第弐拾七節

夏が始まる前の、草深い季節だ。


今が盛りと伸びる青草の波間を、背を低くして進む。


山門の辺りに人気はない。


俺は窪地を見つけると、その中に身を隠した。


参詣道は、周囲の土地から土手のように少し高くなっている見晴らしのよい一本道だ。


月が中天にかかった。


約束の時間だ。


山門脇の通用門が開いた。


中から女が抜け出してくる。


身の丈や仕草から、顔が見えずとも月星丸だと確認できる。


一気に緊張が走った。


月星丸は周囲を確認すると、一本道を無心に駆け抜ける。


俺は他に動きがないかを確認してから、その後を追った。


町への入り口までは、二町はある。


ひゅんと矢の走る音が聞こえた。


とっさにかがみ込んだ月星丸の頭上を、それが抜けてゆく。


「立ち止まるな、走れ!」


「千さん!」


月星丸が道を逸れて、こちらに駆け寄ってくる。


俺は町の入り口に目を向けた。


待たせていた葉山の部下の背後に、人影が見えたと思った瞬間、仲間の一人が膝を折って倒れる。


抵抗する間もなく、もう一人も後ろから首を斬られた。


「くそっ」


足を止めた俺は、刀の柄に手をかけた。


近寄ろうとする月星丸に向かって矢が飛ぶ。


月星丸の足も止まった。


「隠れていないで姿を現せ!」


草むらから、黒装束に身を包んだ間者が立ち上がる。


その数五、六人はいるだろうか。


月星丸に近寄ろうとする俺に向かって、容赦なく矢が飛ぶ。


「いい加減諦めなさい」


お萩の声だ。


やはりくノ一であったか。


抜き身の剣を片手に近づいてくる。


月星丸が短刀を抜いた。


「あら、かわいい」


その後ろからは、先ほど葉山の部下を斬り、つけたばかりの血のりを払いながら、男が歩み寄る。


関の家を襲った武芸の教本から抜け出たような男だ。


その剣を鞘に収めると、新しくもう一本の刀をすらりと抜き構える。


「大人しくついてくるなら、この男の命は助けてあげるわよ」


お萩が笑った。


月星丸は教えられた通りに、短剣を構えている。


「自らの運命を悟るなら、一人くらい命を助けて、誰かの役に立ってみたら?」


周囲を囲む連中との間には、まだ距離がある。


俺はじりじりと月星丸に近寄る。


お萩が何かの合図を送った。


月星丸に近寄ろうとする俺に矢が飛んでくる。


俺はそれを一刀ではね除けると、土塊を蹴り上げた。


一瞬、気をとられた隙に背後に立つ一人を斬り捨てる。


直後、月星丸に斬りかかった者を肘うちから水平に斬ってのけた。


駆け寄った月星丸が、ぴたりと背中に張り付く。


「妙間寺は分かるな、最初に行こうとしていた寺だ」


背中で月星丸がうなずいた。


「そこに向かって走れ。俺は後から行く」


短刀を懐にしまったようだ。


俺は手の内の剣をもう一度握り直す。


これで残るは、正面にいる二人と三人だけだ。


「それとも、ここでなぶり殺されるのを、見ててもらう?」


最後の矢が飛んできた。


それと同時にお萩が斬りかかる。


それを受け止めた俺の脇を、教本の男が走った。


お萩を押しのけ、男の剣を刀で振り払う。


走り出した月星丸の背を、もう一人の男が追った。


男の振る刃先が、月星丸の背を横切る。


地に転げたその上に、白刃が掲げられた。


「月星丸!」


駆け寄ろうとした俺の目の前を、刃が切り裂く。


「あんたの相手はこっちだ」


教本のような男が、背後で飛び上がった。


その脇をかがんでかいくぐり、態勢を整える。


お萩は刀を鞘に収めた。


その瞬間に、白刃を掲げた男の刃が、月星丸に振り下ろされる。


肉を断つ鈍い音が、暗闇に響いた。


吹きだした血潮の潮流が、ざわりと鼓膜をなでる。


胸に短刀を突き刺された男が、ドサリと倒れた。


その胸から懐剣を引き抜き、月星丸が立ち上がる。


「やってくれるわね」


お萩から繰り出される剣を、月星丸は全て短刀でかわした。


一歩一歩後ろに下がりながらも、一つ一つを丁寧に受け止める。


それを見た教本の男が笑った。


「短時間で随分と上達したな」


男は月星丸に向かって走る。


俺が振り下ろした剣をひらりと飛び越えると、月星丸の正面に立った。


「その成長は認めてやろう」


お萩が斬りかかり、月星丸は後ろに飛び退いた。


男とお萩が入れ替わる。


男はまるで剣の稽古でもしているように、月星丸に斬りかかった。


「遊んでないで、さっさと終わらせてよ」


俺はお萩の不意を突いて斬りかかる。


「お前の相手はこっちだ!」


ガツガツと間をおかず斬りつける俺の剣を、お萩はかわすだけで精一杯だった。


俺の刃が大きく弧を描く。


それを避けきれなかったお萩の手に、赤い筋が入った。


「家斉公の姫の命を狙うのが、どれほどの大罪か心得よ!」


「あら、あんた、知ってたの?」


お萩が俺を見上げた。


「知らずにつきそうと思ったか」


俺は剣を八双に構える。


荒れた息を整え、次の攻撃に備える。


「じゃあやっぱり、一緒に死んでもらうしかないわね」


お萩は一歩後ろに下がり、刃先を下に向け斜めに構えた。


とたんに教本の男が横から踏み込んでくる。


その剣を辛うじて刃ではね除け、俺は後ろに下がった。


お萩の剣が宙を斬る。


右の頬にチクリと痛む線が走った。


俺は剣を下から振り上げ、お萩の持つ刀を叩き落とす。


教本男の水平に伸びた刃先を足裁きだけで避けきった。


男が振り上げた剣の横で、月星丸がお萩の脇腹に斬りかかった。


「バカにしないでくれる?」


お萩は月星丸の腹を肘うちで強打した。


俺は振り下ろされた男の剣を刃で受け止める。


押しつけられる刃の間で、俺はその力に耐えるだけで精一杯だった。


お萩は腰から新たな短刀を抜いた。


月星丸に斬りかかる。


俺は男を力で押しのけた。


すぐに斬りかかってくるその男の刃をかいくぐりながら、俺はどうやって月星丸の近くに行こうかを考えている。


男の刃が空高く上がった。


振り下ろされたそれに、俺の腕から血がにじむ。


男は改めて正眼に構えた。


「覚悟!」


お萩の声が響く。


空を切り裂く刃の刃音が、夜空に鳴り響いた。


ガチンと金属と金属の激しくぶつかり合う音が火花を散らす。


月星丸の手から、懐剣が吹き飛んだ。


「おのれ、往生際の悪い……」


お萩が剣を構える。


その前に、月星丸は真っ直ぐに立ち上がった。


「殺すなら、ここで殺せ。もうどこにも逃げはしない!」


お萩はにやりと笑い、剣を後ろに引いた。


十分に気を貯めて、最後の一振りを繰り出そうと、手首の角度をわずかに変える。


「そこまでだ!」


その声に振り返る。


町の方から松明を掲げた一団が現れた。


葉山が引き連れたのは、その数二十、三十にもなろうかという行列だった。


参詣道から野原に下りる。


豪華絢爛な駕籠が、松明の明かりに照らされて地に下ろされた。


葉山がひざまずき頭を下げると、後ろに続く者たちも同じように習う。


「月子さまの、松崎藩へのお輿入れが正式に決定いたしました。ここにお祝いを申し上げます」


松明の燃える、細かな木爆ぜの音がやけに大きく聞こえる。


月と星の輝く夜だ。


教本の男は刀を鞘に収めた。


お萩の舌打ちする音が聞こえ、やはりそれを鞘に収める。


二人は葉山と同じように、地に膝をつき頭を垂れた。


「刀をしまえ。無礼であるぞ」


葉山の言葉に、俺も剣を収める。


その場に片膝をついた。


葉山は駕籠のすだれを巻き上げる。


月星丸の手は震えていた。


「私の、行く先が決まったのですね」


葉山は無言で下草を見つめている。


「私の行く先は、決められていたのですね」


「最善を、尽くしましてございます」


月星丸は、笑ってうなずいた。


俺と目が合う。


開きかけた口を、もう一度閉じた。


「感謝、いたします」


葉山に促され、月星丸は背を向けた。


疲れた体を無理矢理に動かして、駕籠に乗り込む。


下ろされたすだれが、その姿を隠した。


月星丸を乗せた籠が、地から浮き上がる。


それは人の手に運ばれて、ゆっくりと進み始めた。


葉山が立ち上がる。


「おい、どういうことだ!」


葉山は俺を振り払った。


「これから妙間寺へ向かう。安全は確保されたということだ」


お萩と、それにつきそう教本男も立ち上がった。


腕を組み駕籠の行方を見送る。


参詣道から町の中に消えていく行列を見届けると、彼らも背を向けた。


「あいつらは、そのままでよいのか?」


「あの女は奥のお庭番で、男は俺の上役だ。相手にして勝てる相手ではない」


葉山は駕籠の後を追った。


間もなくして、天にかかった黒雲から、大量の雨が降り出した。

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