一本のアンダーライン

Haruki-UC

 インクのしみのように曖昧な雲が空に浮かんでいた朝、私の家の小さな郵便受けに二通の手紙が投函された。封筒の裏の名前を見ると、そのどちらもが意味合いは違っているものの、心の準備が必要な中身だろうと思った。私は午前中にいくつかの雑務を片付け、昼食の後に封を切った。


 それらの手紙は二通とも、B5サイズの用紙に黒いシャーペンで記述されていた。封筒の表にはこちらの名前と住所、裏にはあちらの名前と住所が書かれていて、中の用紙や筆記用具もおおむね同じ。まるで学校の制服のようだ、と思った。実際、二人の送り主と私の三人は、二年前まで同じ高校に通う女子生徒だったのだ。


 しかし同じ標準的なフォーマットに従って書かれた二通の手紙には、ひと目でわかる違いがあった。それは一本のアンダーラインだった。

 一通目の手紙の「あなたのためを思って言っています」の文字の下には、赤色のマーカーで線が引かれていた。二通目の手紙の「いつもありがとう。これからもよろしく」の文字の下にも、水色のマーカーで線が引かれていた。他の部分には黒以外の色が無かった。


 この違いを、私は偶然の結果だと思えなかった。二年間かけて組み上げる長大なジグソーパズルの、最後の一ピースが埋められたときに浮かび上がる絵のような、必然的な結末に思えた。その絵に描かれた貴婦人が浮かべていたのは微笑ではなく、悲しげな表情だろうという気がした。


 私は自分の部屋のベッドから身を起こし、テーブルの上に読み始めたばかりの手紙を置いた。ついでに隣の仰々しい宣伝文句が並ぶ旅行会社のチラシをゴミ箱へ捨てた。

 少しのどが渇いたので飲み物を取りに台所まで行く途中、どこからか近所の子供が遊んでいる声が聞こえてきた。それ以外、家の中は静かで、エアコンの音だけが低く響いていた。



 * * * 



 一通目の手紙の送り主、晴香(はるか)の話から始めようと思う。

 彼女は高校卒業後、地元の市役所の公務員となった。そこは穏やかで緑のある土地だった。彼女はこれで人生安泰だ、と大げさに喜んでいた。それを私たち演劇部の仲間は大いに祝福した。

 働き始めた彼女と大学生になり地元を離れた私は、一か月に一通か二通くらいのペースで手紙のやりとりを始めた。新しい環境に慣れるまで、お互いに支え合える相手を求めていたのだ。


 四月の頃はまだ、手紙という真新しいコミュニケーションの手段を楽しみ、二人とも探り探りといった感じだった。どういう話題で盛り上がれるのか、どういう言葉に対して相手がどう反応するのか、魅惑的な未知の領域が広がっていた。そして手書きの文字を積み重ねる度に、改めて親密さが増していくように感じていた。


「働き始めても演劇って出来るのかな。OB・OGたちを集めてまた何かやれたらいいな。もし人数が足りなければ私が一人二役してもいいし、場所とかも探しとくからさ」


 晴香は演劇部の中でも明らかに演技が上手で、風貌にも華があった。また面倒見もよく、後輩をフォローしたりもしていた。いつも目立つ存在だった。

 一方、私は裏方だった。それぞれの演者の素質に光を当てて輝かせることに関心があった。そのための準備を抜かりなく行うことに誇りを感じていた。自分自身が舞台に上がって衆目を浴びたいとは考えなかった。むしろ抵抗感があった。少し離れたところから舞台を眺めているのが好きだった。


 彼女はいつも重要な役柄を演じたがっていた。その気持ちを隠そうとしても隠し切れない様子で、周りは少し圧を感じていた。私も他の人の立場とか自分の発言の意味を考えてほしいと思ったこともあった。先輩と軽いトラブルになったこともあった。しかしその分、彼女の練習は誰よりも熱が入っていた。

 初めはそれほど接点がなかったし、自分とは違うタイプの人間だと思っていたけど、晴香のことを見ているうちにその実直さに心を打たれ、やや苦手だった自己顕示欲もいとおしく感じ始めていた。彼女は私の視線に気づいたらしく、ゆっくりと近づいて話しかけてきた。

 演者同士だと同じ舞台を作る仲間であっても、同時にライバルのようにも感じられて気を使うらしい。誰かが評価されるということは、誰かが評価されないということ。私は肩の力を抜ける相手としてよく話すようになった。そしてその交友は現在まで続いている。



 しかし平和も新鮮さもずっとは続かないのが世の常。だからこそ美しい瞬間とは全身全霊で向き合わなければならないのだ。

 半年が過ぎ、季節もすっかり秋めいてきた頃、彼女からの手紙に異変が生じ始めた。周りの人への批判が次第に目立ってきた。


 それに対し私は誰にだってつらい時期はあると思い、穏やかに対応していた。別段、嫌な気持ちにもなっていなかった。彼女の独特な語り口は痛快でユーモアがあったので、むしろ楽しんですらいた。思わず吹き出してしまうこともあった。愚痴っぽい話だけど、それを面白おかしく話そうとしているところに読み手の私への配慮を感じていた。


「職場のプリンターを詰まらせたまま放置していく奴がいるんだよね。コピーを取ろうとして蓋を開けると警告音が鳴ってびっくりしちゃう。もういい年の人間しかいないんだから、ちゃんとしてくれないかな。絶対、前にも話した箱田(はこた)の仕業だよ。いくらなんでもこんなところにびっくり箱を設置しないでほしい、名前が箱田だからってさ」


 同じ頃に、私は大学の友達と紅葉狩りに行った。軽く山を登ったところにあるお寺には見事な彩りの風景があった。観光客たちがしきりに写真を撮っていた。地面に積もった葉が、赤と黄のカーペットみたいだった。

 私は気楽な友人たちから少し離れたところで、ゆっくりゆらゆらと落ちていく紅葉を眺めながら、晴香のことを考えた。



 手紙のやり取りを始めてから一年と少しの時が経ち、季節は再び春から夏へと巡り、蝉の鳴き声が聞こえる始めると彼女の様子はさらに変化していた。

 相変わらず職場の人間関係の不満を漏らしていたが、私はそれ自体は構わなかった。しかし文面からこれまでのようなユーモアのセンスが消え、責任を押し付けられそうな身近な相手に適当な理由を付けてやつあたりをしているんじゃないか、と感じられ始めたことが残念だった。


「新人が本当に常識知らずでさ、そんなんで今までどうやって生きてきたのかって思っちゃったよ。あいつのせいで逆に仕事が増えてて、いい迷惑だよまったく。こっちが教えてやってるのに、物覚えも態度も悪いし」


 あの面倒見の良かった晴香がそんな風に言ったのが私はショックだった。セピア色の情景にひびが入るようだった。

 悩んだ末、私はその感想を彼女に伝えることにした。他人に対して批判的なことを言うのは苦手だったけれど、とても、とても慎重に言葉を選んで文章をしたため、赤いポストの口へ差し込んだ。その日は雨が降っていたので、封筒が湿り気を帯びていたのをよく覚えている。


 すぐに来た彼女の返事からは、ショックを受けている様子がうかがえた。ただこちらの考えは理解してくれたようで、申し訳なかったと言ってくれた。やはり話し合えば分かり合えると、私は安心した。


「ごめん。私がどうかしてた。最近、ストレスがたまってるせいか、夜に一人でいるときに昼の自分を後悔することがよくあるんだよね。うまく感情をコントロール出来ないというか、短気になってしまうというか。伝えてくれてありがとう」


 しかしそれは一時的な希望に過ぎなかった。それ以降、彼女の手紙は歪み始めた。

 自分の話をしたいんだけれど、自分のことを隠そうとしているようにも思えた。苦手な相手を否定したいんだけれど、真っすぐには言えず部分的には肯定しているふりをしているように感じられた。脳みそのしわを思わせる複雑な迷路だった。


 さらには、私の手紙の些末な点に対して揚げ足を取ってくるようになった。話を悪い方に曲解して騒ぎ立てるようになっていった。


「……あとさ、男の子と遊んでばかりでテストの点数が悪かったらしいけど、学生ならもっと真面目に勉強しておかないと、社会に出てから困るよ。少し厳しいかもしれませんが、


 何か思うところがあるのかもしれないけど、急にどうしたのだろう。私は全然そんなことないけど、一体どこを勘違いしたのだろう。

 そして、めったに使わない赤いマーカーで「あなたのためを思って言っています」の部分に下線が引かれている。そのあからさまな強調の方法に、嫌みな侮辱の方法に、彼女の情緒不安定さを強く感じた。



 どう返事を返していいのかわからなくなり、そのまま三か月の時が流れた。こんなにも間が空いたのは手紙のやり取りを始めて以来、前例のないことだった。


 なぜこんな風になってしまったのだろう。その間も、私はあの一本の赤いアンダーラインのことを何度も思い返していた。その線は、私と晴香の世界の間に断固として引かれた国境のようで。

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