第一章 蹶起(ケッキ)  17 日比野

 桃原千里もやはり出場を決めてきた。


 意外には思わない。むしろ予想どおりの展開だろう。県大会だけで言えば、おそらく沖縄県は愛知県よりも広き門だろう。出場校はこちらほど多くないはずだし、何よりも千里の知力をもってすれば──。


 あの日の電話以降、千里について日比野からチームメイトに情報を発信していない。



『単刀直入に言うね。知力甲子園にお互い出ようとしてることだし、私と日比野くんで一度会わない?』

「会うって……。君は沖縄にいるんだろう?」

『会いに行くよ。例えば今度の日曜日なら日比野くんも空いてるでしょ?』

「こ、今度? あ、空いているには空いているが」

 日比野は、話下手だと自覚している。特に異性に対しては、嘘をついたり相手の出方を窺うような駆け引きなどできようはずもない。千里はそんな日比野の特徴を知ってか知らずか、日比野に考える隙を与えないと言わんばかりに、立て板に水のごとく要求を突き付けてくる。会うことに一定のリスクをはらんでいそうな予感がしつつ、虚言をろうすることはできなかった。横板に雨垂れながら日比野の口から出る言葉は真実しか含まれない。

『じゃ、決まりね。実は私もそんな気がして、飛行機のチケット、もうゲットしてるの!』

「そ、そうなのか?」

 つくづく千里は侮れない。この鋭い洞察力は天性のものだろう。日比野はあたかも監視されているような気分になる。

『じゃ、待ち合わせは──』

「ちょ、ちょっと待ってくれ。会ってどうするんだ?」

『決まってるじゃない。知力甲子園の作戦会議だよ?』

「作戦会議って──」

 違うチームなのにおかしいじゃないか、と異議を唱えようとしたところで千里に遮られた。

『あ、それともデートがよかった?』

「はっ!?」日比野はしどろもどろになるあまり、普段めったに出さない素頓狂な声を発してしまう。

『私はデートでも全然いいよ! 予備校の元クラスメイトの再会を祝して二人きりで水入らずで。ってかデートしながら作戦会議かな?』

「……」

 千里は、訳の分からないことを言っている。デートだろうが作戦会議だろうが、二人で会うことに変わりはない。

『じゃあ、金山駅に朝十時でいい?』

 金山はまずい。ここは頻繁に優梨たちがデートなどに使っていると聞いた。はちわせだけはあってはならない。どこかないか。

「ま、待ってくれ! く、空港まで行く!」

 焦りながら黙考した結果、そんなことが口から出てしまっていた。しかし、空港ではさすがに優梨たちに遭遇することはあるまい。千里はどう答えるか。

『空港って、中部国際空港セントレアだよ? 遠いでしょ?』

 中部国際空港は愛知県の常滑とこなめ市にある。知多半島西岸の中央部に位置し、空港自体は伊勢湾海上の人工島に位置する。名古屋市からは遠いが、拠点空港ゆえ、鉄道等は整備されアクセスは容易である。

 千里は続ける。

『あ、なるほど。大城さんたちに見られたらまずいもんね!』

 とは何なのかよく分からなかったが、さすが千里は察しが良い。

「今度の日曜日に十時、セントレアだな?」

 十時とは早いなと思ったが、次の千里の発言で訂正される。

『いや、那覇発の便そんなになくて、八時半には着いちゃうんだよ。八時半、早すぎるかな……?』

 早すぎると思う。いや、一般的なデートの待ち合わせ時間の相場など、生まれてこの方デートなどしたことのない日比野に分かりようもないのだが。いや、なぜ、デートになってしまっている。完全に口車に乗せられている。戸惑った日比野は、本意とは違うことを言ってしまう。

「は、八時半でいいよ」

 何でそんなことを言ってしまうのか。日比野は力の限りおのれを恨んだ。これでは、まるで会うのを楽しみにしているようではないか。

『やっさしぃ~! ありがとう! 楽しみにしてるんだから! 国内線の到着ロビーによろしくね!』

 当然ながら千里の喜びの声が聞こえてくる。

「……分かった」日比野は複雑な気持ちで小さく応答する。

『私、張り切ってくんだから! デートなんて久しぶりだし』

 千里から再びデートという言葉が飛び出し、少し冷静になって念のため問う。

「で、デートなのか? さ、作戦会議なんだろう? 何か過去問資料は?」

 言ってしまってから、またもやしまったと思う。完全に敵に塩を送る行為だ。こんなこと優梨たちにバレた日には──。しかし千里から出た言葉はあっさりとしたものだった。

『任せるよ。何でもいい』

「どういうことだ?」日比野は理解できなかった。

『わ、私は、日比野くんと会うことのほうが大事な目的なんだから』

 若干、照れているように聞こえる。好意を抱かれているのか。そんなことを悟った日比野は余計に惑乱してしまう。何も発言できなくなった。

「……」

『じゃ、とにかく今度の日曜日よろしくね!』

 そう言って千里は一方的に電話を切った。



 デート、いや逢引あいびきと表現したほうがこの場合正確かもしれないが、とにもかくにも実行された。予告通り千里は現れた。久しぶりに見る千里は、こころしか、二年前よりもぐっと美しく見えた。もともと美人だが、大人びてさらに磨きがかかっている。もちろん口が裂けても言えないことだが。

 実のところ、日比野は心配していた。なぜなら過去に精神を病んでいたことを知っていたからだ。やつれていたり、逆に太っていたり、ストレスは様々な外見の変化をもたらしうる。しかしそれはゆうであった。ひとまずあんする。


「久しぶりだね。日比野くん」

桃原ももはらさんも元気そうで」日比野はつとめて低い声で言った。

「前にも言った通り、私はもう『桃原とうばるせん』として生きてるんだよ」

 そうだった。模試の結果を見ているときにそう教えられたではないか。

桃原とうばるさんでいいのか」念のため確認する。

せんって呼んで。私も五郎くんって呼ぶから」

 恥ずかしさで顔が熱くなる。優梨や陽花にすら、下の名前で呼ばれたことがない。同時に異性を下の名前で呼んだことも呼び捨てで呼んだこともない。これはさすがに持ちこたえられそうにない。

「せ、せめてせんさんって呼ばせてくれ! 頼む!」

 おかしな要求だが、場慣れしていないのだ。

「分かったよ。おいおい呼び捨てにしていってね」

「ああ」日比野は気のない返事をした。

「あ、もちろん大城さんたちがいるときには、他人行儀っぽく桃原ももはらさん、日比野くんでよろしくね。そっちのほうがいいでしょ?」

「そうだな」

 そんな器用なことが日比野にできるのか不安だったが、とりあえず了解の返事をした。本当は、だからこそ、下の名前で呼び合いたくなかったのだが、千里にはなぜかあらがえなかった。


 空港には、スターバックスなどのカフェもある。よく考えると、日比野は私服で遠出することはあまりない。日曜日は家で勉強したり読書することが多い。ゆえに、私服が我ながらダサい、と思う。仕方ない。オシャレなど関心がない。基本、外出するときは制服ばかりだ。つくづく制服とは便利なアイテムだと感じる。対照的に千里はあかけている。ファッションに疎い日比野は、千里が何をまとっているのか説明できない。それでも、オシャレであることは何となく分かる。恵まれた容姿も手伝って、芸能人然としている。優梨や陽花もかなりの美人だと思うが、まったく引けを取らない。

 日比野は老け顔だと平野にいじられることがある。残念ながら反論できないと思っている。これではまさしく『美女と野獣』だが、どうすることもできない。

 千里は来たことを後悔していないか、あまりにも失礼ではないかと心配になったが、幸か不幸か気にしている様子はない。仮に嫌がられて帰られてしまっても、平常な自分を取り戻せるので、それはそれで良かったりするわけであるが。

 とにかく、一つ教訓になった。ファッションにいつまでも無関心ではいられない。制服に頼れるのも、高校生までなのだ。


 ところで、何で千里はここに来たのか。やはりよく分からない。

 実はリュックの中に、ノートパソコンやDVDも携えていた。しかしながら出番はなかった。ただ、知力甲子園にはお互い出るわけで、それが連絡を取り合う契機にもなったのだ。試しに日比野は、過去問を参考にした自作の問題を出題する。結果、そのほとんどを千里は答えてみせた。日比野が驚いたのは言うまでもない。


 意外と時間は早く進み、いつの間にか夕方を迎えた。いろいろな話をした。千里は母親と那覇なはに住んでいるという。那覇での生活は、名古屋にいたときよりゆったりとしているが、その分、千里から大事な生き甲斐が消えてしまったともいう。

 つまり、千里は常に優梨を目標にして生きていた。それが自分を構成する屋台骨と言わんばかりに。今ではそれが失われてしまった。通っている高校は沖縄では進学校だというが、それでも愛知県のレベルよりは低いという。周りに優梨や影浦のような優秀な人間はいないらしい。もちろん知力甲子園のために結成したチームメイトも含めて。

 おかげさまで、高校の成績は不動の一位であるようだが。


 千里はセントレア発那覇着の最終便にて帰るという。良い時刻の便はなく、十九時台が最後だという。約十二時間も女子と二人で過ごしていたことが不思議でたまらない。それなのに、このに及んで、日比野はせっかくはるばる飛行機に乗ってやって来た千里を、空港の外のどこにも案内しなかった自分を大いに恥じた。


 保安検査場に来て、千里は言った。どうやらこれを伝えるために来たのだろうと、日比野は悟った。

「優勝狙って、大城さんに負けないように頑張ってるし、これからも頑張ると思う。私は大城さんと直接対決したい。そして勝ちたい。今のところ、その予定はないつもりでいるけど、もし私が大城さんと直接対決することなく敗退しそうになったら、こっそり助け船を出してほしい」

 電話で伝えれば済む話かもしれないが、わざわざ高い運賃を払って会いに来て言ったことに意味があるのだろう。この要求に日比野は「ああ」と首肯しゅこうするしかなかった。

 もちろんこれが、優梨たちの意に反する行為だと分かったとしても……。


「ありがとう」千里は美しく微笑んで礼を言った。そして付け加えた。

「私の勘なんだけど、知力甲子園は、私以外にもすごい頭のいい人が来る気がする。それが、大城さんたちに、何かしら嫌な影響を与えそうな気がするの。それが何って言われても困るんだけど……。でも私の勘って昔からよく当たるから。お互い充分注意が必要だと思うんだ」

 非常に意味深な発言である。でもそれを問うこともできなければ、優梨たちに情報共有することもできない。あくまで『勘』なのだ。それだけを頼りに注意喚起できない。


 しかし、この千里の『勘』は、見事に的中する。高校生知力甲子園の全国大会で想像以上の衝撃を受けることになろうとは、このときは思っていなかったのだ。

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