第弐拾四節

なぜこんなに気が焦るのかが自分でも不思議だ。


きっと、月星丸が上さまの娘を知ってしまったからなのだろう。


そんな一大事を見逃すわけにはいかない。


月星丸の居る屋敷の前までたどり着いた。


辺りはすっかり夜の闇に覆われ、中の様子も分からない。


静かであるのならば、俺なんかの出番ではなかったのかも。


ふと気になって辺りを見渡した。


もしやお萩とその仲間が来ているやも知れぬ。


そう思うと、急に身が引き締まった。


そうだ、俺はさっきからずっと、そのことが気になっていたんだ。


「きゃあ!」


突然、屋敷の中から悲鳴が上がった。


俺は中へ飛び込む。


声の聞こえた庭先の方へ回った。


戸板が破られた様子はない。


だとしたら、刺客が入り込んだのはどこだ?


内側から、ガラリと扉が開いた。


そこに立っていたのは、月星丸だった。


「千さん!」


月星丸は素足のまま庭に飛び出すと、俺に抱きつく。


「遅いよ! なんで俺を置いていったんだよ、もっと早く迎えに来て!」


思わず抱き留めそうになった自分の腕を、空に高く掲げる。


家斉公の娘に失礼など出来ない。


「迎えに来たのではない、様子を見に来ただけだ。先ほどの悲鳴はなんだ?」


月星丸は後ろを振り返った。驚いた女中や控えの役人が集まっている。


「あいつらが俺に嫌なことばっかりやらせようとするんだ。これじゃあせっかく抜け出したのに、元に戻されたみたいだ。ねぇ、長屋に帰ろう、俺はあっちの方がいい」


「葉山はどうした?」


「あんな奴、だいっきらいだ!」


 月星丸は、吐き捨てるようにつぶやいた。


「だから、出て行けって言ってやった。もうあいつは、ここには来ないよ」


「そうか」


俺は胸にしがみつく月星丸を、振り払うようにして後ろに下がる。


「あいつには、役不足ということだな」


月星丸を残して、俺は屋敷に上がった。


そこにいる女中たちを見下ろす。


「月星丸が何をした」


女たちは、お互いの顔を見合わせるばかりで、ろくな返事が返ってこない。


この荒らされた部屋は、全部月星丸の仕業か。


俺は足元に落ちていた紙を拾った。


寺子屋通いの長屋の虎次郎よりも拙い文字、ろくに筆を持ったことのない者の筆跡だ。


「あ、見ないでよ」


俺の手から、月星丸がそれを奪い取ろうとするのを取り上げる。


「お前、いろはを最初から言ってみろ」


「『いろは』といえば、『いろは』に決まってるだろ」


足元に落ちている「庭訓往来」を広げる。


「ほら、これを読め」


「漢字はまだ読めない」


月星丸は本を奪い取った。


「お前はこの歳まで、一体何をやっていたんだ」


月星丸は、顔を真っ赤にしてうつむく。


何も教えられていないというのは、こういうことか。


壁には棹の折られた三味線と、弦の全て切られた琴が立てかけられている。


「月星丸が、ここに居られるのはいつまでだ」


「それは……」


女中たちが言葉を濁す。


「ねぇ、ちょっと待って。ここに居られるって、どういうこと? ここに居られるのは、いつまでって、なに?」


月星丸は俺に向かって、本を投げつけた。


「だから、帰らないってずっと言ってるのに! こんなことしたって無駄なんだよ。どうしてそれが分からないの?」


「どこの大名屋敷の娘かは知らぬが」


俺は、そう言った。


「家から抜けるのなら、それなりの覚悟が必要だ。本当に屋敷を抜け出して自由な暮らしがしたいのなら、ちゃんと家に戻って父上と話しをつけてこい」


月星丸は、眉間にしわを寄せ俺を見上げた。


「それが出来ぬのなら、大人しく戻れ。出来るというのなら、ここで誰にも負けぬ知恵という力をつけて戦え。選ぶのはお前だ」


返事はない。


月星丸は、ただ黙ってうつむいた。


無理難題を押しつけているのは分かっている。


だけど、月星丸が自ら江戸城の姫だと名乗らぬ限りは、こうするしかない。


名乗ればその時は、無理矢理にでも城に帰す。


「元の場所には……、戻らない」


月星丸は、ぼそりとつぶやいた。


「そうか。では俺もここに用はない。葉山に頼まれてお前の面倒を見ろと言われたが、その必要もなかったようだ」


「待って!」


「邪魔したな。この仕事の依頼はなしってことだ。では御免」


背を向けた俺の背に、月星丸はしがみつく。


「分かった! 分かったよ。だからお願い、ここに居て。他に信じられる人が、ここには誰もいないんだ」


涙を必死で堪えている。


月星丸は鼻水をすする。


「今日はもう遅い。さっさと寝ろ。明日からしっかり学べ。それがお前の生きる道だ」


大人しくうなずいたのを見届けると、女中たちは寝支度を始めた。


俺は月星丸を残して部屋を出る。


女中に案内させて、別室に移った。


「葉山はどうした。どこにいる」


「葉山さまは、夜は非番にございます」


俺はため息をつく。


布団を整えると、女中は姿を消した。


あの男は、どこまでやる気があるのかないのかが分からん。


朝になって一番に駆け込んで来たのは、無遠慮に襖を開る月星丸だった。


「千さん、居た!」


寝間着のままのその姿に、俺の心拍数は一気に上がる。


「だからその格好で来るな!」


「病気は治ったんじゃないのか?」


「治ってない! 出て行け!」


女中たちには広間で一緒にと勧められたが、断って一人部屋で朝食をとる。


葉山が組んだという稽古の割り振りの時間になって、読本の師範がやって来た。


俺は月星丸が怒って暴れだしたり、飽きて教授を放り出さぬよう、同じ部屋の隅に座って監視している。


昨夜の用心棒の仕事と、たいして変わりはない。


昼近くになって、ようやく葉山が姿を現した。


俺の姿を見て、一瞬ビクリと体を震わせる。


「本当に来ていたのか」


「なんだ、迷惑だったか」


「いや」


俺は立ち上がり席を外した。


葉山を連れ出して縁側に腰掛ける。


「昨夜はあれからどこへ行っていた」


「それをお前に話す義理はない」


見上げる厚い雲の隙間から、かろうじて空が見えていた。


「城へはいつ戻る」


「急いではいるが、まだ話しがまとまらぬ」


葉山は何かを考えるように、視線を横に流した。


「それまでにとにかく、月子さまの教育を急がねばならん」


「あの時間割を組んだのはお前か」


葉山はうなずいた。


あのような過密な仕様では、月星丸が音を上げるのも無理はない。


だが、時間がないのもまた事実。


「あれの始末は俺に任せろ。お前は城に戻る手はずを急げ」


葉山は俺の眼を見た後で、わずかにうつむいた。


「随分と、協力的なんだな」


「……これでも一応は、武士の端くれのつもりだ。上さまへの忠義の心は、持ち合わせているつもりなんだよ」


ここは、狭い庭でも、きちんと手入れは行き届いている。


「浪人に身を落として、気づいたことがある。誰も仕える者がいなくなったとき、俺は俺の信じるものにこの身を任せて、仕えようと思った。その相手を自分で選ぶようになった時、初めて自由になったと感じた」


その気持ちに、今も嘘偽りはない。


「だから、俺がこうしていられるのも、こうしているのも、全て俺の意思だ。ただ仕える相手を間違っちゃいけない。それを見極めるには知恵も必要だ。俺はその知恵を、月星丸にはつけてほしいと思っている」


俺は顔に、ふっと笑顔を浮かべる。


「まぁ、生まれながらのお役人さんには、分からん話しだろうがな」


葉山はじっと腕組みをして、前を向いていた。


「何も疑わず、忠義の心を持つのも、それはそれで難しい」


葉山は俺と同じ空を見上げた。


「自分は一体、誰のために、何のために、仕えているのかと思う時もある」


葉山はため息をついた。


「ただそれを正しいと信じるより、他にあるまい」


奥の部屋で、女中の悲鳴と騒ぎ声が聞こえた。


「姫さまがお呼びだ」


葉山の声に、俺は渋々と立ち上がった。


「月星丸が呼んでいる」


そう言って、葉山を見下ろす。


「よろしく頼んだぞ」


書の時間のはずだった。


月星丸がひっくり返した硯のせいで、畳や先生の服に墨が散っている。


この畳や服も、すぐに新しいものに取り替えられるのだろうか。


月星丸はずっとここの閉じ込められている抑圧からか、泣いている。


俺はため息をついた。


「次は琴の時間か」


俺は壁にあった琴と三味線を手にとる。


「じゃあ俺は三味線にしよう。一度やってみたかったんだ。月星丸、一緒に習おうか」


縁側に再び戻って、二人でそれぞれの弦を思い思いに弾いてみる。


まぁ酷いもんだ。


師匠がやって来て、俺と月星丸に手ほどきを始めた。


男の先生で助かった。


「ねぇ、葉山と何を話してたの」


月星丸がこっそりと尋ねる。


「気になるのなら、本人から聞け」


俺は弦の調子を整えると、バチを手に三味線の練習を始めた。


午後からは薙刀の稽古だった。


師範は葉山。


葉山は薙刀に見立てた木の棒を月星丸につかませると、ひたすら素振りと型を教えている。


すぐに月星丸は腕が痛いだの、疲れただの文句を言い始めた。


それをよしとせぬ葉山とジリジリとしたにらみ合いが続いている。


なるほど、葉山は遠慮して声を荒げたり厳しく接したりはせぬが、逆にそれを知っている月星丸はわがままを言いたい放題で、まるで葉山の堪忍袋の限界を試すような素振りだ。


あの葉山の頬の引っかき傷は、このようにして作られたのか。


他の師範とのいざこざはつゆ知らず、葉山との確執だけは、今後のためにも避けた方が月星丸の身の為だ。


「どれ、では俺がどれくらい出来るようになったのか、試験をしてやろう」


置いてあった木刀を手に取る。


「ほら、かかってこい」


俺が木刀を片手に構えると、喜び勇んで月星丸は斬りかかってくる。


しかしまぁ、幼いころからちゃんばらの相手もいなかったと見えて、ひどいものだ。


長すぎる薙刀の扱いの方に苦労をしている始末。


「先ほどの基本の型と素振りの所作はどうした。それを身につけておらねば、その長剣は扱えぬ」


俺は遠慮なく、月星丸の脇腹に木刀を当てる。


おろおろと振り回す棒を、叩き落とした。


「我が身を守りたいのなら、まず己の力をつけよ。自由の意思が許されるのは、それからだ」


「なぜ自分の好きなように生きてはならぬのだ」


「お前が好き勝手に何も学ばず、生きてきた結果がこれではないか。元いた居場所に居つづけることも出来ず、愚かな相手に簡単に騙され傷も負う。外に出せばあっという間に死に絶えてしまうひな鳥に、どうして巣立ちをさせられようか」


踏み込んだ月星丸の剣を、さっと避けて足元を払う。


基本の型がなっていない月星丸は、簡単に転んだ。


「天下太平の世で、武器とするのは剣術だけではダメだ。誰にも負けぬ知恵と知識と、生きる為の賢さを身につけられよ」


そうして奥へ戻っても、藤ノ木や他の御目見え連中に立ち向かえるだけの、思慮深さを今のうちに学べ。


「文字を覚えることが勉学ではない。問題に対して、どう立ち向かい戦えばいいのか、先に予習をし本番に臨む。そしてそれを反省、復習し次に備える。それが勉学の基礎であり学ぶという姿勢だ。算術や漢字だけではない、この過程で身につける姿勢が、あらゆることに通ずるのだ」


立ち上がった月星丸が、長刀を俺に振り下ろす。


「難しい算術や漢詩にあたっても、逃げずに取り組め。どこかに解法はある。そなたの生まれ持った運命と向き合うことも、同じだ」


振り下ろされた長剣を横から下に押しつける。


筋力のない月星丸は、上から押さえられた剣を持ちあげていることすら難しい。


「気に入らぬことは多いかもしれぬが、それも全てそなたの身になる。それを正しいと、まずは信じることから始められよ」


俺がふっと腕の力を抜くと、月星丸の腕が宙に上がった。


その勢いで俺が長剣を叩くと、簡単に手から離れた。


木刀の剣先を月星丸に向ける。


「誰のために何のために、学んでいるのかと思う時もあるだろう。だがそれを見極めるにも、知恵も必要だ。まずはその知恵を身につけられよ」


「本気で、それが出来ると思ってるの?」


「お前にそれが出来ると信じていなければ、俺は今ここに居ない」


構えた剣を脇に戻すと膝をつき礼をする。


「さぁ、これで俺からの教授はお終いだ。後はちゃんとした師範にしっかり学べ」


木刀を葉山に返す。


俺は縁側に戻ると、再び三味線を手に取った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る