第二章 結集(ケッシュウ)  9 日比野

 一回戦から、苦戦を強いられてしまった。

 結果的に、一回戦を突破することが叶わなかったが、敗者復活戦という救済措置を講じてくれている。ありがたい。


 恥ずかしながら日比野は、一回戦で活躍できなかった。収録現場に入ることはおろか、テレビ局に入ること自体がはじめてだ。そもそもテレビはあまり観ない。観たとしても主に教育テレビかクイズ番組だ。こんな大勢で、かつ何台ものカメラや照明を向けられることが、日比野にとって非日常的だった。それは他のチームメイトも同じことだったが、日比野の場合はもともとこのような環境の変化に順応することが得意でない。


 早い話、緊張していた。ポーカーフェイスゆえ気付かれにくいが、ディスプレイ越しにクイズ問題を解くのとは全然違う。あれだけ『ベイズ推定』に磨きをかけてきたはずなのに、結果的に何ひとつ成果を発揮できなかった。

 緊張していたが、そこは日比野であっても、時間とともに空気に少しずつ馴染なじんでいって、いつもの調子を取り戻せるものだと思っていた。しかし、あの男に見事に狂わされたのだ。


 銅海高校チームのリーダー、平野しゅんすけだ。

 作戦かそうでないかは分からないが、ゲストタレントの質問に対し、日比野へのひやかしを込めた回答をしたのだ。それによって、せっかく慣れてきたところが、バツの悪さにより再び問題に集中できなくなってしまった。平野は、日比野の性格をよく知っているはずだからこそいまいましい。

 それでいて、平野は「五郎よ。お前もっと頑張れ。ここで敗退したら滄女の別嬪べっぴんさんたちにどう落とし前つける気だよ?」などと言ってのける。どこまで本気なのか分からない。しかし、居心地の悪さをっていた日比野にとっては後の祭りである。


 最後の一席を懸けた最終問題を、三重県代表の本田工業高専チームが正答したとき、千里は笑っていなかった。それどころかどこか物悲しげだった。目を潤わせているようにも……。

 少なくとも日比野にはそう見えた。


 千里は優梨に勝つことを唯一にして最大の目標としていた。それは二年前の予備校での一件が鮮烈に物語っている。その事実は、奇しくも優梨のみならずチームメイトが共有している。

 だからこそ、宣戦布告とも取れる今回の挑戦、そして挑発は、精密機械さながらの優梨の頭脳の歯車を狂わせた。衆人環視かつテレビカメラという最大の証人を携えて、千里は優梨に勝った。願いが叶ったのだ。

 まさしく千里の作戦どおりだったかのように見えた。


 しかしながら、あの千里の表情は何なのか。本意ではなかったというのか。彼女の欲求を満たしていなかったというのか。


 一つ考えられるとすれば……。


 


 強い者が自分よりも強い対象を、長年憧憬として、目標として、そして好敵手として、いつか超越することを夢見てきたのであれば、その対象の弱いところを見たくなかったはずだ。

 その対象は常に頂点に君臨し続けていなければならない。最強だからこそ乗り越えることに意味があるのだ。弱体化した相手に勝っても意味がない。


 実は、二年前の千里は、相手をおとしめてでも優梨に勝てば良いと思っていたようだ。どんな形であれ優梨よりも上位にいる事実だけを所望していたのだが、いまは変わったようだ。

 その証拠に、敗者復活戦のアナウンスがなされたときに、勝ち抜きを決めたチームの席で唯一歓喜していたのは、紛れもなく千里だった。つまり優梨と頂上決戦をできる可能性がまだ残されていたことが嬉しかったのだ。これは千里の優梨に対する最大のエールととらえて差し支えないだろうか。

 しかも、セントレアで千里と逢ったとき「優勝狙って、大城さんに負けないように頑張ってるし、これからも頑張ると思う。私は大城さんと直接対決したい。そして勝ちたい」と言っていた。いま思えば、この『直接』という言葉に極めて重要な意味があったのかもしれない。

 それが本当なら、千里はかなり成長したな、と思う。上から目線かもしれないが。


 ただ、優梨はそんな千里の表情の変化にはまったく気付いていない様子だ。おそらく、挫折を経験してこなかった優梨の初の挫折を千里の前で味わわされたことによる屈辱と悔しさで、顔を向けられないのだろう。日比野が優梨の立場なら、おそらく同じ心情に支配されていたことだろう。


 何はともあれ、首の皮一枚繋がっている状態となった。敗者復活戦は一回戦よりも狭き門だろうが、チャンスが残されているのなら最善を尽くしたい。それは自分のためであり、優梨をはじめとするチームメイトのためであり……。

 ──さらには千里のためである。


 空港で、あのとき千里はこんなことも言っていた。

「もし私が大城さんと直接対決することなく敗退しそうになったら、こっそり助け船を出してほしい」

 これはきっと本音なのだろう。

 その確信は、千里に対して協力的になるよう日比野自身が変化しつつあった。


 しかしながら、果たしてそんな場面がやってくるのだろうか。

 千里もまた間違いなく聡明だ。他のチームの追随をまったく許さず、最初の二問で二回戦進出を決めるという豪快な離れわざをやってのけたのだ。あれは素直にすごい。すごすぎる。日比野は、解答を聞いても何のことかまったく分からなかったのだから。会場の参加者のみならず、アナウンサーやゲストタレントたちを大いに驚愕させた快挙だった。

 だからこそ、日比野が彼女に何かしてやれることはないと思う。むしろ逆だ。千里が自分たちに手を差し伸べるのかもしれない。


 そんな大それた推測は、もちろん優梨や他のチームメイトたちに共有できようはずもない。『桃原千里』として心を一つにし、気勢を上げているような感じだ。

 だからこそ、我々が、千里率いる蘇芳薬科大学附属高校チームに協力あるいは加担することは御法度だ。


 日比野が千里が困ったときに助ける。そんな必要性はないと信じているが、万が一そんな場面が来てしまったらどうしよう。元来勉学以外は不器用な日比野にここで妙案が見つかるはずもない。かと言って無慈悲に見捨てるわけにもいかない。


 でも、何としかして周りに気付かれることなく手助けをしたい。不思議とそんな気持ちが押し寄せて膨らみ始める。何なんだこの感情は。そこである一つの推測に辿り着く。


 いま、この五人組クインテットには、二組の仲睦なかまじいカップルが含まれている。言わずもがな日比野を除く四名だ。嫉妬や羨望が生まれなかったと言えば嘘になる。平野のひやかしは否定できなかったのだ。

 だからこそ、千里がまぶしく見えてしまったのかもしれない。

 もともと千里も優梨に負けず劣らずの美貌を誇る。それは二年前からそうだったのだが、それ以上に日比野の心は、説明しきれない何者かに鷲掴わしづかみされているかのようだった。


 今まで感じたことがなかった感情かもしれない。十八年間生きてきてはじめての……。

 そこでようやく気付く。ひょっとして、これは恋心というやつだろうか。


 我がチームリーダーの大城優梨にとって最大の宿敵、桃原千里に、俺は恋をしているというのか。日比野は煩悶はんもんする。

 チームそのものを滅ぼしかねない最大の禁忌タブーを犯そうとしていることに、日比野は気付いてしまったのだ。この邪念は、簡単には払拭できない。毒牙のように身体に棲みついて離れない。

 これは恋心ゆえか。

 恋愛の経験値に圧倒的に欠く日比野にとって、このはじめてのこいわずらいには、どうやってもあらがう方法を見出せなかったのだ。

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