第4話 最後の夜空




 ――天の川を見よう、と父が言った。


 七月の七日――その夜のこと。


 特に家族のあいだで決まっている訳ではないが、日曜の夜、9時になると風倉かざくら家の面々はリビングに集う。


 観たいドラマがあるためだ。

 観たい、というより、なんとなく見ていたら続きが気になったという感じで、気付けば全員が9時前にはリビングのソファに腰掛けている。


 父と母を間に挟んで、子どもたちはその左右に。

 何かを食べたり、おしゃべりしたりしながら、CMのあいだにトイレにいったり冷蔵庫を開けたりして――ごくありふれた、家族のかたちがそこにある。


 ドラマが終わればそれぞれ、家事をしたり部屋に戻って明日の準備をしたりするのだが――その日は、


「そうだ、今日七夕だろ?」


 と、父が言ったのだ。


 天の川を見よう――


「なんか歌っぽい」


「レッツ天体観測」


 子どものように無邪気に笑うひげ面の父に苦笑しつつ、風倉和機かずきはベランダの方に目をやって、


「見れるかぁ……? なんか曇ってねえ?」


「とりあえず上いくぞー」


 おー、と母が掛け声を上げる。


 そういう訳で仕方なく、部屋を出ることにした。

 すでに入浴して着替えていた和機としては部屋着のまま外に出ることは躊躇われたのだが、時刻はすでに10時を回っているし、そのまま置いていかれるのも嫌だったので家族について行った。


 向かうのはマンションの屋上……階段で続いていて、しっかりとフェンスで囲われているため出入りは自由になっている。

 屋上庭園というほどではないが小さなスペースに草木が植えられていてベンチもあり、外灯はないものの周囲の建物の光でじゅうぶんに足元は見えた。


(うわっ、人おるんだが……)


 父と同じ考えなのか屋上にはちらほら同じマンションの住人らしきシルエットがあり、和機は目立つまいとなるべく闇の濃いところを歩く。


 屋上の中心あたりに移動した父が空を見上げていた。


「んー……うっすらそれらしきものが見えそうで見えん……」


「だから言ったじゃん……」


 口は不満を漏らしつつ、内心では和機も少しだけ気持ちが高揚していた。

 屋上とはいえ夜中に家を抜け出すのはなんだか興奮するし、新鮮な気分だ。

 一般住宅やマンション等が立ち並ぶだけのありふれた都会の夜景で、特にきれいだと感じることもないというか、むしろ寂れた雰囲気を感じるものの――


「はー……涼しいかも」


 夜空を見上げ、風を感じるように両手を広げている妹の姿――それを眺めていても何も言われない夜闇に感謝だ。


(うわ、これはヤバいヤツの思考……)


 苦笑する。

 すでにじゅうぶんヤバいヤツだという自覚があった。


「…………」


 夜風に当たって頭が冷えたのか……昨日までのことがやたらと馬鹿らしく思えてくる。

 必死に、一生懸命になって――そこまでしなくたって――


(このままでも……)


 ちらりと目を向けると、父に寄り添う母の――



 ――父さん、再婚しようかなぁって。



 酒の力を借りなければ言いだす勇気がなかったのか、ある日、ぽつりと。


 そして、今に至る。

 家族のかたちは、それとなくととのってきた。


「流れ星とかないかな?」


「うーん……七夕は七夕でも旧暦の……八月にはあるみたいだけどなぁ……」


 仲睦まじい後ろ姿。父・八代やしろと、義理の母となった奏絵かなえのやりとり。

 二人の声に耳を傾けながら、和機は頭上を仰ぐ。


 夜空を透かすような薄い雲が流れている。地上の明かりのせいか、テレビで見るような天の川らしき輝きは確認できない。

 それでもちらほらと光が瞬いていて――近くで空を見上げるその瞳にも、きっと星々が瞬いているのだろうだなんて。


(恥ずかしいことを考える……。やはり血は争えないか……)


 気付いたら近くに、妹の――血のつながらない義理の妹・風倉詩鳥しとりの姿がある。


 ふだんはまとめている髪を入浴後の今は下ろしていて、肩口より長い髪を外で見るのは新鮮だった。星明かりを受けてかこころなしか輝いて見える黒髪は薄い鎖骨へと伸びていて、わずかに覗く白い肌が闇の中でよく映える。

 小柄な彼女が背伸びをして空を仰ぐ姿は、一つしか違わないのにより年下のような印象があって、むずがゆいような微笑ましさを覚えた。


「はあ……」


 視線を切って、空に向かってため息をこぼす。

 これが冬なら煙草の煙のように白い息が出たのだろうか、なんてどうでもいいことで考えを濁す。


 ――これでいい、このままでいい。そういう気もする。


 だけど――……ヒトは、なんのために生まれてくるのだろう?


(幸せになるために――)


 とりあえず、まあ、そういうことにしておく。

 幸せになれない、ただただ苦痛を覚える日々になんの意味がある? どうして生まれてきたんだと嘆くような人生に意味がないなら、生まれてきて良かったと思える幸福こそ人生の意味だろう。


 幸せになりたい。

 それが人生の答え、人間の究極の願望ではないか。


 ……漠然としている?

 だから具体的なかたちを思い描くのだ。


(『ふたりの愛が永遠に続きますように』とか、そんなどこまでとも知れない永遠とは違うんだ。具体的にどう「幸せになりたいか」……それを書いて、願わないと。神様も悪魔も、どう応えればいいか悩むだろ)


 サンタさん来いくらい具体的な方がきっといい。

 だから、だから――……だけど。


(その結果として誰かが不幸になったら? 他人を傷つけたり苦しめたりしてでも幸せに……自分の人生なんだから、自分がいちばん。それでいい――)


 ぐるぐる、ぐるぐる。

 考えているのは、家族のこと。


 たとえば自分の願いが叶ったとして――それは今の家族のかたちを壊すことにはならないか? 幸せなそうな父を、義理の母を、苦しめることにはならないか?


 それから、この願いには〝自分の想い〟しかこもっていないこと。

 もしも〝彼女〟に好きな人がいたとして、その気持ちを捻じ曲げて自分に向けさせることは――果たして、正しいのか?


(自分が幸せになるためなら……許される? 相手も自分の気持ちを捻じ曲げられたって自覚がないなら、それはもう〝本心〟じゃないか? それでいいじゃん……)


 こういうのをきっと、捕らぬ狸の皮算用というのだろう。

 叶ってもいない願いの結果を考えている。

 願ったことそれ自体を悔いている――叶ってもいないのに。


 宝くじには保証がある。出るかどうかはともかく、一等は確かに存在しているのだ。

 だけどこの願いに保証はない。あるのは願ったという事実だけ。


(馬鹿だなぁ、真面目かよ。何考えてんだ……)


 でも、〝もしも〟がある。

 その時、自分はどうしたらいいんだろう。

 楽しく笑って幸せを謳歌して、ラブコメみたいな日々を送れるだろうか。


(……こんなんだから、世界の終わりオカルトとか信じちゃうんだよなぁ……)


 なんだか悲しくなってきた。

 涙を堪えるように、吸い込まれそうな暗い空を見上げていると――


「……っと、」


 そのままひっくり返そうになって、誰かに肩を掴まれる。


「大丈夫……?」


 ゆったりとした甘い声。どきりと胸を掴まれる、そんな響き。


「ぁっ……と、すみません……」


 後からやってきたのだろう、全然知らない他人とぶつかってしまったことに恐ろしく動揺する。メンタルぐらぐら、口から心臓が飛び出しそうなほどだった。


 ただ、その声には覚えがあって――


「あ……」


「こんばんわ」


 薄闇のなか、にこっと微笑む年齢不詳なその笑顔。

 絶対に三十代は過ぎているはずなのに、二十代といっても通じるどころかギリ十代でもいけそうな――妙齢の女性。


 お隣に住む――


十時とときさん……」


 誰かと思えば、十時花月かづきの母親だ。

 その後ろからひょっこりと、昨日ぶりに見かける清純ガール。風呂上がりなのか白い肌は上気していて朱に染まり、明るいセミロングが濡れたように光っている。


(二人揃って見るのは……引っ越しのあいさつに来たとき以来だな……)


 夜中に二人揃って出くわすのはこれが初めてとなるが、なんとも不気味な……もとい、不思議な空気をまとった親娘である。


 風倉和機は正直なところ、この親娘が苦手だった。


「おーい、和機どこだー……? 帰ったのかー?」


 と、後ろから助け船。


「じゃあ……」


 そういうことで、と逃げるように背を向けて暗がりに紛れ込む。


(助かったというかなんというか……とはいえ口はきかなくてもクラスメイト、あまり一家団欒の様子を見られたくはない……。昨日のゆきチーみたいに、思わぬところで誰かと交流があるやもだし)


 クラスで誰かにからかわれたら……などと、小学生みたいなことを考えている自分に恥ずかしくなる。

 父と義母、そして義妹のいる屋上の縁へと足早に向かった。


「呼んだ……?」


 フェンス越しに見える夜景に少々肝が冷えるような心地になる。

 呼ばれたので来てみたのだが、特に何か面白いものも見当たらず、和機が声だけかけて帰ろうかと思っていると、


「実はな――、」


 ……父が、何やら深刻な話でも始めそうな雰囲気で口を開いた。



「近々な、新しい家に引っ越そうかって考えてるんだ」



 家族のかたちがととのっていく。

 幸せの在り方を考える。


 ――この夜を境に、風倉和機の人生は変転していく。



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