第一章 蹶起(ケッキ)  4 影浦

「ミレー、テオドール・ルソー、コローなどを代表とするフランスで発生した絵画の一派を何と言う?」

 二時間目と三時間目の間の『放課』(名古屋弁、標準語で休み時間の意)に、風岡は美術の教科書を持って、わざわざ影浦のいる二年H組に来て、不意打ち気味に問うてきた。

「か、風岡くん? ミレー、テオドール?」

 親友の唐突な問いかけに影浦は一瞬狼狽うろたえた。風岡は高校一年生のときは同じクラスメイトであったが、高校二年生になってクラスが離れてしまったので、風岡がわざわざ影浦の教室に顔を出しにきたことになる。

「さすがに、影浦でも分からんか……。ちょっと安心したぜ」風岡はにやりと微笑んだ。

「バルビゾン派じゃない? ミレーの『おちひろい』が有名だよね」

「……な!? 何で知っとんの?」風岡は目を見開いて驚きの表情を見せる。

「だって、美術の教科書に載ってなかったっけ?」

「いやー、載っとるかもしれんけど、それをちゃんと覚えとるのか」

「まぁ、僕はアルバイトか図書館に行くくらいしかやることがないからね」 

 児童養護施設の児童が義務教育から外れる高等学校に通うとき、親権者が授業料をまかなう場合は除いて、多くは国から支給される措置費で賄われる。当然、私立高校の進学は難しく、また予備校などに通うどころか、通常では携帯電話を手に入れることすら困難だ。影浦は携帯電話の料金をアルバイトによる給料で賄っている生活である。またあまり自由に遊ぶお金もないので、その私生活は極めて慎ましい。何もない休日は図書館に赴き、本を借りては施設でひたすら耽読たんどくする生活だ。

 有名名門私立女子高校、滄女そうじょの首席、医師の娘である大城優梨はいわゆるお嬢様だが、影浦は優梨とのデートでも決して彼女に払わせることなく、割り勘で済ませられるプランしか立てない。優梨は物足りないのか、自分が多く負担しても良いから少し贅沢をしたいようだが、ことにお金の問題には影浦は厳格であった。

 ゆえに、どこかに遊びに行くことよりも、どちらかと言えば図書館で一緒に勉強することが多い。たまに、優梨の家に上がらせてもらって、児童養護施設の門限ぎりぎりまで勉強や会話を楽しむこともあるが。

 影浦は児童養護施設という勉学においては恵まれない境遇ながら、『しろとり学園』の所長の支援と交代人格『夕夜』の英知、さらには加えて天才・大城優梨の助力の賜物たまものが大きいことは言うまでもなかった。


 風岡は続けて、影浦に出題する。

「じゃあ、これ分かるか? 先ほど国語の授業で先生が余談で喋っていた内容だけど、えっと、待ってな、あったあった。『人生相見あいまみえざることさんしょうの如し』という中国のことわざに登場する『参』と『商』とは、それぞれ何座の星のことか、知ってるか?」風岡は、手に持っていたノートを見ながら、これはどうだと力試しせんとばかりの表情だ。

「オリオン座とさそりじゃなかったっけ?」

「あれ? 影浦のとこ、古典の先生って俺らと違うよな!?」

「うん。授業では特に出てきてないと思うけど」

「おみゃあは天才か!」風岡は感嘆のあまり、今の若者がほとんど使わないような名古屋弁で反応した。

「いやいや……」

「これはひょっとすると、ひょっとするかもしれないな」

「まぁ、僕は別として、優梨と河原さんがいるから、可能性はあるよね」

「いや、影浦すごいと思うよ。それに五郎ちゃん、あ、銅海の日比野のことね、そいつもすんげぇ頭いいんだよ」

 確かに理系科目において圧倒的な知識量を誇る、滄女の優梨と陽花の存在は心強いの域を軽く超えている。加えて、聞くところによると銅海の日比野は、優梨と陽花の予備校で同じクラスで、成績は優梨に次ぐ二位。高校でも上位十傑に君臨するという秀才の持ち主だという。

 影浦は、『全国高校生知力甲子園』に勝ち上がってくるような他の名門校のレベルを知らないが、このメンバーなら全国大会に勝ち上がることも夢ではないかもしれない。絵空事に過ぎないと思っていたことに現実味を感じた瞬間であった。

 風岡は心配そうな表情で続けた。

「本当、俺、勉強しないと、全国ネットで恥をさらしてしまうな……」

「一緒に勉強しよう。僕も協力するから」

「マジか! サンキュー、助かるわ。バイトやデートの邪魔はしないから」

「デートならそっちだって河原さんがいるじゃないか」

「陽花と大城はデート以外の時間は大体一緒にいるんだよ。言い換えればデートしてる時間はお前も俺も同じなんだ。だから陽花と大城が一緒にいる時間は大抵俺は暇になる」

「そ、そうなんだ?」それは極論ではないか、と影浦は思ったが、口には出さないでおいた。

「何なら昼休み時間でもいい」

「分かったよ」

「じゃあ、さっそく今日から昼飯持ってここに来るから!」



「悪いな影浦」

 昼休みになるや否や、風岡は何冊か教科書類を片手に携えながら弁当を持って入ってきた。どうやら日本史と世界史が多いようである。

「今日は日本史と世界史の授業だったの?」

「いや、そうじゃない。教科書はずっと置きっぱなしなんだ」

「そ、そう……」

 影浦は基本的に、毎日すべて教科書や参考書は持って帰っている。

「全科目が俺にとって課題なんだが、まずは、俺が好きで取っかかりやすい、歴史を持ってきた。

 成績の話になると、よく風岡は自分の頭脳は至って凡庸だと謙遜、もとい卑下する。教科書や参考書の内容を見ただけでは、覚えたそばから忘れてしまう。だからテスト勉強でも大いに苦労している、とのこと。

 しかし、陽花と交際してから、うなぎ登りに成績を上げているのは紛れもない事実。まぐれのレベルを超えている。間接的にも、優梨からの情報で、『風岡の飲み込みのスピードは意外にも早い。きっと勉強をするいいきっかけが、それまで彼になかっただけだ』と、陽花が評していたそうだ。


 と言うことは、これがまさに勉強するきっかけではなかろうか。


 無謀で暴走気味な優梨の提案と言えど、結果的にそれが彼のモチベーションアップに直結しているのであれば、それは素直に喜ばしいことかもしれない。なぜなら、風岡はもともと成績が伸び悩んでいたからだ。陽花の登場で改善傾向にあるが、未だ学力面にコンプレックスを感じさせる発言もちょくちょく出てくる。

 風岡の手には未使用のノートがあった。それがある意味、今回の意気込みを表しているとも取れる。

 言わば、彼の今の状態を乾いたスポンジにたとえるならば、水をみこませるように、知識を蓄える一助になれば、と少し上から目線な考え方かもしれないが、影浦はそんなことを思った。


「やっぱ、影浦はすごいな。なんで世界史の教科書に書いてないことまで知ってるんだ? しかもいま選択科目は地理を取ってなかったか?」風岡は頭を掻きながら言った。

「地理Bを勉強していて何でこの国はこの産業が発達しているんだろうとか疑問を持つと、自ずとその国の歴史を知りたくなるんだ。だから施設のパソコンでネット検索したり図書館行ったりして半分は独学で調べものしてるよ。しかもうちの所長は要望すれば結構書籍を揃えてくれたりするし」

「感服するよ」

「あと、最近では、優梨にも教えてもらってるんだけどね」影浦ははにかみながら言った。

「なぁ影浦、本当に高卒で就職するのか?」風岡は周りに聞こえないように配慮したか小さめの声で聞いてきた。

「今のところはね。こればかりはしょうがない」

「そうなのか。何か、すごくもったいないんだよ。奨学金だってあるんだろう? 俺あんまり良く知らんけど」

「奨学金は借りたら返さないといけないし、児童養護施設は高校までしかいられないから、住むところも探さないといけない。バイトをしても結構ギリギリの生活になるよ」

 大学によっては、児童養護施設出身の学生を支援する独自の制度を設けているところもある。一度そのリストを見せてもらったことがあったが、残念ながら行きたいと思うところはなかった。児童養護施設の身分でこんなことを言うのも横柄な話かもしれないが。

「大学は行きたくないのか?」再び風岡は問うた。

「行ければ行きたい。ただ、別に高校卒業直後に行く必要もないかなと思っている。数年遅れかもしれないけど、大学に行けるくらいのお金をコツコツ貯めてから行けばいいと思っている。まぁ、自ずと国公立大学に限定されるだろうけど」

「そっか。それでもやるせないよ」

 優梨といい風岡といい、影浦が大学に進学できないことを憂いてくれている。これはもちろん優しさなんだろう。

「ごめんね」何となく申し訳ない気がして影浦は謝った。

「でも、お前が誰かから経済的に助けられることを嫌ってることは知ってる。影浦の人生だから、これ以上は口出ししないよ」

「ありがとう」


 そんな会話をしていると影浦の携帯電話が振動した。どうやら優梨からのメールのようである。

『今度の土曜の夕方空いてる?』

 土曜は夕方までアルバイトが入っている。夕方は、優梨の強い要望で空けている。と言うのも、優梨は予備校が夕方まで入っているからだ。空いているか聞かずとも知っているのに、と思っていると再び振動した。

『千種に来て欲しいの。知力甲子園の最初のミーティングやるから』

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