第弐拾五節
そうやってこの屋敷で、どれほどの月日が経ったであろうか。
季節はすっかり梅雨時となり、厚い雲が空を覆うことが多くなった。
月星丸は徐々に勉学に身が入るようになり、ようやく話し方も所作にも、それなりの知恵の片鱗が見られるようになった。
今までの直感だけでの粗野な言動とは、だいぶわけが違う。
「長い間城を離れているが、月星丸は奥ではどういう扱いになっているんだ?」
俺は葉山に尋ねる。
「とある寺に籠もって、精進のための写経中だ」
なるほど。
ある意味間違ってはいない。
「では写経もさせぬといかぬのでは?」
「概要だけは、頭に入れさせておく」
その写経とやらの現物も用意しなくてはならないのではないか?
いや、それは奉納するから人目に触れることは……などと考えているうちに、また幾日かが経っていた。
日が暮れると、縁に並んで琴と三味線の練習をする。
月星丸の他の課題が終わらぬ日には、それにつきあいながら稽古をする。
俺は日がな一日弦を弾いているせいか、自分でも随分上達したように思う。
月星丸の琴も、簡単な曲なら何となくはつま弾けるようになった。
今夜は琴の師匠からもらった新しい曲に挑戦している。
同じ合奏曲の練習を同時に始めて、どちらが先に上手くなるかの競争だ。
この際、暇な時間を持てあましている俺の方が圧倒的優位であることは黙っておく。
月星丸はそんなことにまで気づかない。
俺と月星丸が稽古をしているところに、葉山がやってきた。
「その曲には、尺八が必要であろう」
「ではお前も一緒に稽古を始めるか?」
「ふざけるな」
葉山はすとんと腰を下ろす。
「近々、遠出をすることになりました」
月星丸が顔を上げた。
「谷地田さまが、ぜひ月子さまのお見舞いにうかがいたいと」
「谷地田? そいつは何者だ」
「ですがここに居ては、無事にお迎えすることができません。しばらくの間、別の場所に移っていただくことになります」
葉山は俺を無視して話し続けた。
月星丸は琴の弦にかけていた手を膝に戻す。
「ここから北に妙間寺という尼寺がございます。そちらで谷地田さまをお迎えする準備を始めます」
「尼寺?」
月星丸は顔を上げた。
「では、千さんはどうするの? 女装でもさせるのか?」
「おい! ちょっとま……」
「我々は近くに宿をとりましょう。尼寺に男子が参るわけにはまいりません」
間髪入れず、葉山は冷静に返す。
「じゃあ、尼寺じゃなくて、普通の寺にすればいいじゃないか」
「尼寺です」
「尼寺へは行かぬ」
葉山と月星丸がいつものように口論を始める。
元服前の女子が、しかも高貴な身分の姫となれば、尼寺以外の選択肢がないということを説明してやればいいのに。
葉山の頭の固さと月星丸の無知に、頭を悩まされつつも、またため息をつく。
やがて腹を立てた月星丸が席を立ってしまった。
「千之介、お前の出番だ。月子さまを説得してこい!」
いつものように、イライラとした葉山にそう言われる。
犬猿の仲とはよく言ったものだと思う。
こいつらほどその言葉がよく似合う連中は知らない。
葉山がガミガミとうるさいので、渋々と立ち上がる。
この二人が仲良くやってくれれば、俺はいらないのにとも思う。
月星丸はすねた時にいつも身を隠す、屋敷奥の廊下の突き当たりに背を向けて座っていた。
「尼寺へ行ってこい。すぐそばに俺たちもいる」
「写経しろだなんて、なんでそんな面倒なことをしなくちゃならないんだ」
「文字の特訓だと思えばよい。集中特訓だ」
月星丸は俺を振り返った。
「寺へ移る行列も、駕籠の担ぎ手も全部女だっていうんだ。どうしてそこまでする必要がある? 駕籠は千さんと葉山が担げばいいじゃないか」
「俺はごめんだ」
ため息をつく。
「それは葉山も同じように思っていると思うぞ」
月星丸は膝を詰めよる。
「なんでそこまで俺にするんだと思う?」
「『俺』じゃない『私』」
「私は、女の駕籠にのってまで、そんなことをする必要が分からない!」
「そりゃあ、高貴なお姫さまだと、そういうことになるんだろうよ」
月星丸が俺を見上げる。
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「大事にされてる証拠じゃねぇか。お前の父上がどなたか存じ上げぬが、娘のためにそこまでしようってんだ。素直に従ってやれ」
「きっと、そんないいものじゃあ、ないよ」
月星丸はうつむく。
「これ以上どうやって大事にしてもらおうっていうんだ。十分じゃないか。わがままばかりで困らせるな」
「……。意地悪しにくるだけに決まってる」
ぼそりとつぶやいたそれに、俺は気づかないふりをする。
「また毒が盛られるかもしれない!」
「今ついている毒味役も一緒に行く」
「襲われたらどうする?」
「そのために、俺たちが尼寺の近くに宿をとるんだろ」
「……もし、江戸城の姫なら、どんな暮らしをしてるんだろうな」
「そんな姫なら、そもそもこんな所にはおらぬ」
「……。普通の大名屋敷の姫には、そんなことまでしないよ」
「だろうな。破格の扱いだ」
「どこのどんな姫なら、そんな扱いを受けるんだろう」
「お前のような、バカで困った娘だ」
「そこまでするような父上って、どんな人だと思う?」
「よほど娘を大事に思っている親だ」
「……。俺は、父上に会ったことは一度もない」
「そうか。では話しは終わりだ」
俺は立ち上がった。
「まだ話しの続きがあるんだ! 待って!」
「『俺』ではなく『私』と言えといったばかりだ。それが直るまで、お前とは話さない」
廊下を出て行く。
月星丸は、何を言おうとしていたのか。
自分から江戸城の姫だと告白しようとしていたのか。
さっさとそうしてくれれば、俺の役目が終わって気が楽になるような、だけど、それを月星丸自身の口から聞いてしまってはいけないような、そんな複雑な気持ちになる。
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