされている間、レジの近くにある椅子に腰かけて待つことにする。

 さっき自分の鞄に千野が買った本を入れておいたのを思い出し、暇つぶしに読もうかなと手に取ったが、三ページほど読んだところで諦めた。

 スマホでニュースを見るが、こういうときに限って目を引くような記事はない。

 ただ待っているだけというのも退屈なものだ。

 だけど終わるまで外に出ているという選択肢は僕にはない。

 退屈なんて、後悔に比べたら全然大したことがない。


 あの日もそうだった。

 智乃が何を言っても強引に付いていくべきだった。

 いや、たとえ保護者懇談会に出席しなくても、せめてそれが終わるまでは待っておくべきだったのだ。

 智乃は学校からの帰宅途中に帰らぬ人となった。

 自動車事故だった。

 普段車通りが多いところではない。

 片道車線を自動車が反対側から突っ込み、そのまま歩いていた智之達のグループにぶつかってきたのだ。

 とっさのことでみなよけきれず、四人が巻き込まれた。

 小柄な智乃は勢いよく車にはね飛ばされ、当たり所が悪くそのまま亡くなってしまった。

 後で自動車はお年寄りが運転していて、片側通行の標識が見えず、とっさにアクセルとブレーキを間違えたと説明された。

 他の三人が比較的軽傷で済んだことなんて、慰めにもならない。

 僕がいれば違ったはずだ。

 僕はあそこが片道車線だと知っていた。

 反対側から突然車が入ってきたことを不審に思い、みんなを、智乃を誘導出来たはずだった。

 だけど――。

 だけどほんの少しの時間を待つ事が。

 妹を待つ事が照れくさいと思った事が、僕らから智乃を奪うことになった。

 その後テレビでは高齢者の事故について是非で賛否両方の意見が取りたてられたりした。

 運転していたドライバーの遺族という方もあやまりに来た。

 何年か後に運転手は結局責任能力や年齢が原因で不起訴になったなんて話を聞いている。

 でも僕は運転手を責める気には当初から不思議と無かった。

 責任は僕にあるのだ。

 僕は自分を責めた。

 母は僕を責めなかった。


「トモユキの所為ではないわ。誰も悪くないの。あれは不幸な事故だったのだから」


 夫に続き娘までなくした母にとって、息子の僕だけが唯一の心のよりどころとなる家族だったから。

 しかし母が許さなかったとしても、僕は自分の事を一生許せないと思った。

 こんな僕に運命の神様はやり直しの機会を与えてくれた。

 同じ名前の、二人目の妹。

 今度は絶対に後悔なんてしたくない。


「お待たせしました」


 店員の声に頭をあげて声の方を振り向く。

 何気なく見て、妹尾さんの横に恥ずかしげに立っている女の子に眼を奪われた。

 足元は黒を基調に星模様のついたタイツ。レースのついたノーマルスカート。インナーは手首を絞り込んだ白色の長袖シャツで、アンダーに鞄と同色のキャミソールを着ている。

 長い前髪を横に分け、ヘアピンで留めている為、赤くした顔がはっきりと表に出ていた。

 それが千野だと気づくのに数秒の時間を要した。


「あ、あんまり見られると、その……似合ってない、かな」


 恥ずかしそうにうつむきながら千野は言った。

「似合っている。似合っているよ、ほんと。いや、ごめん。あんまりかわいかったんで、つい見とれて……」


 思わず率直な感想を述べる。言ってから自分の言葉に少し恥ずかしくなった。

 七歳も年下の、妹に言うべきことではないよね。


「えーと、その、ありがとう……」


 耳元まで真っ赤にしながら妹は、しかし嬉しそうな表情で再びうつむく。

 しかし女の子は服を替えただけでも全然印象って変わるんだな。まるで別人みたいだ。


「良かったですね。お兄さん大喜びですよ」


 立役者である妹尾さんが相変わらずの営業スマイルでそうまとめた。

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