第壱拾参節

翌朝、俺は外の喧噪で目が覚めた。


「千さん、聞いとくれよ!」


勢いよく引き戸を開けて入って来た月星丸の後ろに、見知らぬ女が立っている。


「なんだそいつは」


「立派なブリだろ?」


月星丸は、手にした大物のブリを掲げる。


「これさ、いくらしたと思う?」


「俺はそんな話しを聞いてるんじゃない」


「お初目にお目にかかります」


後ろにいた女が、丁寧に頭を下げた。


「百五十文したんだ、高い? 安い?」


「あぁ?」


女はくすくすと笑う。


「旬の季節でもないのに、そのお値段は高すぎるのではないかと、魚屋に私が掛け合ったのでございます。聞けば、言い値で買い取ってくれる上客が、このあたりにいると聞いて来たとかで」


「なに?」


そういえば、ここ最近の飯はやたら豪華だったな。


俺は小さな物入れの引き出しを開ける。


中にあったはずの金がほとんど消えていた。


「誰だ、こんなに無駄使いしやがったのは!」


「一分金をぱらぱらと撒いて、釣りを受け取らないと、この辺りでは話題になっていたらしいですよ」


俺は頭を抱える。


金の大半は万屋に預けてあるから困りはしないが……。


「お前、金の計算もできねぇのか!」


「金子なんて、本物を見たのは生まれて初めてだ」


「笠を売りに行っただろ!」


「その時はみんな、ちゃんと金を払ってくれたじゃないか」


あぁ、俺も付き添いでいたから、騙そうって奴もいなかったのか。


「釣り銭のもらい方をお教えしたのでございます」


女の言葉に、俺は月星丸をにらみつける。


「お前、もしかして算術も出来ないのか」


月星丸はくるりと女を振り返った。


「お礼と言ってはなんだが、このブリを料理するから、一緒に食っていってくれ」


「まぁ、それはうれしゅうございますこと」


二人は揃って背を向けると、きゃっきゃ、きゃっきゃとわめきながら、飯の支度を始める。


俺は布団から這い出した。


今の一大事は、ブリなんぞのことではない。


この家になぜ女が入ってきたのかということの方が問題なのだ。


脈が速い。


布団をなおして、できるだけ壁に沿い離れて座る。


腕を組み、女の姿を見なくてもすむように目を閉じていても、ややもするとうっかり気を失いそうだ。


ほどなく出汁のよいにおいが漂ってくる。


「千之介さまを、お待たせしてしまっているのではないですか?」


女が振り返る。


歳の頃は俺と変わらないか、少し若いくらいだ。


男装でボロの月星丸と比べると、化粧を施した大人のこの女には、ぐっと色気がある。


俺の最も苦手とする部類だ。


「先に、おみおつけだけでも、お出しいたしましょうか?」


卒倒しそうになるのを何とか堪えて、首だけを横に振る。


叶うことなら今すぐここから出て行ってもらいたい。


息も出来ぬほどの緊張で全身が硬直しているというのに、出された飯がのどを通るわけもない。


月星丸はこの女に心をすっかり許してしまったようだが、俺にとっては迷惑きわまりない話しだ。


食事を始めた二人の前で、腕組みをしてじっとこの時間を耐える。


女は俺の方を気にしているのか、時折ちらちらとこちらを見上げていた。


その度にいちいち心臓が縮こまる。


「千さまは、何かお気に召さないことでもあったのでしょうか?」


「お萩さん、大丈夫だよ。この人はちょっと変わってるんだ」


食べ終わった月星丸が片付けを始めると、お萩も慌てて土間に下りた。


あっという間にきれいに片がつく。


「じゃ、俺はお萩さんを送ってくるから、千さんはさっさとご飯を済ませておいてよね」


月星丸は冷ややかな視線を俺に投げかけておいてから、長屋を出る。


お萩は月星丸の後を追って、ぺこりと頭を下げてから出て行った。


やっと安堵の息をつく。


あいつの連れてきた女のせいで、背中はじっとりと汗で濡れている。


たまらない。


俺は箸を取ると、勢いよく飯をかき込んだ。




お萩を送ってくるとは言ったものの、それからしばらく月星丸は戻って来なかった。


俺は笠を編みながらイライラと帰りを待っている。


どこまで送っていったのだろうか。


行き先を聞いておけばよかった。


俺も一緒に行くという手もあったが、そんなことは今になって思いついたことで、あの瞬間にそんな自殺行為のようなことは頭に浮かびもしない。


ふと葉山の顔が脳裏を横切る。


もしや、今度こそ奴が強引に連れ戻す計画を立てたのかもしれぬ。


帰り道にでも連れ去られたか? 


そう思うと、また脈が速くなる。


やはりついていくべきだった。


俺は勢いよく立ち上がった。


その時、ガラリと引き戸が開いて、月星丸が姿を現した。


真っ青な顔でふらふらと土間に入り込むと、そのままドサリと倒れ込む。


「どうした!」


助けおこした瞬間、胃の内容物を吐き出した。


全身が小刻みに震えている。


「誰か! 誰か、医者を頼む!」


口元がおぼつかないのか、焦点の定まらない目でパクパクと口を動かす。


吐いたものが独特の色味を帯びている。


俺は月星丸の口に手を突っ込むと、中のものを全て吐き出させた。


異変を察知した長屋の住人が、すぐに駆けつける。


俺が手を洗っている間に、月星丸は布団に寝かされた。


「患者は?」


呼ばれた医者に事情を聞かれる。


この医者の関という男は、俺と同じように万屋の連れてきた、お抱えの医者だ。


「出かけていた。帰りが遅いと思ったらこれだ」


この症状は、俺も関も嫌というほどよく知っている。


ヒ素だ。


「千さん、万屋へ行ってこの薬をもらってきてくれ」


渡された紙切れを手に走り出す。


萬平の選んだ医者だ、腕は十分に信用出来る。


駆け込んだ万屋の店先で店子に用件を伝えた。


混雑している店の片隅に、葉山が座っていた。


「血相を変えてどうした」


葉山は店で出された湯飲みを片手に、それをすすった。


「そういや、あんたんとこのガキがさっき真っ青な顔で歩いてたぞ。どうした、具合でも悪いのか」


それを俺は、上からにらみつける。


「誰の仕業だ」


「さぁな、俺は歩いてるのを見かけただけだ」


「どの方向から歩いてきた。まさかあんたが仕組んだんじゃねぇだろうな」


「どの口が言う。次に無礼を働いたら、叩き斬るぞ」


丁稚から薬が手渡される。


葉山には聞きたいことが山ほどあったが、今はこの薬を届ける方が先だ。


「話しはあとだ。首を洗って待っておけ!」


長屋に駆けもどる。


関に薬を手渡すと、関はすぐにそれを飲ませた。


月星丸が薄目を開ける。

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