第2話

 マンションに帰ると、千野は僕にどうとらえていいかわからない会釈をして、自分の部屋へと向かった。

 結局今日も打ち解けられなかったみたいだ。

 部屋のドアが閉まる音を確認すると、彼女の前では決して見せなかったため息を大きく吐く。

 僕も部屋に戻るか。


「せめてもう少し話をしてくれるといいんだけど」

 思わず口に出して独り言をつぶやく。


 年頃の女の子と接することの難しさを思い知る。

 良い子には間違いなんだろうけど、彼女が何を考えていてどうしたらよいかわからない。

 『冗談を言い合える仲の良い兄妹』を期待していた僕としては、期待通りとは少し言い難かった。

 少なくとも智乃はそんなことなかった。機嫌が良くても悪くてもよくしゃべり、すぐに考えていることが表情にでた。だからケンカしても、機嫌を損ねさせてもすぐに仲直りできた。

 彼女は僕にいろいろな事を話してくれたし、僕もたくさんの事を話した。

 お互いのことを知らないことなんかないって思っていた。

 千野ともそう言う関係になりたいと思っていたのだけど、彼女とそう言う関係を結ぶことは無理なのだろうか。

 そんな風に思ったところで、僕は思わず自分の頭を小突く。何を馬鹿な事を考えているんだ。

 千野は千野だ。智乃とは違う。


 智乃は僕の最初の妹だ。

 歳は二つ下。生きていれば今頃女子高生として、人生で最も楽しい時期の青春を満喫していただろうか。

 だけど彼女はもういない。

 彼女がいなくなってからの四年間、僕と母は抜け殻のように人生を歩んできた。

 そんな母の前に現れたのが昌治父さんだ。

 昌治父さんも早くに奥さんをなくし、娘と二人で暮らしていた。

 その娘が亡くなった自分の娘と偶然同じ名前だった。母と義父との出会いはそういう所からだったらしい。

 母からその話を初めて聞いたときはすごい偶然もあるものだと驚いた。

 その時は数ヵ月後に、最初の妹と同じ名前の妹ができるなんて想像もしていなかったんだけど。

 そうだ、智乃とは十二年間一緒だった。

 だけど千野はまだほんの半月程しか一緒にすごしてはいない。もっとゆっくりお互い打ち解け合えばいいんだ。

 そう改めて決意すると僕は部屋着に着替えてからスマホを開くと、ラインのメールが入っていた。

 大学で最近仲良くなっている白坂さんという女の子だ。

 小柄で表情がくるくるよく動く、なかなかかわいい子だ。

 メールの内容は友達とアクセサリーを買いに来たのだけどどれもかわいくて悩むとかそういったとりとめのない内容だった。

 こちらもとりとめない返事を送ると、すぐにメールが入ってきた。白坂さんかな? と思ったら母からだった。

 夕食、と最初にあった。

 メインディッシュは買って帰るから副食を適当に作っておいてほしいということと、買い物をしておいてほしいという内容だ。

 普段ご飯は僕が作っているので冷蔵庫の中身はだいたい把握している。

 だけど調味料や常備野菜がいくつか無くなっていたように思う。

 確か醤油は昨日使った時にまだあったはずだけど。他に何か切れているのがあっただろうか。

 部屋を出てリビングに向かうと冷蔵庫と調味料を確認する。みりんとニンジンが切れていた。

 油も大分少なくなっているので一緒に買っておいた方がいいだろうな。

 他に足りないモノを確認すると部屋に戻る。

 その間にメールが二件。

 友人の安田と白坂さんからだ。白坂さんは先ほどの僕のメールに対する返事。文面からしてとても可愛らしい感じだ。

 安田は授業の代返をお願いできないかという内容だった。「昼食一回な」と返しておいた。

 再び外出着に替え、玄関まで出る。

 靴を履く前に妹に出掛ける旨を言っておいた方がいいと気付き、回れ右して彼女の部屋の前に向かった。

 少し大きいぐらいの音で三回ノックをする。


「千野、いいかい?」

 返事はない。


 寝ているのだろうか?

 回れ右をしようとすると、ドアの向こう側でなんだかドタドタ音が聞こえた。


「な、なんですか」


 何やら慌てたようなしぐさで、千野が顔を出した。

 顔の高さがほとんど僕と同じ位置にあるので、表情がよく見える。

 ちょっと上気した様な、ほんのり赤い顔をしていた。

 さらによく見るとほんのわずかだけど、息が上がっているようであった。

 何かあったのかな?


「あの、お兄ちゃん?」


 千野が先ほどよりも顔を赤くしながら小さく抗議ともとれる声を上げた。

 どうやらじっと顔を見つめてしまっていたらしい。その仕草に僕の方もちょっと照れてしまう。

 女の子の顔をじっと見つめるのはよくないよね。


「ああ、お兄ちゃんちょっと買い物に出かけてくるけど、留守番いいかな?」


 きっと罰の悪い顔をしているのだろう。それをごまかすように笑顔を向ける。


「あ、え、わかりました」


 千野の方も少し複雑な、いつとは違うちょっと困ったような顔でうなずいてくれた。

 違った表情を見せてくれるのは嬉しいのだけども、やっぱり何か変な感じだ。


「どうかしたのかい? 体の調子が悪いとか」

「あ、その……部屋の掃除をしていて……」


 思わず彼女の後ろに目線を動かす。

 ドアの隙間から彼女の部屋の一部が目に入った。

 全体が見えたわけではないけど部屋の片隅に引越し会社のダンボールが見える。

 箱は開いていて、隣にはきれいにたたまれた服と、妙に小さな山を作っている本が見えた。

 ああ、なるほどね。

 いろいろ納得して千野のほうに視線を戻すと、さらに顔を赤くしてうつむいた。


「ごめんね、部屋見て。もしよければ部屋の片付け今度手伝うよ。男手があった方がいいでしょう? 見られたら困るようなものには触らないから」

 そう申し出たら、千野はゆっくりと首を横に振った。

「この部屋は私が、やっぱり片付けないと……」

 小さいけども、確かな声で千野はそう口にする。


 ああ、そうか。僕は彼女が初めてこの部屋に来たときのことを思い出した。


「ここが千野ちゃんの新しい部屋だよ」


 二人がもう来週にでも引っ越してくるという頃、新しい妹を部屋に案内した。


「ごめんね。まだ片付けていなくて。千野ちゃん達が引っ越してくるまでには整理しておくから」


 落ち着かない様子の妹に僕はそう言って笑顔を向けた。

 多感な年頃だし、環境の変化で戸惑うことが多いかもしれない。

 とても素直で良い子そうだし、七つも下のかわいい妹だ。兄としてなるべく気をつかおうとその時心に誓った。


「えーと、でも、いいん……ですか?」 

「いいよいいよ。そりゃ引っ越してきたら自分の部屋は自分で片付けてもらうけど、それまでに整理しておくのは先住民の義務だからさ」

「いえ、そうじゃなくて。その……妹さんのお部屋なんですよね。ここ。わたしと同じ名前の」


 思わず千野の顔を見つめ返す。当たり前だけどこちらの家庭事情も父親を通して伝わっているのだ。


 そう。この部屋は智乃が使っていた部屋だ。

 だけど、もうこの部屋を本来使うべき人物は五年も前にこの世からいなくなっている。

 それでも部屋を当時のまま残しておいたのは、僕も母もまだ智乃がいないことをどこかで否定したかったのかもしれない。


「いいんだよ。ずっとこのままにしておいてもしかたがないしさ」


 少し空いた間を取り繕う為に笑顔を作り、僕は千野にそう言った。


「それに同じ女の子が使ってくれた方が智乃も、妹も喜ぶと思うから」


 その言葉は彼女に向けたというより、自分自身に言い聞かせているものでもあった。


 あの時から部屋の主が変わっている。

 五年間止まったままだった妹の部屋は、新たな主が入ることにより再び時間を取り戻したのだ。

 違和感の正体に思いを馳せていると、すぐ近くで「あの」という声がした。どうやらぼんやりしていたらしく、千野が心配して声をかけてきたようだ。

「じゃあ留守番お願いね。なんか欲しいものがあるのならついでに買ってくるけど。おやつでもいるかい?」


 心配しているような声だったので、なるべく元気に話しかける。


「あ、いえ。大丈夫です」


 そしていつもの通り彼女は遠慮がちにこちらの申し出を断った。まあ予想はついたんだけど。


「そうかい。もし途中で何かほしいものに気がついたら連絡もらえるかい」

 そういってから気がついた。

 引っ越してからバタバタしていたこともあって、まだ千野に連絡先を教えていないのだ。

 なんと僕は馬鹿なのだろう。


 「ラインやってる? よければおしえてよ」


 そういってスマホをポケットから出して見せたら驚いたような表情をされた。

 何かおかしいことをしたかな? そのことを口に出して告げる。


「あの、ラインはしていなくて」

「そう? 他にメーリングアプリ使っているならそっちでもいいけど」

「そういうの、していなくて。わたしスマホじゃなくて。メール、ぐらいです」

「じゃあメールか電話番号のどっちかでいいよ」

「その……登録を、どうしていいか」


 わからなくて。という最後の言葉は聞こえなかったが多分そういったのだろう。

 恥ずかしそうに再び目を伏せる千野に、僕はつとめて明るい笑い声をあげた。


「わかった。じゃあ一緒に登録しようか」

「す、すみません。いそがしいのに……」

「家族なんだからそんなこと気にしないで。それとも嫌かい?」

「嫌、じゃないです」


 そう小さな声で答えると、千野はドアを開けたまま部屋の中に入る。そしてすぐに戻ってきた。

「同じキャリアなんだね?」

「キャリア?」

「いやいいよ。じゃあ画面を開いてからまずはそのお手紙のボタンを押して。……そう。URコードはあるんだね。じゃあそれをひらいて」


 千野はたどたどしい指の動きで、僕の言葉に素直に従っていく。


「じゃあ、いまさらだけどこれが僕の番号ね。何かあったら連絡入れて」


 そう言って僕は笑いかける。彼女は立ち尽くしたままだった。

他に何か話すことないかなと考えたけど思いつかない。

 仕方なく「じゃあ言ってくる」と言って買い物に出ることにした。

 でも今日は彼女と一番おしゃべり出来たかもしれない。

 それでいいとしよう。


 

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