第二刃 《〇世代》

 日本皇国千葉県東京湾沿岸部の埋め立て地。

 その中で人工浮島技術との併用で作られた専用の区画・聖銑区に、聖銑学園は存在する。

 校地面積実に約八万平方メートル。教育課程上は一応高校に相当するのだが、第一教育棟と第二教育棟の他に、文化棟、体育棟、そして広大な校庭を擁するその姿はもはや並の大学と比しても遜色ない威容を誇る。

 さらにこの埋め立て地内には聖銑学園に通う生徒のために用意された寮やその生活を支える商店街が存在し、さながら一つの学生街を形成していた。

 その聖銑学園の中核たる第一教育棟の、さらに最上階をまるまる一フロア利用して作られた理事長の生活空間に、カラカラという少女の笑い声が響き渡っていた。

 声の主は高級そうな革張りの椅子に踏ん反り返った一四歳くらいの少女だった。

 外見自体の印象はさながら気高き鴉とでも例えようか。死人のように青白い肌を、喪服を思わせる真っ黒な礼服――カクテルドレスというのだろうか――で包んだという出で立ち。腰まで伸びた髪は見事に艶やかな黒だが、これは服に合わせて染めているだけで地毛は瞳と同じ白銀だ。

 左腕には近未来を思わせる流線型のデザインの登録証OICC。色は服に埋もれず、さりとて浮くわけでもないマットグレイ。この国では登録証の色は銀か金が相場だが、その二択をねじ伏せての配色だった。


「ぶっはっはっは! いやはや、まさか彼女がそこまでの悪童だとは思わなかったよ。完全に想定外だった」


 目尻に涙を浮かべながら笑い転げる彼女こそ、『未通後家ヴァージンウィドウ』。その本名を黒崎くろさき暗音くろね。この聖銑学園の理事長だ。

 ここはこの最上階の中でも唯一且つ辛うじてオフィシャルな顔を持つ部屋。つまりは、執務室だった。最も、背面の壁が巨大なガラス張りになっており、聖銑学園の位置するこの埋め立て地一帯を一望できるようになっている時点で大分暗音の趣味が反映されていそうなものだが。

 その大窓はといえば、今は深夜の聖銑区とその周囲に広がる東京湾を写し出していた。これはこれで、頭のてっぺんから爪先まで黒を纏った暗音には実によく似合う。

 そんな彼女の御前には、相も変わらず皺だらけのシャツにヨレヨレネクタイのおっさんが突っ立っていた。いうまでもなく真一である。無精髭にほったらかしであちこち跳ねた髪を無理繰り後ろで一つに括ったその姿は、高級ホテルのスイートのように瀟洒なこの部屋には余りにも似合わない。


「アンタ、どういうつもりだよ……」


 まだ痛む腰をさすりながら、抗議の視線を向ける。

 どういうつもり、というのはつい先刻の出来事だ。

 会議上がりに暗音から編入生の確保を依頼されて教室を探したところ、天井裏に潜んでいたその編入生が上から降ってきて、馬乗りになられた挙げ句銃を突きつけられながら自分を真一のモノにしろ、と迫られたのである。

 なんとかその悪童をなだめすかして滞在先だという寮に帰したのが一時間前のことだった。

 ……改めて見直すと中々頓狂な体験をしたモノだ。

 ちなみに、魔鉄歴三〇年において、拳銃に限らず鉄砲の類いは決して入手が難しいものではない。むしろ瀕死の銃産業界が在庫処分と言わんばかりに過去の製品を廉価で販売しているので、手に入れようと思えば結構簡単に購入できたりもする。

 それでもなお純粋な武器としての銃が珍しいのは、日本皇国の規制が強いから――ではない。

 が、治安維持の場で既に普及しているからだ。

 暗音はまだ笑いが収まらないとでも言うように腹を抱えながらひらひらと手を振った。


「どうもこうもないさ。言っただろう? 彼女が、我が校への編入をごり押ししてきた件の問題児さ」

「そういうことを訊いてるんじゃねぇよ」


 吐き捨てつつ、彼女のデスクに手元の資料を放り投げる。

 身長や体重、年齢に経歴などが書かれたプリントだった。いずれも達筆な筆記体のアルファベット。さらに左上の隅にはクリップで一人の少女の顔写真が留めてある。

 目映いばかりの銀髪を側頭部で二つに纏めた、紅い瞳の少女。凜々しくもどこかあどけなさを残した顔立ちの彼女は、仏頂面でこちらをじっと睨んでいる。言うまでもなく、例の悪童娘だ。

 名前の欄には、こう記されている。

 レイラ・グロリアーナ・ベラルス。

 これに合致する命名法則はただ一つ。

 かつて地上に存在したある巨大国家の、貴族階級のそれだ。


「どうしてラバルナ帝国の統一貴族グロリアスなんかが……」


 ラバルナ帝国。

 それはかつて絵空事だと思われていた『世界統一』を為した“超国家ドミニオン”。

 超国家とは、ラバルナ帝国の祖にして唯一無二の皇帝ラバルナが提唱した「強力な権力を持つ中央政府が各地方の自治体を統括する」という統治システムを国単位で拡大化したモノだ。それ以前の歴史上の国々に例えるなら、ソヴィエト連邦や古代中国の郡国制に似ているかも知れない。

 ラバルナ帝国時代、各地域には大きな範囲での自治が認められていた。その中において統一貴族と呼ばれる特権階級は、帝国と辺境の国々を繋ぐ橋渡し、あるいは楔のような存在だ。

 彼らは多くの場合、皇帝直属の部下かその地方の有力者から選任され、帝国本国と支配地域の意思疎通に携わっていた。この日本とて例外ではなく、つい一代前まではこの日本の地に君臨していた統一貴族の家も残っていたという。

 だが。


「元、だよ」


 暗音は小さく首を横に振った。

 ラバルナ帝国は、既に崩壊して久しい。

 実に五〇年の支配を瓦礫に還したのは、首都ハットゥシャでの原因不明の火災というあまりにも不可解で、あっけないものだった。

 とはいえ、達した偉業は他に類を見ないもの。裏を返せば、その崩壊が世界に与えた影響は大きかった。鉄歴二一〇〇年に勃発したこの事件を引き金として、諸々の経済混乱・紛争・支配体制の大変化が世界中で巻き起こった。

 その最たる例が、かの帝国が採った統治方法を模倣して樹立されたアクエンアテン神王国やヴァンゼクス超国家連合などの超国家だ。

 皇帝ラバルナの生み出した秩序は、現在では統治機構のメインストリームを担っている。むしろ、どこの超国家にも属していない日本皇国の方が珍しいかも知れない。


「そんなにおかしなことか?」


 濡羽色に染め上げた髪を指で弄りながら、暗音が問う。


「我々日本皇国は元来ラバルナ帝国と友好的な関係を築いていた国の一つだ。そこに貴族が亡命してくるなど、ありえない話ではないだろう」

「そんな厄ネタを押しつけてくるんじゃねぇよ」


 だが、同時に統一貴族の末裔とは非常に不安定な立場だ。

 言ってしまえば亡国の没落貴族である。それだけではない。ラバルナ帝国の後釜を狙うヴァンゼクスにとっては自分たちの正当性のために確保しておきたい存在だろうし、ラバルナの名を不要とするアクエンアテンからみればなんとしてでも排除したい存在のはずだ。

 その上、真一が気に入らないことはもう一点。


「……ラバルナ帝国の貴族ってだけじゃない」


 不機嫌そうに唸ってみせる。

 資料の最下段には、こんな欄があった。

 曰く。

【特記事項:魔女アールヴァ体質者】


「俺に魔女を宛がおうってのはどういうことだ」


 ラバルナ帝国が崩壊することによって起きた変化は、なにも超国家の出現だけではなかった。

 帝国の征服活動を支え、その発展に大きく寄与したのはある一つの技術が関係する。


 即ち――鉄脈術リアクター

 正式名称を、ブラッドマイン・マイニングリアクター。

 三層世界論セオリー・オブ・トリニティワールドの話はしたと思う。

 その中において、霊質界アストラルに“在る”自分の肉体――アストラル・ボディに特殊な疑似血管『鉄脈ブラッド・マイン』を持つのが魔女だ。読んで字の如く、基本的に女性にしか現れない特異体質である。

 彼女らは、ベン図で言えば霊質界と物質界の重なり合った部分集合、そこに足を踏み入れた者といえた。OI体質者に非ずして霊質界に干渉し得る、謂わば霊質界接続者とでも言うべき存在。それ故にか、その外見年齢は一〇から一五の内にその成長を停止する。物質界の理から外れた人たちであることを最も端的に示す特性だ。

 これについては目の前にいる黒崎暗音が好例だろう。見た目こそ可憐な少女だが、その実年齢は最低でも八〇は超えていると囁かれる。事実、真一も彼女とは数十年来の付き合いだ。

 その魔女と、OI体質者の中でも特に製鉄師ブラッドスミスと呼ばれる者とが契約を交わし、彼女の『鉄脈』に己の『歪む世界オーバーワールド』を格納させることで霊質界自体を一時的に改変し、それに同期する物質界、即ちこの現実世界にも超常現象を引き起こす――というのが、大雑把に言った鉄脈術の理屈である。


 そしてこれこそが、鉄歴の遙か昔から産出される物質界の悪魔――魔鉄ブラッド・スティールの最も強大で特徴的な活用方法でもあった。ラバルナ帝国が独占していたこの技術は、帝国の崩壊とともに全世界へ広がっていくことになる。

 即ち魔鉄器時代エイジ・オブ・ブラッドの到来。これをブラッド・カタストロフと呼ぶ。

 そして、その影響は日本皇国も例外ではない。


「おかしなことではない。我が聖銑学園は、そのための学園だ」


 睨む真一に、暗音は涼しく微笑んだ。

 鉄脈術の存在は、戦争を変えた。

 何しろたった二人のタッグが、時として一個師団に匹敵する破壊をもたらすことすらありえるのだ。コストに対してのパフォーマンスが違う。

 戦争という言葉の定義すらも塗り替えられるのは必然。この魔鉄歴三〇年の時代において、それは少数の製鉄師同士がぶつかり合うことを指す。

 そして、それは同時に、国防の要となる製鉄師の育成に各国・各超国家が没頭していくことを意味していた。

 何故、聖銑学園がこの規模を維持できるのか。

 それは、日本皇国各地に設置された九つの製鉄師育成校の内の一つであるからに他ならない。

 だが。

 苦虫を噛み潰したような顔で、真一が首を振る。


「もう俺たちの時代は終わったんだ」

「そうかな」


 ダガンッ! と。

 乱暴な音とともに、デスクの上に痛んだ古いトランクが放り投げられる。


「受け取れよ」


 放り投げた張本人である暗音が、いっそ酷薄な笑みを浮かべながら告げる。

 恐る恐る開けると、そこには――。


「ッ」


 息が、詰まった。

 錆びて汚れた視界でも、一際鉄のように鈍く重い輝きを放つその正体は魔鉄だ。正確には、魔鉄でできた籠手。機械義手のような形状こそしているものの、飽くまで前腕部を軽く覆うような簡素な作りである。軽量化のためか一部は装甲が省かれているところもあった。その上、右腕用しかない。

 だが、幾多の戦場を越えてきたのだろう。最大限の修復をされた形跡こそあるものの、籠手の表面は砂埃や擦り傷でボロボロだ。

 そんな無数の傷に紛れて、隅のほうに小さく文字が書かれていた。

 それは名前だ。この籠手をかつて戦場で使っていたの微かな残滓。

 まだ真一が少年で、その隣に一人の少女がいた最後の時。

 もう引き返すことができない、運命の別れ道。

 ……製鉄師育成校が設立され始めたのは魔鉄歴一〇年。その頃にはすでに戦争が一応の終息を遂げていた。

 では。

 ラバルナ帝国崩壊に伴う大混乱の時に、誰が国外の製鉄師からこの国を護ったのか。

 ――その古兵達を、鉄脈術の世界では〇世代ワイルドエイジ、と呼ぶ。

 逆光の中で、怪物はニタリと微笑んだ。


「喜べ。時代は、お前を欲した」


 刻まれた名前は高辻真一と七泉楓花。

 かつて、製鉄師として戦場に屍山血河を築き上げた頃の、忌まわしき楔。





 魔鉄歴三〇年一〇月一日。

 土曜日だったが、聖銑学園では半ドンで授業がある。国策校としての他に進学校としての側面を持つが故の痛ましい犠牲だ。

 その朝礼で、真一は引き攣った薄ら笑いを浮かべていた。

 カツ、カツ、と黒板にチョークがあたる音が響く。

 真一によるもの、ではない。

 白く細い、しかし幼い指がチョークをそっと置く。

 ふぁさりと銀色のツインテールが振り返る動きに合わせて跳ねた。


「――レイラ・グロリアーナ・ベラルスよ。よろしく」


 学園指定の制服に袖を通した、レイラである。深緑のセーラー服の、左腕にはもちろんあの高級感あふれる登録証が輝いている。

 ……登録証の色が金と銀の二択になるのには理由がある。一般に、金は契約済み、銀は未契約という一種の「サイン」として機能しているのだ。

 ならば、この目映い白金プラチナ色はなんと捉えれば良いのか。答えは、昨晩言われたばかりだった。


「はぁ……」


 思わず溜息とともに額を押さえた。

 結局、この爆弾少女を自分のクラスに抱えることになってしまったのだ。暗音りじちようという絶対権力者には逆らえない。

 彼女の名乗りに、教室がにわかにざわめき出す。

 見た目は問題ではない。なぜならここは製鉄師の育成校である。ならば必然、そこには魔女の育成も必要。クラスの女子生徒は彼女のように齢一〇歳程度で外見の時間が止まってしまった少女達も少なくはない。

 と、なればやはりどよめきの原因は彼女の名にある。

 栄光ある女グロリアーナ

 ラバルナ帝国の統一貴族のみに名乗ることが赦される称号。それが、彼女の出自をこれでもかと克明に、少年少女達に知らしめる。

 こうなることは予想できていた。


「あー、ちょっと時季外れだが、本人たっての希望で今日から編入することになった。皆、仲良くしてやってくれ」


 とりあえずそう生徒達に言ってみるが、反応は芳しくない。お互い顔を見合わせて何事かこそこそ喋っている者もあれば、あからさまに視線を逸らす者や、逆に奇異の目をレイラに向ける者もいる。ラバルナ帝国の貴族家系、という言葉はそれほどに重いのだ。

 レイラもレイラで、ツンとした顔を崩さないまま一礼の後にさっさと新しく用意された最後列の窓側の席に向かってしまう。無愛想で素っ気ないにもほどがある。どう考えたって不和の引き金にしかならない。


「はぁ……」


 これからの学級が思いやられ、真一は再び重い溜息を吐いた。




 授業は午前中しかない。

 必然、帰りのホームルームもすぐに訪れた。時間としては少し早めの昼食にはちょうど良いくらいだ。生徒達も早く部活に行くなり遊びに行くなり、はたまた寮の部屋に帰るなりしたいのだろう。心なしそわそわしている。

 無論、それは教師である真一も同じなわけで。

 号令も終わった以上、さっさと職員室に戻って、近所のコンビニで自棄になりながら買った牛カルビ弁当税込み五五〇円をレンジでチンして掻っ込みたいわけで。

 だから。


「シンイチ」

「……」

「シーンーイーチー?」

「…………」

「――無視してんじゃないわよッ!」

「うぐぉッ!?」


 無言でそそくさと教室を出ようとしたら、ネクタイを凄い勢いで引っ張られた。

 仕方なく、さっきから目の前をちょこまかちょこまか歩いていた少女に視線を向ける。言うまでもなくレイラだ。


「……なんだよ」

「なんだよ、じゃない。契約のことについては考えてくれた?」


 言われて、思わずゲッとする。

 製鉄師が鉄脈術を扱うにあたっては、魔女と契約を結ぶ必要がある。言うなれば、二人で一つの異能機構。製鉄師だけでは何もできない。せいぜいただ変な風景を見るだけの、ただの人間。そして、それは魔女も同じことだ。

 故に魔女と製鉄師は求め合うように契りを交わす。そうして、世界に二人で鉄脈術という花を生み出すのだ。

 だが。


「嫌だ」


 真一は短く、しかしはっきりと拒否の言葉を吐いた。


「なんでよ」

「俺とお前は生徒と教師だぞ」

「それがどうかしたの?」

「お前なぁ……」


 なんでも無いことのように問うてくるレイラに、溜息とともに足を止める。

 本気で言ってるのか、と思って彼女の顔を見るが、不思議そうに小首を傾げているばかりだ。どうやら、今の発言の意味するところをよく分かってないらしい。

 他の超国家や国ではどうかは知らないが、この日本皇国では男女の製鉄師コンビは多くの場合、同時に恋仲を意味している。これは魔女体質が小学五年生の時に判定され、そのまま思春期の間を契約を結んだ製鉄師と過ごすという教育方法を採っていることが大きな原因だ。

 ……後は聖玉学園に通っているという、現国家元首・天孫あめみま青仁せいじの妹が己の契約者を伴侶に選んでいるあたりも一つの要因かもしれない。なんだかんだ、ロイヤルファミリーが流行に与える影響はとても強いのがこの国の伝統なのだろう。

 まあここら辺の事情を丁寧に説明してやるとまた話がこじれそうなので、適当にあしらうことに。


「クラスにもまだ未契約の製鉄師候補生がいくらかいただろ。そいつらから選べよ。あとそのリボン、学校指定のを勝手に変えたな? ブローチなんぞつけて」

「それは私が嫌。私の横に並び立つ製鉄師よ? 相応の人間じゃなければお話にならないわ。それとこのブローチは私の家の宝物! 肌身離さずつけているようにって小さい頃からお父様に言われてるの!」


 首輪のつもりなのか、しっかりと真一のネクタイを掴んだままレイラが言った。なるほど、さすがに貴族の家系だけあって大変プライドがお高いらしい。ますます関わり合いになりたくない。話題逸らしも上手く効かなかった。


「それにあなた、あのとき『はい』って言ったじゃない。はい、って日本語でYESダーの意味よね?」

「拳銃突きつけられてたら誰だって頷くしかないしだいたいアレは承認の『はい』じゃなくて意味不明の『はい?』だ」

「イントネーションの違いだって言うの? そんなの詭弁よ!」

「いだっ、そっちの方にだってアクセントの位置で語義が変わる単語あるだだだだだっ!」


 ムキー! と握った両拳を上下にシェイクし始めるレイラ。握られたネクタイも一緒になって引っ張られるので、首が絞まって辛いったらありゃしない。

 痣になりそうなほど深く刻まれた痕を押さえながら、真一は涙目で問うた。


「どうして俺なんだよ」

「アンタが一番腕が立つって、クロネが言ってたから」

「あー……」


 出てきた名前に苦い顔をしてみせる。あの女狐、やっぱり一枚噛んでいたらしい。


「とにかく」


 力が緩んだ隙を突いて、小さな手からぱっとネクタイを取り上げる。「あっ、この!」などとレイラの抗議ともとれる声が聞こえてきたが、気にせずネクタイの端を肩くらいの高さまで持ち上げた。これで届くまい。


「こら! 返しなさい!」


 なんとか奪い取ろうとぴょんぴょん飛び跳ねてる姿が玩具にじゃれてる猫のようで愛らしいが、それとこれとは話が別だ。というか、返すも何もこのネクタイは真一のものなのだが。


「俺は、もう製鉄師にはならないって決めたんだよ。以上、じゃあな。授業はちゃんと出ろよ」

「ちょっと、待ちなさいよ! もう!」


 半ば強引に会話を切り上げて気持ち早足に職員室を目指す。予想通り、身体が小さいレイラはこちらの歩幅についてくるのは難しいらしい。タイミング良く同じ階に止まっていたエレベーターにサクッと乗り込み、一息吐く。


『こらー! 真面目に話しなさーい!! なんでこの私と――』


 あちらはタッチの差で間に合わなかったらしい。分厚い鉄扉の向こうから聞こえていた怒声は、すぐに重く低い駆動音に掻き消された。

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