聖女が致命する一夜
名瀬口にぼし
第1話 塔で祈る聖女
遠く東の山岳を越えた平野に、王族の女子が神に仕える聖女となって国を守護するという信仰のある国があった。
その国の直系の王女として生まれたリューリは亡くなった先代の叔母の跡を継ぎ、七年前に聖女になった。聖女となった者は聖域の深い森に建てられた塔の中だけで生き、共に塔で神に仕える女官以外の人間とは一切会うことなく一生を終える。そのため四才の時に聖女となり塔に入ったリューリは、塔の外の世界についてほとんど何も知らずに成長した。都に住む親や兄弟についても、覚えていることは非常に少ない。
そもそも記憶がないのだから、肉親が近くにいないことに寂しさを感じることもなかった。だが顔も知らない兄たちが治める国のために祈りを捧げるという役目には、ときどき不思議な気持ちになった。
「戦に勝利が、国に栄光が、民に祝福が与えられますように」
白亜の尖塔の最上階に設けられたバルコニーで手を合わせてひざまずき、リューリは祈りの言葉を暗唱する。鈴のように高く澄んだ声による祈りは朗々とあたりに響き渡るが、塔の内部と、塔の外に広がる森しか知らないリューリには勝利や栄光はおろか臣民の幸福というものもあまり想像できない。しかし王国に神の祝福が与えられるように祈ることの他は何も教えられなかったので、意味がわからなくても祈るしかなかった。
決められた順番で祝詞を何度か繰り返し、次第に定時の儀式も終わりに向かう。
「天上に御座します神よ。幾万の敵を前にした我が国に、あなたの加護があることを願います」
リューリは深く静かに息を吸い込んで、歌い上げるように最後の祝詞を述べた。
それは確かにリューリの口から発されたものであったが、声色も言葉使いもよそよそしく、自分の声だとは思えなかった。幼いころから何度も読み上げてきた文言であっても、リューリはそこに字面以上のものを感じることができない。神の存在を信じてはいても、敵の姿がわからないからだ。
務めを終えたリューリは、目を開けて立ち上がり軽く腕を伸ばした。そして花鳥のレリーフで彩られた手すりの方へと、ただ何となく寄ってみる。
すでに日は傾き西の空に沈む太陽はまぶしく世界を茜色に染めあげて、まるで空気までが色づいて感じられた。藍地に白銀の刺繍の施された祭服をまとった小柄な身体を包む風は穏やかで、後ろで編んでたらした金髪を撫でるように吹いている。
(今日の夕日は昨日よりも赤い、ような気がする……)
リューリは背伸びして手すりから顔を出し、夕日が次第に暗さを増す森林へと飲み込まれていくのを遠く見下ろした。森にそびえ立つ塔は高く巨大で、まだ幼いリューリにはときどき大きすぎるところもあった。
「リューリ様。お体が冷えますから、こちらへ」
背後からリューリとは違う大人の声がする。
振り返ると女官のテアが、絹織りのガウンを広げて立っていた。テアはリューリより少なくとも十歳は年上の女官で、リューリが塔にやって来たときからずっと側に仕えている。生まれは貧しい農村だが、聡明さと信心深さにより塔に入ることを許された賢い人物だ。
「うん、わかった」
多少風が冷たいところで別に平気だとも思ったが、リューリは素直にテアの言葉に従いバルコニーを降りた。聖女としての役割以外は何も与えられずに育てられたリューリは、人の言葉に逆らうことを知らなかった。
テアはリューリにガウンを着せながら、感慨深げに言った。
「また少し背が伸びましたね」
「そうかな。自分ではよくわからないけど」
夕日に照らされたテアの顔を見上げていると、自分が成長した実感はまったくわかない。テアは他の女官と比べても背が高く、踏み台なしで本棚の一番上の段にも手が届いた。
祭服と揃いで仕立てられたガウンに腕を通したリューリは、テアと共に階段を下りて居住室に戻った。
礼拝用の部屋とはまた別に設けられている居住室は、リューリがこれまでの人生のほとんどを過ごしてきた場所である。造り自体は簡素な部屋であるが窓を開ければ見晴らしはよく、デスクやチェストなどは凝った金細工で縁取られた豪奢なものが並んでいる。
リューリはいつものようにソファに腰掛けて、礼拝の後の休憩をとろうとした。しかしテーブルの上には、テアが毎回用意しているはずのハーブティーの入ったポットがなかった。祈り通しでのどが渇いたリューリは、テアにお茶を催促しようとした。
しかしリューリがお茶を求める前に、テアがリューリの前に立って口を開く。
「リューリ様。今日は重要なお話があります」
その声は少し早口で、わずかに震えていた。
テアが事を急いで話しかけることはめずらしく、リューリは意外な気持ちで顔を上げた。
「そんなに重要な話なの?」
「先ほど国王陛下から届いた書状に記されていたことについてです」
そのままテアはゆっくりと膝をつき、リューリの顔を真っ直ぐに見つめた。革の帯でまとめた黒い衣を着て栗色の髪を束ねたテアは普段と同じように物静かな佇まいだが、褐色の瞳には平素では見られない迷いがある。
「兄上からってことはきっと戦争の話だよね。今回もまた、負けたんだ」
リューリは深刻な話の切り出し方から、これから直面する問題の推測をした。
現在王位についているのは、数年前に亡き父の跡を継いで即位したリューリの一番上の兄である。王国では信仰の教義をめぐる内乱が長く続いており、その鎮圧に手を焼いている兄は書面を通して聖女である妹のリューリに戦勝祈願を依頼してきていた。状況はかなり悪く、これ以上負ければ国の存亡に関わるということは、世俗と隔離されているリューリでさえ何となくは理解している。
テアはリューリの推測にうなずき、言葉を続けた。
「はい。我が王国軍は平原の戦いにおいて、反乱軍に敗北いたしました。敵は進軍を続けており、このままいけば七日以内にはこの塔も賊軍に攻め落とされるでしょう」
暗い面持ちのテアが告げた戦況は、想像していたよりもずっと危機的だった。
(七日以内? そんなすぐにここに敵が?)
状況をすぐには飲み込めないほどには、少なからずリューリは動揺した。戦争の話を耳にすることも増えてはいたが、それが自分の身に起きる出来事だとは思っていなかった。しかしあまりにも信じられない報告にリューリは現実的な気分になれず、かえって反応は小さなものになった。
「それで、兄上は」
そう何でもないことのように、リューリは見知らぬ兄の下した決断について尋ねる。
テアはためらいがちに、これからのこの二人が今いる場所に待つ運命について語った。
「我が王国は都で軍の立て直しを図り同盟国に援軍を求めている途中です。勝利と平和のためにあらゆる努力が行われていますが、遠方の地の防衛に回せる兵力はありません。そのため陛下はこの聖なる塔を略奪から守るため、火をかけよとの命令を下されました」
響きのやわらかい言葉が選ばれてはいるが、結局のところ国王である兄が守ろうとしているのはもはや都だけであるらしい。
テアの伝える兄の決断を聞き、リューリはとうとうその時がやってきたのだと思った。いつもと違うテアの瞳を見たときからうっすらと感じていた予感が、確信に変わる。
塔が焼き払われる以上、塔から出ることを許されない存在であるリューリに待つ結末は一つだった。
リューリはテアに言わせるよりも先に、その決定的な未来を口にした。
「この塔が燃やされるとき、私も一緒に死ぬんだね」
「……はい。陛下はリューリ様が殉教されることを望んでおられます」
少しの間をおいて、テアが重々しくリューリに求められた死を告げる。自分が死ぬことの意義に疑問を持つことは、王国の聖女であるリューリには許されてはいなかった。
リューリはぼんやりとした頭で殉教という言葉を反芻しながら、物心ついたときからずっと読み聞かされ続けてきた古の聖女の物語を思い出した。
(何百年も前にある王女が異教徒の軍勢を前に殉教して、天に召された後も王国を守護したのがこの塔の始まりだって何度も習ってきた)
塔の歴史を記した書物の挿絵に描かれた古の聖女は、炎の中で美しく微笑んでいた。彼女の死と守護により、その後の王国は異教徒に勝利できたのだと詞書は語る。
(だから私もその大昔の聖女様みたいにちゃんと頑張って死んで、天国からこの国を守らないといけないんだ。それが私の役目だから)
リューリは深く深呼吸をして、精いっぱい厳かな気持ちになって定めを受け入れた。
リューリは自分が聖女として守護するべき王国が、どんな国であるかを知らない。
だがその王国の存亡の危機には聖女が命を捨てて神に祈る必要があることは、女官たちに繰り返し教えられてきたので知っていた。命を捨てて死んだらもちろんこの世にはいられないが、神に愛された聖女は必ず天上の国に迎えられるので死を恐れる必要はないらしい。
(天国に行けるならきっと、聖女として死ねる私はすごく幸せなんだよね)
リューリは自分が殉教することを、喜ぶべきなのだと思った。覚悟や決心ができるだけの自分の意思は育ってはいないものの、天国があることを疑わないほどには素直に神を信じていた。
そうして結論を出してふと視線を戻すと、いつの間にか日は沈み、部屋は暗くなっていた。
テアはまだすぐ目の前にいて、何も言わずにリューリの青い瞳を見つめている。
「あなたや他の女官は、これからどうするの?」
ふと単純に自分以外の人間の今後が気になり、リューリは尋ねた。
「私は神に仕える女官として、最後までリューリ様の側にいます。あとの者は去りたい者は去り、残りたい者は残るでしょう」
淡々とテアは質問に答えた。テアは深く長く神の教えについて学んできた人なので、出した答えもきっとリューリよりもずっと正しく考え抜いた結果なのだろう。
「そっか、ありがとう」
リューリはテアの簡潔な答えに安心して、お礼を言った。暗い部屋ではテアの表情は見えないが、声だけでも十分にリューリへの思いやりは伝わっている。
塔で働く女官たちにはある程度の選択肢があること、そして自ら選んだうえでテアが隣にいてくれることに、リューリはほっとした。塔に来てからの七年間と同じように最後までテアと一緒にいられるのなら、問題は何もないのだと思えた。
「お礼を言っていただけるようなことは、何も……」
テアは深々とお辞儀をした。そして顔を上げて、報告を付けたす。
「塔に火をかけるのは、三日後です」
「うん。わかった」
すべてが灰になるまでの時間を、テアの落ち着いた声がそっと伝える。
リューリは普段の些細な返事と変わらぬ言葉で、その期日を了承した。
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