第壱拾九話
翌朝になって、うとうととした後で目を覚ますと、部屋はもぬけの空だった。
俺はふらふらと立ち上がる。
板の間では、関と葉山が朝飯を食っていた。
「早かったのだな」
「お前が遅いだけだ」
葉山は箸を置いた。
「では関どの、大変世話になった。このご恩は決して忘れぬ」
「いえいえ、大変なお勤め、ご苦労さまでした」
関と葉山は、揃って頭を下げる。
俺は出された膳の箸をとった。
「では、先に失礼する」
葉山はすたすたと、振り返りもせずに出て行った。
俺はその背中を見送る。
関はまだゆっくりと、飯を食べていた。
「あいつは一体、何しに来てたんだ?」
「お仕事ですよ。とても心労の大きな、お役目を引き受けておいでだ」
俺は関を振り返る。
関は白飯を口に運んだ。
「何かしゃべったのか?」
「そりゃあ少しくらいは、話しをしましたよ」
「何を話した」
関はため息をつく。
「ここで私が何を話しても、どうせあなたは納得なさらないでしょう?」
俺はそれには答えず、みそ汁をあおる。
「そうそう、昨夜から気になっていたのですが、あなたから何か、とても不思議なよい香りがします。なんのお香ですか?」
「知らん。で、月星丸の容態はどうだ」
関はため息をつくと、珍しく片肘をついて俺を見上げた。
「全く。あなたのその鈍感さというか、無神経さというか、その思慮と関心のなさには時折呆れます」
その言葉に、俺はムッとする。
「どういう意味だ」
「さぁね。ご自分でお気づきにならない限り、その病も治りませんよ」
「なら放っておけ。馳走になったな!」
俺は食べ終わった椀を、ドンと膳に置いた。
「で、月星丸の容態は!」
「すっかりよくなったようですよ」
「あれだけの怪我をしておいてか」
「えぇ。今朝早くに、私が止めるのも聞かず、ここを出て行きました」
関の顔を見る。
俺は立ち上がった。
全くどいつもこいつも、月星丸に関してだけは薄情すぎる。
そういう俺だって、やっかいな問題に巻き込まれてしまっていることには、重々気づいている。
だけど放っておけないからこうやって走り回っているのだ。
知ってしまった以上、どうして無視出来る?
深手を負った女の体だ。
そう遠くまでは動けまい。
刺客はどうした?
昨日の今日で、さすがに見張りも立てていなかったか?
もし医院を一人で抜け出すところを見られていたら、もうお終いだ。
月星丸の足を運びそうなところを考えてみる。
あの楼閣? 万屋?
だとしたら関の所にいても同じこと。
大体、何故こうもあいつは、いつもいつも逃げ出すのだろうか。
今までどこでどのようにしていたのかは知らんが、元いた場所からも逃げ、河原で斬られかけた時も逃げ、刺されて傷を負った今も、また逃げている。
「逃げてばっかりだな」
逃げる事は悪いことだとは言わぬ。
逃げるが勝ちの場合なんて、幾らでもある。
相手が悪ければ逃げるに限る。
剣を振る者の常識だ。
現に俺だって数多くの敵から逃げおおせた身。それで今がある。
だけどあいつは、月星丸はどうだ。
剣術の腕前どころか、今時読み書きもろくに出来ず、算術にも疎い。
どこかの立派な武家の娘なのだろうが、なぜそのような修練を一つも受けていないのか。
薙刀の一つも振れぬようでは、武士の娘とは言いがたい。
それでもこうして俺が探しているのは、あの娘をどこかで助けてやりたいと思っているからだ。
さもなくば、あの萬平も動くまいて。
そもそも、だからこそ、あいつはこの話を俺のところへ持って来たんだ。
俺や関を救った萬平は、商売一辺倒のようにみえて、情に厚い。
俺は万屋の前に立っていた。
とにかく事情を知っていて、月星丸が立ち寄りそうなところを順に当たっていくしかない。
「やい、萬平! 萬平よ、出て来い!」
勝手知ったる万屋の店先だ。
俺は人目も気にせず大声を出す。
「何ですか、朝からやかましい」
「あんた、今からどこへ行くんだ」
萬平はいつだって小綺麗な格好をしていたが、今日はまた一段と、身だしなみに気を使っている。
「どうにもこうにも、こう見えて私も、日々忙しくしているんですよ」
駕籠屋まで呼んで、お供の小姓にも真新しい着物を着せている。
「月星丸が消えた」
その言葉に、ようやく萬平は足を止めた。
「何を寝ぼけたことをおっしゃっているんでしょうね、このお方は。そんな報告はいりませんよ、さっさと探していらっしゃい」
眉根を寄せてそう言う萬平に、俺もムッとなる。
「探そうにも行き先が分からぬ上に、こうも黙って逃げられてばかりでは、こちらの意欲も削がれるというものだ。なんとかならんのか」
真顔で言ったつもりの俺に向かって、萬平はふっと笑った。
「またそんな冗談をおっしゃって。私は私で、あの方を何とか生かそうと、鏡月楼の藤ノ木さまと手はずを整えているところでございます」
萬平は俺を見上げた。
「藤ノ木さまのお気持ちを変えたのも、月星丸さまのお気持ちを変えたのも、全てあなたご自身の成した技。大丈夫、月星丸さまはどこかであなたが迎えに来てくれるのを、待っておいでです。早く行っておあげなさい」
萬平は大きな包みを抱えて、駕籠に乗った。
「そうそう。関さまのところでかかった治療費と薬代は、あなたの預かり金から差し引いておきましたからね」
にこにこと手を振って、駕籠に乗った萬平はどこかへ行ってしまった。
俺は深く息を吐き出す。
商才があり、人を見る目にだけは長けている奴だ。
おかげでこの俺も、いいように扱われている。
あの萬平が肩入れするだけの理由が、月星丸にはあるのだろう。
「くそっ」
あぁそうですよ。
あんな奴になんか改めて言われなくたって、俺は探しに行きますよ。
なんでこんなことをやってんのか、自分でも分かんねぇけどな!
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