第七章 訐揚(ケツヨウ) 10 日比野
千里の連絡先を開いた日比野は、ディスプレイの通話ボタンをタップするのに躊躇していた。
いつも千里の方から連絡をよこしてきた。こちらから連絡をすることはいままであっただろうか。パッと思い出す限りなかったような気がする。
知力甲子園を機に、幾分関係が深くなったとはいえど、女性に対する免疫の強くない日比野にとってこちらから電話をかけるなりすることに抵抗を覚えた。それは陽花や優梨に対しても同様だが、千里の場合は特に優勝を逃したダメージを
心配になり始めると、逆に、署名云々よりも千里自身がいまも元気なのかどうか、気になってきた。
メールをしようか。一瞬そんなことが頭によぎった。メールならまだ落ち着いて用件を伝えられる。
しかし、このときばかりは、何故か電話をかけたほうが良いような気がしていた。
文章では心の奥に隠された悩みを
ディスプレイを眺めながら数分止まっていた親指が、気付くと発信ボタンを押していた。意識の方が後からついてきて日比野は慌てる。
数回のコール後、千里は出た。
『もしもし』
「あ、ああ、ももは……、いや、とうば……、いや、せ、千里さん、こんばんは」
ひどい
『ど、どうしたの?』
「あ、ごめん、そ、その、元気にしてるかなと思って……」
そう発言して、さらに熱くなった。ここは自分の部屋。クーラーは効いて涼しいのに発汗している。
『元気だよ。おかげさまで。さすがにモナコへの旅は疲れたけど、ちょっと落ち着いた』
「そ、それは良かった」
『ありがとうね』
千里が元気だということが分かって何よりだが、その後の会話が続かない。つくづく電話は苦手だ。特に異性相手では。
『で、どうしたの? きっと他にも用件があるんでしょ?』
しばしの沈黙を破り、千里が切り出した。察しの良い千里に言われ、そちらが本題だということを思い出して、再び慌てた。
「あ、そうだった、実はな……」
日比野は千里に、影浦の大学進学を叶えるために、署名運動を考えていることを明かした。驚いたことに、今回の知力甲子園で、影浦の大学進学がかかっていることはお見通しだった。実は、大会が終わった後、帰途に就くまでの間に、優梨からそのことを聞いたらしい。間接的とはいえ、巻き込んでしまったことを謝られたとのことだ。
『署名は、いいよ。協力してあげる』
「ありがとう──」日比野は安心した。しかし、その言葉を遮るように千里は続けた。
『ただし、条件がある』
「えっ?」
思いがけない言葉を聞き、安心した直後に不安になる。
『もう一度、会ってくれませんか?』
「はっ?」
日比野は、驚愕と狼狽のあまり頓狂な声を上げてしまう。
『だから、もう一度、会ってほしいの。もちろん、こっちから行くから……』
そういう問題じゃないと思う。どういう理屈でそういう展開になるのか。
「だ、だ、だ、だって、も、もう夏休みも終わりだろう?」
『終わりだけど、まだ少しだけ期日がある。いま、パソコンを見てるけど、今度の土日なら、飛行機も何とかまだ余裕あるみたいだし』
「……」
『予定入ってた?』
「あ、いや……」
夏期講習でそれなりに忙しかったが、千里の言う『土日』は夏休みの最後の土日である。土曜日は午前中が講義だったが、昼以降はフリーである。ちなみに日曜日は一日空いている。
『空いてそうだね?』電話越しでありながら、日比野の反応ですべてお見通しである。
「し、しかし……」
『だって、大会前のデートでは、空港の外に一歩も連れ出してくれてないじゃない?』
ぎくりとした。そのことについては、我ながら情けない応対をしてしまったと恥じていたが、痛いところを突いてくる。
「わ、わ、分かったよ」
焦っているのが、しっかり伝わってしまっている。千里との会話では、常に主導権は相手だ。
『じゃあ、土曜日の、えっと昼の便で来て、帰りは、あ、土曜日は埋まっちゃってるな。日曜日だね』
「泊まるのかい?」
『うん。どこかで泊まるよ。大丈夫。五郎くんの家に泊まるわけじゃないんだから!』
「な!?」
恥ずかしさのあまり、身体中の水分が火照り沸騰しそうになる。
『じゃあ、よろしくねー!』
そう言って、千里は電話を切った。
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