第四章 譎詐(ケッサ)  18 日比野

 影浦は「塩基配列の翻訳の仕方に工夫が必要」と言っていた。同感である。


 『C-A-L-I-C-A-A-E-R-M-I-L-A-S-E-L』からカリフォルニア州あるいはロサンゼルスを連想したが、残念ながら正解には至らなかった。

 やはり、気になるのはあのヒントカードの謎。古びた輪ゴムのような潰した針金のような図形。あれが、自分の知るカリフォルニア州あるいはロサンゼルスの如何なるものとも結びつかない。であれば、翻訳の仕方が違うのだろう。つまり『C-A-L-I-C-A-A-E-R-M-I-L-A-S-E-L』ではないということだ。

 千里は『C-A-L-I-C-A-A-E-R-M-I-L-A-S-E-L』に拘泥こうでいしているのだろうか。それであれば、カリフォルニア州あるいはロサンゼルスに行き着いているかもしれないが、おそらく正解には辿り着かないだろう。

 パッと見た感じ、蘇芳薬科も何枚かヒントカードを獲得しているように見えるが、千里はまだそれを見て、キーワードには至っていない様子だ。


 日比野も、メモを握り締めていた。実は、このメモは陽花のメモを書き写したわけではない。千里のメモの筆写だ。ここには塩基配列が五十個並んでいる。さらには、独自に所持していたコドン表も手元にある。

 コドン表には開始コドンと終始コドンがある。銅海高校の生物の授業でも登場した。開始コドンから翻訳が開始され、終始コドンで翻訳が終了する。そう生物の教諭が説明していたのを思い出す。

 ひょっとして、確信はないが、これもそうではなかろうか。よく見ると、開始コドンとなるAUGがちゃんと存在している。

 日比野は近くのベンチに座って、試しにコドン表に従って翻訳してみた。ここからは優梨たちの姿は見えないが千里の姿は辛うじて見える場所だ。

 M-C-G-R-A-N-D-P-R-I-終始コドン

「MCグランプリ?」日比野は思わず独りごちた。B-1グランプリやF1グランプリなら聞いたことあるが。

 ──F1。そこで日比野に閃光が走った。このMCの示すものは。そしてこの歪な針金のような図の示すものは、ひょっとして──。


「五郎くん?」

 日比野はひっくり返る勢いで驚いた。実際にはベンチに背もたれがあったおかげで転落することはなかったが、それくらいの驚きようだった。

 こんな呼び方をする人間は、ここには一人しかいなかった。紛れもなく桃原千里だった。

 ここに来た理由は分かる。相談にやってきたのだろう。どういうわけか、このゲームは他チームとの情報交換が可能となっている。そして、札幌螢雪高校チームが決勝進出を決めた。少なからず千里は焦っているはずだ。千里の狙いは、決勝の舞台で優梨と対峙すること。むしろそれが唯一にして最大の目的と言って過言ではないと思う。残る決勝進出のポストは二つ。そこに蘇芳薬科と滄女が綺麗に入り込まないと、彼女の夢は潰えてしまうのだ。

 しかし、これはいろいろとまずい。ここからは優梨たちは見えないが、風岡はヒントカードを探すべく公園中を奔走している。さらにはテレビカメラも生徒たちを追いかけるべく奔走している。

 かと言って、無下に断るほど日比野は非情にはなれなかった。

「こ、ここはまずい。人目の付かないところに移動してくれ」

 人目の付かないところ、という言葉に、不純な響きを感じたが、千里には誤解のないようにお願いしたい。


 園内の公衆トイレの裏。そこに二人で移動した。もちろん移動中は敢えて距離を置いた。だだっ広い公園で人目の付かない場所は少ないが、ここがいちばん手っ取り早いような気がした。しかも、ちょうど灌木かんぼくが茂っており、上手い具合に死角を作ってくれている。

 情報交換自体はルール違反ではないが、千里と個人的なやり取りをすることに、後ろめたさを感じているのだ。もう一度、見えるところに誰もいないことを確認した。


「何か情報はつかめた?」単刀直入に千里は聞いてくる。

 人目につかないところにわざわざ移動したものの、どう言おうか日比野は迷った。取りあえず当たり障りのないところから言うとするか。

「アドバンテージとなるヒントカードは、コドン表だった。予想どおりと言うか、何と言うか……」

「ホント、アドバンテージにすらならないね。私だって気付いたくらいだから」

「本当だよ……」

 日比野は顔に似合わず苦笑いした。早くこの二人でいる状況から切り抜けたかったが、千里がこれで、はい、そうですか、と言って引き下がってくれるとは思えなかった。そして予想どおりそれ以上の情報を要求してきた。

「で、そこからの滄女の英才たちの見解はなされているの?」

 日比野は少し困った。どこまで言うべきか。

「結論から言うと悩んでいる。情報が不足している」

「塩基配列も読んでるよね? それに対しては?」

「桃はら……、いや、千里……さんの言ったとおり翻訳した。そこでロサンゼルスではないかと思ったけど、ダメだった。ヒントカードとの整合性もとれなかったし」

「なるほどね。ヒントカードは?」

 聞かれているばかりでは、こちらが不利になる。千里からも情報を聞き出したい、と思った。

「そちらのヒントカードは?」

「これだよ」

 そう言うと、あっさりとヒントカードの書かれた折り畳まれた画用紙を開いてみせてくれた。三枚ある。うち一枚は『$168,000』と書かれている。残りの一枚には、キーボードの配列のような正方形が並べられていて、上列の左から二番目の正方形だけ黒く塗られていた。


 日比野は再び閃いた。ひょっとしてあの国ではないか。

「五郎くん、何か思い付いたみたいね」

「……」

 千里はやはり侮れない。読心術でも持っているのだろうか。無表情で感情が顔に出にくいと他人からよく言われる日比野でも、千里には通用しなかった。

「このキーボードの黒く塗られているところには『F1』と書かれている。ここを象徴するもののひとつ。『$168,000』というのは、おそらく一人当たりの国内総生産GDPだ。見ての通りめちゃめちゃ高い。裕福だ」

「なるほどね。ちなみに、日比野くんのチームのカードにはどんなことが書いてあったの?」

 日比野は、ヒントとなる紙は優梨たちの手元に渡っていて直接見せることはできない。よって可能な限り、あの歪な図形の特徴を口頭で説明した。

「ということは、あそこね」

「そうだ、あそこだ」

 敢えて、そのものの説明をしないところが千里らしい。

「あとは、塩基配列が謎だね。ロサンゼルスではないとすると……」

 千里は、日比野の最小限の説明でキーワードの正体を分かっている。ここまで悟られてしまったら、言っても言わなくても同じだ。

「開始コドンの『AUG』から終始コドンまでを読むんだ」

「なるほどね。それなら、塩基配列が余ってしまっても不自然じゃない」

 そう言って、塩基配列を順番に翻訳し直す。何と、千里はコドン表がすべて頭に入っているようで、何も見ないでアミノ酸の配列を確定させていった。

「『MCGRANDPRI』。『X』が抜けているみたいだけど、さしずめ終始コドンを『X』と見なすってことね。良かった。すっきりしたよ。ありがとう」

「ど、どういたしまして」

「早く、そっちも答えを伝えに言って! 滄女とは決勝戦で戦って、直接大城さんを打ち負かしてやるんだから!」

 そう言って、千里は駆け足で、そこを去っていった。


 日比野もその場を離れようとすると、トイレの表にある人物が立っていた。

「おい五郎ちゃんよ! そんなところで何してたんだ!?」

 風岡の口調は、少し怒気を孕んでいた。

 まずい、バレたか。思わず、日比野は天を仰ぎそうになった。

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