第七刃 《緋色の刃》
ザァ――ッ! と。
まるで潮が引いていくようだった。
視界を埋め尽くしていた錆色が、
「ッ――、」
急速に色彩を取り戻していく世界に、真一は眼を細めた。
眩しすぎたのだ。
赤褐色に慣れてしまったこの瞳には、何もかもが目映く輝いて見えた。例えそれが薄く埃の漂う魔鉄器店の中であっても。
即ち、『
同時にそれが意味することは――
「う……ぐ、ァ……!」
押し殺すような苦痛の声があった。
そちらへ視線を向ける。
そこには、拓かれていく色鮮やかな世界と入れ替わるように、全身を錆色に染めた少女の姿。
胸の内から湧き出でる衝動のままに、叫ぶ。
真一が抱え続けた『歪む世界』を、今まさにその
「――レイラ!」
熱い。
何よりもまず感じたのは、身を灼かれるような熱だった。
「う……ぐ、ァ……!」
イラの口から苦悶の声が漏れ出た。
熱の後に訪れるのは、赤褐色の錆だ。自らの肉体が、少しでも動けば剥がれ落ちてしまいそうなほど脆く変わっていってしまう恐怖と戸惑い。目尻に涙が浮いてしまいそうになるのを、プライドでなんとか守り切る。
契約に際して、
即ち、これが真一の『歪む世界』。その具象。
「……ッ!」
今になってようやく想う。
この破滅的な世界を背負い続けてきた真一の、その胸中を。
辛かっただろう。
心細かっただろう。
錆びついた世界が獄卒となり、いつもいつまでも己の罪を呵責し続けてきたのは、どんなに孤独だっただろう。
(でも)
それも、もう終わりだ。
鋼の巫女は、その全てを抱擁する。
(これからは、私も肩を貸して上げるから!)
直後だった。
ゴウッ! と。
それまでは肌の上を這うばかりだった熱が、堰を切ったようにレイラの身体の中へ雪崩れ込んでくる。
彼らが連れてきたのは、今度は痛みではなかった。
「んっ……あ、ぁっ!?」
脳髄を駆け巡る甘い痺れに、思わず黄色い叫びが上がるのを自覚して、羞恥に頬を染めた。
……契約の儀式において、鉄脈は鉱脈、製鉄師はそれを掘り進む鉱夫に例えられるが、魔女にしてみればそれは己の同位体を開拓されることと同義だ。
つまり、自分が内側から開発され、押し広げられていく感覚。現実の肉体に置き換えたとき、それに最も近しい現象とは何か。
「はっ、ァ……!」
ビグンッ! と背が跳ね、固く結んだ口からそれでもなお嬌声が溢れ出る。
ユア・ブラッド・マイン――
たった三節の呪文を合い言葉に、真一のイメージが
レイラももう一〇と六年を生きてきた。当然ながら、知識として「そういうこと」の存在は知っている。
けれども、常に生きるか死ぬかの危うい環境に身を置いてきた彼女にとって、それらは飽くまで知識のままだ。誰か想い人がいたこともないし、ましてや実体験などもっての他。自らを慰めたことだって一度もない。
故にこそ全く未知の体感として、激しい快楽の嵐はレイラの身を焦がす。
「ッ……ぁぐ!」
見えない杭で腰を突き上げられるような感覚に、視界が霞む。
――それでも。
「ぅ、う゛ぅうァァッ!!」
口の端から唾液を垂れ流し、獣の唸りに近い吐息が漏らしながらも。
それでもなお、必死に自分の形だけは手放さない。それを見失ったら、きっともう後には戻れないし、先へも進めなくなる。
だから、懸命に歯を食い縛って、ただひたすらに踏みとどまる。
耐えて。耐えて。耐えて。
「――よく、頑張ったな」
やがて意識も朦朧とし始めた頃だった。
心なしか優しい声色で発された真一の声で、レイラはようやく現実へ戻ってくる。
あれだけ凄まじかった感覚の波は、もう過ぎ去っていた。
『う……?』
「成功だ」
端的に告げられたその言葉に、レイラはようやく今の自分の姿を認識した。
優に一メートルを超える、長大な金属の塊。それは刀だ。いわゆる野太刀という奴だろうか。
元となる少女の、その高貴な血にそぐわぬほど剛健で野性的な荒々しささえ感じさせる刃。柄に滑り止め程度に巻かれたボロボロの細布を除いては一切の刀装具を身につけず、錆色に染まったその
『あ……』
契約、成立。
ようやく認識が追いついて、間抜けな声が漏れた。
……無論、肉体としての口はない。だが面白いことに、レイラの意識それ自体はまだ自らを人の形として自覚しているようだ。口を動かそうとすれば「動いた」と言う感覚だけはあるのだが、実際の
そこで、大太刀が朱色の光糸へと解けた。契約直後に発動する鉄脈術は謂わば試供版。実際に使用するには再び
「ちょ、うっわ!」
なにか、積み上げた物が崩れ落ちるような音と、金屋の悲鳴が聞こえた。バリケードが猛攻撃で崩され、奥からロッテとリーテが姿を見せる。
「小賢しい真似を――む」
並び立つレイラと真一を見て、ロッテが動きを止めた。真一ほど長くなくともそれでも重ねてきた戦士としての経験、あるいはもっと本能的な何かが、今の二人が先程までとは『違う』と感じさせたのか。
そして無論、その隙を逃す真一ではない。
「――さて、初陣だ」
ふと、温かな柔らかい感触が左手の中に生まれた。真一の右手が、レイラの手と繋がれたのだ。
「
「
ゴウッ! と。
再び錆と炎がレイラの前身を包んだ。しかし今度は苦痛も、快感の波もなかった。
体が溶けていくような感覚とともに、朱に輝く生糸へ解け――収斂。
緋色の大太刀を構えながら、真一が静かに口を開く。
「
今はもう、先程までの恐怖はない。
ただ己の半身となった男に、レイラは告げた。
『――ぶちかますわよ』
「行くぞ」
警告代わりの一言は、彼なりの優しさか。
直後に。
ダンッ!! と、真一が強く床を蹴った。
咄嗟に防御姿勢に移れたのは、才のなせる技かあるいは研鑽の賜物か。
鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音とともに、ロッテの刃が真一の刀を間一髪で受け止める。
「ぐ……!」
それでもなお。
苦悶の声とともに、少女の足が一歩退いた。
想定以上に重い。弾丸のように鋭く打ち込まれた一撃は、構えてなおロッテを押し切らんばかりにジリジリと圧がかけられる。
だが――忘れてはいまいか。
(好機……ッ!)
「ッ、フ――ッ!」
短く息をを吐き出して、左手を振り抜く。そこに握られているのはもう一振りの刀。
そう、ロッテが操るのは二刀流だ。
白刃が閃く。狙うは無防備な脇腹、さらに言えばそこに納められた急所の一。即ち避けにくく、ダメージの大きい肝臓を、
「
宣言。直後に。
ザンッ! と。
刃が、空を切った。
「な、に」
覚えず、驚愕の声を漏らす。
二刀とは、十全に扱うことさえ叶えば間違いなく「最強」の剣だ。その神髄は攻防を自在且つ
例えば一刀で鍔を迫り合う間に真横からもう一刀で奇襲する。これを完璧に行えるだけで、競り合いに負けぬよう体重を掛けた相手はこれに対処することができず、ただ無慈悲に両断され、葬られる。それが一刀のみの相手ならばなおのことだろう。
――それを、この男は。
ほんの少し身をよじったように見えた。
それだけで、必殺の布陣はいとも容易く破られた。
「……貴様」
「おっかねぇな。そう睨むなよ」
火花を散らす刃の向こう側には、ヘラヘラとニヤけ面で宣う真一の顔。
沸騰しそうになる血液を無理に押さえ込んで、柄を持つ手に力を込める。
「……かなりの使い手と見受ける」
「そんなことはない」
悔し紛れの賞賛を、しかし彼は即座に否定した。
「ただの、冴えないオッサンさ」
――見える。
視界に映し出された剣閃の軌道から、ちょいと右へズレてやる。直後に、それをなぞるようにロッテの刃が宙を掻いた。
そう、今の真一には、次にどこからどのような角度でいかなる斬撃が来るかが全て手に取るように分かる。
未来視、と表現するには、その本質は些か異を呈しているだろう。
極限までに研ぎ澄まされた五感が、目で鼻で耳で下で肌で相対する少女の微細な筋肉の動きや発汗、視線の動きを全て把握。それらの情報から次の動きを一挙手一投足まで導き出した結果を、視界に投影という形で現出させた結果だ。プロセスとしては物理学におけるラプラスの魔神に近い。
つまり、それが真一とレイラの間に産み落とされた、新たな
その証左に。
『次! 来るわよ!』
頭蓋に秘められた脳のさらに最奥に、喧しく高い声が響く。言うまでもなくレイラの声だ。同時に、視界に剣の軌道が
厳密に言えば、恐らく鉄脈術の本体はレイラの刀剣化のみなのだろう。
だが、それとは別にもう一つ。鉄脈術というモノはその全てが共通してある副次効果を備えている。
そして、この魔鉄の加護は、魔女側により強化することが可能だ。
この感覚の超強化は、どちらかというとリーテが行っていた不可思議な物体作成に近い。つまり、魔女側のアシストだ。その感覚で得た情報と、かつて積み上げた膨大な戦闘経験が混ざり合い、真一の脳がその視界に数瞬先の幻を描いていく。
「……っと」
その幻影に従い身を動かせば、振り抜かれた刃は真一に掠りもしない。
「剣筋が荒れてきたな」
「ッ、うるさいッ!」
挑発気味にそう言ってやると、ロッテが眉を釣り上げて斬りかかってくる。
しかし冷静さの欠けたその軌道は今まで以上に読みやすい。踊るように足を運び、剣をいなす。さらに強く踏み込み、一撃。
甲高く響き渡る剣戟の音とともに、ロッテの身体が大きく後退し、とうとう店の外、路地の向こうの通りへと出た。事態を察し逃げ始めていたのだろうか。商店街の住人たちと思しき、複数の悲鳴がやや遠くの方から聞こえる。
無論、そこで手を緩めなどはしない。
下段に構えた錆色の刃とともに、まさしく肉弾とも言うべき速度で斬りかかる。
右足で力強く地を踏みしめ、逆袈裟に切り上げようとした瞬間だった。
『待って! それは――』
レイラが鋭く叫んだ時にはもう遅かった。
下段からの一刀が、ガッ! と強く何かに食い込む。
『罠!』
つい先程までロッテがいた場所には、半透明の立方体が形成されていた。
見覚えのあるそれは、まるで意志を持ってしがみついて、刀を離そうとしない。
「チ……ッ!」
舌打ちをこぼす。リーテ側の妨害だ。
頭上を振り仰げば、二刀を構えたロッテの、さながら隼の如く飛びかかってくる姿が見えた。今し方作り出された足場で打ち上げられるように跳び上がったのだ。
……咄嗟の判断で刀に執着しなかったのは、真一の積み重ねてきた経験のなせる技か。
即座に柄から手を離す。レイラの声は途絶えたが、アシスト自体は多少距離を取ろうとも鉄脈術が動いてる間なら受けることができるようだ。視界に変わらず映し出される未来の剣閃を頼りに上空からの二撃をかわし、続く下からの切り上げも左右の刀の、そのわずかな間隙へ身体を潜り込ませる。
「ぬ――」
真一の接近の狙いに気づいたらしいロッテが、慌てて両手の刀で上下から挟み込んでくるが、間に合わない。
組紐を巻いた柄をしかと握る少女の手に、指を絡めて手首の自由を奪う。振りほどこうとロッテが手を動かそうとするが、一度この体勢に持ち込んでしまえばそれは至難の業だった。本家新陰流のそれとはほど遠いものの、我流で編み出した真一版の無刀取りだ。
そして、ロッテは気づいていただろうか。
両手を掴まれたこの状況では、頭や腹といった急所が無防備になっていることに。
というわけで。
「せー……」
「え、ちょ――」
大きく頭を振りかぶる真一に、ロッテが顔を青ざめさせる。
「のォッ!!」
「痛ァッ!!」
ゴイーン! と、鐘の音が辺りに響き渡りそうな勢いで、二人の額がぶつかった。いわゆる頭突きである。生来の石頭で割と平気そうな顔をしている真一と対照的に、ロッテは割とマジっぽい悲鳴を上げた。
鉄骨が上に降ってきても全然平気だった彼女がここまで叫ぶと言うことは、刀を手放したこの状態でもきちんと鉄脈術に対抗できるらしい。
そうと分かれば真一に一切の情けや容赦はない。涙目になってるロッテの額にもう一発頭突きをくれてやった後、頭を押さえてよろめく彼女の腹部におまけとばかりに蹴りを叩き込んで吹き飛ばす。
『うわぁ……』
稼いだ時間でレイラの変じた刀を引き抜くと、ちょっと引いている感じの声が聞こえてきた。
『流石に鬼畜過ぎない……?』
「は? 命の取り合いだぞ、酷いもクソもないだろ」
ここら辺が、実際に血みどろの戦場で命を削り続けてきた者と、どれだけリスキーな立場でも自分では戦った経験のない者の感覚の違いだろうか。狡いや卑怯は敗者の戯言と国民的警察官のおじさんも言っていた。どれだけ汚かろうと泥臭かろうと勝者こそが官軍なのだ。
視線をロッテの方へと戻す。
幸いに、地面に身体を打ち付ける直前にリーテの方がクッションのようなフィールドを作って衝撃を緩和したらしい。立ち上がる姿には、余り決定打となるようなダメージは与えられた様子はない。
「チッ……」
「……ま、そうこねぇとな」
舌打ちをしながら刃をこちらへ向けてくるロッテに、応えるように刀を正眼に構える。
ここまでは真一が優勢のようだが、実の所、互いの力量は拮抗している、というのが真一の見立てだった。
経験と感覚による未来視があると言えど、やはり何より基礎体力――「若さ」が違う。その上、こちらが最低限殺しはしないよう手加減してはいるのに対して、相手が繰り出す刀は文字通りの殺人剣。一撃一撃が必殺の軌道である。本物の戦場にいた真一はともかく、ロッテに関して言えばよくもまあその歳でここまで愚直に「相手を斬る」動きに徹することができるモノだと空恐ろしくなるほどだ。
そして、その緊張は確実に精神を削っていく。
(あんま長くは
体力を奪うのは何も激しい動きではない。張り詰めたストレスもまた疲労の要因としては十分だ。
あと数合で決める。
その考えを表情から読み取ったのか。ロッテの顔が、一層に険しさを増した。
決着の一撃は、近い。
ジリ……と、どちらからともなく躙り寄り――
「……?」
「あ?」
揃って眉根を寄せた。
聞こえる。どこか遠くから、機関銃の掃射のような音。それが、段々とこちらに近づいているのだ。
……否、違う。
これは。この音は。
「ッ!」
上を見上げる。
そこには、いつの間にか真っ黒に塗られた軍用ヘリが滞空していた。
電線に触れるのではないかと思うほど低空まで降りてきたそれの、横脇腹に備え付けられたドアがスライドし、中からヘリと同じく全身黒尽くめの少女が現われる。
つまり。
「暗音!?」
『――あー、あー。テステス』
これまたご丁寧に黒の拡声器を口元に、少女――黒崎暗音が声を上げた。
『さんざん暴れ散らかした馬鹿どもに告ぐ。お遊戯会は仕舞いだ。騒ぎたかったら月末まで待って渋谷でやってこい』
「暗音……? あの服装、まさか――」
「何者だー! 名乗れぇい!」
何かに気づいたらしいリーテが頬に汗を滲ませるのに対して、ロッテが刀を振り上げながら大音声で問う。
暗音はそれに一瞥をくれて、口を開いた。
『ライオニアからの特務員と見受ける。私の名前は黒崎暗音。聖銑学園の理事長だ』
「ぬ――」
流石に名前は知っていたのか、返答を聞いたロッテの顔が強ばる。奥では、リーテが「やっぱり……」と頭を抱えていた。
「聖銑学園、と言うことは援軍か? それが何故我々の戦いを止める」
まだ自体が飲み込めてないらしいロッテが首を傾げるのを見て、さしもの暗音もやや呆れたように額に手をやるのが見えた。
その様子に、さらに怪訝そうに眉を寄せるロッテへ、暗音が拡声器を向ける。
『いや……その男は貴様らのターゲットではないぞ』
「…………は?」
理解が追いつかない、とでも言うような顔。
「だから最初から言ってただろ。俺達はアンタらが誰なのか知らないし、脱獄とかいうのがなんなのかもわからん」
「ええと、つまり……?」
『人違いだ阿呆め』
目を瞬く彼女に、拡声器越しの容赦ない罵倒が飛ぶ。
「……ロッテ、これ」
とどめはリーテが持ってきた携帯の液晶画面。
そこにはライオニアから謝罪文とともに本来のターゲットのものらしい男の顔が映っていた。なるほど部分的な要素要素それ自体は真一に似ているようではあるが、間違いなく赤の他人で――
ガクリ、と音でも聞こえてきそうな勢いで、ロッテが地に膝をつく。
つい数瞬前まで繰り広げられていた斬り合いの余熱を冷ますように、秋の風が一陣、通りを駆け抜けて行った。
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