第七章 訐揚(ケツヨウ) 11 日比野
千里との約束の八月三十一日の土曜日はすぐにやって来た。
その日の午前中、九時から十二時まで『千種進学ゼミ』で夏期講習のため講義に来ていた。高校三年生。受験に向けての大詰めの時期である。知力甲子園に長いこと参加していたため、夏期講習は満足に受けられていない。もっとも知力甲子園のための対策は、受験勉強を兼ねているとも考えられるが、それでも受講すべき講習を逃さざるを得なかったり、受験勉強に特化した対策に遅れをとっていたり、そう考えると焦りを感じる。
知力甲子園の優勝メンバーが大学受験に失敗するなんて状況は、高校や予備校の顔に泥を塗るような行為だ。沽券に関わるので、ここからが勝負だ。
しかし、やはり知力甲子園で得た知識は、間違いなく
銅海中学・高校では学習の進みが早く、高校二年生の段階では、高校生で修得すべき学修項目をすべて履修し終えている。私立中・高一貫校の強みでもある。ただ、日比野は中学校は公立高校であり、高校から銅海高校に入学している。高校から入学してくる者は少数だ。高校から入ってきた者は補講を受けながら、中・高一貫組を猛追する。三年間かけて勉強するところを二年間でマスターしなければならないのだから、かなり速い。よって、高校から入ってくる生徒は、中・高一貫組よりも優秀だと、一般的に言われている。
優梨たちの通う滄洋女子高校も私立中・高一貫校だ。当然、授業の進みは速い。予てから、優梨は陽花をはじめ、予備校のクラスメイトなどに教えている光景を目にしたことがあるが、かなりレベルが高い。例えば数学Ⅲの複素数平面についても、教え方が的確であるだけでなく、活用例などを示したりして、分かりやすく説明していた。
優梨ほどの知能なら、残りの期間何も勉強しなくても、東京大学や国立大学医学部を突破できるだろう。残念ながら日比野はそこまでの自信はなかった。
今日は、数学Ⅲのバウムクーヘン分割積分を用いた回転体の体積の求め方についての講義だった。いつもなら、一分一秒の講義を無駄にしたくないため、いちばん前の座席で板書を取りながら、耳の穴を
理由は明白である。午後からの千里との約束だ。
この日のために、日比野は夜はあまり寝付けなかった。少しはオシャレな格好をしなければならない。服装を多少マシなものをチョイスし、ヘアワックスをこっそり購入し出かける前にセットを試みた。しかしどんなに頑張っても、ファッション雑誌に出てくるようなモデルのように着こなせないし、髪型も決まらない。こういうことに不慣れである以前に、もともと持って生まれた外見でビハインドを背負っていると思う。
それでも、何とか、普段の学ラン姿に比べれば、数段マシにはなった。『下の下』レベルから『中の下』レベルにはなっただろうか。非情なことに、同じく夏期講習に受けに来ていた生徒に偶然銅海高校の平野がいて、見事茶化された。平野は普段、別の予備校に通っているはずだが、何たる不運だ。
「五郎。何、イメチェンしてんだ? 女か?」
「うるさい、うるさい、うるさい」
図星だけに、否定できなかったが、うるさいの一点張りでお茶を濁した。
夏期講習後、そそくさと千種進学ゼミを飛び出した。
千里は、十二時半に
「お久しぶり、でもないか」
眼前の桃原千里は、やはり見目麗しかった。彼女の着ている服装が、やはり日比野では言葉で説明できないのだが、オシャレであることは分かる。
「お待たせ」
「イメチェン? 似合うじゃん! こっちの方が良いよ」
「ありがとう」
お世辞か否か分からないが、そう言ってもらえて安堵する。朝一時間かけて自室に籠って準備に費やした甲斐があった。
「じゃあ、科学館行こう!」
沖縄には、名古屋市科学館ほど大規模な科学館がないらしい。加えて、名古屋に在住していたときには行ったことがなかったらしいので、今回ここに行くことを選んだのだ。見た目はいまどきの女子高校生(標準的な女子高校生を知らないので勝手な推測による)だが、全国模試二十位に食い込む英才の持ち主であり、飽くなき知的好奇心は押さえきれないようだ。
よく考えれば、日比野もここに来るのは、実に久しぶりな気がする。以前ここに来たのは、小学生の頃だったか。高校生になってから来ると、見える光景が変わってくるような気がした。
特にプラネタリウムは、世界最大を誇っており、実に興味深かった。知識として知っていても、天体が目の前に大きく迫ってくる光景は迫力満点だった。
また、期間限定で特別展『絶滅動物研究所』という展示があって、これもまた面白い。やはりディスプレイや図鑑などで見るのと展示物で見るのでは、インパクトが違うなと改めて思った。
千里に感謝する。科学館は高校生にもなると、こういう機会でもないと来ることがない。独りあるいは野郎同士でここに来るという話にはならないからだ。そして、間違いなく千里と一緒にいることが楽しさを増幅させていた。
昼食は千里と会う前に簡単に済ませていたが、夕食はまだだった。科学館は夕方五時には閉館となる。
科学館にはあまり食べるところがない。千里は移動して晩ご飯を食べようと言った。もはや全国的にも有名な味噌カツ店『矢場とん』に行きたいとのことだった。科学館から徒歩で向かった。少し距離はあるが、充分歩いていける範囲である。そこで、味噌カツを食したが、千里は金山にホテルを取っているとのことだったので、チェックインだけ済ませた後、金山でお茶したいとのことだ。
金山なら、日比野の自宅からも近いしありがたいが、金山は優梨や影浦、風岡の行動圏内でもある。少し気がかりであったが、まぁ大丈夫だろう、と高を
金山総合駅北口の『アスナル金山』という商業施設に入っている、スターバックスに入店する。入るやいなや、入ったことを後悔した。
優梨と影浦がそこにいたからだ。
「あっ! あっ!?」
最初の「あっ」は、日比野に気付いたことによる発声。二つ目の「あっ」は千里と二人きりでいることによる驚きの発声だと窺える。もう遅い。引き返せない。
千里も、鉢合わせたことを後悔しているか、と思いきや、ずんずん優梨たちの集団の方に向かっていった。
よく見ると、さらに驚いたことに、対面に座している二人のうちの一人のは、札幌螢雪高校の白石麗ではないか。
「……ど、どうも」日比野はバツの悪さか、小さい声で挨拶した。
優梨も目を丸くしている。
「あ、偶然だねっ!」
一方の千里は、全然臆することなく、明るく挨拶する。この神経の太さは真似できない。感心にも近い感想を抱いていると、次の瞬間、千里はあり得ないほど驚くべき発言をする。
「このとおり、私は五郎くんと、付き合うことに決めましたっ! 以後ご承知おきをっ!」
そう言って、千里は彼女たちの目の前で、日比野の腕をギュッと強く組んできた。
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