第四話

男は、相変わらず祈っている。

その先には、ずっと消えていたはずの幽霊がいた。

存在感が皆無だったせいで、今の今まで気付けなかった。

でも、確かに存在していた。

消えていたはずなのに、たった一人が祈るだけで、戻って来ていた。

私の心にぽっと、灯がともった気がした。

私は彼に歩み寄って持って来ていた傘をさした。

彼は気にも留めずに祈っていた。

でも、私はそれでよかった。

真摯な祈り。

それはとても静かだった。



雨音が激しくなって来て、道に小さな川が流れるようになった頃、彼は祈るのをやめて、顔を上げた。

そして、驚いたように上を見上げ、私の方を振り向くと、

「俺に傘をさすな。」

そう、言った。

彼は私を睨んでいた。

「どうして? そのままでは風邪をひいてしまうよ。」

私がそう言うと、彼は

「俺の身などどうでも良い。濡れる主の前でしもべが傘などさしていられるものか。」

そう、言った。

この墓はこの人の主のものだったらしい。

「でも、」

「……俺はこれぐらいでちょうどいいんだ。」

そう言って彼は傘を強引にどけると、再び祈り始める。

呆気にとられた私は、しばらく彼が雨に濡れるのを見ていた。

でも、やっぱり見てられず、傘をそっとさす。

「おい、いらないって言っただろう。」

男はさっきよりも早く気が付いて、私を睨む。それから片手で傘をグイッ、と退けた。

葉から落ちた滴が、彼の頭に落ちて髪の毛を伝う。

「……っ……。」

掠れた声が聞こえて私は上を見上げた。

「……いけま…せ……。」

この墓の主が、……つまり彼の主の幽霊がかなしそうに首を振っていた。

言葉はよく聞こえないけれど、この人に傘をさすように言っているようだった。

主は、若そうな人だった。着物に濃い藍色の羽織を羽織って、西洋風の帽子をかぶっている。

明治時代の様子をうつした教科書に、同じような格好がのっていた気がする。

もしかしたら、その時代の人だろうか。

「…かさっ……せっかく……」

この人の声は聞きおぼえがあった。

小さくて今にも消えそうな、掠れた声。

「……あなたですか? 私に呼び掛けたのは。」

「……。」

主は頷いた。

あの森の中の墓で聞いた声は彼の物だったらしい。

彼はきっと、降りしきる雨の中傘もささずに祈る彼を見ていられなくて、何か彼のためになることをしたくて、私に声をかけたのだろう。

墓の主はじっと私を見ていた。その泥で汚れた裾は、薄く消えかかっている。

(一体、どれだけの力を使ったんだろう。)

いくら同じ墓で多少楽になると言っても、あれだけ離れた距離の私に呼び掛けるには、相当の力を使うはずだ。手入れをする物のいない墓の主がそんな力を使えば、下手をすれば消えてしまっていたかもしれない。

下をみると、座り込んでいる男は片手で傘を退けたまま、不審そうに私を見ていた。

……見えていない。

そっと上を見上げると、彼はそっと首を振った。

ずっと見えていないらしい。

たぶん、これからも見えないのだろう。

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