第六章 決戦(ケッセン)  2 優梨

「3以上の自然数nについて、xⁿ……」

 ポン。優梨は気付くとボタンを押下していた。目の前のランプが点る。

「解答権は、滄洋女子高校複合チーム!」

 しかし、優梨は押してから後悔した。これではまだ情報が全然足りないではないか。きっと、このあと『3以上の自然数nについて、xⁿ+yⁿ=zⁿとなる自然数の組は存在しないという予想』と問題は続くだろう。これは17世紀、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマーによって提唱された『フェルマーの最終定理』という有名な予想で、証明を記すには余白が狭すぎるという理由で、その証明については謎のままであった。その後、幾多の数学者によってこの予想に対して証明を与えようとしたが困難を極め、証明されたのは1995年のこと。実に350年以上もの歳月を必要としたという有名な定理である。

 この定理の名前を問うのか、定理を証明した数学者の名前を答えさせるのか、これだけでは分からない。正直、数学が得意な優梨にとって、この『フェルマーの最終定理』という単語は常識的と考えるがいかがか。優梨はボタンを押して後悔したものの、両隣では白石、千里の両名がほぼ同じタイミングでボタンを押していた。

 賭けだ。クイズの解答者から見た問題の難易度、問題文の長さを考慮し、優梨は後者と推定した。どうせ、問題文を最後まで聞いていたら、白石、千里のどちらかに解答されていたかもしれないのだ。

「アンドリュー・ワイルズ!」

 優梨は開き直って堂々と解答した。数秒間の沈黙。果たしてどうか。

 ピロリロ。正解音を聞き安心する。50%の賭けだったが、それをより確からしい確率で答えていくのが、日比野が以前口にした『ベイズ推定』というやつだろうか。

 優梨は早押し問題において慎重すぎる、分かっていても押し負ける、と陽花らに評されたことがあった。しかし、極限の集中力は、早押しに対する思い切りを後押ししているのかもしれない。

「3以上の自然数nについて、xⁿ+yⁿ=zⁿとなる自然数の組は存在しないという、ピエール・ド・フェルマーによって17世紀に提唱された『フェルマー予想』を、1995年に証明したイギリスの数学者は誰か、という問題でしたが、まだ問題文のかなり冒頭の部分で大城さんが正解しました! お見事です。しかし、白石さん、桃原さんもほぼ同時に押していました。何てハイレベルな戦いでしょう!」

 正解しておきながら、確かにハイレベルだ。こんなせめいが最後まで続くというのか。集中力の極限への挑戦である。息をつく暇などない。

「さて、どなたからポイントを消し去りますか」

 問題に集中しすぎて、そのことをすっかり失念していた。しかし、答えは決まっている。

「白石さんでお願いします」

 もはや、チーム名ではなくて個人名をコールしてしまっている。まあいい。とにかく次の問題へ気持ちを切り換える。

 札幌螢雪高校のライフが7から6に減る。白石は表情を変えないが、千里は少し驚いている様子だ。


「第二十三問! 早押し問題です」

 またもや早押しだ。再び姿勢を低く構えた。

伴性はんせい遺伝のため、原則としてメスしか発生しない猫……」

 猫だ。猫は優梨のいちばん好きな動物だ。好きなものはとことん調べ尽くす性分なので、専門家並みに詳しい。猫というキーワードで条件反射的に早押しボタンを押していた。

 猫、伴性遺伝と来たら、きっとアレしかない。

「滄洋女子高校チーム、大城さん!」

三毛みけねこ!」

「正解! 早い! お見事! 『伴性遺伝のため、原則としてメスしか発生しない猫を、その毛の色から一般的に何というでしょうか』という問題でした」

 優梨にとってのサービス問題だ。こんな問題を出してくるあたり、少なくとも白石にアドバンテージのある問題で固められているわけではなさそうだ。

 それにしても三毛猫と来たか。三毛猫は、その毛色の数から、フランス語風にトリコロール、あるいはトライカラーと呼ばれることがある。この三色旗トリコロール様の決勝戦に重ねてきたようにも思える。偶然とは思えない。

「さて、どなたからポイントを消し去りますか」

 もはや、お決まりのフレーズと化しているこの質問。

「白石さんでお願いします」約一分前の繰り返しのごとく優梨も同じ回答を返す。

 チッ、と舌打ちのような声が聞こえたが、白石だろうか。2ポイントの差を付けられることは彼女にとって不本意なのだろうか。しかし、動揺したり戦慄わなないたりする様子はじんもない。


「第二十四問! 早押し問題です!」

 早押し問題が続く。早押し問題は苦手だが、心なしか調子が出てきているように思えた。

「世界最大の蝶は……」

 再び気付くとボタンを押下していた。目の前のランプが点る。あたかも誰かが勝手に手の運動神経を操作しているように。

「滄洋女子高校複合チーム! 大城さん!」

 優梨の名がコールされる。しかし、隣でもボタンを押下する音が聞こえてきた。押し勝っても、0コンマ1秒未満の僅差での勝負を強いられていることに、優梨は尋常でないプレッシャーを感じている。

 世界最大の蝶は『アレクサンドラトリバネアゲハ』と呼ばれる。その知識は持っていたが、やはり問題の長さから、どうやら違う気がした。きっと、『ですが問題』と呼ばれる形式だろう。『〜ですが』のあとを推測しなければならない気がした。

 再度『ベイズ推定』の出番だ。いな、終始『ベイズ推定』を活用し続けなければならないかもしれない。

 優梨の予想は、蝶ではなくて、世界最大のを答えさせるような気がする。覚悟を決める。

「ヨナグニサン!」

 またしても沈黙の時間。この数秒間のの時間は、どうしても好きになれない。

 ブブー。非情な不正解音。落胆する。やはり素直に蝶の名前を答えるべきだったか。それとも『ですが』の後を読み誤ったか。

「残念! 滄洋女子、大城さん、この問題の解答権を失いました。問題の続きです! 世界最大の──」

 誰も押さない。優梨の不正解は、解答のヒントにはならなかったか。

「蝶はアレ──」

 ここで、ポンと押したのは白石だった。同時に千里も押しているが、押し負けている。

「札幌螢雪高校チーム、白石さん!」

「ヘラクレスサン!」

 正解音が鳴る。千里は小さくガッツポーズを決める。優梨は初耳の言葉だ。

「世界最大の蝶はアレクサンドラトリバネアゲハですが、世界最大の蛾は何でしょうか、という問題でした! 白石さん! お見事です!」

 何と。問題は推定できていたのに、解答が違っていたようだ。

「ちなみに大城さんの解答について、かつてはヨナグニサンが世界最大の蛾として考えられていましたが、近年の研究でヘラクレスサンが最大の種だということが明らかになりました」

 痛恨のミスだ。むかし身に付けた知識も、アップデートされていなければ誤りの知識になる可能性がある。これは典型例だ。

「白石さん、どのチームのポイントを減らしますか?」

「はい。滄洋女子、大城さんです」

 報復である。問題の先を読めていただけに非常に悔やまれる。この問題が正解できていれば三ポイント分のリードを付けられたのに、このミスで一ポイントのリードに減らされてしまった。

「大城さん!」

 なぜか千里の声が聞こえる。思わず優梨が左手を見ると、白石の頭越しにこちらを向いている千里の顔が見えた。その表情は笑っているわけでも見下しているわけでもなく、しっかりしてよ、と檄を飛ばしているように見えた。千里は優梨を応援しているというのか。

 札幌螢雪高校チーム:大将・五ポイント。

 滄洋女子高校複合チーム:大将・六ポイント。

 蘇芳薬科大附属高校チーム:大将・七ポイント。


「第二十五問! 早押し問題です!」

 隙を与えない問題のコール。再び優梨は身構える。

「ただいまから、有名な小説の冒頭の一節を逆から読みます。何の小説か答えて下さい」

 逆から、とは。優梨の頭の中で疑問符が付いた。

「『たいてみ おちま のてだこは るいでんこえかか おみう てびのにうよたし おびのせ がりむつたか てっかかりよ にりすて のきっで わりたふ でだんぐえ さくごじ いお!』」

 優梨はぜんとした。

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