第2話 星空と琥珀の杯

 塔が失われるまでの三日間、リューリはそれまでと変わることなく神に祈って日々を過ごした。特別にやりたいことも思いつかず、粛々と最後の時間は過ぎていく。与えられた猶予は短いようでいて、少し長いような気もしていた。

 本当のところは違う考えを持っていたのかもしれないが、テアも他の女官もリューリに合わせて普段通りに振る舞ってくれた。塔にいる人の数は確実に減っていたようだが、他は特に終末を実感しないままリューリは日にちの数だけを数えた。

 そしてあっさりと、塔が焼き払われるその日はやって来た。

 月はなく森は一面の闇となり、窓辺から見える星々の瞬きが綺麗に澄んだ夜だった。


「リューリ様。準備が整いました」

 テアが丸テーブルの上に、小振りな琥珀の杯が載った盆を置く。

「ん、ありがとう」

 居住室の窓から空を見上げていたリューリは、振り返ってうなずいた。すべての燭台に光が灯された部屋はあたたかな光に満たされて、ずっと夜空を見つめていたリューリは一瞬まぶしさを感じた。

「私はこれを飲めばいいんだね」

 リューリはテーブルの前のソファに腰掛けて、杯を手にとった。

 中に入っているのは強力な眠り薬である。薬を飲んで深く眠っている間に煙を吸い込んでしまえば、痛みもなく炎の中で死ねるという算段だ。どうせなら最初から致死性のある毒薬を飲めばいいのではないかとも思うが、神に与えられた命を直接絶つことは好ましくないため駄目らしい。

(どっちにしろ死ぬんだから、そう気にすることもないと思うんだけどな)

 意図のわからない決まりに、リューリは首を傾げた。しかしそれが神の教えである限り、聖女は必ず従わなくてはならない。


 リューリがしげしげと杯の中をのぞいていると、テアがそっと隣に控えて頷いた。

「私の準備も、できています」

 そう言ってテアは、もう一つの杯をテーブルに置いた。リューリが手にしている杯の中身と同じ濃い焦げ茶色の液体が、テアの杯にも満たされている。

 死ぬまでの詳しい手順は教えられていないので、リューリは薬をどう飲むべきか少し迷った。

「えっとじゃあ、一、二の、三、で一緒に飲んでもいい?」

「はい、かしこまりました」

 リューリの提案はあまり神聖な雰囲気にはならないものだったが、テアは小さく微笑んで承諾した。そのかすかな笑顔に、リューリも緊張が和らいだ気がした。


「あの、テア。今までありがとうね」

 死ぬ前に言うべきことを考えて、リューリは杯を片手にテアに感謝を伝えた。

「私こそ、リューリ様に仕えることが出来て幸せでした」

 テアもリューリの前で、深々と頭を下げる。

 たったそれだけのやりとりであったが、リューリは他にもうやり残したことはない気持ちになった。きっとこれが良い最後なのだと、聖女として育てられた心が理解する。

「じゃあ行くよ。一、二の、三!」

 ためらう気持ちが生まれる前に、リューリは掛け声をかけて杯の中身を飲んだ。

 テアもリューリと同じように、琥珀の杯を口に運ぶ。


 用意された眠り薬は、砂糖が溶かされているのか非常に甘ったるい味だった。あまりにも強烈な甘みに、逆にのどが痛む。量が少ないためにすぐに飲み干せたが、その分味ははっきりと濃くてむせそうになった。

 何とか薬を飲みこんだリューリは杯をテーブルに置いて、眠気に備えようとした。しかし杯から手を離す途中ですでに身体の力が抜けて、前に倒れ込む。リューリは自分がそのまま床に転ぶのだとその時思った。


 だがソファからずり落ちる前に、テアがすぐに屈んでリューリの体を抱き止めた。

「テア……」

 リューリは次第に重くなってきた意識の中で、テアの名前を呼んだ。

 思い返してみると、塔の中だけで一生を終えるリューリにとって、一番近くで仕えてきてくれたテアは、世界の半分にも等しい存在だった。

「はい、リューリ様」

 その呼びかけに応えるように、テアもリューリの名前をささやき、長い両腕でしっかりとリューリを抱きしめた。

 テアの吐息が髪をくすぐり、胸が頬に押し付けられる。

 思っていたよりもずっと深く、テアはリューリを愛おしんでくれていた。押し寄せてきた感情の波に、心がいっぱいになっていく。リューリはずっと側で仕えていたテアの、もしかすると本人も気づいていないかもしれない想いを、死ぬ直前になってやっと知った。

(抱きしめてもらうって、こういうことなんだ……)

 これまであまり経験することがなかった人の温もりに包まれ、リューリはどうしようもなく胸が締め付けられるようなほろ苦い切なさを感じた。今がきっと満たされているからこそ、同時に失われるのが怖くなった。


 反射的に体を強張らせると、それに気付いたテアが少し腕を離してリューリの顔をのぞいた。テアの褐色の瞳は戸惑いがちにリューリに向けられていた。

「すみません。嫌でしたか?」

「ううん、嫌じゃないよ。でも……」

 リューリはうつむき、喪失への恐れを打ち消すようにテアに身体を預けた。そして胸に迫る漠然とした不安を、何とか言葉にして話す。

「もしも死ぬ前に火の熱さに目が覚めてしまったらとか考えると、一人で苦しいのは辛いなって……」

 震えるか細い声で、リューリは湧き上がった感情を吐露した。今までずっと聖女として信仰に命を捧げることを恐れない努力をしてきたが、やはり死ぬのは怖かった。ただ聖女に選ばれているからという理由だけで信仰に生きているリューリは、自ら神に仕える人生を選んだテアのようには強くなれない。

 リューリはテアの胸に頬を寄せたまま目を閉じて、そのままとりとめもなく何かを言ってしまいそうになるのを堪えた。


 しばらくの沈黙の後、テアはゆっくりとリューリの頭を手で撫でて、本を読み終えた後のような穏やかさで話しかけた。

「古の聖女も異教徒の炎によって亡くなりましたが、立派に神のみもとに召されました。リューリ様もきっと最後は安らかに命を終えて、天国へ迎えられます。リューリ様のこれまでのがんばりは、私よりも神様がよく知っておられるはずですから」

 優しくテアにふれられて、リューリの胸の奥はさらにあたたかい何かで満たされた。大きな手のひらと、落ち着いた声がリューリの心をなだめていく。言葉の内容よりも、テアがリューリに語りかけているということがただ心地良かった。

(やっぱりテアはちゃんと神様のこと信じているから、すごいのかな……)

 テアの信仰と知性に裏付けされた強さと、聖女であるリューリに向けられた想いが、弱く未熟なリューリを勇気づける。

 死や喪失についての想像と結びついた後ろ向きな感情が、完全に消えて無くなるわけではない。だがリューリはこれで自分は天国に迎えられるはずなのだと、強く心いっぱいに思った。

 頭の中に、塔で過ごした七年間の記憶が次々と浮かぶ。ただ神に祈るだけの毎日の中で、リューリは空の色の移り変わりなどのささいな変化を楽しんだ。その記憶のすべてに、テアの真摯なまなざしが寄り添っている。過去も今も彼女が隣にいてくれることが、リューリにとって一番の幸せだった。比べる対象が他にいないためわからないところもあるが、きっとテアだけが自分の特別なのだとリューリは思う。


 リューリはテアにも幸福が与えられることを願い、自分がしてもらったのと同じようにテアの耳にささやいた。

「ありがとう。ただ国王の妹だからってだけで聖女になった私が天国に入れてもらえるんだから、神に仕えることを自分で選択したあなたならもっと絶対に行けるよね」

 王女として生まれ気付けば聖女として扱われていたリューリは、今日死ぬまでに自分で何かを選んだことがない。しかしテアは貧しい身分に生まれながらも自ら信仰について学び、神の教えを深く信じたその結論として、リューリと運命を共にすることを選び取った。

 リューリは自分の意志で信仰に殉じることができるテアこそが、真に神に愛されるべき人間なのだと心から思った。


「そうですね。きっと同じ天国で会えますね……」

 テアは泣き出しそうな声で答えて、リューリの小さな体をさらに強く抱きしめた。まるでそうしなければお互いの存在を認識することができないような、それは不思議な感覚だった。

 もし本当にテアが泣きそうなのだとしたら、リューリには彼女が泣く理由がわからなかった。安らかに死んで天国に迎えられることを信じているのなら、何が悲しくて泣くのだろうか。それともそれは喜びの涙なのか。

(天上に御座します神よ。やがて炎に包まれる我らに、あなたの加護があることを願います)

 答えの出ないまま、リューリはただ心の中で祈った。神に祈ることで、何かが変わると思っているわけはない。ただそれしか知らない聖女であるために、リューリは眠りにつくまで祈り続けた。

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