第一章 蹶起(ケッキ)  3 優梨

「マジ? エントリーしたの!?」陽花は目を見開いて優梨に問うた。その声の大きさに、教室のクラスメイトたちがこちらを見た。陽花は少し気まずそうな表情を見せる。

「エントリーすることを決めたよ」

「例の五人一組で?」

「そう。日比野くんは前もって話をつけといたよ。相変わらず静かにオッケーしてくれた。風岡くんは学力面でコンプレックスを持ってるみたいだから、ちょっと本人には悪いけど、あのタイプは先にこちらで決めてしまった方が、いっそ諦めて勉強してくれるんかなって思ってね。彼はすごく義理堅いし、頑張ってやってくれると思ってる」

 優梨はあくまで事も無げに答えた。

 陽花は、優梨と同じクラスメイトだ。名古屋屈指の女子高の進学校である滄洋そうようじょ高等学校に通っているのだが、ここは中・高一貫校で、奇跡的にも中学一年生から同じクラスである。陽花も優梨と同じく、いわゆる進学校に多くいがちな勉強一辺倒な生徒ではなく、今どきの女子校生らしく適度にオシャレにも興味がある。貴重な親友だ。しかも、予備校も同じクラスときているから、もはや外出している時間の半分以上は、陽花と共にしていると言っても過言ではないと思う。ゆえに、陽花は優梨の性格を熟知していた。

「──なるほどね。でも、優梨にしちゃ強引だね」

「そ、そうかな?」

「うん、珍しいなって。それに、優梨って綺麗で賢い割には、あまり目立ちたがりではないじゃん」

 優梨は若干動揺した。少し痛いところを突かれているのだ。確かに優梨は、自分でもさして自己顕示欲の強い方ではないと思っている。何か強い動機があるのではと、この親友に悟られているかもしれない。

「べ、別に目立ちたいんじゃなくて、高校の最後の思い出作りになるし、どうせだったら、気心の知れた仲で出たいじゃない。もちろん勝算はあっての話なんだし」

「勝算って?」陽花は目を大きく開いて言った。

「ま、まずは全国大会には出ないとね! 陽花、瑛くん、風岡くん、日比野くんと一緒なら、充分県予選は勝ち抜けると、私は思ってる」

「さ、さすがだわ。優梨。まあ、アタシも優梨がいれば全国大会出場どころか優勝も出来るんじゃないかと思うけどね」

「来た。またいつものお世辞! スタバはおごらないんだから」

「バレたか」陽花はエヘヘと笑いながら片目を閉じ、舌を出した。


 †


 一週間後、優梨と陽花は、名古屋さかえのスターバックスで、ノマドワーカーよろしく、マッキントッシュのノートパソコンを開いていて、過去問を解くように動画を観ていた。スターバックスは店内でFree Wi-Fiワイファイサービスがあるからだ。二時間以上もある膨大な通信量を非常に高速で読み込める上に通信制限がないので、これを利用しない手はなかった。スマートフォンのテザリング機能を利用すると、あっという間に月の通信量の上限に達してしまう。

 ただ動画自体はかなりの時間があるので、一度ですべて視聴するのは困難だ。


 優梨は、動画を観て確かな手応えを感じていた。

『Q. 可視光の最大99.965%を吸収する既知の最も黒い物質は何か答えなさい』

 悩む陽花とは対照的に、優梨は反射的にその解答が分かる。

「ゆ、優梨。分かる?」

「うん。ベンタブラックのことだね。これ、黒すぎて奥行きや立体感が分からないから、美術館のアートとして展示されたベンタブラックの落とし穴を、それと気付かずに人が落ちて怪我したってニュースがあったよね」

「へぇー、初耳だ」

「ちなみに……」優梨は、そう言いながらベンタブラックを検索して、陽花に見せた。「これだよ!」

「あ、何これ? 面白いね!」

「うん。でも、私としては黒体こくたいに関する問題なら、黒体から放射される電磁波の分光放射輝度に関する公式を問う問題か、黒体放射の全エネルギーが絶対温度の四乗に比例する法則を問う問題の方が面白いと思うけど……」

「黒体って言葉は聞いたことがあるけど、法則までは全然……」

「前者がプランクの公式、後者がシュテファン=ボルツマンの法則ね」

「さすがは優梨。どこで覚えたの?」

 陽花は感服している様子だが、優梨は何もこれらのキーワードのみを丸暗記しているわけでない。幼少の頃の疑問が、これらの蘊蓄うんちくに繋がっているのだ。

「太陽の表面温度って約6,000℃と言われてるけど、どうやって調べたかって疑問に思ったことない?」

「えっ? 確かにどうやって調べたんだろう?」陽花は目を丸くする。

「その温度を概算で割り出すための計算式としてこの法則が活用されるの。ほら、オリオン座のベテルギウスみたいな赤い恒星は温度が低く、リゲルみたいな青白い恒星は温度が高いって習ったことない? これは星から放たれるスペクトルによって表面温度を公式に当てはめて算出してるんだよ」

「やっぱすごいわぁ、優梨は」

「何事も疑問を持つことが大事だね。気になったらとことん調べて覚えるのが楽しいの!」

 これこそが優梨の知識欲の原動力だと思っている。何事も疑問にもって接する。疑問を疑問のままにせず、解決に繋げようとする。そこでまた得られた知識から新たな疑問を持つ。それが探究心なのだ。

 加えて、優梨の特技、もといてんさいなのだろうが、一回見たものは瞬時に記憶しなかなか忘れずにいることができる。この能力は映像記憶や写真記憶などと呼ばれる。それが、他者から時に人間コンピュータと呼ばれることがある所以ゆえんらしい。


 ふと優梨は、陽花の恋人の風岡のことが気になった。

「どう? 風岡くんは?」

 強引に付き合わせていることは紛れもない事実なので、多少なり罪悪感を感じているのだ。

「諦めモードだけど、取りあえず筋トレと走り込みをしているって」

「完全に体力でのサポートに徹しているね……」

「本当は、勉強もやって欲しいんだけどね……。でも彼なりに頑張ってくれてるから、あまり要求しすぎちゃいけないけどね」

 数日前に陽花から得た情報によると、風岡は、動画を観て完全に意気消沈してしまったらしい。動画サイトにアップされているものは全国大会の決勝で、ハイレベルな問題が軒並み揃えられているので確かに難しい。陽花も今の時点では片手で数えられる程しか答えられなかったそうだ。時に東京大学の学生であっても一割くらいの人しか解けないような難問が出たりするのだ。

 そんな問題を、いきなり風岡に正解させるのは無理難題かもしれない。高校の教科書に載っていない知識も必要とされるのだから。取りあえず、体力作りを頑張ってくれるだけでも有り難いか。これについては、優梨の苦手分野なのだから。

「そっちはどう?」今度は陽花が問うてきた。

「そっちって?」

「決まってんじゃない! 影浦くんのことだって!」少し呆れ気味な表情を陽花は見せる。

「そうだね。彼、相変わらず、私におごられるのが嫌みたいで、図書館とかファミレスとかで一緒に勉強してるよ」

「そっかぁ。影浦くんは本当に生真面目きまじめだね。じゃあ知力甲子園の勉強もしてるの?」

「特にそれに焦点を当ててやってるわけじゃないけど、瑛くんはめちゃめちゃ頭いいよ! 私も分野によっては知識の量で勝てないところがある」

「マジで? アタシの人生の中で、優梨ほど頭のいい人に出会ったことないし、今後出会うこともないと思ってるのに!」

「瑛くんは天才だよ。私が保証する」

「そ、それって、夕夜くんの頭脳も混じっているから?」

「分からないけど、夕夜くんは人格としては現れてこないけど、彼の持っている能力は、瑛くんにしっかりと植え付けられたみたい。私もそんなことがあるのかと、不思議でしょうがないけどね」

 『夕夜』と呼ばれる影浦の交代人格は、夏休みに起こった事件を境に表出しなくなった。この交代人格は性格こそ粗暴ながら英知に溢れ、他方の優しいがやや頼りないホスト人格である『瑛』をあらゆる面でサポートしていたという。

 どうやら、そんなホスト人格を独り立ちさせるために『夕夜』は『瑛』に試練を与え、『瑛』がそれに応えたがために、役目を終えるようにして『夕夜』は表に出なくなったという。しかし、『夕夜』の頭脳は『瑛』に引き継がれた。もともと『瑛』も聡明な男だが、それに一層磨きがかかったのだろう。

 同じ個体の脳を共有しているのだから、そういうことも当然あり得ると何となくの理屈はつけられるが、くつと言われればそうなのかもしれない。そもそも解離性同一性障害が優梨にとって不可思議な疾患であり、何が起こってもおかしくない一方で、やはりどこかでおかしいと感じるものである。論理的な説明抜きで、ただそう言ったことが起こったようだ、と一現象として受け容れるほかない。どんなに探究心を持ち続けても、今の自分では解決しきれない疑問もある。それが影浦だ。

 とにもかくにも、影浦は心強い存在であることは間違いないのだ。

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