第2話 赤鬼の面

 中の様子は羅刹の予想通りだった。

 通りにゴミが散らばり不衛生。一目で浮浪者と分かるものが何人も視界に入る。あたりはどこか薄暗く、恐ろしい。路地には倒れている人がいる。寝ているように見えるが、死んでいるようにも見える。

一目見ただけで、夜に出歩けるような国ではないことは明らかだ。


 警察や軍が我が物顔で街を歩き、国民はおびえながら暮らしている。国民はみな貧しい身なりをしている。それとは対照的に、警察や軍の関係者は立派な服を着ていて、いい暮らしをしているように見える。

 頭を下げる人々のまなざしに、恐怖だけでなく怒りや憎しみと言った感情が混じっていることに羅刹は気が付いた。


 革命の炎に焼かれるか、それとも根元から腐り落ちるか、どちらにしても長くはない。

 羅刹は適当な宿を借り、酒場へ向かった。羅刹はこの国に入るまで、人間らしい食事をとっていなかった。国に入れたなら、虫や雑草よりはまともなものを食べたいと思うのが普通だろう。


 予想通り、酒場の中も外と大差はなかった。薄暗い酒場の中では軍人が偉そうに酒を飲み、酔っぱらって女性の給仕に絡んでいる。暴れている軍人もいるが、それを咎めようとする人間はいない。皿の割れる音まで聞こえてくる始末だ。

 羅刹はカウンター席に座り、カウンターの向こうに立つマスターに注文した。


「いらっしゃい。見かけない顔だね、旅人かい?」


 顔の半分を覆う鬼の仮面をつけた男。一度見かけたら忘れないだろう。


「ああ、今日入国したんだ」


「こんな場所ですまないね。昔はこんなことはなかったんだけど、最近は国中どこもこんな感じでね」

「いまはどの国でもこんな感じだ」


 羅刹は適当に返事をした。羅刹は酒場のマスターにもこの国にも興味はなかった。興味があったのは目の前の食事と、いかにして面倒事を避けてこの国を出るかということだけであった。

 しばらくするとメニューが運ばれてきた。パスタと蒸留酒だ。

 酒場のマスターが、メニューを運んだあとも、羅刹に声をかけてきた。客と話をするのが好きなのか、それとも鬼の仮面をつけた羅刹が珍しかったからか。おそらく両方だろう。


「旅人さんは大変そうだね。その仮面も傷か何かを隠すためだろう」

「火傷だ。よくある事だろう」


 羅刹はそれだけ言うと、仮面をつけたまま食事を始めた。食事の邪魔をするもの悪いと思ったのか、マスターはそれ以上何も言ってこなかった。

 だがこの酒場には相手の事など考えない輩が多くいた。彼らは羅刹を見かけると、ゆっくりと歩いてやってきた。


「おい兄ちゃん。面白い物つけてるじゃねぇか、俺らにも貸してくれよ」


 彼らは羅刹をぐるりと取り囲んだ。彼らはみながみな、屈強な見た目だった。筋肉の付き方から、なにか武術をやっていることが察せられる。酔いのせいか歩き方は不安定だったが、並の人間より強いことは明らかだ。

 そして彼らは皆、同じ服を着ていた。おそらく軍隊の制服だろう。


「お、お客さん、他のお客さんの迷惑になる事は」

「安心しろよ、暴れたりはしないさ。俺たちは単にその仮面を貸してくれって、頭を下げて頼んでるだけなんだから」


 下卑た笑みを浮かべる男達。羅刹は彼らの方を一瞥し、それから再びパスタを食べ始めた。

 軍人は五人。全員が何らかの武術を修めている。

 羅刹は穏便に切り抜ける方法はないと判断し、久方ぶりのまともな食事を少しでも楽しもうとした。


「おいお前、状況が分かってるのか」


 仮面を取るという選択肢は羅刹にはなかった。この鬼の面は人前では絶対に取らないと決めていた。

 素顔を見られないのなら仮面の一つや二つくれてやってもよかった。だが軍人たちの目的が仮面の下を見る事なのは明白だ。

 多少面倒だが、力ずくで切り抜けるしかない。


「見ればわかる」


 羅刹はそれだけ答えて再びパスタをほおばった。蒸留酒には手を出さない。酔っぱらっている場合ではないからだ。

 羅刹はパスタを食い終わると、テーブルの上に硬貨を置いた。


「ごちそうさん。うまかったよ」


「あ、あ、ありがとうございます」


 マスターは生まれたての小鹿のように震えている。軍人たちの様子を見れば、これから惨劇が起きるのは明白だったからだ。

 脅した相手に無視されることほど、腹が立つことはない。


「てめぇ、なめてんのか」

 彼らは包囲の輪を一歩縮めた。


 軍人たちにとってそれは最後通告であり


 羅刹にとってそれは戦闘開始のゴングだった。


 羅刹はゆっくりとした動作で一人の腕に触り、針を刺した。まだ臨戦態勢に入ってなかった男たちは、刺されるまでその動きを攻撃だと気付けなかったのだろう。

 軍人たちがとっさに武器を構える間に、羅刹は椅子を蹴飛ばしてぶつけ、一人に針を突き刺した。

 そして刺された二人がうめき声をあげ、同時に崩れ落ちる。


「ど、毒針だっ! 気をつけろ」

「なんで旅人がこんな武器を持ってるんだ、入国管理官は何をやってたんだ!」


 羅刹は残った三人から距離を取って、懐から薬が入った瓶を取り出した。

 それを掲げて、羅刹は言った。


「その毒は一時間以内で死に至る猛毒だ。病院に連れていく時間、毒を特定する時間、どう見積もっても間に合わない。この薬を使わない限りな。俺の要求、分かるだろ」


 軍人たちが息をのむ。倒れた二人は、助けてくれと泣きわめく。

 羅刹は表面上は余裕を装っていた。三人に襲われては、勝てぬわけではないが傷を負う可能性が高い。できればそれは避けたいところだった。この分では国を出る前にまだ何度か戦闘がありそうだ。


「お前が約束を守る保証がない」

「お前らが無事に俺を逃がす保証もない。だが一つだけ言えることは、俺はお前たちと戦っても構わないが、お前たちは薬が手に入らないと非常にまずいということだ。さぁどうする?」


 羅刹は左手に薬を持ち、利き手の右手には毒針を握りこんでいた。かかってくるのなら殺すと、気配が語っていた。

 この距離では瓶を割られる前に、羅刹を取り押さえるのは不可能だ。羅刹をとらえるには確実に一人、いや二人は犠牲になるだろう。


 羅刹と軍人たちはにらみ合い、酒場の空気が張り詰める。

 冬の寒さの中、額に汗が浮く。

 先に引いたのは軍人達の方だった。


「分かった。お前の言うとおりにしよう。お前を逃がし、お前のことは全部忘れる。それでいいんだろう」


 大きな声で一人の軍人が言った。

 軍人の足元では、二人の仲間がまだ叫んでいる。助けてくれと、早く薬をよこせと、死にたくないと。


「ああそうだ。それでいい」


 羅刹はゆっくりと慎重に出口へと歩く。軍人たちは逆に出口から遠ざかる。だが離れすぎないように、一息でとびかかれる距離を保つ。


 羅刹はテーブルの上に薬を置いた。コツンという音は、酒場に響く悲鳴にかき消される。

 羅刹が薬から手を離すと、軍人たちの、剣を握りしめる力が少し緩んだ。

 ほんの少し弛緩した緊張のなかで、羅刹は変わらず殺気を放っている。


「一歩ずつ距離を開けるぞ。余計な動きは一切するな」


「……ああ……分かった」


 軍人たちが一歩下がる。それを見て羅刹も一歩出口へ歩く。それを三度繰り返し、羅刹は出口にたどり着いた。

 羅刹は軍人達から目を離さず、ドアに手をかけた。

 だがその先、ドアの外には別の軍人が六人も待ち構えていた。


 羅刹の失敗は二つ。騒ぎを大きくし過ぎたことと、時間をかけすぎたことだ。

 助けを呼ぶ声は酒場の外にまで響いていた。応援がやってくるのは時間の問題だったのだ。


 しかも今度の六人は本物だ。目を見ればわかる、こいつらは腐っていない。体つきを見ればわかる、こいつらは日々の訓練を欠かしていない。国民を守るために戦う、本物の軍人だ。

 特に隊長らしき女は、間違いなく強敵だ。一切隙が見当たらない。近づけばサーベルで胸を貫かれるだろう。


 一対一なら勝てるだろうが、あまりに多勢に無勢。そして何よりも場所が悪い。狭い酒場では、羅刹の力は発揮できない。

 羅刹は必死になって活路を探る。人質を取る隙などどこにもない。酒場の軍人は人質にはならない。守るべき国民ならまだしも、腐った軍人などこいつらは見捨てるだろう。


 羅刹は諦めて両手を挙げた。


「降参だ」

 羅刹にできることは、神に祈ることと、心の中で舌打ちをすることだけだった。

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