第3話
「千野、冷蔵庫から卵を出してもらっていいかい? 開けてすぐの所だから」
僕はフライパンを片手に妹に呼びかける。
今日はバイトが無いのでいつもの通り僕が夕食を作っている。
いつもと違うのは先に帰っていた千野が「手伝う」と申し出てきたことだ。僕に作って貰ってばかりで申し訳ないと思っていたらしい。
「これは僕の仕事だから気にしなくていいよ」
そう言って初めは断ろうとした。
けど以前もご飯を作っているときに千野が部屋から出て来て僕の方を見ていたことがあった事を思い出したのだ。
きっと手伝うと言いたかったのに言いだせなかったのだろうと今更ながらに気付く。
おとなしい妹が家族になじもうとしているサインに気がつかなかったんて、なんて僕は馬鹿なんだろうか。
そんな自己嫌悪を顔に出すことなく、僕は彼女の申し出を受けることにした。で、二人してこうして台所にいるわけだ。
フライパンの中はキャベツ、もやし、ピーマン、人参等々。簡単に作れて野菜がたっぷりとれる我が家定番の野菜炒めだ。
僕と同じようにエプロンをつけた千野が、卵を持って隣にやってきた。
「そこのお椀に二つほど割って、かき混ぜてもらっていいかな?」
千野はこくりとうなずくと、ただちに実行に移す。
手早くはないが丁寧さが見て取れる。
彼女もずっと父子家庭だったんだ。家でこうしてご飯を作ることもあったのだろう。
ちょっと考えていることが分かりにくいけど、本当に素直な良い子だと思った。
実は直接会うまで、新しい妹がギャルみたいな感じで、とても生意気な娘だったらどうしようという不安があったりしたのだけれど。
もちろんこれは誰にも秘密だ。
フライパンから大皿にフライパンの中身を移す頃には、さすがに充分すぎるほど卵はかきまぜられていた。
それを受け取り、まだ熱いフライパンに円を描くように流し込むと手早く炒める。
完全に固まりきる直前にさっと上げて、そのまま野菜炒めを入れた大皿の上にかぶせるように乗せた。
これで一品完了だ。
「野菜炒めに卵を乗せるの?」
「我が家ではね。カレー程じゃないけど、こういうのって家庭によって違うよね」
「うちは……カレールーはドロドロ派」
「うちもだよ、ってそういえばまだカレーを作った事が無かったよね」
しばらくカレー談義に花が咲いた。入れる具の違いや野菜を切る大きさの違い。鍋に入れる順番等々。
とりあえず我が家ではカレーは辛口。
千野の家は甘口だったらしい。
義父さんはもう少し辛い方がよいようだが、千野があまり辛いのはダメだったのでそれに合わせてくれていたという。
こういうのは失礼かもしれないけど、辛いのがダメだというのは千野らしいと思ってしまった。
「千野はカレー自体は好きかな?」
「嫌いじゃないです」
「じゃあ今度の夕食はカレーにしようか?」
「はい」
いつもより元気に返事してくれる。わずかだけど表情も前よりは明るいような気がした。
最近は家で会っても「部屋は片付いた?」と聞くと微妙な表情で応えてくれるぐらいには話してくれるようになっている。
まだまだ仲良くとかには遠いけど、前進しているのは確かだ。
千野は大人しい性格で、しかも年頃の女の子だ。
そんな子がいきなり知らない所で知らない人間と暮らすことになったのだから、そのストレスはきっと大変なものだ。
自分の事ばかりでその事に考えが至らなかった鈍さに怒りすら感じる。
だけどこれからは、少しずつ彼女のストレスを解きほどいていこうと思う。それが兄としての、僕の役割だろう。
「あ、でも千野は辛いカレーはダメなんだよね。うちのは辛いから少し味付け変えた方がいいか」
「う……でも、大丈夫です。辛くても」
「そう?」
千野は少し間をおくと、相変わらずの小さい声で、でもはっきりと言った。
「わたし、お兄ちゃんの作るご飯、好きです」
「そう言ってくれると作りがいがあるね」
笑みを向けると真正面から僕に話しかけたことが恥ずかしかったのか顔を下に向けた。
いい子だな、本当に。
僕は千野の頭の上に手を乗せた。
瞬間ピクリと千野が身体をこわばらせるように反応する。
だけど気にせずそのまま髪の毛をいじるように頭をなでた。
兄妹の会話で照れくさくなった時、僕がする癖だった。
智乃にやっていた数年前の事が昨日のことのようだ。
この行為が懐かしかったためか。
千野のしっとりまっすぐな髪の毛がさわり心地良かったためか。
しばらくそうしていたら千野に頭から手をどけられ、くるりと後ろを向かれてしまった。
しまった! つい調子にのって怒らせちゃったか!
「え、えーとじゃあ次のおかずを作るから冷蔵庫から豆腐とニラを出してきて」
せっかくいい感じで距離が縮まったと思っていたのに、馬鹿なことをした。
千野は僕の方に振り向きもせず無言で離れていく。
そのまま怒って部屋に戻るかと心配したけど、冷蔵庫の前で止まり、中から豆腐とニラをだしてきた。
そして僕の前にある鍋の傍までもってくる。
とりあえずご飯を作るのを手伝ってくれる気はあるようだ。あいかわらず顔はそっぽをむけているけど。
自分の行動を反省しつつ、僕は二品目のおかずを作りはじめた。
両親が帰ってきて家族で食事をとった。一家の団欒だ。
結局千野はあれから僕に一言も話してくれなかった。
母が明るくてよくしゃべるので食事の空気が重いという事態は避けられたものの、自分のうかつな行為に腹がたつ。
食事が終わり後片付けが終わると千野は真っ先に部屋へと戻る。
声をかけようとおもったけど出来なかった。
二人と少しだけ話をした後、僕も部屋に戻った。
部屋に戻るとパソコンを立ち上げ、大学の課題に取り掛かる。
どうも集中ができなくて安田達友人とラインで会話したり、白坂さんにメールを送るなど余計な事をついついしてしまった。
小一時間は机に向かっていたけど全く進まないので、今日の作業を中断する。
提出までまだ先があるからなんとかなるだろう。
パソコンを切るとベッドに倒れ込むように跳び込んだ。
今日はなんだか疲れた。まだ早いけどもう寝よう。
そう思っていたらメールの着信音が聞こえてきた。
誰だろうとやや面倒くさくもありながらスマホを開く。
画面には前に登録してからまったく連絡が無かった、正確には僕の方から連絡を送ることがあったけど逆は全くなかった千野からの着信である事が示されていた。
慌てて頭を起こして届いたメールを開く。タイトルは『起きてますか?』だった。本文は『ごめんなさい、ちょっと驚いただけです。気分を悪くしましたか?』と絵文字もない簡潔な文章で書かれている。
彼女は怒っていたわけではなかったらしい。
そして僕がそう思っている事を感じ取ってメールを送ってきたのだろう。
タイトルが「起きていますか?」って僕に気を使っているのが千野らしいと思った。
「みんな起きてる?」から始まるラインの会話だってよくする。
でもわざわざタイトルを見てから本文を開く、って旧式のメールのやりとりがずいぶん新鮮に感じる。
とりあえず嫌われていないようで良かった。
僕はすぐに「こっちも驚いただけ。メールありがとう」と返信する。しばらくして簡潔に「良かった」と短い単語だけのメールが返ってきた。
二人で合計五十文字にも満たない短いやりとり。だけど僕は少なくとも千野に「メールで謝れば許してくれる」位には信頼されているということだ。
それが分かったのが嬉しかった。ほんの少しだけど、彼女と距離を縮めることができたという実感がわきおこる。
なんだか嬉しくて、僕はその日ぐっすりと眠りにつくことが出来た。
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