星の王とさまよえる湖

紺野理香

星の王とさまよえる湖


 一 謎のひったくり


 仏教の世界観では、宇宙は大仏の座る巨大な蓮華の花だという。

 その蓮華の千枚の花びら一枚ごとに一つの世界があり、それぞれに一体の仏像がまします。仏像の座る蓮華の花びら千枚の、さらに一枚一枚には百億の国があって、一国ごとに太陽と月と、須弥山という山を持っている。

 一組の太陽と月が照らす国を一つの須弥世界とし、千の須弥世界の集まりを小千世界と呼ぶ。その小千世界が千集まって中千世界、中千世界がさらに千集まって三千大千世界である。

 気が遠くなるほど広大な、その三千大千世界の片隅に、一人の元気な少女がいた。

 大きさの違う土色の重箱を七つ、上に行くにつれて小さくなるように積み上げた塔の中。一番上に載った小さなお重の、四方の壁に一つずつ開いた長細いかまぼこ形のガラス窓に手を突いて、少女は一心に外を見つめている。

 いまどき珍しいほどまっすぐな黒髪が、少女の頭のてっぺんで一筋に束ねられて背中に流れている。健康的に日焼けした肌にうっすらと筋肉の筋が浮き出ているのは、日常的に鍛えているからのようだ。好奇心を結晶化したように輝く黒い瞳には、窓の外の建造物の群れを映している。それは、中華人民共和国の内陸部随一の都市であり、千億の世界の中でもとりわけ長い歴史を与えられた都、西安の街並みだった。

 少女のいる塔——大雁塔の南側には、瓦屋根を載せた白壁の平屋が道に沿って整列し、そのはるか向こうには高層ビル群が白くかすんでいる。反対の北側に回れば、大型バスが横向きで何台も停まれそうな大通りと、その先に横たわる灰色の城壁が見えた。

「うわあ……、異国情緒って感じ……」

 黒髪の少女が、目をきらきらさせてうっとりとつぶやくと、背後から、笑みを含んだ小さな声がした。

「葉月ちゃんは、海外旅行初めてだものね」

「うん! 飛行機も初めてで楽しかった。乙姫はほかの国に行ったことある?」

 葉月と呼ばれた黒髪の少女が振り返ると、そこには短い栗色の髪を顔の周りにふわふわさせた少女が微笑んでいた。腕にはスケッチブックを抱え、大きな布のかばんを肩に掛けている。

 彼女は、内気な性格なのか、少し恥ずかしそうに答える。

「ええ、お母さんと、ボルネオの奥地とかシベリアのツンドラとかには行ったことあるわ」

「わお、ディープだね」

 乙姫の母親は博物学者で、父親のいない乙姫を祖母に預けては、世界の秘境と呼ばれる地に旅立って、希少で不思議な動植物を持ち帰ってくる。伝染病や野生動物に襲われる危険の少ない場所であれば、乙姫も一緒について行って、まだ世界に知られていない鉱物や鳥をスケッチし、図鑑を作る手伝いをしているのだ。

「ああ、あっちいな。葉月の父さんまだかよ。熱中症になるといけないから、飲み物を買いに行ってくれるって言ってたよな?」

 八月の西安の蒸し暑さに辟易した様子で文句を言ったのは、ぷっくりした体型の眼鏡をかけた少年だ。

 持っていたノートサイズのタブレットの上で、ぽちゃっとした指を信じられない速度で踊らせ、地図を表示する。この電子端末は、少年の大事な相棒である。

「自販機なんて、すぐ行って来れる距離にあるけどなあ。……ところで乙姫さん、そんな直射日光の当たるところにいて気分悪くならない? そこの野生人ならともかく」

「大丈夫。……でもありがとう、一成いっせいくん」

 乙姫のはにかんだ笑みを見てでれっとした一成に、野生人呼ばわりされた葉月は白い目を向ける。

 乙姫が窓の外を指差した。

「あれ、葉月ちゃんのお父さんじゃない?」

「え、どこどこ?」

 葉月と一成が同時に目を細める。葉月はオンラインRPGにのめり込んでいるし、一成はタブレットを片時も離さないので、二人とも目が悪い。

 大雁塔の下の広場に、豆粒ほどの大きさの人が立ってこちらに手を振っている。

「あ、ほんとだ、パパだ」

「お? なんかあっちに黒い煙が上がってる」

 見当違いの方角を眺めていた一成が声を上げた。朝霞の名残がまだ漂うなかで、一筋の黒煙が異様にくっきりとして見えた。それは西安中心部を囲む城壁の中から上がっているらしい。

「火事かな。ともかく、パパと合流しよっか」

 葉月はくるりと身を翻して階段に向かい、乙姫と一成がそれを追った。

「葉月の父さんって結構大雑把だよな。海外旅行で子供を放置して危ないと思わないのか?」

「パパのそういうところ、葉月とママは大陸性気候って呼んでる」

一、二の三、と声が掛かればすぐさま側転を決めて見せるような、軽やかな足取りで走りながら、葉月は笑った。

「それにパパにとっては、海外じゃなくてふるさとだしね」

「あ、そっか」

「せっかくの里帰りなのに、わたしたちまでついて来ちゃって本当によかったの?」

「ママが仕事で来れなくなっちゃったから、乙姫と一成が来てくれたのは嬉しいよ。パパってかなり天然ボケ入ってるから、二人っきりだと不安だし」

「葉月の父さんって日本語上手いし、見た目からだと中国人だってわからないよな。でも、昨日はやっぱり外国人なんだって実感したかな。ほら、空港のあれ」

 昨日の夜、日本から西安の国際空港に到着したときの一悶着を、三人は思い返した。葉月のパパが、アルバート・S・アークライトなる現在国際指名手配中の男に顔が似ているとされて、屈強なガードマンたちによって別室に連れて行かれたのだ。

「すぐに疑いが晴れてほっとしたわ」

 そんな乙姫の言葉にうなずきつつ、葉月が、

(でもアルバートって思いっきり、ヨーロッパとかアメリカの名前だよなあ)

と、心の中で首をひねったとき、

「アイヤアアアッ」

という女性の悲鳴が響き渡った。

 葉月たちは地上フロアまで降りて来ていた。折悪しく団体のイスラーム圏観光客が大雁塔に入って来たところで、人の垣根が邪魔して周囲が見渡せない。一体何が起こったのだろうと、葉月たちは顔を見合わせた。

 悲鳴を上げた声が、中国語で何か叫んでいる。騒然とする人混みから、一人の若い男が血相を変えて飛び出した。脇には何か袋らしきものを、決して離すまいというように抱えている。

 人混み、女性の悲鳴、逃げる男。その三点セットにピンと来て、葉月の脳内で女性の叫び声はこう翻訳された。

『ひったくり! 誰か捕まえて!』

「よしきた!」

 葉月は好戦的に黒い瞳を輝かせると、人の壁の隙間を見つけてするりと抜け出した。「お、おい待てよ!」

という一成の制止も耳に入れず、ひったくりの背中を追いかける。

「なんでいつもこうなっちゃうかなああ」

「一成くん、わたしたちも追いかけましょうよ」

「ええっ」

「葉月ちゃん一人を、危険な目に合わせたくない」

「わ、わかったよ。乙姫さんがそう言うなら」

 乙姫の一途な栗色の瞳を見て、一成はこくこくとうなずいた。一成にとっては、丈夫な葉月はともかく、乙姫一人を危険な目になどあわせられないのである。

 ひったくりが大雁塔から広場に走り出るのを見て、葉月は、背中の小さなリュックのサイドポケットに手を伸ばした。大雁塔の前の広場を歩く観光客たちはひったくり事件に気づいておらず、猛ダッシュで向かってくるひったくりを、目を丸くして見送るばかりだ。

 真夏の日差しが余すところなく降り注ぐ広場は、四方を緑の木々に囲まれている。広場の尽きるところには、黒い瓦屋根の端をぐわんと反り返らせた大きな門が立っていた。

 ひったくりは、その門を目指しているようだ。この広場から出すもんか、と葉月は心に決めて、サイドポケットからリコーダーのような銀色の金属棒を抜いた。少女が思い切り腕を振ると、シャキン、と小気味良い音を立てて金属棒が一気に四倍の長さに伸びる。

「待て待て待てえい、ひったくり!」

(なんでいつもこうなっちゃうかなあ)

 素晴らしい速さで、ひったくりのポロシャツの背中を追いながら、葉月も一成と同じセリフを胸の中でつぶやいた。しかしその様子はむしろ楽しげと言うにふさわしい。

(乙姫と一成と葉月の三人がそろうと、不思議と事件のほうから舞い込んできちゃうんだもんなあ)

 小学校の校舎のてっぺんにある開かずの部屋の冒険や、文化祭の劇から抜け出した緋色の怪人との対決、毎月第二木曜日に必ず休む教頭先生の謎などなど。それらにいつのまにか巻き込まれ(一成曰く「葉月が率先して首を突っ込んで」)、毎度危険な目に合いそうになりながらも、事件を解決してきた。

(さすがに里帰り旅行では何も起こらないと思ってたんだけどな)

 夏休み、パパの故郷に生まれて初めて里帰りできることになって、葉月は大喜びした。パパの実家は、ここ西安からさらに西に行ったところの蘭州という街にあり、そこには葉月のおじいちゃんが住んでいる。おばあちゃんは、パパが留学した日本の大学で葉月のママと出会う前に亡くなったそうだ。おじいちゃんとはたまに手紙のやり取りをしているものの、実際に会ったことはなかった。

(孫が道中ひったくりを捕まえたって聞いたら、おじいちゃんも喜ぶよね!)

 葉月は、習い事の試合のときに使う、空気をビリビリさせるような大音声で叫んだ。

「ひったくったものを返しなさあああいっ」

 ひったくりがぎょっと振り返った途端に、それまでターボ全開だった男の長い足がもつれた。よろめいて速度が緩んだ隙に、葉月は距離を詰めて、金属棒を横なぎに一閃する。

「天誅!」

「ぎゅわっ」

 ひったくりはすねを抱えて転がった。おおお、とうめく男の喉元に葉月は金属棒の先端を突きつける。

 地面に腰を付けて後ろに手を突いたひったくりが、震え声でしゃべった。

「ひえええ、お助けを。まさかこんな子供まで使って、僕のぎょくを奪おうとするなんて……」

 その言葉の内容に違和感を覚えて、葉月はひったくりの顔を改めて見直した。

 まず目に入るのが、洗濯機で洗ったあと乾燥機にかけたようなくしゃくしゃの黒髪だ。その下では黒目の割合の大きい目が、すねの痛みのためか潤んでいる。先ほど葉月から逃げている姿を見た様子だと、背は高く足もすらあっと長くて、おしゃれな通りを颯爽と歩くのが似合いそうな都会風の青年である。ただ、その雰囲気は小動物のように弱々しい。

 葉月はくしゃくしゃ頭の青年を見つめながら、なんでこの顔立ちにこんなに引きつけられるんだろう、と考えていた。

 この人、眼鏡を取ったパパに似てるんだ、と気づいたのは、乙姫と一成が追いついてきてからだった。

「葉月ちゃん、大丈夫⁉︎」

「葉月、その銀ぴかの棒は何だ?」

 葉月は二人を振り返って、得意げに金属棒をぶん、と振り回してみせた。

「もちろん大丈夫! これは携帯竹刀だよ。旅行中も素振りは怠らないようにって、先生が貸してくれたの」

「先生って、少年剣道クラブの?」

「すごいわ、葉月ちゃん。これならいつでもどこでも練習できて、もっと強くなっちゃうわね!」

「いまのままだって小学生最強の名をほしいままにしてるじゃんか……」

 それで、と一成は視線を葉月の隣に向けた。

「こいつがひったくり?」

 自分の首元に竹刀を突きつける謎の(美)少女に援軍がやってきたのを見て、くしゃくしゃ頭はますます身を縮こまらせたが、何かの袋を抱える腕に力を込めるのは、健気にもやめなかった。

「お前たちに母の印章は渡さない!」

「さっきからギョクとかインショウとか言っててよくわかんないんだよね」

「まあ、とりあえず警察に引き渡しとけばいいんじゃないか?」

と一成が提案する。そのとき、

「おおい、葉月! 乙姫ちゃん! 一成くん!」

と三人を呼ぶ声が聞こえて、葉月たちはきょろきょろと辺りを見回した。

「あ、パパ!」

 大雁塔のほうから、息を切らして葉月のパパが駆け寄ってきていた。どうやら、ひったくり騒ぎのとき大雁塔の根元付近にいたパパは、人の波に押されて葉月たちを見失ってしまったらしい。眼鏡がかなりずれている。葉月は背伸びをして大きく手を振った。

「パパあ、ひったくり捕まえちゃったんだけどどうすればいーい……」

 パパには葉月の声が一部しか聞き取れなかったようだ。両手をメガホンにして叫び返す。

「そんなとこまで逃げなくて大丈夫だぞおお。ひったくりはもう警察に捕まったぞおお」

「どういうこと?」

 葉月たちの声が重なる。六対の視線は一斉に泣き顔のくしゃくしゃ頭に集中した。

 ガンッ、ガガガンッと、硬い岩にドリルを打ち込むような音が響いた。見れば、大雁塔側から五人ほどの奇妙な集団がやってくる。

「何あれ、太極拳?」

 男たちはそろって、中国の朝の公園で、集団で太極拳をしている人々が着ているような、袖の広がった中国服を身にまとっていた。顔にはサングラスをかけている。手には黒光りする差し金状の何かを持っていて、それを周囲の観光客に向けた瞬間、あのガガッというドリル音が響いて、向けられた観光客が倒れる。

 邪魔な障害物は排除する、とでも言わんばかりのビジネスライクな雰囲気さえ漂う中国服たちの進路に、葉月のパパがいた。

 それまで手分けして観光客を処理していた中国服たちが、パパを視界に捉えた瞬間サッと陣形を変えてパパを取り囲んだ。戸惑うパパに構わず、ひときわ体の大きい中国服が黒い差し金をためらうことなくパパの背中に合わせて構えた。

 ガガッ。

 ドリル音とともにパパがぶるっと震える。重力に抵抗する力を失って崩れるパパの体を、体格のいい中国服が難なく受け止めた。

「ちょっと! ちょっと待ちなさいよ!」

 葉月が腕を振り上げて、パパを抱える中国服たちに突進しようとした。

 ゴオオオという低いエンジン音とともに、門の向こうに大型車両が停まった。大雁塔と広場を挟んで向かいにある門である。中国服たちはパパを担ぎ上げて門をくぐり、階段を降りて軍用車のような、渋い緑色のいかつい車へと走る。さっきまであれほど周囲の人間を倒していたのに、パパを回収して目的を達成したからなのか、葉月たちが子供だからなのか、中国服たちは三人には目もくれず脇を通り過ぎた(くしゃくしゃ頭は、葉月たちの陰になって中国服たちから見えなかった。正確には、中国服たちから見えないように、くしゃくしゃ頭が三人の後ろに隠れた)。

「パパっ」

 葉月は門を通り抜けて、白いきざはしの上端に立った。階段を降りたところもまた広場になっており、その先は広い車道につながっている。中国服たちはちょうど車に乗り終えたところで、ドアを勢いよく閉める音がバタン、と響くと、ギルギルギルッと大きなタイヤをきしらせて軍用車は発進した。

 人や物の影を地面に焼き付けようとする強い八月の太陽光を、広場の白い石畳が全反射して目をくらませる。白い光の中でいま行われた暴挙は、現実という影を奪われて、不自然に宙に浮いていた。

 葉月はただ目を大きく見開いて立ち、乙姫は青ざめている。一成が、音の伝わらない水中で無理やり声を通そうとするように、かすれた声を発した。

「あれは銃……?」

 誰もが目の前で起きたことを説明するのを恐れている。葉月のパパを見舞ったかもしれない決定的で致命的な出来事を言葉にするのが怖いのだ。そんな無酸素状態を破ったのは、背後からかけられた遠慮がちな声だった。

「あの男の人は死んでないと思うよ……多分」

 門の下の暗がりから日差しの元に姿を表したのは、自信なさげな風情のくしゃくしゃ頭の青年だった。

「ほんとに⁉︎ 嘘じゃない⁉︎」

 葉月がその言葉にすがりついた。青年は、少女の勢いに気圧されながらうなずく。

「僕も前にあれで撃たれたことがあるから。あれは睡眠薬銃なんだ。だからあの銃で撃たれても、眠り込むだけで死なない。ほら、門の内側の人たちも、丈夫な何人かはピクピク動いているのが見えるかい。あと三十分もすればみんな目を覚ますと思うよ」

「よかったあ……」

 乙姫が親友の背中に優しく手を置く。

「葉月ちゃんのお父さんは、絶対警察の人が見つけてくれると思うわ」

「でもどうやって説明しよう。言葉が通じないよ」

「よ、よければ僕が通訳しよう。中国語は話せるから」

と、青年が控えめに手を上げて申し出て、即座にその手でぴしゃりと額を打った。

「あ、ごめん駄目だ。僕、警察には行けないんだ……」

「なんで?」

 葉月は思わず声を上げる。三人はなんとなくしん、となってくしゃくしゃ頭を見つめた。葉月は言葉を選びながら話しかける。

「葉月たちは、お兄さんがひったくりだと思って追いかけてたの。でもそれは勘違いだったみたいだから、ごめんなさい」

 一成も口を挟んだ。

「でもそれとは別に、あんたはやけに葉月の父さんをさらった男たちに詳しいよな」

「前にあの銃で撃たれたことがあるって言ったし。あの中国服の男の人たちに、前にも会ったことあるの?」

「おまけに警察には行けないとも言った」

 葉月と一成の畳み掛けるような質問に、くしゃくしゃ頭はうなだれている。

「お兄さんは一体どういう人なの?」

 葉月は息を詰めた。

「わたし、わかったわ」

 乙姫をぽつんとつぶやいたので、ほかの三人は驚いておとなしい少女を見た。

「葉月ちゃんのお父さんがどうして連れて行かれたのか考えたの。この人と間違えられたのよ。だってこの人、葉月のお父さんにすっごくよく似てるもの。本当は、この人が中国服たちに狙われてたんだわ。だから逃げ回ってた」

「そうか、あの怪しい男たちに追われてた理由ってのが、警察に知られるとまずいんだ」

 一成が手を打つ。頭を上げたくしゃくしゃ頭は何か言いたげにもごもごして、また顔を伏せてしまった。紫色の袋を抱えた脇をぎゅっと締める。葉月がそっと近づいて、青年の顔をまじまじと見上げながら言った。

「ずっと気になってたんだけど……お兄さんって日本人じゃないよね?」

 くしゃくしゃ頭は一瞬虚を突かれた顔になったが、遅れて首を縦に振った。

「え、そうなのか」

「全然気づかなかったわ」

「日本語のイントネーションが変だけど、日本人の顔してるから、そういう方言か何かなのかって思っちゃうよね。中国の人かとも思ったけど、パパがしゃべる日本語でもないし」

「……日本語は結構上手くなった気でいたんだけどな」

 くしゃくしゃ頭は、初めて少し笑った。笑うと黒目がちの目に、きらきらといろいろな色の光があふれるように見える。ひったくり犯というレンズを通して見ていたせいで気づかなかったが、自分の中にわくわくするものをたくさん蓄えている人の瞳だった。

「僕の父は日系アメリカ人で、母は中国人だ。僕の祖父が日本人」

「おじいさんが日本人だから、日本語を話せるの?」

 葉月が尋ねると、くしゃくしゃ頭は曖昧にうなずいた。

「祖父は幼い頃に亡くなったから、習えたのは少しだけだけどね。高校から本格的に勉強して、いまは友人に日本人がいるからよく使うんだ」

 くしゃくしゃ頭の家系を聞いて、中国人と日本人のハーフである葉月は親近感を覚えた。

「お兄さん、名前は?」

「——セイヤ」

 青年は用心深く答えた。

「セイヤさん自身は何人なにじんなんだ?」

 セイヤが答えるまでに、少し間があった。

「——アメリカ人だった。一ヶ月前までは」

 どういうこと? と葉月たちが問い返す前に、セイヤの様子が急に落ち着かなくなった。門の内側をうかがったり、反対側の道路を見やったりして、しきりに時計を確認している。一成が不審そうにした。

「どうしたんだ?」

「いや、おかしいんだ。あれから十分も経つのに警察が来ない。ひったくりが逮捕されたっていうんなら、この近くにまだ警官がいるはずだろ?」

 言われてみれば、確かに警察の到着が遅い。中国服たちが観光客を襲っている場面に遭遇した人の中には、警察に通報した人もいるだろうし、この広場の異変は大雁塔からもよく見えるというのに。

「まさか、手を回して買収した……?」

 戦々恐々としたセイヤの言葉の端を聞き取って、一成がはん、と鼻で笑った。

「警察を買収? そんなの、最近砂漠を一つ買い上げたっていう大財閥じゃあるまいし」

「砂漠なんて何に使うの?」

「さあな。石油でも掘るんじゃないか?」

 セイヤが青ざめた顔で言った。

「こ、この場所に残っていたのは間違いだったかもしれない。あいつなら買収さえ必要ない。圧力をかけるだけで十分なんだ。

 君らは警察に保護してもらうといい。僕はついて行ってあげられないけど。でも、警察はきっとこの事件を捜査しないよ」

 セイヤは、あっけにとられている葉月たちの顔を見回して、がっくりと肩を落とした。二重まぶたの垂れ目が、さらに頼りない印象を与える。

「すまない。お父上が人違いされて連れて行かれたとき、そうできたはずなのに、僕は止めなかったんだ」

 一成が怒った顔をする。葉月は、うつむくセイヤの顔を覗き込んだ。

「セイヤさん、謝らないで。セイヤさんは確かに臆病なのかもしれないけど、ほんとはいい人だよ、きっと。だって葉月たちのこと、助けようとしてくれてるから」

 驚いたように目を見張ったセイヤに向かって、葉月はにっこり笑いかけた。

「ねえセイヤさん。セイヤさんの行くところに葉月もついてくよ。パパをさらった集団の本当の狙いがセイヤさんなら、必ずまたセイヤさんの前に現れるでしょ。警察が探してくれないなら、パパは葉月が助け出してみせる」

「おい葉月、本気かよ」

 一成が慌てた声を出した。

「駄目もとでも警察に頼んでみようぜ。だいたいあいつら、武器持ってたじゃんか」

「やだし。警察に行ったら『保護』されちゃうでしょ。乙姫はどう思う?」

 葉月の親友は微笑んだ。

「わたしは葉月ちゃんに賛成よ」

「乙姫さんはいつも葉月に味方するんだ」

 一成は泣きそうな顔になった。

 三人の会話を、目を丸くして聞いていたセイヤに、葉月はとびきりの笑顔を見せた。

「セイヤさんは、警察を言いなりにさせちゃうくらいの権力に追われてるんでしょ。パパを探すついでに、葉月が守ってあげよっか?」

「えっ?」

 セイヤの黒目がちの目を見上げて、葉月はなるべくかっこよく言った。大好きなRPGの冒頭、旅の出発点の酒場で主人公の見習い冒険者に声をかける、面倒見のいい女騎士みたいに。いままで何度も繰り返してきた、でもいつも新しくわくわくする何かが見つかる、冒険のはじまりのように。

 葉月が胸の前に、携帯竹刀をまっすぐ立てる。その銀色の刃が、夏の陽光をきらりとはね返した。

「葉月が、あなたを守る騎士になってあげる」

 かつてシルクロードの起点であったこの古都が、西域に発つ旅人たちを迎えてきた青空の下へ、新たな四人の冒険者を送り出そうとしていた。





 二 亡国の宰相


「大雁塔からはだいぶ歩いたよな」

 疲れ気味の一成の言葉に、乙姫とセイヤは言葉少なにうなずいた。

 大雁塔を出て一時間、四人は西安の中心部をぐるりと取り囲む城壁の上に立っていた。灰色の煉瓦を積み上げて造られた城壁は、高さが四階建ての建物くらいで、その上は大型トラックが余裕ですれ違えるくらいの遊歩道になっている。いまその遊歩道には、サイクリングを楽しむ観光客やウォーキングに勤しむ地元の住民がまばらに通っている。

 真夏の直射日光を存分に浴びながら、大雁塔から伸びる大通りを北上した一行は疲労困憊の体だったが、葉月に関してはその限りではないらしい。城壁の外側のへりの高くなっている部分に手を掛け、よっと体を持ち上げて街の景色を眺めている。風が、束ねた黒髪を揺らして、砂の匂いとどこかの家の昼食らしき甘じょっぱい匂いを運んだ。

 葉月がセイヤに訊く。

「なんで城壁に登ることにしたの?」

「ここなら、敵や警察が来ても見晴らしがいいからすぐわかるし、どこにでも降りて逃げられるからね。城壁の中にでも外にでも」

 城壁の途中に建つ、赤いぼんぼりを下げた楼閣を見て乙姫が、肩掛けかばんからスケッチブックと鉛筆を取り出した。ここは確かに、スケッチにはうってつけの場所だ。

「ここから北西の街の中心近くには、鐘楼と鼓楼がある。それぞれ何層もの屋根を持っている大きな建物で、昔は鐘と太鼓の音で時間を知らせていたんだ。ほかに有名なのは清真大寺かな。イスラームのモスクなんだけど建物は中国風で、不思議な雰囲気だよ」

 セイヤが、城壁の内側を手で指し示して教えてくれる。一成が、歩いて来た方角を見た。

「あんなに歩いたのに、大雁塔がやけに近くに見えるぞ」

「あれは大雁塔じゃなくて、小雁塔よ。塔が、大雁塔よりもずっと細かく何層にも区切られているでしょう?」

「ほんとだ。乙姫さんはよく知ってるんだな」

 乙姫がはにかんで笑う。それを見て、ああ乙姫さんってかわいいなあ、と思いながら一成は、この人はおれが守ってみせるぞ、と拳を固く握った。

 セイヤに心を開き始めている葉月と乙姫に対して、一成はまだこの謎多き青年を信用していない。葉月と乙姫は反対するだろうが、次にあの中国服たちが襲ってきたときはおとなしくセイヤを突き出して、葉月のパパを返してもらうつもりだ。

(それまでは、おれが乙姫さんを危険な目には合わせない。葉月には負けないからな)

 自分より強い少女にバチバチと視線を送り、対抗心を燃やす一成だった。

 そんな少年の内心はつゆ知らず、葉月は乙姫による歴史解説に耳を傾けている。

「大雁塔は、玄奘三蔵っていうお坊さんが天竺から持ち帰ったお経を保管したり、中国語に翻訳したりするために使われた塔なの。日本が奈良時代の頃ね」

「天竺って?」

「昔のインドのこと。玄奘三蔵は『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人で、二十年かけてシルクロードを通って中国と天竺を往復したのよ」

 そう説明を加えた乙姫の手元をひょい、と覗き込んで、葉月があれ、と声を上げた。

「乙姫、風景を描いてるのかと思ったのに」

 乙姫の細い指に握られた鉛筆の先には、奇妙な人物が出現していた。

 白をベースに、目と鼻と口の周りがハート形に赤く塗られた顔。頭だけ黒く塗られた鼻。海賊のキャプテンのような、つばの反り返った黄色い帽子。ぱっと目を引く模様の付いた、派手な黄色い服を着てひょうきんなポーズをとるその人物は、人間というよりむしろ、

「猿に似てるね」

「孫悟空じゃないか」

 京劇の、とセイヤは言い足した。

 京劇は中国独特の音楽劇だ。孫悟空は、先の会話にも出てきた西遊記の登場人物、というか登場猿である。

 街のポスターで見たんです、と乙姫は小さな声で言った。スケッチブックをそそくさと閉じてしまったのは、それ以上詮索されると困るからだ。ポスターで見た、というのは嘘だったから。

 乙姫は本当は、動いている孫悟空をリアルで見たのだった。西安国際空港の雑踏の中を、孫悟空は如意金箍棒片手に跳ね回っていた。昨日の夜、日本からの飛行機を降りてまもなくのことだ。赤い飾りのついた黄色のキャプテンハットはすぐに柱の陰に消えてしまったので、乙姫は目をこすり、時差ぼけかな、と思ったのだった。中国と日本の時差は一時間しかないのだが。

(でも、今朝もまた目撃したのよね)

 西安城壁の内側のホテルから大雁塔に向かうタクシーの外を、昨日と同じ黄色い中国風の服を身にまとった孫悟空が、軽快に走っていったのだ。しかしそれは車の列の中へ一瞬にして隠れてしまい、乙姫以外の誰も見た者はいないようだった。

(孫悟空がわたしたちの後をついてきているんだとしたら、このことは葉月ちゃんたちには黙っていよう)

 乙姫はとある事情から、この世に科学ではまだ証明されない出来事が起こることを知っていた。西安に着いてから乙姫たちの周りに跋扈する京劇の猿のヒーローのことを、そうした不思議な存在だと考えていたのだ。

 乙姫は見えない封をするように、スケッチブックの表紙をなでた。超自然とは縁のない二人の親友を、乙姫は心配させたくなかった。

「それはそうと、これからどうする? なんだか長期戦になりそうだからなあ。おれたちは、この後の作戦を練るためにここに来たんじゃなかったっけ」

 一成が口を挟んだ。

 葉月は悩む素振りもなく簡単に言う。

「セイヤさんは、特に行くあてがないんでしょ。それなら蘭州のおじいちゃんちに行こうよ。葉月たちがいつまでも来ないと心配すると思うし、絶対力になってくれると思うな」

「葉月ちゃんのおじいちゃんは、中国式の剣術の達人なのよね」

「うん! 蘭州で道場を開いてるんだ。無事に向こうに着いてたら、稽古をつけてもらう約束だったんだけどね」

「蘭州までは鉄道で八時間くらいらしい。時刻表も調べようか?」

 一成がタブレット上で細かく指を動かした。セイヤが困ったような顔をする。

「あんまり駅に近づきたくないかな。中国って、防犯カメラを活用した顔認証システムが発達してるみたいで、そういうのに映ると行き先が当局にばれてしまうかもしれない」

「当局って中国警察のこと?」

「まあ、そう、とかいろいろ……」

 葉月の問いに、セイヤは歯切れ悪くうなずく。一成は疑わしげな目を向けた。

「あんたも一緒に行動するなら、おれたちに洗いざらいとは言わないけど事情を説明してくれよな。行き先がその『当局』にばれるとなんでやばいんだ?」

「チャイニーズ・マフィアに借りてたお金を返せなくなって、危ない仕事をさせられてるとか?」

 葉月が、サスペンス映画で得た知識を披露する。セイヤはしどろもどろに言った。

「じ、実を言うと、中国服たちに追われる理由と、当局に居所を見つかりたくない理由は別なんだ」

「どう別なんだよ」

「そ、それは、言えない」

「おい」

「だけど、中国服たちに関しては話しておこう。彼らについては君たちも当事者だしね」

 セイヤは覚悟を決めたように軽く目をつぶった。それまで固く締めていた脇を緩め、紫色の巾着袋を手に載せる。手帳ほどの大きさのその巾着袋は四隅が擦り切れており、持ち主によって日常的に持ち歩かれていることを示していた。

 セイヤが巾着の底をつまんで、てのひらの上に袋の中のものを落とした。お椀のように曲げた長い五本の指に、緑色の光が映る。葉月の唇からつぶやきが漏れた。

「きれい……」

「これは、僕が母からもらった印章。つまりはんこだね。ぎょくと呼ばれる、美しい石でできてるんだ」

 てのひらにころん、と載っているのは、滑らかに磨かれた直方体だった。直方体の上部には黄色い組紐が結ばれている。石の色は神秘的でまろやかな緑色だ。

「中国服たちは、このはんこを狙ってるの?」

「多分ね。あのどう見ても中国風な男たちに繰り返し襲われる理由として、このほかのことは思いつかない。印章をくれた母は、中国人だったってことは話したよね。それに、今朝僕を捕らえたときも、彼らは印章を見せるように言ってきた」

「今朝捕まってたのか⁉︎」

 睡眠銃に打たれたことがあるとは言ってたけどさ、と一成が言い足すと、セイヤは目尻を下げて、うん……と顎を引いた。そうするとせっかくの整った顔が一気に情けなくなる。

「泊まってたホテルの前で、知らない車に拉致られちゃって。睡眠薬の効き目が想定より悪かったみたいで、彼らの隙をついて逃げてきたんだ。僕を乗せてた車は、僕が脱出したはずみにハンドルを切り損なって横転して、炎上してたな」

 大雁塔から見えた黒い煙はその事故のものだったかもしれない、と葉月は納得した。

「印章を敵にあげるわけにはいかないの?」

「そういうわけにはいかない。これは母の唯一の思い出の品なんだ」

とセイヤはきりっとした表情を作ったが、その一瞬後にはまたへにゃっとした顔に戻った。

「たとえこの身が危険にさらされても……?」

「なんで疑問形なんだよ」

 もう一度葉月は緑色の玉に注目する。印章の底面には、模様のような文字でこう記されていた。


 月蘭国


「げつ……らん、こく?」

 葉月が苦労して読むと、セイヤは印章に目を落として、

「それは、亡くなった母が話してくれた、おとぎばなしの中の王国だよ」

とさみしそうに笑った。

「ねえ見て。城壁の上を車が走ってくる」

 乙姫が不安げに視線を送るほうを見やると、確かに葉月たちの右側からゴロゴロと音を立てて、軍用車のような黒い車が向かってくる。自動車は城壁の上を通れないはずだ。反対側に視線を転じれば、そちらからも同じ型の車がやってきていた。大雁塔前の広場で、葉月のパパをさらった男たちが乗っていた車だ。

 ひょわあ、と珍妙で情けない悲鳴を上げて、セイヤがしゃがみこむ。乙姫を素早く背中にし、葉月がしゃきん、と携帯竹刀を伸ばした。

 葉月が、太陽の化身もかくやと思わせるような笑顔で、涙目のセイヤを振り返った。

「安心して、セイヤさん。葉月が守るから」

 葉月たちの十五メートルほど手前で軍用車は止まり、中からバラバラと各台五人ずつ、合わせて十人程度の男たちが降りてきた。そろいの中国服にサングラス、手には小型の睡眠銃を持っている。

 最初に葉月たちに駆け寄ってきたのが、右側の中国服たちの、しかも三人だけだったのは戦略的に間違いだった。ほかの七人は退路を塞ぐように、葉月たちの軍用車の近くに留まったままだ。

 睡眠銃はそれほど射程が長くないに違いない。中国服が葉月たちから五メートルほど離れた地点で銃を構えたとき、葉月はトン、と地を蹴った。

 撃たれにくいように身を低くして中国服へと走り寄る。まさか少女が立ち向かってくるとは予測していなかったのだろう。反応の遅れた一番手前の中国服の目の前で、葉月はダン、と強く踏み込んで跳び上がると、大上段に振りかぶった携帯竹刀を男の脳天に振り下ろした。

 厄介事を引き寄せやすい上に喧嘩っ早い葉月には、剣道の岩倉先生から言い聞かされている三つのことがある。

(道場の外で剣を使うときに剣士が守らなきゃいけないこと。一つ、敵が味方より多いこと!)

 一人目の中国服が声もなく崩れ落ちるより早く、葉月は地面すれすれにかがみこんで、右隣の中国服のすねを強かに打った。

(二つ、敵が武器を持っていること)

 ようやく睡眠銃を向けてきた三人目の中国服の手首を携帯竹刀の先で叩くと、男はあっさり銃を落とした。手首を軽く振っただけに見えても、手の内をキュッと締めた打突は涙が出るほど痛いのだ。歯を食いしばって手首を押さえた中国服のみぞおちを、葉月は容赦なく突く。

(三つ、戦闘能力のない味方を守らなきゃいけないこと!)

 二人目の中国服がすねを抱えて転がった時点で、慌てて先発隊に加勢しようと動いた左手の五人に、葉月は向き直った。

「葉月ちゃん、後ろ!」

 乙姫の声に、葉月は首をすくめる。彼女をかすめて、一発の小石が、葉月の背後に襲い掛かった別の中国服の額にヒットした。敵に状況を把握する間も与えず、二発目の小石がもう一人の中国服に肩を押さえてうずくまらせる。

 先に自分が倒した三人を除く、右側の残りの二人が即座に戦闘力を削がれたのを、葉月はちょっと振り返って理解した。「一成、ナイスショット」と唇の端を上げる。

 城壁の端に背をつけて退避していた一成は、

「子供パチンコ大会優勝のおれの腕が、ここでも役に立ってしまったか」

とパチンコを左手に持ち直し、丸っこい指で気障に前髪をかきあげた。乙姫さん見てくれたかな、と横目でうかがうと、傍らの少女は葉月の活躍に目を輝かせているので、一成はがっくりと肩を落とす。

 携帯竹刀を振り回して二人の中国服を石畳に沈めた葉月は、最後の一人に電光のごとき小手面をお見舞いして、ノックアウトした。ほかの二人の中国服は、一成がパチンコを連射して倒してくれていた。

「乙姫、セイヤさん、大丈夫だった?」

「ゆわわわわ……あれ?」

 おかしな悲鳴を上げていたセイヤは、固くつぶっていた目をうっすら開けると、きょときょとと辺りを見回した。

 ゴオオオオ、と再び低い排気音が聞こえた。葉月が片手で額に廂を作り、目を細める。

「うわ、何か豪華な車が来た。あれがラスボスかな?」

 体のあちこちを押さえてうめく中国服たちと軍用車の向こうから、つややかな漆黒のリムジンが姿を現した。黒い高級車は滑らかに減速すると、葉月たちの数メートル手前にぴたりと横付けした。車の側面には、大粒のダイヤモンドを両足でつかんだ鳩が、美しい銀色で描かれている。片足に小さな筒がくくりつけられているところを見ると、伝書鳩のようだ。四人は息を飲んで、スモークガラスの窓のついた扉が開くのを待つ。

 最初に、葉月たちとは反対側の運転席が開いて、二メートルを超す大柄な男が降りた。

 巨漢の運転手は、果たしてそれで運転できるのだろうか、顔全体を仮面で覆っていた。目を極限まで見開き、絶叫するように上顎と下顎を大きく離した表情と、面の上部に鉤爪を立てた鳥の化け物、耳があるはずの部分から生えた小さな翼は、仮面を見るものに恐怖を与える。伝統芸能に詳しいものが見れば、その金の仮面が、舞楽の蘭陵王だと気づいただろう。それに加えて彼は、三国志の武将が着るような、重い鎧を身につけていた。

 異形の仮面の運転手は葉月たちの側に移ると、後部座席のドアを恭しく開けた。

 優雅にリムジンの外へ滑り出た青年を見て、葉月は彼が宝石でできているのかと思った。

 黒いリムジンを背景にすると、その若者は闇色のビロードの上に置いた金細工のように見えた。見たことのない部類の美しさに葉月はぽかんとし、乙姫は顔を赤らめてスケッチブックに写し取ろうとし、一成はそんな乙姫を見て不機嫌になった。セイヤはぎゅっと目をつぶって「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」とお経を唱えていたので、青年の姿を見ていなかった。

 青年の髪は、硬い岩石を打ち合わせたときの火花を無数に集めたような金色で、肌は氷山のように白い。その目に視線を移した葉月の心臓がことりと動いた。若者の瞳は、セイヤの印章と同じ翡翠色だった。

 青年のまとう空気はダイヤモンドダストのように輝き、それでいてひどく冷たい。照り輝いているのは青年の美貌だけではない、その衣装もまた然りだ。足元まであるガウンのような衣に、真珠を編み込んだ太い帯を締めている。首飾りを下げた襟元と、巨人の手首を通すように大きく広がった袖口には幾何学文様が描かれており、ラメ入りの青い服地には銀糸の刺繍の龍がダイナミックに舞っていた。

「なんつう派手な兄ちゃんだ……」

「まぶしいよう」

「うわっ、何だいあの人間シャンデリアは!」

 ようやく目を開けたセイヤが、あまりのまばゆさに驚いて口走る。

 一瞬にして四人の目を奪った美しい若者は、足元に転がる彼の手下にちら、と視線を走らせてから、葉月たちを射抜くように見た。傍らに仮面の巨漢を従える様子は、古風な中国の衣装とあいまって、いにしえの王朝時代、城壁の視察に訪れた大臣の風格さえ漂わせる。

 葉月が、竹刀をまっすぐ青年に突きつけた。

「葉月のパパを返して! 絶対あなたがさらわせたんでしょ!」

 青年はわずかにその柳眉を上げたが、次に口にした言葉の上では葉月を無視した。

「ご挨拶が遅れたことをお詫びいたします。私の名はレスター・チャン。月蘭王国の宰相でございます」

 玲瓏とした声は、ほのかに異国の訛りのある日本語を話した。

「月蘭王国だって?」

 逃げ腰のセイヤがかすれた声でつぶやく。その横では一成が、「レスター・チャンだって?」と小声で言って、電子端末を操作し始める。葉月はセイヤに尋ねた。

「月蘭王国って?」

「印章に刻まれていた文字。あの月蘭国のことだよ」

「でもそれはおとぎばなしなんでしょ?」

「月蘭王国は存在しました。かつて、この地上に」

 氷で作った木琴を叩いたようなレスターの声が割って入った。セイヤがうつむきがちに、語尾のはっきりしない口調で言う。

「本当に歴史上の存在だったっていうのかい? でも母の話では、月蘭王国はとうに滅びたと……」

「それは真実です。ですが私が必ず再興させる」

「国民も、国土もないのに……?」

「いにしえの月蘭王国が滅んだとき、わずかに落ちのびた者の子孫が、いまも私に従っています。この者たちは皆そうです」 

 レスターが、隣に無言で立つ仮面の運転手と中国服たちを、ほっそりした手で指し示す。中国服たちはダメージを回復し、彼らの若き首領を守るように整列していた。

「建国する土地も手に入れました。一六〇〇年前、いにしえの月蘭が栄えていたのと同じ場所です。いまは砂漠となっていますが」

「一六〇〇年⁉︎」

 葉月が小さく叫ぶ。セイヤが上目遣いにレスターを見た。

「げ、月蘭が昔あった場所といえば、いまの中国西部だ。新しい国家の建設なんて、中国政府が許すはずないだろう」

「承知しています。我々は中国政府と戦争になることもいとわないつもりです。あの辺りの住民が、中国人の多数を占める漢民族とは宗教も民族も違うことはご存知でしょう。彼らは、我々に協力してともに中国政府に反旗を翻すと約束してくれましたよ。もちろんその暁には、彼らを月蘭王国の民として迎えましょう」

 国民と聞くと一つの民族を思い浮かべがちな日本人には想像しにくいが、世界には言葉や宗教の違う人々が同じ国民として暮らす多民族国家のほうがはるかに多い。そうした異なる民族どうしで内戦になることもあるのだ。

「そんなこと、本気で考えているのかい?」

 セイヤの声が震えている。葉月の頭もぐわんぐわんした。

 一六〇〇年! 日本の飛鳥時代に滅びたような国を復活させようと、現代まで夢見続けることなど可能なのだろうか。

「民もいる、国土も、戦争の用意もある。それなのにただ一つだけ、いまだ足りないものがあるのです」

 レスターのささやくような声に、セイヤははっとして巾着袋を抱きしめた。

「き、君たちに印章は渡すものか! これが戦争の引き金になるのなら尚更だ!」

「印章は王位継承者の証です。それを持つことがすなわち、月蘭国王であることを意味するのです」

 静かな声で言いながら、レスターはセイヤのほうに一歩踏み出した。セイヤは怯えた顔になったが、ところどころ裏返った声でなんとか叫んだ。

「そう、王だ。お、王国というのなら、君たちにこんなことをさせる王は一体どこにいるんだ」

「砂漠のオアシスであるロプ・ノールの水が絶え、月蘭が滅亡したとき、中国は王朝が次々と交代する動乱の時代でした。私の先祖は戦乱の中で、月蘭王家と離ればなれになってしまったのです」

 レスターがセイヤに一歩ずつ歩み寄るにつれて、中国服たちが彼の左右に道を作るように並んで、ひざまずいた。

「しかし誇り高き月蘭の宰相の一族は、決して使命を忘れることはありませんでした。やがて先祖の血が薄れても、一六〇〇年間探索の旅を続けたのです」

 レスターの冷たい翡翠色の目が、セイヤの胸に抱えられた紫の巾着袋をひたと見据えた。

「私の父も、祖父も、曽祖父も、命が尽きるまで世界の隅々を探し求めて、それでも得ることができませんでした。しかしようやく私の代で、一族の悲願を果たすことができます」

 完全に回復した中国服に挟まれて、葉月たちがこの場から脱出することは不可能に近そうだった。葉月は乙姫をかばい、一成がパチンコを構える。セイヤは印章を、両腕でさらにきつく抱きしめた。

 セイヤの目の前まで来たとき、ざっと音を立てて、レスターが膝を折った。

 あっけに取られるセイヤに向かって、優美な手を胸に当てた月蘭王国の美しき宰相は、こう述べた。

「一六〇〇年間、お待たせして申し訳ありませんでした。私たちの国に帰りましょう、月蘭国王陛下」


 三 王様はお尋ね者


「なっ……」

 セイヤが絶句する。言葉を失ったのは、葉月と乙姫、それに一成も同じだった。

 セイヤの足元に片膝をついたまま、レスターは研ぎ澄まされたナイフの刃のように美しく危険な微笑を浮かべる。

「陛下のお母上は、月蘭王家の末裔の姫君であらせられました。お母上は月蘭のことを物語としてお伝えになったようですが、陛下が王家の正当な後継であることをお話しするときを待つうちに、不運にもお隠れになってしまったのでしょう」

 セイヤがどもりながらも声を発した。

「じゃ、じゃ、じゃあ、僕を繰り返し拉致しようとしたのは、月蘭の国王として立てるためだったっていうのかい」

「ええ、そのためにお迎えにあがりました」

「し、信じられない」

 わかりました、とレスターは答えて、懐を探った。取り出したうぐいす色の布の包みを開くと、真ん中に小さな穴の開いた緑色の円盤が現れた。

「代々宰相に受け継がれているへきです。陛下の持つ印章と同じ玉から掘り出したと伝えられております。月蘭の最盛期、治めていた国から献上された見事な玉で、印章、璧、指輪の三つの品が作られました。指輪だけは、いまは行方不明になっていますが」

 璧といえば、古代中国で祭祀に使われた道具である。権力の象徴だとも考えられた。

 これで信じていただけますか、と歌うように宰相が言う。レスターの手の中にある璧が、セイヤの印章と同じ石から取られたものだということは歴然としていた。これほど深い緑色はほかにない。

 しかし葉月は、玉の璧に見入っているセイヤの前に、手を広げて立ち塞がった。レスターの持つ雰囲気に押されて、後ずさろうとする足に力を込めて踏みとどまる。

「こんな円盤一つでセイヤさんをどこかへ連れて行こうとしないで。いまはもうない国の偉い人なんて、信用できないよ。

 それから、葉月のパパをどこへやったの!」

 リムジンを降りて以来セイヤに固定されていた視線が、初めて葉月に向けられた。そのつららのような視線に、うっと言葉が喉に詰まりそうになったが、葉月は負けじとレスターをにらみかえした。

「パパを閉じ込めてる場所を教えてよ!」

「ああ、そういえば部下が、陛下と間違えて平民を一人捕らえていたな」

 まるで福引でポケットティッシュが当たったときのように気のない表情でつぶやいたレスターは、フッと口角を上げた。

「その者は我々の実験材料にして、有効に使わせてもらおう。私は商人だからな」

「じ、実験って何のこと!」

「葉月、あんま逆らわないほうがいいかもしれないぞ。この人、いまの世界でもバリバリ偉い人だ」

 いきり立つ葉月のTシャツの裾を引いたのは一成だ。振り返る葉月と隣の乙姫に、とあるウェブページを見せた。

「レスター・チャンって名前を検索してみたんだ。そしたら道理で聞き覚えがあるわけだ。一ヶ月前、砂漠を買い取ったって大金持ちは、この兄ちゃんのことだったんだ。こいつは、シンガポールの中国系大財閥のトップだよ」

 チャン財閥は、世界の三分の一の金脈とダイヤモンド鉱山を握っていると言われている大財閥である。宝石と情報の取引で財を成し、三年前に総帥が変わってからは、ITから化粧品まで、他分野への進出が著しい。

 その新総帥、つまりレスター・チャンの写真の下にある説明を、乙姫が読み上げた。

「実父の死に伴い、弱冠二十歳でチャン財閥の総帥に就任する。就任後は経営に辣腕を発揮し、各国政府の財政アドバイザーとしての地位を築く。数学と電子工学の博士号を持ち、七カ国語に堪能」

「あまりに早いトップ就任から、前総帥を毒殺したのではないかという噂が実業界に流れたくらいだってさ。彼が通れば昇ったばかりの朝日も青ざめて引っ込むと言われ、ついたあだ名が“東昏侯”!」

 一成が恐ろしげに叫ぶ。

 その外見と同じくらい豪華絢爛冷血非人な経歴に、葉月はめまいがした。

「おわかりいただけましたか、陛下。私の財閥の力と資金があれば、砂漠の真ん中に独立国をつくることなど造作もないことなのです。国際社会とて我が国を表立って非難することはできないでしょう。チャン財閥を敵に回して、現在の地位に留まり続けることのできる国家の最高実力者などいないのですから」

 レスターは紅の唇の端を上げた。葉月はその笑みを見て背筋が寒くなった。

「私に陛下の願いを叶えさせてください。陛下はただ、私にお命じくださればよいのです」

「……願い?」

「月蘭は、陛下の本当の故郷です。いつか故郷に帰ることが陛下の望みだったのではありませんか」

「僕の帰る場所が、月蘭?」

「待って!」

 レスターの魔術的な物言いを黙って聞いていることができなくなって、葉月はセイヤとレスターの間に張られた見えない糸を断つように、割り込んだ。セイヤの顔を盗み見て、氷のしずくに触れたように心がひやりとする。セイヤの黒目がちの瞳は、意思を奪われたようにぼんやりしていた。

「セイヤさんは、そもそも月蘭王国が実在したことすら知らなかったんだよ。月蘭に帰ることが前からの願いなわけないじゃん。セイヤさんにはほかに帰る場所があるはずだよ」

「いや葉月、僕には帰る場所なんてないんだ」

 反論は思わぬ方向から聞こえた。信じられない思いで葉月が振り返ると、そこではセイヤが両手で髪をわしづかみにし、記憶を奪い取られた人のように立ち尽くしていた。

「……どういうこと?」

 セイヤが、千の矢が突き刺さっているような苦しみに満ちた声を絞り出す。

「帰る場所どころか、僕には一つの居場所だってこの地上に持つことを許されていないんだ。だ、だって僕は、ぼ、僕は——」

 歯をくいしばるセイヤを、葉月が息を飲んで見守ったとき、乙姫が声を上げた。

「サイレンが聞こえる!」

 一成が城壁の端から身を乗り出す。

 城壁の外側を取り巻く、緑の水をたたえた堀のきわに、赤と青のパトランプを載せたパトカーが十台ほども、タイヤをきしらせて次々と止まった。白い車体に黒いカーブラインの入ったパトカーから、制服の上に防弾チョッキを着込んだ警察官がわらわらと飛び出してくる。

「これで奴らを逮捕してもらえる……」

 さっきまでパチンコで中国服たちを撃退していたときの元気はどこへやら、一成がはああと肩で息をつく。反対にみるみる青ざめたのはセイヤだ。ふらあっとよろけたセイヤはそのまま石畳に腰をついて、青りんごさながらの顔色の悪さでうめいた。

「は、破滅だ……」

「セイヤさん、しっかり!」

 そう励ましてから葉月は、城壁の下からの上り口を見つめた。石畳を鳴らして階段を駆け上がってきた警察官たちは全部で三十人ほどにもなるだろうか、レスター・チャンと配下の者たち、そしてセイヤと葉月たちを包囲した。警官たちが両腕の先に下げている拳銃は、どうやら睡眠銃ではなさそうだ。

 中国服たちが、一斉に殺気立ってこれを迎える。男たちの扇の要に立つ美青年の口から、天人の楽器のような声がこぼれる。とはいえそのセリフの内容は、氷原を渡る風よりも冷たい。

「我々が何者か知らないのか。そなたらの手の届く相手と考えているなら心得違いだ」

「心得違いは貴様のほうでないか。時代錯誤のお坊ちゃん」

「何?」

 制服警官の中心に、異彩を放つ偉丈夫が仁王立ちしていた。坊主頭と四角い眼鏡が特徴的な、筋骨隆々の大男に、葉月は(サイボーグみたい)という印象を抱いた。この男には、体のどこかが機械仕掛けに置き換わっていてもおかしくない雰囲気がある。

 レスターの中国語のセリフに対して、サイボーグは英語で反撃したため、葉月、乙姫、一成には二人がどんなことを話しているのか皆目わからない。しかしこのときは、二つの集団のリーダーが険悪な雰囲気にあることがわかれば十分だった。一成が、タブレットの翻訳アプリを起動させようとする。

 サイボーグはバリトンの声を張り上げた。

「こっちの目的は中国系悪徳企業なんかではなく、アメリカ人だ。この三文字が目に入ってるか?」

 サイボーグが肩をせり出さずとも、濃紺の腕章に白く染め抜かれたFBIの文字ははっきり見えていた。周りの警官の防弾チョッキの背中にも、同じアルファベットが見える。

「FBI……アメリカ連邦捜査局の下っ端捜査官か。我が財閥がそなたの国の大統領にどれだけ資金援助してやったか知らないのか?」

「あいにくと下っ端なもんでね」

 そう混ぜっ返すと、サイボーグは眼光を鋭くし、その目をレスターの後方に向けた。

「オレは、FBIのトンプソン捜査官だ。アルバート・S・アークライト、お前には国家反逆容疑で国際逮捕状が出ている」

 関係者一同が振り返った先で、トンプソンの眼光に貫かれていたのは、足先から身体中の血液が流れ出してしまったかのように血の気のない顔をした、セイヤだった。

「どういうことだ?」

と一成が言うことができたのは、トンプソンのいまのセリフに、翻訳アプリの立ち上げが追いついたからだ。

「アルバートなんとかっていうのは、セイヤさんの名前なのか?」

「アルバートなんとかって、空港でパパと間違えられた人だよね! 確か指名手配犯の」

「わかったかもしれない。セイヤさんだと勘違いされて、葉月ちゃんのお父さんはさらわれたでしょう? そして葉月ちゃんのお父さんは、国際指名手配犯のアルバート・S・アークライトに似てる。だったら、アルバートさんもセイヤさんも顔がそっくりなんじゃないかしら?」

 乙姫の考えに、葉月がぼん、と手を打った。

「そっか、世の中にはそっくりさんが三人いるっていうもんね! セイヤさんは、アルバートなんとかって人と人違いされちゃってるんだね?」

 葉月が勢いよくセイヤの肩に手をかけると、青年は力なく首を振った。

 そして肩に置かれた葉月の手をそっと外すと、どうしたの、と問いたげな葉月の大きな黒い瞳に、やつれた顔で微笑みかけた。

「ありがとう、葉月。僕を信じてくれて。でも、僕は正真正銘アルバート・S・アークライトなんだ。FBIの連中は、この僕を追ってきたんだ」

「えっ?」

「ほんとは、レスターたちが来たら僕と引き換えに君のお父上を返してもらうつもりだった。どこからでも監視しやすいこの城壁にいれば、僕を付け狙う連中はすぐ現れると思ったんだ。だけど、FBIの登場が早すぎたのは予想外だった」

 セイヤの——いや、いまは本当にそんな名前なのかもわからない青年の、大きくて暖かいけれど華奢な手を握ったまま、葉月はどうしたらいいかわからずに、なんとか「頭いいんだね」とだけ言った。セイヤは、ありがとうと気弱に微笑む。それを見て葉月ははっとした。青年のの黒目がちの目にまた、たくさんの色が弾けている。それは瞳を飛び出してセイヤの髪と言わず肩と言わず、体の周りをきらきらさせた。

 レスターの神々しく冷たいまばゆさとは違う、暖かい木漏れ日のような光に、葉月の胸の底がぽかぽかした。

「僕は学者なんだ。——FBIはどうにかして、やっぱり僕はレスターのところに行くよ。君のお父上を返してもらえるよう説得するから、安心してほしい」

 葉月の手を優しく放し、セイヤはふらふらと立ち上がった。そのまま普段通りの頼りなさで、「あ、あの、やっぱり僕——」と呼びかけたとき、トンプソンが怒鳴った。

「アークライトを逮捕しろ!」

 同時にレスターが凛とした声で号令する。

「国王陛下をお守りせよ」

「はっ」

と応じる声が重なって、警官隊と中国服たちがもみ合いになった。

「えっ? ちょっと、あの」

とあたふたするセイヤの前に、若き宰相が優雅に躍り出る。

「陛下、お下がりください」

 レスターは、広がった衣の袖をさりげなく振っただけに見えた。

 しかし次の瞬間、セイヤに飛びかかろうとしていた二人の警官がそれぞれ肩と脇腹を押さえて苦悶の声を上げた。二人の傷口から血が噴き出すのを、セイヤがぼうぜんとして見る。レスターが、衣の袖に隠していた短剣を目にも止まらぬ速さで投げつけたのだ。

 鮮血にくら、と目が回りかけたセイヤの手を、小さな手がさっと引いた。

「陛下!」と叫び声を上げて後を追おうとしたレスターは、警官隊に取り囲まれた。

「アークライトを撃つな! すぐそばに子供がいる」

 バリトンの声が憎々しげに指示する。つかみかかってくる警官をすり抜けて、乱闘の外へセイヤを導く小さな手の持ち主を見下ろして、青年はうめいた。

「葉月、どうして……」

 少女の振り返る動きで、光の筋がさらさらの黒髪の束の上を走った。

「善良な人が悪の組織に狙われているのを見捨ててはおけないよ!」

「僕は国家に追われる犯罪者で、僕の敵は警察だよ?」

「三千世界がセイヤさんの敵でも、葉月は味方になってあげるもん。乙姫と一成もだよ!」

「えっ、おれたちもか⁉︎」

 少し遅れて走りながら、一成が目をむいた。

「わたしはセイヤさんの味方です」

と、セイヤを見上げてにこっとする乙姫を目にして、一成は深くため息をつく。美しいものを画用紙上に創造することを無上の喜びとするこの少女は、どうも美形の男に甘すぎる、と一成は思っているのだった。

 子供三人と青年一人は、城壁内部に続く階段を二段飛ばしに駆け下りる。地上に降り立つやいなや街路を走り出す葉月たちとセイヤを、城壁への上り口周辺にいた人々があっけに取られて見る。

 色とりどりのスカーフで髪を隠したイスラーム教徒、黒人のビジネスマン、黄色い衣をまとった僧侶、欧米からの観光客。古代の国際都市長安そのままに、街路には様々な国の人が入り乱れていた。

 四人の降りたところは露店の立ち並ぶ道路だった。カラフルに咲いた赤や黄色のパラソルの下には平台が置かれ、ビーズのついた髪飾りや刺繍の施された原色の財布なんかがひしめいている。なにやら鶏ガラの匂いがすると思えば、肉と野菜を刻んだ麺入りスープを売る屋台がある。

 緑の木々は、布の上に時計や食器などを広げて商売をする女性に涼しげな木陰を提供し、道路脇の塀に沿って水路を流れる水が、午後の遅い日差しにきらめいていた。こんなに鮮やかな景色なのに、すべてのものにどことなく砂の色が混じるのが西安らしい。

 漢字、漢字、漢字。

 ビビッドな色の対比が目を引く看板の下を、葉月たちがつむじ風を起こし駆け抜ける。

 ドンガラッシャバアという派手な音に走りながら後ろをうかがえば、屋台に勢いよくぶつかった警官が、麺入りスープの大鍋を倒して中身をぶちまけていた。熱い汁が足にかかって飛び上がる警官を屋台の主人が早口の中国語で怒鳴りつけ、通りは一層騒がしくなる。

 赤い廂の下の額に、金文字で何か漢字が記された立派な門をくぐった葉月たちは、そこではたと足を止めた。

「挟み撃ちだ!」

 城壁の別の階段から降りてきたのだろう、パラソルと日よけ布の続く通りの正面からも警官が数人走ってきている。門の真下で前、後ろ、前と首を振った葉月たちは、来し方とは逆に飛び出し、門の脇を通りと直角に走り出した。

 門の両側には細い二階建ての長屋が繋がっていて、廂の下には赤い提灯がいくつも下がっている。門の向こうにはまた門があり、長屋はそこに接続している。その空間は長屋に四方を囲まれ、二つの門を出入り口にした中庭のようになっているのだ。

 葉月たちは、長屋に沿って走ることで正面から向かってきた警官たちを迂回した。長屋と通りの間は露店がちょうどいい壁になっているため、警官がまごまごしている間に四人は反対側の門から逃げ出すことができた。

 薄暗い廂の下に、格子のガラス窓が物古りている商店の前を走る。色あせた化粧品のポスターが貼られている路地に飛び込んだ葉月とセイヤの前に、ぱっと赤い空間が出現した。

 四人が駆け込んで、そこでたたらを踏んだのは、道教の神様を祀る小さな神社のような建物だった。低い天井から数多く下がった提灯が、内部を赤く照らしている。石畳の床の中央には大きな三足の青銅香炉が置かれていた。奥の赤い台座には神様の像を収めた屋根付きの箱が載っており、辺りには濃いお香の匂いが立ち込めている。

「もしかして行き止まりかよ」

 一成が不安そうにつぶやき、背後に落ち着かない視線を投げる。葉月が少年の手元に目をやって、はっとしたように指差した。

「一成! タブレットに出してる地図に、ここからのもう一つの出口が表示されてる!」

「いや、これは間違えて———」

「ううん、一成くんの地図の通りに逃げてみましょう」

「だ、だけど乙姫さん、この道はいまはもう」

「できることはなんでも試してみましょうよ」

 なぜか渋る一成の背中を、乙姫が押した。

「わ、わかったよ」と若干たじろぎつつうなずいた一成は、青ざめた顔で後ろの通りに視線を配りながら「もわわわわわ」と不可思議な恐怖の声を漏らしていたセイヤに指示した。

「青銅の香炉をどかしてくれ!」

 葉月と乙姫の助けも借りて、セイヤが真っ赤な顔になって動かした青銅の三脚香炉の下には、四角い鉄板が敷かれていた。さらに一成がその鉄板をずらすと、丸い穴が現れた。

「これが道なの⁉︎」

 神経が象の足並みに図太くできている葉月が声を上げるほど、その穴の内部は不気味だった。穴の縁には、引きずり出された蜘蛛の巣や埃の塊がこびりついている。おまけに物の腐ったようなにおいが漂っていた。

「これに飛び込む勇気があるか?」

 他の三人の顔をぐるりと見まわした一成に、葉月はごくりと唾を飲み込んで、

「乙姫の保証するところなら、葉月はどこでも行くよ」

と簡潔明瞭に答えた。


「この通路は、唐の時代に作られた下水道さ」

 一成の声が、円筒形の壁に反響する。通路は大人がぎりぎり立てるほどの高さがあるが、背の高いセイヤは窮屈そうだ。一成の電子端末とセイヤのスマートフォンのかすかな明かりに、天井からぶら下がる得体の知れないぬらぬらした藻が照らし出される。床は少し湿り気がある程度だが、ところどころに異臭を放つ水たまりが待ち構えていた。

 葉月は、先に入ったセイヤに手を取られながら地下に降り立ち、こわごわ一歩目を踏み出した矢先、水を吸った靴下のような何かをぐにっと踏んでしまい、全身の毛が逆立った。

「唐って、遣唐使の唐?」

 葉月が必死に、頭の中の空白だらけの歴史年表を探って言うと、セイヤが首を縦に振る気配がした。青年は、「こんなところに勝手に入って怒られないかなあ」とそわそわしたり、首筋に水滴が落ちて「ひやっ」と悲鳴をあげたりするのをやめたばかりだ。

「唐は、いまから一二〇〇年くらい前に栄えた中国の王朝だね。日本をはじめとした東アジアの国々に貢ぎ物をさせて、贈られたもの以上のお返しをつけて返すような、強大で富める国だったんだ。いまは西安と呼ばれている長安は唐の都で、百万の人口を抱える、当時の世界最大の都市の一つだった」

「そんな大勢の人が暮らすには、下水道も必要ってわけさ」

 一成があとを引き継いだ。

「ふうん。でもなんで、一成がそんな大昔の下水道の入り口を知ってるの」

「世界中の古代都市をCGで再現したソフトを、このタブレットに入れてんだ。大学院の兄貴が開発に関わってんだよ」

 一成が、丸っこい指で自慢げに電子端末の画面を叩いた。少年は、考古学の勉強をしている年の離れた兄をとても尊敬している。

 一成の差し出す電子端末を、しばし立ち止まってほかの三人が覗き込むと、四角い光の窓の向こうには、整然と区画された街並みが見えた。上空から俯瞰しているのだろう、家々の瓦屋根や寺の伽藍に朝日が差して薄もやが掛かっている。

 一成が画面につけた親指と人差し指の間隔を開くと、見える範囲は一気に狭まって、灰色の塀の続く広い街路がクローズアップされた。塀の内側には、庭に高い木の茂る立派な屋敷が控えているらしい。

「このソフトがあれば、大唐の都長安を、実際に自分がその場にいるみたいに歩ける。長安だけじゃない、世界史上の失われたあらゆる都市を自由自在に散策できるんだ」

 一成がうっとりしたように言った。少年が画面上で指先をつーっと滑らせるたびに、映し出される風景がくるくると変わった。鳳凰が翼を広げたように横に長い、壮麗な皇城。鯉の泳ぐ池に青々とした柳が枝垂れる、高級官吏の邸宅の庭。新鮮な野菜や果物を並べたテントが集まるにぎやかな市場。

 時空を飛び越えた散歩の果てに、一成が手を止めたのは小さな寺院の前だった。半透明になった地面の下には円筒形の太い管が通っており、その中に赤い下向きの三角がふよふよ浮いている。

「これがいまおれたちがいるところ。この下水道をまっすぐ南に進んで、街の中心地から離れたところで上に出よう」

 下水道が伸びた先、一成が人差し指でトン、と軽く叩いた場所には、上向きの縦穴と地表の道観があった。

 四人が再び歩き出したとき、ぴちゃぴちゃと水たまりを渡る足音の合間を縫って、乙姫が控えめに声を出した。

「あの、セイヤさん。もしかしたらアークライトさん。そろそろ、なぜあなたがFBIに追われているのか話してもらえませんか」

 葉月は息を詰めて、人工的な薄明かりに照らされたセイヤの、思いわずらうような横顔を見上げた。逡巡するような間があって、それから大きく息を吐き出す音がした。

「君たちを巻き込みたくなかったのに」

「いや、もう十分巻き込んでるから!」

 一成が突っ込む。

「セイヤさんがどれだけ巻き込むまいとしても、葉月は何が何でも巻き込まれてみせるよ」

 葉月がぎゅっとセイヤの手を握ると、青年はふっと笑った。

「僕の鈍足では、とても葉月から逃げきれそうにないね。

 僕の本名は、アルバート・セイヤ・アークライト。僕は学者だと言っただろう? 話は、僕がアメリカ航空宇宙局———NASAの奇妙な部署に配属された、半年前から始まるんだ」







 四 生まれ変わっても


「NASAに就職したばかりの僕に回される仕事は、高校生が授業で扱うような計算とか、そんな簡単なものばかりだった。おかしかったのは、指定された仕事場が他部署から隔離された地下の個室で、先輩からの指導どころか、ほかの職員との交流さえ一切なかったことだ。そのくせ、大学院を出たての若造に与えるにしては、僕に与えられたデータベースのアクセス権限は大きすぎた。まるで、単純作業に飽き飽きした僕が、機密性の高い情報に手を伸ばすよう仕向けてるみたいにね。そして案の定僕は、勤務時間の多くを、データベースの探索に費やすようになった」

 地下道の闇に、机と椅子のほかは何もないがらんとした部屋の幻が投影される。その椅子に座り、パソコンの大きな画面を、目を輝かせて見ているのはセイヤだ。

「秘密裏に進められている航空宇宙プロジェクトの計画書に夢中で読みふけって数週間が過ぎた頃、僕は非常に興味深いファイルを見つけた。それは、二十年前の、人工衛星打ち上げの廃棄された計画案だったんだ」

「なんでそれが興味を引いたの?」

「計画書に記された数値が不自然だった。それを見直しているうちに、僕に妙な考えが浮かんできた。これは暗号なんじゃないかって」

「暗号?」

「僕は俄然惹きつけられた。もともと好きなんだ、パズルとか、暗号とか。細かいことは省略するけど、怪しい数値を取っ掛かりにして、僕はその暗号を解読できる一歩手前まで解析した」

「全部解かなかったの?」

「解き切る前に怖気づいたんだ。こんな暗号化された文書を読んだのがばれたら、クビにされるかもしれないし」

「びびりだなあ」

 一成があきれると、セイヤは恥ずかしそうな顔をした。

「だから、任された仕事を持ち帰る振りをして、その暗号化されたファイルを記録媒体に入れて、家でゆっくり解くことにしたんだ」

「そっちのほうがやばい気がするんだけど」

「魅力的な謎があると、見境がなくなってしまうんだな。で、自宅で僕はわくわくしながら最後のプロテクトを外した」

「文書には何が書いてあったの?」

 葉月が興味津々で尋ねると、セイヤは少し間を置いてからぼそりと答えた。

「この世に存在するうちで、最も解くのが難しい暗号の解き方」

「それは確かにわかったら面白そうだけど、最高機密っていう感じじゃないんじゃない?」

「いま現在最強の暗号は、素数を使ったものだ。全世界の政府機関、国際機関、銀行、企業や個人に至るまでが、この暗号を採用している。君たちの生活だって、この素数暗号で守られているんだよ。たとえスーパーコンピュータを用いても、素数暗号の解読には百年単位で時間がかかる。それがたった一日で解けるようになったら、どうなると思う? 世界はきっと大混乱に陥る」

 暗号一つに世界の趨勢がかかっているなんて、葉月にはとても想像できなかったが、セイヤがいままで見せた中で一番難しい顔をしているので、きっと大変なことなんだろうと思った。

「それを見つけて、セイヤさんはどうしたの?」

「文書を封印し直して、逃げた」

「え?」

「大変なものを見つけちゃったんだ、僕は。暗号の解読法は多分、かつてNASAの研究者の一人が発明して、公表せずに隠したものだ。その研究者も、自分の研究成果が世界に与える影響の途方もなさに気づいていたんだろう。僕の手に負える代物じゃない。世界を変える勇気が、この僕にあると思うかい?」

 「情けねえ」と一成が言う。セイヤは「それにね」と地下道の奥の暗がりに目をやり、言葉を続けた。

「僕が解読法の文書を見つけたのは偶然じゃない。仕組まれたことだったんだ」

「どういうこと?」

「NASAの上層部は、きっとその文書の存在を知っていた。だけどデータベースのどこにどんな形で残されているかまではわからなかったんじゃないかな。あるいは、暗号化された文章を読むことができなかった。だから僕に解読させるよう仕向けたんだ」

「なんでNASAの上層部は、暗号を解読させる研究者としてセイヤさんを選んだんでしょう。ベテランの人とかなら、もっと早く解けたんじゃないですか?」

「若手の僕だからよかったんだよ。身内のない若者が一人行方不明になったって、誰も気にしやしない」

「それって———」

と言ったきり絶句した一成に向かって、セイヤは鬱々とうなずいた。

「文書を解読した僕を、アメリカ政府は生かしておくつもりはなかったと思うね」

「アメリカ政府?」

「暗号の解読法を探したがってたのは、おそらく政府だよ。最強の解読法を手にしたアメリカは、相手国にそうと知られることなく外交、軍事、内政のあらゆる機密文書を盗み読むことができる。そんな秘密を知ってしまった人間を、政府が見過ごせるはずがない」

「命が危なくなったから、セイヤさんはアメリカから脱出したんだね」

 葉月の言葉に小さく顎を引いたセイヤは、そのまま絶望したように片手を額に当てた。

「僕は科学者の地獄に落ちるだろう。科学の発展のために最新技術は共有されなければならないのに、僕はそれを封印してしまったんだから」

「セイヤさんって、悲劇役者みたいに大袈裟だなあ」

 葉月はくすり、と愉快そうに笑うと、セイヤを振り返った。

「セイヤさんは地獄なんかに落ちないよ。セイヤさんのしたことは、間違いなんかじゃない。もし地獄に連れて行かれたら、葉月がえんま様をぶん殴りに行ってあげる」

 セイヤは意表を突かれたようにちょっと黙って、それから頭をかいて、照れたみたいに「ありがとう」と言った。

「でもいまの話からだと、セイヤさんが国際指名手配になってしまった理由がわからないんですけど」

 それまでじっと話を聞いていた乙姫がふと尋ねた。

「それは解読法を隠して逃げたからだろ?」

「ううん、一成くん。セイヤさんに注目が集まれば、暗号の解読方法のことがばれる危険性も高くなるわ。指名手配するよりも、セイヤさんをこっそり、その、消す方がずっと得策だと思う」

「よく気づいたね」

 セイヤは乙姫を褒め、「それは僕の友人が」と何か言いかけた。

 しかしそのとき、不意に鳴り出したパトカーのサイレンが、四人の耳をつんざいた。

「ぐわひゃひゃひゃ」

 取り乱したセイヤが、手にしていたスマートフォンを取り落としそうになる。サイレンの発生源がほかならぬその端末であることを悟って、セイヤ以外の三人は跳ね上がった心臓を押さえながら、とりあえず安堵した。

 耳を塞いだ一成が怒鳴った。

「なんで携帯の着信音がサイレンなんだよ!」

「なんで携帯の着信音がサイレンなんだよ!」

 一成と声をぴたりと合わせて叫んだのは、なぜかセイヤだった。頰を紅潮させて自分のスマートフォンをにらみつける青年に、葉月たちは目を丸くした。


『ははっ。ほんと俺の期待通りの反応をしてくれるよな、アルは』

 通話口に耳をつけた途端、自分を愛称で呼ぶ快活な声を聞いて、セイヤは肩を落とした。通話開始のアイコンに触れる前から誰がかけてきたのかはわかっている。このスマートフォンの番号を知っているのはたった一人しかいないからだ。

『たとえ火の中水の中、地中からでも通話可能な、俺の改造スマホの使い心地はどうだ?』

「きわめて良好だよ、トーマス。たまに空気を読まない友人が電話をかけてくるっていう不具合を除けばね」

『おいおい、それこそがそのスマホの花形機能だろうが』

 トーマスはとある国際的組織に所属する科学者で、セイヤの数少ない友人である。本名をトオル・マスダという日本人だが、友人たちは皆トーマスと略す。セイヤがアメリカ政府の刺客の刃を逃れるために力を貸している人物であり、中国に渡るための偽造パスポートや連絡用のスマホを用意したのも彼だ。また、素数暗号の解き方に関する文書を隠したことがばれたセイヤを、国家反逆犯に仕立て上げることで世間の耳目を集め、アメリカ政府が人知れずセイヤを葬り去ることを難しくしたのも彼である。

『アル、暗号解読法のファイルはいまは持ってないんだよな?』

「うん、膨大な桁数の素数で守ったまま、データベースに残してきた」

『上出来上出来。それならいまのところ、アルがFBIに捕まった途端に消されることはないな』

「ほんとに?」

『ああ。捕まったとしても、ファイルを保護している素数を吐かせるためにまずは拷問にかけて、殺すのはそれを聞き出してからだな。辞世の句を詠むくらいの時間はあるさ』

「うおう……」

『ところで、お前今日の定時連絡をしなかったじゃないか。アルが毎日真面目に連絡してくるから、俺の仕掛けたいたずらがこれまで発動しなかったわけだが』

 セイヤはため息混じりに答えた。

「ごめん。ちょっと立て込んでたんだ。でも、地中でも通話できる機能があってよかったよ。なんでも無駄に強力にする、トーマスの改造癖がこんなところで役に立つとは思わなかった。いま、下水道の中から電話してるんだ」

『うん?』

 セイヤはトーマスに、これまでの経緯を説明した。

「この僕が失われた王国の王様だなんて、絵空事だって笑うよね」

 話し終えたとき電話口の向こうから押し殺したような笑い声が聞こえてきたので、セイヤは諦めがちに言った。すると忍び笑いは、大笑いになった。

『さすがだ、アル。その巻き込まれ感が、すごくお前らしい気がする。それでこそ、俺とスパコンの未来予想を裏切り続ける男だ』

「もしかして馬鹿にされてる?」

『褒めてはいないさ、もちろん』

とトーマスはあっさり言い捨てて、

『つまりこれから俺は、FBIと世界一の大財閥を敵に回した、三人の子連れの援助をしなきゃならんわけだ。国王様も人遣いが荒い』

と、茶目っ気を込めて言ってのけた。

『それで、アルは子供たちを連れてこれから蘭州に行くのか?』

「うん、僕はそれがいいと思う。葉月のおじいさんは蘭州で武術の道場を開いているそうだから、レスターたちが突然襲ってきても、子供たちを守ってもらえるだろうし」

『蘭州まではお前が、子供たちをちゃんと送ってってやるんだぞ』

 トーマスはそこで吹き出した。

『ま、いまのお前は世界一危険な保護者かもしれないけどな』

 的を射た考察に、セイヤはぐうの音も出ない。通話終了のアイコンに指を載せかけてふと、魚の吐いた息のように心の表面に浮かんできた言葉を、セイヤは率直に声に出した。

「トーマスには、法に触れるようなこともさせてしまっているよね。僕は拷問されるのも殺されるのも嫌だけれど、もしトーマスが僕の巻き添えになるんなら、君にはいつでも僕のサポートをやめてほしいと思っているよ」

 電波は明朗な声の形をとって、簡潔な言葉を伝えた。

『気にするなよ。親友じゃないか』

 温かい言葉に胸がいっぱいになる。縁なしの眼鏡をかけて白衣をスマートに着こなした友人の、豪放磊落な笑みが目に浮かんだ。

『一応』

「一応なんだ」


「よっと」

 セイヤに肩車された葉月が頭上を両手で押すと、闇に光の輪が浮かび上がって、新鮮な空気がさあっと降りてきた。まぶしさに半ば閉じた目で見上げた空は、夕焼けていた。

 下水道の出口は空き家の裏手だった。遠くの西安城壁にも入日の赤色が美しく映えている。葉月は昼寝の後みたいな、再生したDVDが急に飛んでしまったような感覚を覚えた。

 セイヤと葉月たちは、コンビニエンスストアでパンや飲み物を買い、タクシーを呼んだ。疲れた足をなんとか持ち上げて車に乗り込み、座席の背もたれに背中を預けたときは、四人とも思わず深い息をつき、しばらく頭を空っぽにした。

「天水へ……」

 疲労のあまり、目的地を告げたセイヤの声はかすかすになっている。天水は、ここ西安と蘭州のちょうど中間に位置する都市である。

 セイヤも葉月たちも朝食以来何も口にしていない。パンとスナック菓子の袋を開ける音がしなくなった頃、車窓の外はすでにとっぷりと暮れていた。

「ふぁーあ、それじゃあ作戦会議をしようか」

 あくびまじりに後部座席の葉月が言って、隣の一成と助手席のセイヤがのろのろと身を起こしたとき、「ちょっと待って」と遠慮がちな声でストップがかかった。

「どうしたの、乙姫さん。まだお腹が空いてるんなら、パンがまだ余ってるよ」

 眠気でとろんとした目で言った一成に、乙姫は「そうじゃないの」と言い返して、

「わたしたち、眠るべきだわ」

と、控えめながらもきっぱりと宣言した。

「でも乙姫、蘭州までの道中にレスターとFBIが襲ってきたらどうするかとか、おじいちゃんと合流した後のこととか、寝る前に考えなきゃいけないことはいっぱいあるよ」

 上手く回らない口で紡がれた葉月の反論に、乙姫は冷静に答えた。

「葉月ちゃんも一成くんもセイヤさんも、みんな疲れ切ってる。さっきからあくびしてばっかりだわ」

「だけど、こうしてる間にも———」

「いろんなことが起こりすぎて、どうしようどうしようって頭を抱えたくなったら、眠ればいいの」

乙姫は、不満げな葉月に言い聞かせるように言葉を重ねた。

「眠ってる間に、勝手に時間は過ぎてくれるから。時間が経てば必ず状況は動いて、何もしなくてもよくなってることがあるから」

「寝てる間に、状況が悪いほうに変わっちゃったら?」

 こちらをにらむようにした葉月の目を、乙姫は覗き込んだ。

「少なくとも自分の気持ちは変わって、きっと事態を前向きに捉えられるようになる」

 唇を噛んで黙り込んだ葉月は、ややあってこくりとうなずいた。葉月自身、襲い来る眠気に勝てないことはわかっていたのだ。セイヤと一成も異議を唱えなかった。

 そして四人はまぶたを閉じ、竜巻に吸い上げられたように混沌とした一日を終了させた。


 葉月、セイヤ、一成が規則正しい寝息を立て始めてからも、乙姫は一人冷たい窓ガラスに頰をつけて、外の景色を眺めていた。高速道路の対向車線を行く車のヘッドライトが、少女の白い頰を時折なでる。

(眠っている間に時間は過ぎてくれるから、か。わたしがそんなことを言えるようになるなんて)

 乙姫は、さっき自分が葉月にいった内容を軽い驚きとともに思い返していた。その言葉はかつて、乙姫の祖母が乙姫に告げた言葉だった。しかしそのときの乙姫は葉月と同じように、いや葉月以上に激しくその言葉を受け入れることを拒んだのだった。

(あの頃のわたしは、眠ったら最後、目覚めなければならない朝なんて来なければいいと思っていたんだ)

 小学校に入るまでに、乙姫は自分の中に『もう一人分の記憶』があることに気づいていた。本が好きな乙姫は、図書館の絵本や児童書を片っ端から読んだ経験から、普通の人間は自分がそれまでの人生で実際に経験したことしか『記憶』してはいなくて、自分が特別なのだと、悟っていたのだ。

 その記憶の持ち主であるもう一人の乙姫は、砂漠のきわの小さな町に暮らしていた。町には日干し煉瓦の四角い家が並んでおり、道をゆく人はロバに荷物を積んでいる。いまの乙姫とは、暮らす国だけでなく時代がずいぶん違うのかもしれなかった。

 そのときの乙姫に家族はいなくて、身寄りのない子供たちを集めた神殿が家だった。本当の家族は小さい頃に、乙姫をその町に捨てていったのだ。家族は旅芸人だった。内気で、体を動かすことが苦手な乙姫は、人前で美しく歌い踊ることも、楽器を奏でることもできなくて、家族とともにこの町に立ち寄ったとき、一夜開けて目を覚ますと、旅芸人一座はすでに出発した後だった。

 そのときの乙姫も、絵を描くのが好きだった。乙姫が屋外で家々や昼寝中の猫なんかを描いていると、必ず駆け寄ってきて乙姫の手元を覗き込む女の子がいた。紙は貴重だったから、布や木の板に炭やチョークで描いた乙姫の絵を、彼女は“すごい”と言い、“あなたって天才”と褒めてくれた。

 その女の子は裕福な商人の娘で、商売の勉強をしなければならないのに、しょっちゅう机を離れては男の子たちと街を駆け回っていた。異国の言葉を教える先生のところには寄り付かないのに、無断で剣術の先生に弟子入りして、両親を困らせていた。

 そんな活発な彼女の姿を、乙姫はよく絵に写した。女の子は照れて、乙姫が描こうとすると逃げ回ったけれど、彼女の生気にあふれる表情を描くことが、乙姫は好きだった。

 ある日木陰で息を詰めて、花に止まる蝶をスケッチしていたとき、乙姫の隣に寝転がって頬杖を突いていた女の子が、乙姫の前世の名前を呼んだ。

“ねえあたしたちさ、大人になったらこの町を出て、旅をしようよ”

 彼女は、寝そべった体勢からさっと起き上がった。

“あっ、動かないで”

 乙姫が小さく叫んだときにはもう遅く、羽を休めていた蝶は、女の子の起こした風に乗って、ひらりと飛び去っていってしまった。乙姫の目がそれを追う。

 女の子はごめんごめん、と手を合わせて、でもそのすぐ後に自分の思いつきの続きを話し始めた。

“あなたが旅先で出会ったいろんな珍しいものの絵を描いて、あたしはあなたの用心棒をするの。立ち寄った町であなたの絵を売りながら、どこまでも旅していくの”

 心がふんわりと浮き上がるような気持ちがして乙姫は、自由に舞う蝶から女の子に目を移した。

“あたしのお父さんとお母さんだって、それなら反対しないはずよ。あたし、あなたの絵を扱うんだったら、商人になってもいいわ。どう?“

“きっと楽しいよ”

 乙姫は笑顔で答えた。

“わたし、あなたと一緒にいたい”

 けれどその年の冬、町ではやった悪い風邪にかかって、乙姫は死んでしまうのだ。

 高熱のあまり頭も持ち上がらず、布団がわりの干し草にくるまっている乙姫の隣で、女の子はずっと顔をうつむけていた。むき出しの腕に落ちてきた彼女の涙の雫があんまり熱いので、乙姫はびっくりした。女の子もひどい熱を出しているのかと思ったのだ。

 耳に届きそうなほど口を左右に引き、歯を食いしばって涙をこぼす彼女を見て、乙姫は“ごめんね”と謝ろうとした。腫れた喉では蚊の鳴くような声さえ出せなかったけれど。

 乙姫は本当は、女の子が口にしたような旅に出たいとは思っていなかった。ただ、大好きな女の子とずっと一緒にいたかっただけだ。自分が死んでしまいそうだとわかったとき、これで旅に出なくて済む、とほっとしたくらいだった。旅に出れば、昔家族がそうしたように、いつか女の子も乙姫を知らない町に残して、どこかへ行ってしまうような気がした。

 白い霞に覆われていく女の子の泣き顔を、必死に視界にとどめようとしながら、乙姫は心の中で唱えた。

(ごめんね、こんなわたしで。もしも生まれ変わったら、次はあなたと一緒に、世界を何周でもするから)

 そこでもう一人の乙姫の記憶は終わる。

 何かの物語で生まれ変わりというものを知って、自分の中に眠るもう一人分の記憶は前世のものかもしれないと思い当たったとき、乙姫は、天地がくっついてその間でぺしゃんこになってしまいたいような気がした。

 本当に逢いたかった人を知ったとき、その子はこの世のどこにもいなかった。乙姫がもう一度この世界に帰ってくるまでの間に、彼女はとっくに世を去ってしまった。

 優等生と思われていた乙姫が、何事にも本当には夢中にならない子供であり、その原因が胸のうちに抱えた何か深い苦しみらしいと見抜いたのは、彼女の祖母だけだった。

 あるとき祖母は小学三年生の孫娘にこう言った。

『悩み事があって、もうどうしようもなくなったら眠るといいよ』

 祖母は乙姫に、悩みを打ち明けてほしかったのかもしれない。しかし乙姫は表面上「うん」と素直に答えながら、心の中では激しく祖母を憎んだ。

(わたしは時間が早く過ぎてほしいと思ってるわけじゃない。むしろ、夜が永遠に開けなければいい)

 何度眠っても、楽しかった夢の続きを見るのに失敗するみたいに、あの子のいない世界に目覚めてしまう。

 やがて乙姫は小学四年生になった。

 四月からの新しいクラスになじめないまま一ヶ月を終えて、乙姫は近くの公園のベンチでスケッチブックを広げていた。ナイフで荒っぽく削った鉛筆を紙の上に走らせようとして、ためらうことを繰り返す。前世のあの子を描こうとしたのだ。何度も思い出そうとするのに、あんなに好きだったあの子の顔がどうしてもよみがえらない。

 乙姫はいつものように諦めて、公園の遊具を写生し始めた。おもちゃの赤いジョウロが残された砂場。風の揺らすブランコ。

 手を休めようとしたとき、白い画用紙にさっと影が差した。

「すごい、絵上手いね」

 顔を上げようとした刹那、春なのに、頰をなぶる砂混じりの熱風を感じた。

「あなたって天才?」

 スケッチブックを見下ろしている黒髪の少女と目が合う。その少女の人懐っこい笑顔と、あの子が強い日差しの中で浮かべていた笑みが、かちり、と音を立てて重なった。何かの病気みたいに、無闇に胸がどきどきして、あの子だ、と確信した。

 それが葉月だった。

 それから乙姫は、葉月が前世のあの子なのかどうか確かめたくて学校でよく話すようになった。最初の出会いのときに感じた確信はだんだん薄れていったけれど、一緒に過ごす時間が長くなるうちに、いま乙姫の目の前にいるこの葉月のことがもっと知りたくなった。

 さっき、眠るよう葉月を説得して、いつの間にか祖母の言葉が乙姫自身の言葉になっていることを発見した。

(おばあちゃん。わたしも、時が経つことを願えるようになったのよ)

 乙姫は胸の中で、葉月と出会ってしばらくした頃亡くなったその人に語りかける。以前どうだったかは関係なく、いまの葉月が好きになったのだ。

(葉月ちゃんと、どこまでも旅をしよう。いまのこのわたしが心からしたいと思っているから、そうするの)

 乙姫は、絶えることのない車の走行音を聞きながら、静かに目を閉じた。






五 葉月のおじいちゃん


 お寺の鐘を突くようなゴオオンという音が耳のすぐ横で鳴ると同時に、タクシーが横転するのではないかというほどの揺れが襲った。振動の発生源側の窓ガラスが粉々に砕け散る。

「きゃ!」

「乙姫さん、危ない!」

 窓際の席に座っていた乙姫の腕を引き、一成が覆いかぶさる。幸い大きなガラスのほとんどは、車の外に落ちたようだ。背中に破片を載せたまま、「乙姫さん、怪我はない———」と言いかけた一成は、背後から頭頂部にチョップを食らった。

「一成、乙姫を潰す気か!」

 葉月が怒鳴る。一成はぽよっとした両手で頭を押さえ、痛みをこらえてうめいた。

「おれはただ乙姫さんを守ろうとしただけなのに。この乱暴者……」

 助手席のセイヤは、タクシー運転手に悲鳴じみた中国語で指示を出している。

「ととととにかくあれから逃げてください! えっ、車の修理代? そそんなことより前、いや右右右!」

「セイヤさん、それじゃだめ。この車を三度買い替えられるくらい払うから逃げ切ってくださいって、運転手さんに伝えてください!」

 この場合一番豪気で世間慣れしているのは、母親について世界の秘境をめぐっている乙姫かもしれない。

 葉月は、ガラスが腕をちくちくと刺すのも構わず、枠だけになった窓から乗り出した。

 巨大な黒い円盤が、走るタクシーの横に迫っている。それは嫌な摩擦音を立てながら、隣の追越車線を並走する白い自家用車の屋根の塗装を剥がし、葉月たちの乗るタクシーをすれすれにかすめた。円盤は反対側に遠ざかり、一点でぴたっと静止すると、再び振り子のようにタクシー目がけて戻ってくる。

 一機のヘリコプターが、直下の高速道路にバラバラバラという騒音を降らせていた。ふんだんにラメの入った青色の機体には、金色で何か図案が描かれている。ダイヤモンドをつかむ伝書鳩の紋章———チャン財閥だ。そもそも、自家用ヘリをきんきらきんに塗りたくる者など、あの青年宰相しかいない。

 先程からタクシーを破壊している黒い円盤は、太いケーブルでヘリコプターとつながっている。乙姫が、こわごわ円盤を見て言った。

「あれ、すっごく力の強い磁石なんだわ、きっと。あれで車の屋根をぴたっと吸いつけて、このタクシーを持ち上げるつもりなのよ」

「おお。それ、映画で見たことあるかも」

「感心してる場合か! なんで昨日の城壁のときみたいに、高速道路を封鎖しておれたちだけにしないんだろ。そのほうがスマートで、レスターの好きそうな手口なのに」

 セイヤが助手席から首を伸ばして、一成の疑問に答えた。

「えFBIに僕らの身柄を横取りされたくないんだろう。高速を封鎖しようと担当の機関に根回ししてる間に、FBIに嗅ぎつけられてしまうからね、にぎっ」

 運転手が急ハンドルを切った拍子に、セイヤは窓ガラスに激突した。後部座席の葉月たち三人も折り重なって横倒しになる。

 円盤磁石に真上を取られないように、タクシーは蛇行を始めた。運転手は中国語でわめき、並行車線の車たちがクラクションで叫び返す。タクシーの四人のお客たちは、頭を抱えて座席に体を押し付けた。

 運転手の果敢なる危険運転も報われず、ついにガンッと不吉な音がして、円盤磁石が車体の左側のドアに貼り付いた。ヘリコプターが浮上する動きに合わせて、タクシーの片側のタイヤが道路から浮く。車内の人々は必然的に、反対側に寄ることになった。

「一成、重い重い重い!」

「うるさいな!」

 一番決断が早かったのは、タクシー運転手だ。彼は運転席のドアを開け放つと、外に向かって身を躍らせた。

 中に残った四人は悲鳴をあげる。大惨事の予感に慄きながらバックガラス越しに後ろを見ると、運転手はアスファルトの地面をごろごろ転がってむくっと起き上がった。

 ガクン、ともう一段階車が斜めに傾いた。葉月も、運転手の後に続けとばかりに、体の下になっている扉のレバーに手をかける。

「乙姫、一成、いい? ドア開けるよ! 一、二の———」

「ちょ、ちょっと待て心の準備が」

「三っ」

 パッと開いた扉から、三人は団子になって転がり出た。体が道路に叩きつけられたときに気の遠くなるような衝撃があり、無我夢中でこけしのように転がっていると、気がついたときにはアスファルトの上で伸びていた。

 肩と腰を強打したうえ、手足がすりむけている。葉月は目が回るのをこらえて体を起こすと、必死に、離れてゆくタクシーに焦点を合わせようとした。ヘリコプターに半分吊り上げられた車には、まだセイヤが取り残されているのだ。乙姫と一成はまだ、全身を打撲した痛みでうずくまったままでいる。

「セイヤさあん! 早く飛び降りてえ!」

「むりむりむりむり! 怖い怖い怖い!」

 セイヤが、ピーマンを食べまいとする駄々っ子のように嫌がる。その間にもタクシーはヘリコプターに引っ張られみるみる傾き、とうとうもう片側の車輪も道路から離れかけた。

 葉月が狂ったように叫ぶ。

「セイヤさん! 早くしてったら!」

「むりったらむ———」

 セイヤのセリフが終わるのを待たずして、地面に近づいていた側のドアが外れた。円盤磁石の度重なる打撃で、留め具が弱っていたようだ。ドアに全体重を預けていたセイヤが、アスファルトに投げ出される。葉月は思わず目を覆った。

 両目から手を離したとき、セイヤは三十メートルほど先に横たわっていた。青年がぴくりとも動かないので、葉月は不安に突き落とされる。セイヤに向かって葉月が駆け出すと、足を引きずりながら乙姫と一成もついてきた。

 葉月は、うつぶせになっているセイヤの肩を引っ張って仰向けにし、彼の名前を呼んだ。

「セイヤさん、セイヤさん!」

 葉月がほっとしたことに、セイヤはくむう、と弱々しいうなり声を発して、うっすらとまぶたを開けた。しかしすぐにまた目をつぶって、消え入りそうな声でつぶやく。

「全身の骨が折れてるよ……」

「そんなわけないだろ。おれだってちゃんと立ってんだから」

 むかっときて、一成が邪険に言った。「立てますか?」という乙姫の優しい問いかけに、セイヤはかぶりを振る。腹が立った一成は、指先一つ動かそうとしない青年を蹴ろうとしたが、その行動は断念せざるを得なかった。

 タイヤをきしらせて、五台のバンが葉月たちの前方に次々と停車した。続いて黒いリムジンが、音もなく止まる。バンから降りてきた二十余名の中国服が、葉月たちの周りに円形の壁を作った。最後にリムジンから、例の仮面の運転手とレスター・チャンが現れるのを見て、葉月、乙姫、一成は身構える。

 美しき宰相は、王宮の絨毯を踏むごとく優雅に歩を進め、葉月たちの正面に立った。古代中国風の紅の衣を、蔦や蔓の文様が隙間なく飾っている。一度高速道路の向こうに去ったヘリコプターは頭上に戻ってきていて、威圧的な飛行音が場の緊張を高めていた。高速を走ってくる車が、道の端の異様な集団を訝しんで速度を緩めるものの、中国服たちの手に銃を見つけるが早くスピードを上げて走り去っていく。

 レスターが赤い唇を開いた。

「陛下、お怪我はありませんか」

「あれだけ乱暴な手を使っておいて、よくそんなことが言えるね!」

「私たちとともに月蘭へ参りましょう、陛下」

 セイヤ以外を一切無視したレスターの発言に、葉月の頭に血が上った。

「レスター! こっちを向いて! セイヤさんを無理やり月蘭に連れていく権利なんて、あんたにないんだからね!」

 レスターは冷たく言い放った。

「お前たちにも、陛下の祖国への帰還を妨げる権利などない」

「あるもん! セイヤさんが月蘭に行きたがってるなんて決めつけないで! セイヤさんはアメリカに戻るんだから!」

 葉月はそう言い返した後に、ふと(セイヤさんは本当にそう思ってるのかな?)と疑問が湧いて、恐ろしくなった。自らの命さえ狙う祖国に、はたして帰りたいと思うだろうか。『僕には帰る場所なんてないんだ』と言ったときの、セイヤの蒼白な顔が思い浮かぶ。

 葉月はそっとセイヤをうかがった。青年は上半身だけを起こし、レスターを凝視して顔を青ざめさせている。葉月の視線に気づくと、彼は顔を下に向けてしまった。

 レスターが部下に指示した。

「陛下をお連れしろ」

「セイヤさんはあなたたちと一緒には行かないよ」

 葉月は叫んで、銀色の携帯竹刀を音を立てて伸ばすと、前方に飛び出した。

 忽然と、大岩が鼻先に出現したかと思った。葉月はたたらを踏む。見上げると、声なき慟哭に作り物の刃をむき出した仮面の男が、頭で太陽を覆い隠して立っていた。

「どいて!」

 葉月は素早く仮面の運転手の脇を抜けようとした。しかし、一本の大木が倒れるように、巨大な腕が行く手を遮った。葉月はキッと竹刀を構える。

「小手面!」

 少女はぱあんと勢いよく踏み込むと、竹刀の先をまっすぐ仮面の運転手の頭に伸ばした。

「———ッ」

 仮面の運転手の腕が葉月を襲い、すさまじい力で後方へなぎ払った。葉月の体は宙を飛び、道路の上に背中から叩きつけられた。

「葉月ちゃん!」

「葉月!」

 乙姫と一成、セイヤの悲鳴のような声が葉月の名前を呼ぶ。咳き込む葉月の目に映ったのは、仮面の運転手の手で力を入れられて弓なりにたわむ、携帯竹刀だった。巨人の手の中で女子用の竹刀は、まるで一メートル物差しのようにか細く見える。

「ああっ」

 ギャン、と嫌な音を立てて竹刀が真っ二つに折れた。仮面の運転手は、無造作にそれを投げ捨てる。カン、カン、と金属音を立てて道路の上に転がった携帯竹刀の残骸を、葉月の目が追った。

「やめろ、放せ!」

 一成と乙姫も中国服に羽交い締めにされていた。一成のパチンコは、彼の腕を押さえる中国服に取り上げられている。震えながら座り込んでいるセイヤに、レスターが近寄った。

 葉月は、背中の痛みに耐えながら、折られた竹刀に手を伸ばす。だが、竹刀と葉月の指先の間に、運転手の鎧が立ち塞がった。

(セイヤさんが連れて行かれちゃう。葉月が絶対に守るって約束したのに———!)

 どうしようもない焦りに、吐き気がした。心臓がドン、ドンと大きく鳴る音を耳のあまりに近くで聞いていると、葉月の体の外でも何か、タン、タン、タン、という音が重なって鳴り始めた。

 その正体が、誰かがこちらに走ってくる靴音だとわかったのは、葉月の目の前にダン、と音の主の靴が現れたときだった。一瞬前までその位置にいた鎧姿の運転手は、脇に飛びすさっている。

 薄青色の靴を履いた足。飛び出たくるぶしから、葉月が視線を上げていくと、白い中国服が目に入った。続いて老人の、髪が一本も生えていないつるつるの頭が見える。

 老人は両足を大きく広げ、体を低くして背筋をピンと伸ばしている。頭の高さには剣が構えられている。その剣のつかから下がった赤い房すら微動だにしない、張りつめた空気が老人にまつわっていた。葉月は、寒稽古の朝の剣道場を想起する。

 両足に力が満ち、老人が跳躍した。蛇のように襲いかかってきた剣を、仮面の運転手がいつのまにか抜いた棍棒で防いだ。剣が棍棒に触れた瞬間、銀の閃きが四、五本走った。剣が数本に分裂したように見えるほど、老人は速い斬撃を繰り出す。老人が片足を上げたまま動きを止めたとき、仮面の運転手の鎧には、細かい傷が何本も走っていた。

 老人が再び宙を舞い、運転手の仮面を剣先で狙う。運転手は棍棒で、老人の細い体を横なぎにしようとするが、老人は曲芸師のようにひらりと体をさばく。互角に戦い合う運転手と老人は、まるで異形の怪物と神仙のように見えた。ハイスピードで展開する二人の戦いに、中国服たちも周りを取り巻いたまま手を出すことができない。

 葉月とセイヤ、乙姫と一成は、口を開けたままその戦いに見入っていた。すると、一瞬も油断できないはずの命の取り合いの中から、老人が葉月にちらっと目配せをしたような気がした。色のついた眼鏡の奥の目が、意味ありげに葉月たちの後ろを見たのだ。葉月がそちらを振り返ると、少し離れたところに幌付きのトラックが止まり、その荷台で中年の痩せた女性が手を大きく振っているではないか。女性は、葉月たちに向かって、車に乗れと言っているように見える。

 葉月、乙姫、一成は顔を見合わせた。戦う神仙と中年女性は敵か味方か。迷った時間は三秒にも満たなかった。三人は幌付きトラックのほうへ、セイヤを引きずって駆け出した。

 追撃する中国服たちは、謎の老人が防ぎ止めてくれたらしい。トラックまでたどり着いた葉月たちを、中年女性が中国語で何か声をかけながら、幌の内側に引き上げてくれた。

 もたもたとセイヤが荷台にはい上がったとき、その背中を蹴飛ばすように勢いよく、老人が仮面の運転手を振り切って幌の中に飛び込んできた。運転手に乗り込んだ中年女性がアクセルを踏み込む。急発進に、老人以外の四人は荷台の床に転がった。

 トラックの後ろの開いた幌からは、こちらをにらむレスターが見え、すぐに小さくなっていった。

 目前の危険が文字通り遠ざかると、四人の視線は自然と謎の老人に向けられた。八本の視線を一身に浴びて、老人はさっと色つき眼鏡を取った。

「あっ」

 葉月が声を上げた。眼鏡の下から現れたのは、葉月のパパによく似た目だ。そしてそれは、ときどきエアメールで届く手紙についた写真で見慣れた目でもあった。

 你好、爷爷! 请多多关照!

 その人に会ったら言うつもりだったセリフは全部、頭から吹き飛んでしまった。菩薩のてのひらの上に乗ったような安心感に包まれて、葉月の目に涙がにじんだ。

「おじいちゃん!」

 葉月は日本語で叫んで、武骨な笑い方をする老人の胸に飛び込んだ。しなやかな筋肉をつけたその人の腕は、暖かくがっしりと異国人の孫娘を抱きとめてくれた。


「報道では伏せられているが、西安で何か大きな騒動が起こったらしいと、わしに知らせてくれる知人があった。この国はしばしば重大な事柄を国民に発表しないが、上に政策あれば、下に対策あり。わしらにもそれを知るための伝手はあるのだ。心配になってお前の父親に電話したが、つながらない。これはお前たちも巻き込まれたのだろうと確信して、林鈴と二人で西安に車を出した。その途中でお前たちに出くわしたのだ」

 葉月のおじいちゃん———劉武は、セイヤによる通訳の助けを借りて、そう語った。林鈴は、葉月のパパのお姉さんで、葉月にとっては伯母さんだ。今は天水に向けてトラックを運転してくれている。

荷台は隅に麻袋があるばかりで空っぽだった。白い幌を通して注ぐぼんやりした光の中に埃が舞う。服が汗で張り付くほど蒸し暑い。

「おじいちゃん、助けに来てくれて本当にありがとう」

と、葉月が改めてお礼を言うと、劉武は愛情深い目で孫娘を見つめて、

「大事な孫を救うために使えないなら、剣を学ぶ意義がどこにあろうか」

と言った。

「ところで、こちらの若い男性はどなたかな」

「あ、あの、誠に申し訳ありませんでした。僕のせいで、あなたの息子さんは連れ去られ、お孫さんたちは襲われたのです」

 セイヤさんは唇を白くして言い、自分がFBIとチャン財閥から同時に追われていることと、西安で起こった事の経緯を説明した。セイヤの要領を得ない話を、葉月と乙姫、一成がところどころ補った。

 腕を組み、瞑目していた劉武は、四人の話を聞き終えると目を開き、一言、

「孫の見込んだ客人だ、族に突き出しはせん」と言った。セイヤはその言葉にほううと深く息を吐いて、

「『わしの息子と孫を危険な目に合わせおって! こうしてくれるわ!』とか激怒してトラックから放り出されるかと思った」

と、額の汗を手の甲で拭った。

「ところでさ、あれから攻撃がないなんておかしくないか? あのレスターなら次の手をそろそろ仕掛けてきそうな頃合いだけど」

「そういえば、昨日からFBIも姿を見せないわ」

 不安げにする一成と乙姫に、劉武が答えた。

「わしらが加勢したので、戦法を変えたのだろう。奴らのほうから出向かずとも、どのみちわしらは敵の本拠地に乗り込むことになっているのだ。葉月の父親を取り戻すためにな。むしろ、いままでの攻撃は奴らの本気ではなく、お前たちを刺激して急がせるための作戦の一部だったのかもしれん」

「FBIもとっくにそういう考えかもね。月蘭にたどり着くまで僕を泳がせれば、僕もチャン財閥も一網打尽だ」

 劉武の言葉を最後まで訳して、セイヤが付け加えた。一成が眉をしかめて言う。

「じゃあどうすればいいんだよ! 葉月の父さんを助けに行けば、おれたちがやられるのは決まりじゃんか」

 セイヤが黙り込む。その肩を葉月がつかんで、元気な声で言った。

「大丈夫だよ。セイヤさんは蘭州のおじいちゃんちで待ってて。月蘭には、葉月たちで行く」

「まあ、それがいいかもな。セイヤさんを連れて行っても足手まといだし、レスターに捕まっても面倒だし」

 一成の遠慮のないセリフが、セイヤの胸をぐさっと突き刺す。葉月が、励ますように言い募った。

「セイヤさんは、とにかく安全なところにいて。セイヤさんが信じててくれるなら、葉月、がんばれるから」

葉月の頰が赤く染まっている。一成は妙な顔をし、乙姫はふふ、と笑った。

おおそうだった、と劉武が後ろにぽつんと置かれていた麻袋を探った。中から大事そうに取り出したのは、傘のような長さと幅の布包みだった。

劉武がほどいた緋色の布の間から、金色のきらめきが見える。

「前に使っていた剣は、壊れてしまったんだったな。これはお前に会ったらあげようと、持ってきたものだ」

 劉武からその品物を手渡されて、葉月はうわああと歓声を上げる。それは、劉武がいま脇に置いているような、中国風の小振りな宝剣だった。つかの金色の塗装の上には、ごくごく小さな赤い宝石の粒が散っている。劉武の剣と同様に、つかがしらからは深緑色の房が垂れていた。

「重くないか?」

「ううん、練習用の木刀よりは、全然軽いよ」

 葉月はゆっくりとさやを抜き、その滑らかな銀色の刀身にうっとりした。鋭く光を反射する刃を見て、セイヤが慌てる。

「ちょっと劉武さん、子供に真剣を持たせるのは———」

 違う違う、と言う風に劉武は手を左右に振って、指の腹を宝剣の刃に押し当てた。

四人はちょっと息を飲んだが、劉武の指は切れなかった。宝剣は模造刀だったのだ。

「谢谢、爷爷!(ありがとう、おじいちゃん!)大事にするよ」

 美しく飾られた剣のつかを握ると、どんな恐ろしい怪物にでも立ち向かっていけそうな気がした。








六 ラベンダーの瞳


 天水は雨だった。

 高速道路を下りて街に入ると、遠くのビルはもやにかすみ、家々のコンクリート塀がしっとりと暗い灰色に濡れていた。赤い芙蓉を咲かせた枝が、細い雨に打たれて重く垂れている。

「まだ時間は早いけれど、天水のホテルで休みましょう。明日になったら出発して、蘭州で必要な物資を調えて、月蘭へ向かうの」

トラックの荷台で林鈴が言った。途中で運転は劉武と交代している。

 背の高い林鈴は、結婚して蘭州市内に住んでいる。葉月のパパとは昔からきょうだい仲が良く、武術の稽古も一緒に受けていたのだが、早々に脱落したパパと違って、林鈴はかなりの使い手ということだった。

「すべてが上手くいったら、私の子供たちとも遊んでちょうだいね」

 林鈴は一見ぶっきらぼうでとっつきにくい感じだが、話してみるとよく笑う人であることがわかった。葉月のパパの子供の頃の話を面白く語ってくれて、雨で湿ってきた幌の中の不快感も忘れるほどだった。

「月蘭って、蘭州から遠いんですか?」

 一成が訊くと、林鈴は湿気を含んで垂れ下がってきた前髪をかき上げてうなずいた。

「遠いわね。蘭州からまず、ウルムチっていう西の街まで飛行機で飛ぶの。ウルムチは、高層ビル群が並ぶ大都市だけれど、中国の主要な民族である漢族のほかに、ウイグル族が多く住んでいるの。だから西安や天水とかとは街の雰囲気ががらっと変わるわね。ウルムチから月蘭———レスターが月蘭と主張している砂漠の真ん中までは、車で二日くらいよ」

 「二日かあ……」と、不安げに宝剣のつかを握りしめた葉月の気を紛らわせるように、林鈴が話を変えた。

「天水は、街の名が示すように水と関係の深い場所なのよ。二千年も昔、空に突如赤い光が現れたかと思うと、豪雨が起こって地面が割れたの。大地の裂け目は湖になったのだけれど、人々は湖の水が天の川から流れ込んでいるのだと信じたの。なぜって、その水があまりに甘くおいしかったからよ」

「その湖って葉月たちも見れる?」

「いいえ、いつの頃かなくなってしまったわ。でも、天水にはきれいな泉がいまでもたくさん湧くのよ」

林鈴が言ったとき、トラックは減速してキュッと停車し、運転席から降りた劉武が、雨よけに閉めていた白い幌をバッと開けた。雨に冷やされた空気が、蒸し暑い荷台に流れ込んできて、中に座っていた五人は大きく深呼吸した。

 葉月、一成、乙姫の順で降りる。車酔いで気分が悪そうにふらふらしているセイヤを林鈴が支えながら降りるのを待つ間、周囲を見渡した乙姫は、はっと息を飲んだ。

 そこはクリーム色の塗装も剥げかけた古いホテルの前だったのだが、車道を挟んで銀行や小さな商店の並ぶ辺りに一瞬、派手な黄色のキャプテンハットが現れたような気がしたのだ。乙姫は、心に冷水を浴びせられたように怖くなった。ちらりと見えただけだがそれはあの、西安で二度目にした、奇妙な孫悟空の帽子ではなかっただろうか。

「わしはこの車を駐車場に停めてくる」

劉武の声とエンジン音で、乙姫は我に帰った。私たちはホテルに戻りましょう、と言って、林鈴が先に立って入口へ向かう。

後に続こうとしたセイヤを突然、奇怪な仮装をした小柄な影が襲った。

「う、うわっ」

 声を上げてバランスを崩すセイヤ。車酔いでぐんにゃりしていた彼は、肩にかけていた荷物を簡単にもぎ取られてしまう。

「何いまの⁉︎」

 乙姫たちの目に入ったのは、赤いぽんぽん飾りのついた黄色い帽子と服をまとった、やはりあの孫悟空だった。

奇抜すぎる扮装に毒気を抜かれている葉月たちのそばを、孫悟空が駆け抜けた刹那、濃いラベンダーの香りが鼻腔に届いた。

「あ、あのかばんには印章が入ってるんだ!」

 狼狽して裏返りかけたセイヤの声で、葉月と乙姫、一成に緊張が走った。月蘭の王であることを示す印章を狙う者とは、一体何者か。レスターたちとは関連があるのか。

 そんな疑問が脳裏をよぎったのも束の間、まず葉月が孫悟空を追って駆け出した。ワンテンポもツーテンポも遅れて、一成、乙姫も足を踏み出す。一歩先にホテルに入った林鈴は、まだ外の事態に気づいていないようだ。 

 もつれがちな足を必死に走らせながら、乙姫の心は、後悔と自責の狭間で揺れていた。

(ああ、やっぱりあの孫悟空はセイヤさんを狙っていたんだ。わたしだけが気づいていたのに、何もできなかった)

 孫悟空は、まるで乙姫たちがちゃんとついてきているか確認するように、たびたび後ろを振り返りながら、滑稽な身振りで走っていく。

 ホテル前の通りから、いつのまにか乙姫たちは細い裏道を経由し、誰かの屋敷の裏庭に入り込んだ。不思議な形の岩の間を走るうち、乙姫は息が切れてきた。そのとき、前方の孫悟空がふっと消えた。

 庭園を区切るための塀に、きれいに丸い出入り口が開けられており、孫悟空はそこを抜けたらしい。出入り口を、白い花を咲かせた茉莉花の茂みが縁取っている。

 もらったばかりの宝剣を携えた葉月は、迷わず出入り口に突進する。塀の向こうの大きな池と、そこにかかる橋の上を一目見た乙姫は、石像になる魔法をかけられたように立ち尽くした。

 そこには、端をつまんで持ち上げたように反った屋根を持つ東屋があった。東屋の中には、こんこんと泉のあふれる水盤があり、その側には十七、八の娘が立っている。

 その娘は、昔の中国の姫君のようなひだのある衣をまとい、高く結った髪には金細工の髪飾り、背中には琵琶をかついでいるように見えた。

 乙姫が驚いてまばたきをすると、そこに立っているのは、ごく普通のワンピースに身を包んで長く編んだ髪を垂らし、琵琶の代わりにギターケースを背負った、現代的な娘だった。一つ不思議な点を挙げるとするなら、その肩に一匹の子猿を載せていることである。まるで、塀を抜けた途端、孫悟空が魔法のごとく子猿に姿を変じてしまったようだ。

 乙姫は、娘が手にしているものに注目した。先ほど孫悟空に盗まれたはずの、セイヤのショルダーバッグだった。バッグの口は大きく開いていて、娘は片手に翡翠色の印章を持ってかざし見ている。

 葉月が一歩前に出る。彼女は、乙姫が見た幻を目にしなかったようだった。

「あのう、それ葉月たちの知り合いのなんだけど……あなたが拾ってくれたの?」

「おい、向こうは日本語わかんないだろ」

 一成がひそひそ言う。

 娘が、首をめぐらしてこちらを見た。橋の上の東屋にいる彼女が、乙姫たちを自然見下ろす格好になる。すっ、と乙姫たちに視線を据えたその瞳は、深い紫色だった。

 娘は、皇族のように気高い気品を放って、昂然と頭を上げている。無言を貫く娘の反応に困って、葉月がもう一度声をかけようか迷ったとき、ぱたぱたという足音が近づいて、セイヤが円形の穴からぬっと顔を出した。

「みんな、無事かい⁉︎ 僕のバッグを盗っていった奴がそこにいるの?」

 くしゃくしゃ頭を雨でさらに乱したセイヤと、貴い雰囲気の娘が、ばちんと音がしそうなほど目を合わせた。

 セイヤの姿を目に入れた瞬間、娘の端正な表情が大きく変わった。目が潤んだかと思うと、いまにも駆け出さんばかりに上半身を前に出した。しかし、気持ちを抑えるようにさっと顔をうつむけると、体をぐっと後ろに引いた。それでもその菫色の目はセイヤから離れない。乙姫は、娘がセイヤと知り合いなのではないかと思ったほどだ。

 セイヤは目を丸くして娘を見つめ、それから葉月に「この子は?」とぎこちなく尋ねた。葉月たちが首を振ると、セイヤは娘に中国語で話しかけた。

「君は誰だい?」

「———わらわは紫花(ズーファ)」

 意外にも、娘は日本語で答えた。

「日本語話せるの?」

「日本語なら、二百年前から知っている」

 紫花は真面目な顔で言った。

「紫花、君の持ってるかばんと印章、僕のなんだ。返してもらえるかな」

 セイヤが遠慮がちに申し出ると、紫花はおとなしくその二つを差し出した。セイヤが階段になった橋を上り、東屋に歩み寄って受け取る間も、娘は青年の顔をじっとうちまもっている。セイヤはどぎまぎした。

「僕、君とどこかで会ったことあったっけ?」

「いいや、今回は初めてだ」

(今回“は”?)

 今回“が”と言いたかったのかな、と乙姫は思った。

「ところで、そのバッグとはんこはさっき、変な格好した猿みたいな奴に奪われたんだけど、紫花さんはそいつのこと見た?」

「さて、とんと知らぬ」

 一成の問いに紫花が澄ました顔で答えると、娘の肩の子猿がキイッと鳴いた。その頭を指一本で撫でてやりながら、紫花はちらりとからかうような笑みを浮かべる。

「だが、王の証である印章を盗られるなど、不用心がすぎるのではないか、月蘭王」

「何だって⁉︎」

 紫花の言葉に一同は驚愕し、とりわけ一成は、娘をはっきりと疑いの目で見た。

「何でそんなこと知ってるんだ? もしかして、あんたもレスターの手先なのか?」

「あの子は顔も頭も並外れてよいが、子供のような考え方をするところだけは何度死んでも治らないな。あの子の下につくほど、わらわは酔狂ではない」

 紫花は、幾つも年上のレスターのことを“あの子”と呼んだ。

「それじゃあどうして、セイヤさんを月蘭王なんて呼んだんだよ?」

「方位磁針が北を指すように、そやつがそうだとわかったのだ」

「はあ」

 一成をクエスチョンマーク渦巻く沼に蹴りこむと、紫花はほとんど耳に止まらないような小声でつぶやいた。

「王が王に転生し、宰相は宰相に戻った。この上われらの湖が王国に帰るなら、わらわも手を貸さねばなるまい」

 紫花は、日本舞踊の舞い手のようにすいっと東屋を指すと、

「中に入るがよい。月蘭王国について、わらわが知っていることをそなたらに話そう」

と、葉月たちをいざなった。


 薄茶色の柱に囲まれた六角形の東屋に入って雨降る外を眺めると、結界に守られているような気がした。

龍の鉤爪に支えられた水盤から湧き出した水は、足元の溝を通って、橋の側面に彫られた龍の牙の間から池に流れ込んでいる。池のほとりには緑の柳がしだれ、水面(みなも)の下には緋鯉の泳ぐのが見えた。いづこよりともなく、雨に濡れた樹木の甘い匂いが満ちてくる。

ワンピースのスカートに手を置いて、紫花は語り出した。

「月蘭王国の最盛期を築いたのは、一人の青年王だった。その頃の月蘭は、西域を支配下に収めようと手を伸ばす中国王朝と、さらに西の大国ペルシアの間を上手く立ち回っていた。王国は、砂漠をゆく隊商の休憩地として豊かであったのだ。千の甍を葺いた王宮に、王国の繁栄をことほぐ諸王からの使節は絶えることがなかった。五十のオアシス都市を従える月蘭王は、周辺諸国を砂漠の星にたとえて、“星々の王”と呼ばれたのだ」

 東屋の、龍の鱗のような瓦屋根を叩く雨音が、柔らかく耳朶を打つ。紫花は、長い人差し指でセイヤのショルダーバッグを指した。

「砂漠の遅い午後のように黄金色の日々の中、王宮に最上品の玉が献上されたことがあった。星の王はその見事な玉を三つに分けて、一つで印章を、もう一つで壁を、そして残る一つで指輪を作らせた」

「もしかして、僕の持っているこれが……?」

「そのときの印だ、月蘭王」

 紫花が首を縦に振ると、セイヤは背中を柱につけて、困惑したように頰をかいた。

「その月蘭王っていうのはちょっと……。僕は王様になる気はないし」

「何と思おうと、そなたは月蘭王だ」

 紫花が、確固たる未知の根拠によって断言する。乙姫が小さく手を上げた。

「あの、じゃあ、壁はレスターさんが持っているんですね。それなら、指輪は?」

「……王と親しかった宰相の姉に与えられたが、早くに失われたと言われている」

「ねえ、そんなに栄えていた月蘭王国が、何で滅びちゃったの? レスターは、ロプ何とかっていうのの水が枯れたのが原因みたいに言ってたけど……」

 葉月が口を挟むと、紫花はうなずいた。

「ロプ・ノール。豊富な水をたたえたその湖こそが、月蘭の栄光を支えるものだった。ロプ・ノールに清水が湧く限りにおいて、王国の人々は生活を営み、旅人が馬やラクダを休ませることができたのだ。

 星の王が没してしばらくのち、偉大な王の後を追うように湖の水が減り始めた。水の流れ込む場所というのは変わるものだ。太古から同じ場所をとうとうと流れているように見える大河でさえ、歴史の中で何度も流路を変える。一度引き始めた水は元には戻らず、そう経たぬうちにロプ・ノールは姿を消してしまった」

「でも、湖が一つ枯れただけで国が滅びるの? 王国の人はまだそこに住んでるんだよね。だってみんな、そこが故郷なんでしょ?」

「砂漠に暮らす民にとって、泉の有る無しはそなたが思うよりはるかに生死に直結することなのだ、雨の国の少女よ。オアシスが生じるところに人が集まり、町が栄え、そのオアシスがなくなれば、陽光に照らされた露のように町も人も消えてしまう。

 加えて同じ頃、東の中華帝国と西のペルシアの対立が激しさを増していた。月蘭はそれまでのように、二つの大国の間で天秤遊戯(バランスゲーム)をしているわけにはいかなくなったのだ。結局中国王朝に与した月蘭は、王朝が分裂したときにその影響をもろに受けて、ばらばらになってしまった」

 紫花の子猿が、するっと片方の肩に移る。腕を肩と水平に伸ばして子猿を遊ばせてやりながら、紫花の心は、いにしえのロプ・ノールの湖岸をさまよっているようだった。

「天から滑り落ちてきた鏡のようなロプ・ノールのほとりで、星の王はよく時を過ごしたものだった。宰相家の娘の弾く琵琶に、政務に疲れた心を癒しながら。気の荒い諸王を束ねるには、優しすぎる王だったのだ」

 紫花は、片手を水盤の中に浸した。透きとおった分厚い水の揺らぎを通して、紫花の指にはまる指輪の翡翠色が見える。泉の水はとくとくと湧き出して、絶えることがなかった。

 紫花はふと思い出したように「と、伝わっている」と付け加えた。

「なんでレスターは、今更になって月蘭をよみがえらせようなんて考えたんだろう」

 葉月がぽつりと言った。

「それは、いまになってセイヤさんが見つかったからだろ」

「だけど月蘭が滅んだのは、レスターのひいおじいちゃんの、そのまたひいひいひいひいひいおじいちゃんくらいのときだよ? 一六〇〇年間も会っていない王様に、仕えようなんて思うかな?」

「セイヤさんを利用して、レスターが自分の国を建てたいだけなんじゃないか? チャン財閥はほとんど世界の経済を支配してるからな、次は世界を征服しようと思ったのかも」

「うーん」

「なぜいまか、という点についてはもう一つわけがある」

 紫花が葉月の顔を見た。

「近頃、かつて月蘭のあった地にロプ・ノールが戻ってくるきざしがある」

「ロプ・ノールは消滅したんじゃないの⁉︎」

「かの湖は地下水の水脈によって、渡り鳥のごとく姿を現すところを変えるようなのだ。一六〇〇年前月蘭王国を滅亡せしめたロプ・ノールは、広大な砂漠のどこかを気ままに遊歩し、いままた気まぐれに元の位置に帰ってこようとしている。それが、あの子が月蘭王の確保を急ぐ理由だろう」

 紫花はそこで、瞳を中空にさまよわせた。

「だがそれだけでは説明のつかぬほど、あの子は月蘭の再興に固執しているように見える。

けれど、これだけはわかってやってほしい。あの子にとって天地の間で意味を持つものは、月蘭王ただ一人なのだ。今も昔もな」

「そうかなあ。彼のおかげで僕は、不必要なほど何度も死にかけたんだけどな」

 一成が、紫花をちらっと見て言った。

「それで、何度も聞くけど、紫花さんはどうやって月蘭について詳しく知ったんだ?」

「僕も不思議なんだ。紫花、よければ教えてほしい」

 そのとき紫花は、ふっ、とセイヤを見た。その色濃い紫の瞳に大きな影が差して、また戻った。まるで、先にそれを言い出した一成はともかく、セイヤだけは、その問いの答えを知っていなくてはならなかったように。

 主人に何か文句があるか、と言わんばかりに子猿がキキッと威嚇の声を上げる。子猿は紫花の肩を滑るように駆け下り、その勢いのままセイヤに飛びついた。

「むぎゃっ」

 逃げ腰になったセイヤの、半開きのショルダーバッグに手を突っ込んで、子猿は中をごそごそ探る。子猿はすぐにお目当てのものを見つけたらしく、セイヤの体をぴょん、と飛び降りると脱兎のごとく雨の中へ駆け出した。

 子猿の握っているものを見て、「僕のスマホ!」とセイヤがわめく。

「セイヤさんってほんとにドジだなあ!」

「すみません……って、いまの僕のせい⁉︎」

「セイヤさんは、そのドジなところがいいの!」

 子猿を追って、葉月、一成、セイヤが外に飛び出していく。東屋には、乙姫と紫花が残された。

「そなたはともにゆかなくてよいのか?」

「———あの、荒唐無稽に聞こえるかもしれないですけど、その———」

乙姫は口ごもる。

「紫花さんは、月蘭に当時生きていた人の、生まれ変わり、とかじゃないですか」

 紫花は目を見張った。

 思い切って一息に言ったのに、セリフの後の方は尻すぼみになって、乙姫はそんなことを言い出したことに恥ずかしくなった。紫花が何も言わないので、セリフの吹き出しで空間を埋めるように、また口を開く。

「だって、その指輪———」

 乙姫の指したその先の、紫花の指にある指輪は、セイヤの印章と、そしてレスターの持つ壁と、まったく同じ色だった。

 失われたはずの玉の指輪をはめた手を握り合わせて、紫花が問うた。

「なぜ———?」

「わたしも、そうなんです。わたしにも、ずっと昔に生きていたもう一人の自分の記憶があるんです!」

 紫花はほっ、と深く息をついた。

「前世のことを覚えている者に会うとは珍しい。これまでの九度(くたび)の人生でも、そういう者とは一、二度しか会ったことがない」

「九度?」

「そうだ。わらわの前世は月蘭王国の宰相家の娘。その生を終えてからこたびのわらわとなるまで、九度生まれ変わっている」

 予想もしない答えを聞いて声も出ない乙姫に、紫花はとても年をとった人のように微笑んだ。

「周囲の人間と違う過去の記憶を持つ者は、この上なく孤独だ。これまでさぞ寂しかっただろう」

 黙ってうなずく乙姫の髪を、紫花の手が優しくなでた。乙姫は娘のワンピースの袖に、ラベンダーの匂いをかいだ。

「死んでからそれほど間をおかず生まれ変わったからか、二度目のわらわのとき、最初の人生のことはほとんど完全に覚えていた。いや、最初の人生の印象があまりに強かったから、すぐにこの世界に帰ってきたのだ。ひ弱で、情けなくて、誰より優しいわらわの王に、早く逢いたかったから———」

と、紫花は言った。

「それほど急いで戻ってきたのに、月蘭はそのときすでに滅んでいた。地図の、王国のあった場所は、名前すらない砂漠になっていた」

「星の王には、逢えたんですか———?」

「逢えた」

 紫花は微笑した。

「だが、すぐに別れた。王は月蘭のことも、わらわのことも、何一つ覚えてはいなかった」

 乙姫は目を伏せる。

 紫花は、東屋の廂の下から屋敷の庭を眺めた。すすけた赤色の橋の欄干にも、東屋に続くすり減った飛び石にも、細い雨が降り注いでいる。

「この屋敷には、以前のわらわが住んでいたのだ。いまは無人になっている。

 生まれ変わるとまず、どうしてもこの玉の指輪を探さねばならないという気持ちになる。それはどの生のときも同じだ。指輪を得ると、これまでの人生の記憶を取り戻す。そして、本当に出会わなければならない人を知る。逢ったところで、わらわのことをつゆとも思い出さない人、いまの人生に専心している人を。

 このように不毛なことを、千年以上繰り返している」

「不毛じゃないです」

 乙姫は小さく叫んだ。

「無意味じゃありません」

「今度は比較的すぐ、王に逢うことができた」

「じゃあ、やっぱりセイヤさんが星の王……」

 紫花が顎を引いた。彼女の口振りからして、レスターも転生した宰相なのだろうと、乙姫は思った。

「こんな偶然、あるでしょうか」

「ロプ・ノールが、二人を呼んだのかもしれない。一六〇〇年ぶりに帰還する座興として」

「紫花さんは、今回のセイヤさんを、ずっと遠くから見守っていたんじゃないですか」

「そうだ。あの子猿を使って」

 乙姫が西安で何度も孫悟空を見かけたのは、そばにセイヤがいたからだったのだ。

「いまのわらわの家は、道士の家系なのだ。———月蘭王たちが帰ってきた」

 耳をすますと、和気藹々とした話し声が聞こえた。

「スマホが完全防水でよかったよねえ」

「トーマスの改造癖に二度も助けられるとはね」

 セイヤたちが、こちらの声を聞き取れる距離まで近づいてくる前に、紫花がつぶやいた。

「こんな繰り返しを終わらせてしまいたいと、幾度思ったかしれない。それでもやめなかったのは、かの王が、いつも———」

 乙姫が、その言葉の続きを聞き出すいとまもなく、服も髪のびしょびしょにしたセイヤたちが東屋に上がってきた。小猿が、いい運動になった、とでもいうようにぶるっと体を揺すって、紫花の肩に駆け上がる。

「この猿、ちゃんとしつけといてくれよな」

 一成が文句を言う。三人の様子を愉快そうに眺めた紫花は、口を開いた。

「そろそろそなたらの連れが、心配するのではないか?」

「ああ! おじいちゃんと伯母さん、葉月たちがいなくなって、今頃慌ててるかも!」

 葉月が大声を上げた。

「それなら、そなたらはもう帰れ」

 セイヤと乙姫たちは、東屋の外に出た。乾きかけていた乙姫の髪や肩が、たちまち雨に濡れる。

 セイヤが上半身だけ捻って、東屋の中の紫花に片手を上げた。

「いろいろ教えてくれてありがとう。じゃあ、また」

「———また。……次に逢うときまで月蘭王、そなたがわらわを覚えているなら」

 乙姫ははっと胸を突かれて、紫花からセイヤに目を移した。青年の唇の動きを、乙姫は目で追った。

「覚えていると思うよ」

 セイヤは橋の途中で立ち止まり、くしゃくしゃの髪から雨を滴らせて、真面目な顔で紫花を見つめていた。

「だって紫花、君からは僕の大好きなラベンダーの匂いがする。匂いの記憶はいつまでも残るって言うよね。だから僕は、紫花を忘れない。これから先いつ君と会ったって、あのときの子だってわかると思う」

 セイヤはもう一度、じゃ、と手を上げると、橋の階段を降りた。乙姫は、紫花がまぶたを震わせて、東屋の端に駆け寄るのを見た。引き止めようとするみたいに、紫花は肩から先を屋根の外に伸ばした。

 しかし腕が雨に触れた瞬間、その湿ったところから年老いていってしまう人みたいに、紫花はさっと後ずさった。彼女は濡れた片腕を、火傷の傷をかばうように抱いてうつむき、それっきり動かなくなった。

 乙姫は東屋に戻って、紫花の肩を抱いてあげたかったが、何も声をかけないほうがいい気がして、そっと茉莉花の茂みをくぐった。

 先を歩く葉月と一成は、しきりに不思議がっていた。

「紫花さん、なんでセイヤさんが次に会うときには自分のことを忘れているだろうなんて思ったのかなあ」

「あんな個性の強いしゃべり方する人、忘れるはずないのにな」

 口をつぐんで歩いているセイヤに、乙姫は小さな声で訊ねた。

「どうして紫花さんに、ああやって言ったんですか?」

「忘れないって、言ったこと?」

「はい」

「僕があの出入り口をくぐって、東屋の中からこっちを見てる紫花と目が合ったとき、不思議な感じがしたんだ」

「不思議な感じ?」

「あの子がまるで、明け方になるまで夢の中で、ずっとそばにいてくれた人みたいな」

 変だね、とセイヤは澄んだ目で笑った。

 乙姫はちょっと、庭の奥を振り返った。橋の上の東屋も、小猿を連れた娘も、茉莉花と塀に遮られてもう見えない。

 ラベンダーの香りだけが、長くあとをついてきていた。








 七 月蘭城


 早朝に天水を出て、高速道路を走ること五時間。蘭州についたのは、まだ昼前だった。

 葉月たちは、蘭州市街地の建物群の目と鼻の先を横切る黄河に目を奪われた。その名の通りの黄土色の水がだくだくと流れていく様子は、大きな台風のあとの増水した川を思わせる。黄河は、行く先々の土地に豊かな土をもたらしつつ北中国を貫き、はるか東の果て渤海に流れ込むのだ。

 葉月たちは、蘭州で頼もしい助っ人を得た。劉武の自慢の弟子、黄浩、朱偉、白敏の三人である。黄浩は葉月のパパの幼馴染みであり、朱偉と白敏はセイヤと同じくらい若い。武術に覚えのある仲間が増えて総勢九人になったとはいえ、世界最大の財閥と渡り合うには、あまりにも零細な陣営だった。

 無謀な九人組は、蘭州からウルムチ行きの航空機に乗り込んだ。

 飛行機の小さな窓から濃い青色の空を見上げて、乙姫は、幸福の色を青と言った人はなんて鋭いのだろうと思った。海を泳いでいるとき周囲の水は青くないし、飛行機で空高く上がっても同じ高さの空気は透明だ。海も空も、離れたときだけ青く見える。人は幸せの中にいるとき、そのことに気づかないのだ。

「鉄道に乗れば、もっとシルクロードの旅の雰囲気が味わえるんだけど、二十時間かかるからね。飛行機の十倍だ」

 セイヤが言った。この青年は、本来劉武の道場にかくまってもらうはずだったのだが、ウルムチまではどうしてもと言い出して、葉月たちについてきたのである。

 蘭州を発って三時間も経たないうちに、葉月たち一行はウルムチの茶色い煉瓦造りの塔を見上げていた。その隣には、金色の丸屋根をいただいたモスクが立っており、通りには派手な模様の服の女性や白いトルコ帽の男性が行きかう。

 バザールに入った葉月は、エキゾチックな空気感に目を輝かせた。ジュースの屋台には、日頃見慣れたものとは違う、ラグビーボールのように横長のスイカが積み上げられ、何十色ものスパイスの布袋を並べた店先からは、刺激的な香りが流れてくる。にんにくを二つに切ったような胴に長い首のついた、ギターに似た弦楽器を壁にたくさん吊り下げた店では、客が楽器を試し弾きしていた。

 立ち食い客のいる屋台を指差して、黄浩が言った。

「そろそろ晩飯にしよう」

「え? まだこんなに明るいのに……あれ? もう七時だ」

 腕時計に目をやった一成がびっくりして声を上げる。筋骨たくましい体にTシャツを窮屈そうに着た朱偉が説明してくれた。

「中国は東西に長いから、ウルムチの実際の時間は北京より一時間くらい遅いのさ。お、サンキュ、白敏」

 食欲をそそる匂いに顔を上げれば、白敏がにこにこと目を細めて、羊の肉を串焼きにしたシシカバブを差し出してくれていた。

 それから一行は、カフェの、道に面して並べられたテーブルと椅子に座り、来たるべきレスターとの決戦について話し合った。途中でセイヤは、トーマスに連絡すると言い、携帯を持って席を立った。

 乙姫が、両手を握り合わせて夢見るように言う。

「トーマスさんって、勇気と茶目っ気を併せ持つ、素敵な方ですね」

「セイヤさんの友達だからね!」

「葉月はセイヤさんをひいきにしすぎじゃないか?」

「まあ、しゃべり方とかちょっと変わってるけど、確かにいい奴だね」

「しゃべり方、変わってますか?」

「電話だとなぜか普通に話すけど……まあ、会えばわかる」

 店を出るセイヤに、葉月もついていった。

 日が沈んだことで、通りは夕涼みをする人で活気を呈している。葉月は、ネオンや電球に照らされてそぞろ歩く人々をぼんやりと眺めた。トーマスとしばらく話していてセイヤも、通話を切って隣に並ぶ。

「トーマスが、所属している組織を動かそうとしてくれてるんだ。それが上手くいけば、かなり大きな援軍になる」

「ほんとに?」

「うん。———ここは明るすぎて、星が見えないなあ」

 群青の空を見上げて、セイヤが少し寂しそうに言った。その横顔を見上げて、葉月の胸に、パンみたいに一つの問いが膨らんできた。

「ねえセイヤさん。セイヤさんは本当に、月蘭王国の王様にならなくていいの?」

「……」

「レスターはパパを誘拐したり、車をぶっ壊したりした許せない奴だけど、セイヤさんの故郷は、ほんとのほんとは、月蘭なんでしょ? これから葉月たちが、その故郷をつくる邪魔をしに行っていいの?」

 セイヤは、空を向いて動かなかった。青年は、言葉を口にするまでが少し遅い。乙姫も同じだ。自分の中に分厚く降り積もった思索の中から、丁寧に言葉を掘り出しているのだ。

「僕は葉月の年くらいの頃、宇宙飛行士になりたかったんだ」

「宇宙飛行士?」

 唐突な話の展開に、葉月は戸惑った。セイヤは意に介さずに話を続ける。

「一度旅立ったら、地球には何十年も帰ってこられない命がけの任務でいい、一人宇宙船に乗り込んで、見知らぬ惑星を目指したかった。———大気圏の中にはどこにも、居場所を見つけられない気がしたから。学校のクラスの誰とも僕は、心からの友達になれなかった。スペースシップの丸い大きな窓から、一人で宇宙の闇を眺められたら、どんなに心が休まるだろうと思っていたんだ」

「いまでもそう思ってるの?」

 葉月はすがるような気持ちで尋ねた。セイヤは一瞬黙って、「いいや」と答えた。

「僕がアメリカを追われて中国まで逃げてきたのは、遠い故郷に憧れていたからかもしれない。すごく理性的に行き先を決めたつもりだったけれど、実は、王国の美しい伝説に引き寄せられただけだったかも。でもね」

 セイヤは、ちょっと言葉を止めた。

「いつだったか母が、幼い僕に言ったことがあったんだ。夜更けにアパートの前の道路に出て、漆黒の空を指差して。『あそこに見える星が全部、母さんの祖先のものだった時代があったのよ』と。母はよく、おとぎばなしみたいに月蘭のことを語ってくれることがあったけど、そういうときはいつも『母さんの故郷』と呼んでいた。絶対に『あなたの故郷』とは言わなかった……」

 セイヤは、そこで初めて葉月の顔を見た。

 葉月の大好きな目がそこにあった。生まれたばかりの星のような目だ。それでいて、色も光の強さも違う数多の星を含んだ、智慧ある人の瞳だった。

「旅に出てよかった。望んで始めた旅ではなかったけれど。僕はもう、立ち止まらないことにする。たとえこの旅の果てが、楽園のような場所じゃなかったとしても」

 

 セイヤがその晩、置き手紙を残して単身月蘭に向かったことがわかったのは、翌日の朝のことだった。


「なんで一人で行くかな、あの人は!」

 『皆さんへ。僕は先に月蘭へ行きます』から始まり、ホテルの便箋五枚にも渡る置き手紙を投げ散らかして、一成が叫んだ。ロビーの床から拾い上げた便箋の一枚に林鈴が目を走らせる。

「それにしても長い手紙ね。まるで書いてる途中で誰かが目を覚まして、引き止めてもらうのを願ってたみたい……」

 セイヤによる中国語の通訳がなくなったので、葉月たちは一成の電子端末の翻訳アプリで、林鈴の言葉を聞いていた。

 一成がぶつぶつ言う。

「セイヤさんだけで乗り込んだって、よくぞ来てくれました、ってあっさり捕まるだけなのに」

「しかし師匠、正直なところ彼がチャン財閥に捕らえられたところで、救出する人質が一人増えたというだけではないでしょうか」

「そうだな。むしろ彼のための護衛の人員を割かなくていいから楽かもしれん」

 黄浩が言うと、劉武は無慈悲にもすんなり首肯する。

「おじいちゃん、伯母さん! 早くセイヤさんを助けに行こうよ!」

 手紙を一瞥してから口を引き結んでいた葉月が、宝剣をつかんでじれったそうに叫んだ。

 ウルムチで借りた四輪駆動車に乗り込んで、一行はすぐさま出発した。

 道のりは厳しいものとなった。中国の奥地に広がるタクラマカン砂漠の、そのほんの入り口とはいえ、砂嵐を避けながら道なき道を走っていくのだ。地平線まで砂のほかに見えるのは、ただ乾燥した胡楊の枯木のみである。

 葉月は初めて、太陽に輝く金色の砂の海を目にした。幾十の砂丘を染め上げる夕焼けは、梵鐘を力いっぱい突くみたいに、葉月たちの胸を強く打った。

 林鈴、黄浩、朱偉、白敏が交代で運転を担当し、四輪駆動車は夜も走り続けた。乾燥による喉の痛みで葉月が目を覚ましたとき、車は不思議な形の砂の塊の近くに止まっていた。

 八人は強烈な太陽光線に目を細めながら、座席を降りる。土塊は十メートルほども高さがあり、砂漠の強風にすっかり表面が削げ落ちてはいるが、もとは人の作ったものではないかと思われた。

 土塊のぐるりを回った後、崩れやすいその表面に片手を突いて、劉武が言った。

「ここは月蘭故城だ。王の住む城と、それを取り巻く街のあったところだ」

 視界がぐわんと大きく広がる感覚があった。土塊を中心にして、建物の名残らしい不自然な岩が点在していることに葉月たちは気がついた。

 風が哭く。八人はいま、古代の王国の中心地に立っているのだった。一千年前の生活の痕跡がいまも残っていることと、いくら繁栄を謳歌した王国でも永遠には残らないことの不思議で、葉月の胸はいっぱいになった。

 一行は無言で風化した都の跡を歩き、そのはずれまでやって来た。砂の地面はそこで十メートルほど緩やかに落ちくぼんで、広大な平坦地へと続いている。坂の下を覗き込んだ葉月たちは、皆残らず息を飲んだ。

 砂漠のただ中に、王宮が築かれていた。

葉月たちの手前には、廂の短い九重の塔が左右に二本そびえている。その後ろには、火炎のように屋根の先が反り返った三層の楼閣や八角形の朱塗りのお堂、お寺の山門のごとき建築が整然と、しかも所狭しと並んでいた。一番奥には、皇帝が暮らすような横長の巨大な館が、ほかを圧して鎮座していた。

不思議なのは、眼下の王宮全体が、日本の城のように石垣に囲まれていることである。高く堅固な石垣の外側には太い光の帯が落ちており、その正体は、十里四方湧き水一つないにも関わらず、豊かな水をたたえた堀なのだった。石垣の中腹から落ちる何本もの滝が、堀に水を供給している。

人工物がない砂漠に目の慣れていた一行には、突如出現した王宮は仙界かと思われた。

 朱偉が、目を王城に奪われたまま唾を飲み込んだ。

「レスター・チャンは、金に飽かせて本当に都一つ作っちまいやがった」

 葉月たちは感嘆の声を上げながら、夢の中にいるような心地で王宮へ近づいていった。それ一つだけでも貴族の邸宅といって通りそうな、豪壮な門を抜けると、欄干に金の擬宝珠を並べたアーチ状の橋が堀にかかっており、その先には、平安風な白壁に赤い柱を持つ門が立っている。その門の“朱雀門”と記された扁額を見上げながら、八人が橋の中ほどまで来ると、突然ビュン、と鋭く空気を切り裂く音がして、一本の矢が先頭を歩いていた劉武の足元に突き刺さった。

「走れ!」

 劉武が叫んだ。更なる攻撃が来る前に、葉月たちは朱雀門に駆け込んだ。林鈴がぱっと頭上で剣を回し、降ってきた矢を数本まとめて払い落とす。葉月がわっと歓声を上げた。

「それかっこいい! 伯母さんあとで葉月にも教えて?」

「いいわよ。でもいまはここを切り抜けるのが先!」

 わらわらと王城を警護する兵士たちが現れる。一行は手近な瓦屋根のお堂に逃げ込んだ。一瞬内部の暗さに慌てたが、目が慣れて周囲が見えるようになると、葉月の胸の中で千の風鈴が一斉に揺れた。

 広いお堂に、天井を突くばかりの金色(こんじき)の大仏が端座している。その四方を、威風堂々を3Dプリンターで印刷したような四天王像が守っている。ひんやりした空気に、白檀の香りが満ちていた。

 間を置かずお堂にどやどや流れ込んできた兵士たちを、劉武たちは剣を閃かせて迎え撃った。激しい剣戟を、宇宙の深淵を宿す仏の半眼がはるかに見下ろしている。

「きゃあっ」

「乙姫!」

 乙姫が、兵士の一人に腕を抑えられていた。葉月はたたっと助走をつけると、飛び上がりつつ空中で身をひねり、宝剣の側面で兵士の頭をぶん殴った。

 倒れる兵士の手から自分のほうに乙姫を引き寄せると、葉月は親友に間近に笑いかけた。

「乙姫の危ないところを助けるのは、いつも葉月の役目なんだからね!」

「そんなこと、生まれる前から知ってたわ」

 乙姫は微笑んだ。

 あとからあとから湧いて出てくる兵士たちを食い止めつつ、黄浩が怒鳴った。

「白敏、葉月たちについててやれ!」

 葉月、乙姫、一成は敵を振り切って、お堂から次の建物に続く渡殿を、足音高く駆け抜けた。かもしかのように身も軽く、白敏がしんがりを務める。

 花と鳥獣が精緻に彫り込まれた木の開き戸を押し開けると、中からテンポの速い弦楽器の音楽が流れ出してきた。

 星の文様のようなアラベスクの装飾が施された無数のランプが、床の上や天井から華やかな光を放っている。その光に浮かび上がるのは、床に充満するように座る、美しい女性たちだった。見上げれば、吹き抜けになった二階の回廊にも、落っこちてきそうなほどぎっしりと、女性たちが手すりに詰めかけて身を乗り出している。

 天井から下がったランプの下、曲に合わせてくるくると回るスカート姿の娘に手拍子を打っていた女性たちは、葉月たちが床も見えないほど敷き広げられた衣の裾を踏むのもいとわず飛び込んでくると、悲鳴を上げて壁際にはい寄った。奏でられていた曲も止む。

 踊りを妨げられたスカートの娘が、舞いに使っていた短剣で、勇ましく白敏に切りかかった。白敏は身を翻し、細身の剣でそれを受ける。曲芸のような身のこなしで打ち合う白敏と娘は、舞いを舞っているように見えた。

 束の間見とれた葉月たちに、白敏が声をかける。

「行きなさい!」

 ステンドグラスから七色の光が差し込む聖堂、一面にアイリスが咲き誇る中庭。ふと空を見上げれば、金や銀の吹き流しが、たえなる音楽でも奏でるように風に舞っている。バリエーション豊かに豪奢な建物を通り抜けていくうちに、不思議と追っ手はいなくなった。最後に、紺青の丸天井に金の星座が描かれた静謐な建物を息せき切って飛び出すと、三人は走るのをやめて乱れた息を整えた。

 額の汗を拭って辺りを見渡した葉月は目を見張った。いかなる魔法だろうか、三人は一面の緑に包まれていた。前にも後ろにも木々の新緑が波のように続いており、三人の立つ屋根付きの木の橋からは、細い谷川が見下ろせる。聞こえるのはただ、川のせせらぎだけだ。葉月は、柔らかい木漏れ日が体の中に染み込んで、疲れを癒していくのを感じた。

「どんだけ金を注ぎ込んだら、真夏の砂漠に若葉の谷を作れるんだよ」

 一成が、息も絶え絶えに言う。

 木の橋はまっすぐ対岸に続いていた。柔らかな緑の下草と小さな白い花が咲き群れる野に、ガラスで作られた館が建っていた。

 透明な扉を引いて一歩中に入ると、水晶を千に砕いたような日の光に包まれた。頭上を何百か数もわからないほどの蝶が渡っていく。黒や青、橙の蝶がはばたきのたびに落とす鱗粉で、空気がきらめいていた。

 クジラも跳ねられそうなほど高い天井に向かって、一本の南国の樹木が伸びている。名も知らぬ青い果物を実らせたその木の根元には、丸い穴が開いており、螺旋階段が下に向かっているのが見えた。

 階段を降りていった先、葉月たちがたどり着いたのは、板張りの大広間だった。広間の横の壁の一方は外に開いていて、赤、白、紫、緑、黄の縦縞の幕が軒先から垂れている。風に膨らむ五色の幕の向こうには、朱雀門と、これまでに通り抜けた数々の建物が見えた。いくつかの楼閣や塔にくくりつけられた連凧が、風に美しくなびいている。位置関係からして、ここは最初に見たとき最も奥にあった、立派な館ではないかと思われた。

 飴色の床に飾られている、神仙を描いた屏風や、緑の釉薬のかけられた大きな壺、呪術的に複雑な文様を持つ青銅の三足の鍋を見ながら、三人は大広間を歩いていった。本来ならどれも、博物館のショーケースを安住の地とすべき、国宝級の名品に違いない。

 「あれ」と乙姫が前方を指差した。そこには数段のきざはしのついた長く平たい台があり、その上にはコンテナほどの大きさの、八角形の箱が載っていた。箱の八つの面にはそれぞれ、孔雀や牡丹などが贅沢に刺繍されたタペストリーが下げられており、上部には日輪や霊鳥をモチーフにした金属の飾りがついている。

「宝物庫かな」

「これまで見てきた高そうな皿や掛け軸があんな扱いなら、こんな特別にしまい込まれたお宝は、どんだけ貴重なものなんだろうな」

 葉月は箱の正面に回った。その一面だけタペストリーが上がっており、中に革張りの椅子があることがわかった。椅子には誰かが腰かけている。その人物の顔を見て、葉月は大声を上げた。

「セイヤさん!」

 葉月、乙姫、一成はどたどたと箱に上がり込んだ。セイヤは幸せそうな顔で眠りこけている。葉月がその頰をぴたぴたと叩いた。

「セイヤさん、セイヤさん!」

「……あと五分だけ……あと五分だけ寝させてくれたら王様になってもいいから……」

「何血迷ったこと言ってんだよ」

 一成が怒ると、その声に驚いてセイヤが目を開けた。自分を見下ろしている葉月、乙姫、一成に目を丸くし、それからあちゃ、というふうに顔をしかめる。

「やっぱり来ちゃったか、君たち」

「セイヤさんがこんなに頼りないんだから、そりゃ来るよ。葉月の父さんを救出するどころか、案の定自分が捕まって、そんな王様みたいな格好までさせられてるじゃんか」

 一成の言う通り、セイヤは青く長い衣を着て、烏帽子のようなかぶり物をしていた。

「しかも、人が助けに来てみればぐうすか寝てるし」

「ご、ごめんよ。最近、レスターたちにいつ襲撃されるか不安でよく眠れなかったんだ。捕まってしまえばもう攻撃されることはないわけだから、安心してつい眠気が」

「安心するところじゃねえよ」

 「まあまあ」と乙姫がとりなして、葉月をちらっと見た。セイヤがおそるおそる視線を送ると、葉月は腕を組みぶっと頰を膨らましていた。セイヤが上目遣いになる。

「ごめんよ、葉月。君たちを危険な場所に連れて行きたくなかったんだ」

「セイヤさんは遠慮とかせずに、葉月たちに守られていればいいの! もう葉月たちのこと信用して、置いていったりしない?」

「君たちのことは信用してるし、もう置いてはいかないよ」

「それでよろしい」

 葉月は一転にこっとして、セイヤの手を引き、椅子から立ち上がらせた。

 葉月たちは八角形の箱から出て、大広間から前庭に続く回廊を渡った。庭園には低木に咲く白い花が良い匂いをさせ、散策するための小径がその間を縫っている。緑の葉を茂らせた梅の木の下に、子供が遊ぶビニールプールほどの小さな池があって、その表面に薄紅色の蓮のつぼみが浮いていた。

 池のすぐ脇に、子供の身長ほどの高さの飾り時計があった。黒檀のチェス盤の上に足を踏み締めた四匹の金色の象が、宝石のはめ込まれた箱を支えている。箱の正面には、月日、曜日、時間、それから何かわからない記号を表す文字盤がついており、細い針がてんでばらばらな方向を指している。箱の上には蛇の絡みついた塔が伸び、てっぺんに薄い三日月が光っていた。

 チェス盤についた羽根車が、池に流れ込む小さな流れに浸かっていて、ころころと回っていた。葉月が「きれいな水」とつぶやいて、水たまりに手を浸そうとしたとき、飾り時計が、オルゴールのような音を立てて動き出したので、四人はぎょっとした。

 見れば、時計に取り付けられた装飾が、生を得たように勢いよく動き回っている。象使いは象を鞭で叩き、蛇が舌をしゅるしゅると出し入れしながら塔を上下する。文字盤のある箱の中の劇場で、人が糸車を回し、銀の海原を帆船が滑った。どうやら、飾り時計は精緻なからくりで時を告げているらしい。

 最後にキン、と澄んだ音を響かせて、からくり時計が動きを止めた。途端、四人の背中に冷たい声がかかった。

「陛下、どこへ行かれるのですか」






 八 帰還する湖


 からくり時計が動き出したときより何倍も心臓を跳び上がらせて、葉月たちは館のほうを振り返った。

 風に翻る五色の幕を背にして、レスター・チャンがこちらを見据えていた。その一歩後ろにはあの仮面の運転手が控えており、さらにその奥に兵士たちが集まっている。

 葉月は、(おじいちゃんたちはどうなったんだろう)と不安になった。

「聖なるロプ・ノールに手を触れるな」

 小さな池に手を伸ばしていた葉月を見て、レスターが稲妻のように目を光らせた。葉月は驚いて問い返す。

「ロプ・ノール⁉︎ こんな水たまりが⁉︎」

「そうだ。だが湖はいまに大きくなる。偉大なるロプ・ノールが、一六〇〇年ぶりにこの地に帰ってくるのだ」

 レスターはきらびやかな衣の裾を揺らして、館から庭に降りてきた。

「さあお戻りください、陛下。宴の準備をさせてあります」

 いざなうように差し出された宰相の白い手首に、ガチャン、と無粋な音を立てて、鋼鉄の手錠がはまった。

「十一時二十八分。誘拐、傷害、道路交通法違反、その他諸々の容疑でレスター・チャン、貴様を逮捕する」

 愉快でたまらないというような声音で罪状を読み上げたのは、FBIのサイボーグ、トンプソン捜査官だった。

「あちゃー、チャン財閥のアジトにはFBIも待ち構えてるってこと、すっかり忘れてた」

「レスターをやっつけることで頭がいっぱいだったもんな」

 葉月と一成がこそこそ言い合う。

 仮面の運転手が動こうとするのを手で制して、トンプソンは居丈高に言った。

「この場にいる誰も動かんでもらおうか。貴様らが手も足も出ないくらい、この城は包囲されてるんだ」

「FBIに、この広大な月蘭城を包囲するだけの人員がいるはずがない!」

「国内の砂漠に反乱分子が独立国を建てようとしているってご注進に及んだら、中国国軍が討伐に乗り気になってくれてね」

 トンプソンはセイヤに目を移し、わざとらしく両腕を広げてみせた。

「おやおや、こんなところに我が同胞のアメリカ人がいる。いや待てよ、奴はレスター・チャンとぐるになった逆賊なのか? その場合、奴に手を貸している子供やその家族も仲間ということになるが」

 セイヤが、注射を打たれる子供のように身をぎゅっと縮こまらせて、片手を上げた。

「わかった、僕一人で行くよ」

「セイヤさん!」

 トンプソンがにやりと笑った。

「我々FBIは、悪の財閥からアメリカの民間人を保護するというわけだ」

「保護だなどとたわけたことを!」

 レスターが吠えた。

「そなたらが、陛下を国から追い出したのではないか!」

「俺たちのおかげがあればこそ、貴様の財閥はアークライトをいいように利用できたんじゃないか」

「違う!」

「違おうと違うまいと、貴様らの目論見は潰れたんだ」

 そう嘲って、トンプソンはセイヤに近づき、その腕をひねり上げた。セイヤの顔が苦痛にゆがむ。レスターの切れ長の目が、裂けそうなほど吊り上がった。

「いますぐ陛下からその手を離せ」

「我々はこいつを保護して、アメリカへ連れて行く。するとどうだ、民間人だと思えば反逆罪の容疑者じゃないか。FBIは国際指名手配犯をお縄にして手柄を上げ、ついでに悪の財閥の陰謀を阻止して、世界の平和を守る」

(レスターでも誰でもいいから、セイヤさんを助けて!)

と、葉月は心の中で叫んだ。しかし、レスターの前にそろえた両手首から手錠は外れず、仮面の運転手以下レスターの部下たちは、主の命令なくしては動けなかった。

 トンプソンが、無精ひげの生えた頰を残酷な笑いにゆがませながら、セイヤの背中を乱暴に押しこくった。

 ウーウ、ウーウー!

 突然割り込んできたサイレンの音が、その場の全員を飛び上がらせた。

「およよよよよ」

「なんでスマホの着信変えてないんだよ!」

 一成が怒る。

「ご、ごめんよ。すっかり忘れてた」

 セイヤが冷や汗を流しながら、バッグのチャックを開けようとする。そのバッグをトンプソンが横暴に奪い取り、中からスマートフォンをつかみ出した。

「お前にかけてきた奴は、指名手配犯の逃亡幇助で引っ張れるな」

 トンプソンが、セイヤに断りもなく通話ボタンを押す。彼が電話口にFBIの名前を出す前に、

『はあい、元気? FBI捜査官の諸君!』

と、相手から先制攻撃を受けた。トンプソンが、唾を飛ばして怒鳴る。

「誰だお前!」

『天知る地知る人が知る。マクファーレン電波研究所のトオル・マスダとは俺のことだ』

「誰だ!」

『おや、ご存知ないか? パグウォッシュ会議の使者といったほうが、通りがいいかな?』

「パグウォッシュ会議だと?」

 トンプソンの握りしめた拳の中で、スマートフォンがきしる。

「パグウォッシュ会議って?」

 葉月の頭の中に、小さなパグが泡だらけになってわさわさ洗われている絵が浮かんだ。その想像にほんわかしていると、一成がタブレットの画面を葉月に向けて、爪で叩いた。

「国際平和を掲げる科学者たちの、世界規模の組織らしい」

 世界規模の組織と聞いて、葉月は、セイヤが昨夜「トーマスの組織が助けてくれるかもしれない」と話していたことを思い出した。セイヤのほうを見ると、彼の頰には少し赤みが差してきていた。

「理想を夢見るばかりの科学者風情が、首を突っ込んでどうするつもりだ」

 セイヤの表情が明るくなるのと対称的に、トンプソンは歯ぎしりをした。トーマスが明朗に答える。

『パグウォッシュ会議は、平和を夢見るだけじゃない。夢見て、考えて、行動するんだ。だからこそ今回、アルバート・セイヤ・アークライトに手を差し伸べた』

 トーマスとトンプソンが口論を始めた辺りから、ブウウウンという音が聞こえてきてはいたのだが、トーマスのセリフの途中から、明確にバラバラバラという騒音が空から降ってきた。

 庭の木々に影が差す。見上げると、ヘリコプターが頭上十メートルほどのところまで降下してきていた。その機体にイタリックのフォントでプリントされているのは、“Pugwash Conference”の文字だ。プロペラの巻き起こす風でロプ・ノールに波紋が生じ、蓮のつぼみが池の端に吹き寄せられる。

 ヘリコプターは庭園の一画に着陸し、その扉が開いて、中から一人の若い男性が降りてきた。薄い色のスーツを着て、縁なしの眼鏡をかけた洒脱な印象の青年だ。

「ああ、やっぱりかっこいい」

 乙姫が瞳をきらきらさせる一方で、一成が歯をぎりぎり噛み締める。

「トーマス! 来てくれて助かった! こっちこっち!」

 セイヤが、生き返ったような声で叫んで手を振ると、スーツの青年は手を振り返し、プロペラ音に負けないように声を張り上げた。

「アル! 無事だったのね、よかったわあ。約束どおりあたくし、あなたを助けに来てあげてよ!」

 葉月、乙姫、一成の目が点になった。スーツの青年はそのまま、肘を引いて拳を外側に振る乙女走りで葉月たちのほうに駆け寄ってくると、セイヤに向かってバチンと大きなウインクをした。ただ一人セイヤだけが、自然な態度で青年を迎える。

「君自身が来るとは思わなかったよ、トーマス!」

「やあねえ、こんなに熱いハートを持ったあたくしが、親友の窮地に駆けつけないわけないでしょ。取り出して見せてあげたいくらいだわ、うふん」

「うひゃあ、それはごめんこうむる」

 セイヤが、硬直している葉月たちに気づいて、急いで説明した。

「トーマスは電話では外見に応じたしゃべり方をするけど、普段は女言葉を使うんだ」

「なんで⁉︎」

「さあ、合理的な理由はないんじゃないかな」

 葉月が心配になって乙姫のほうを見ると、幻滅しているかと思いきや、美しいもの好きの少女は、

「見かけだけじゃなく、心の中の美しさをも目指したんですね! 素敵な人だわ!」

と、相変わらず目をきらきらさせていた。

 トーマスは葉月たちに目を向け、

「まあなんてかわいい子たちなの! アルからお噂はかねがね聞いてるわ。オトナの話し合いが終わったら、あとでお友達になりましょうね!」

と、投げキッスを飛ばして、一成の顔色をなからしめた。彼は、トンプソンに向き直り腰に手を当てた。

「トンちゃん、あなたがあたくしの友人にしたことは、天にまします我らが神が許しても、このあたくしが許さなくてよ。さあ、アルから手を引いてさっさとアメリカにお帰り!」

「トン———」と一瞬言葉を失ったあとで、トンプソンは吐き捨てた。

「ふざけるな。科学者どもの茶寄り合いになぜ大事な容疑者を渡さなきゃならないんだ」

「二○世紀の偉大な学者、ラッセルとアインシュタインの名において」

 トーマスは静かに眼鏡を光らせた。

「出された平和の宣言に、当時の著名な科学者たちが応えたの。先の大戦で、原子爆弾が多くの命を奪ったことを、彼らが重く受け止めていたからよ。その科学者たちがつくったのが、パグウォッシュ会議。科学者の仕事が技術を進歩させることで、その利用を考えるのは文系の学者だなんて大間違いだわ。あたくしたち科学者自身が、社会と科学の問題について考えていかなくてはならないのよ」

 トーマスは胸を張った。

「アルが発掘した素数暗号解読の技術を、各国がよだれを垂らして欲しがるわ。どこかの国が独占すれば、それをめぐって争いが起きるに決まってる。パグウォッシュ会議には、それを未然に防ぐ使命があるのよ!」

「貴様らが何をほざこうと、我々がアークライトを引き渡すことなどありえない!」

「あーらトンちゃん、あたくしたちと取引したほうが絶対おトクよ」

「パグウォッシュ会議に、アメリカと取引するだけの材料があるわけないだろう」

「アメリカ国防軍が、パグウォッシュ会議の会員である科学者たちに専門知識を問い合わせた記録、百科事典十冊分と、アルを交換するのはどうかしら」

「何だと?」

「それだけあれば、米軍がいまどんな秘密の軍事研究を行っているか推理するのは不可能ではないはずよ。パグウォッシュ会議の持っているデータをロシアや中国に渡したら、どれだけ喜ばれるでしょうねえ」

 トーマスは、片手の甲を頰に当てて「おーほっほっほ」と高く笑った。一成が、「あんな高笑いする人、現実で初めて見た」とぼうぜんとつぶやく。

トンプソンが、顔を紫色に染めた。トーマスの提示した取引条件は、このサイボーグじみた捜査官を屈服させるのに十分すぎる内容だったらしい。トンプソンは、下顎が上顎にめり込むのではないかというほどきつく歯を食い締めたが、片手を上げて、

「……退くぞ」

と、部下に指示を下した。

「中国国軍に、ここが反乱分子の基地だという情報はデマだったと連絡しろ! くそっ」

 トーマスとセイヤたちを何重にも取り囲んでいた武装警官たちが銃を下ろし、引き下がっていくと、葉月たちの肩から力が抜けた。

 セイヤは安堵のあまり、しゃがみ込んで両膝に頰を埋める。

「はあああ……よかったあ。助かったのはトーマスのおかげだよ」

「まさにその通りだから、思う存分感謝しておきなさい」

 うふふ、と含み笑いをしたあとで、トーマスは真顔になり「アルバート」と呼んだ。

「パグウォッシュ会議がアルを助けたのは、あなたの持ってる素数暗号解読法のデータが欲しかったからよ。あたくしたちとアメリカがさっきそうしたように、パグウォッシュ会議とアルとのこれも、取引なの。あなたが会議にとって価値のある研究者である限り、あたくしたちはあなたを守るわ。

 さあ、パグウォッシュ会議に暗号の解読法を教える?」

 トーマスは冷たいとも言えるような目で、足元のセイヤを見下ろしていた。先ほどまでのトーマスの柔らかい空気が微塵も感じ取れなくなって、葉月たちは緊張する。

 セイヤは、背の高いトーマスを見上げて、しっかりとした口調で言った。

「僕は、解読法のデータをパグウォッシュ会議に渡す。だからその代わりに君たちは、僕のアメリカでの安全を保障しなければならないんだ」

 トーマスの端正な顔に笑みが咲いた。鋭く張り詰めた雰囲気が、一気に緩む。

「取引成立ね。パグウォッシュ会議は、解読法を独占したりはしない。慎重に時機と手法を選んで公表するわ。それでも世界に投げかける波紋は、決して小さいものではないでしょうけども」

 トーマスは組んでいた腕をほどいて、片手をセイヤに差し出した。セイヤはその手を借りて立ち上がる。トーマスが促して、二人はヘリコプターのほうへと歩き出そうとした。

 葉月の耳が、押し殺した声を聞き取った。

「王を甘言で欺く者は許さない。陛下はもう、この地からどこにも行かないのだ……!」

 ガチャン、と金属音を立ててレスターの手錠が足元に落ちる。濃紫の広い袖口から、するりと銀の短剣が滑り出た。レスターの白い手がそれをつかみ、流れるような動作で投げつける構えを取る。短剣の剣先ははっきりとトーマスの背中を狙っていた。

「危ない!」

「やめるんだ! レスター」

 レスターとトーマスの間に、さっとセイヤが割り込んだ。レスターの手がピクッと止まる。セイヤがレスターの翡翠色の瞳をひたと見据え、厳しい口調で言った。

「彼は友人だ。傷つけることは許さないよ」

「……それは国王陛下としてのご命令ですか」

「僕は月蘭の王様じゃないよ、レスター。これまでの二十五年間アメリカ人だったように、これからもずっとそうだ」

「かの国は陛下を追いました!」

「それでも帰るよ。強制されたわけじゃない、帰りたいんだ。僕は僕の星の国へ、星条旗翻る祖国アメリカへ」

 確かな決意を秘めたセイヤの静かな声音に、葉月は胸がぐっとつかえた。

 若き宰相は、血を吐くような声で叫んだ。

「なぜです、陛下! この私が王国をつくってさしあげるのに! 砂漠の中心に緑の森を茂らせることも、温室に幾千の胡蝶を舞わせることも、王国中に香水の夕立を降らすことさえ、いとたやすいこと!」

 叫び続けなければ気道が塞がってしまうかのように、レスターは絶叫した。

「陛下はただ、私にお命じくださればよいのです!」

 セイヤは悲しい目をしていた。彼はレスターに歩み寄り、そして口を開いた。

「それなら王の最後の末裔として頼もう。もう月蘭をよみがえらせようとしないでほしい」

「陛下!」

「月蘭を復活させることは、きっと誰も幸せにしないよ」

「……陛下も、ですか?」

「うん」

 セイヤの答えを聞いた瞬間、レスターの目に炎のような輝きを与えていた宝石が、ばらばらに砕けた。

 葉月と一成は、思い通りにならないセイヤをレスターが攻撃するのではないかと警戒した。しかし案に反して宰相はうなだれて、今はのきわにある人のように苦しげな声で、

「———御意」

と、ひとこと言った。


 レスターの前に、あの化け物の仮面をかぶった大柄の運転手がひざまずいた。物言わぬ忠実な異形の部下に、宰相は声をかけた。

「元昊。お前とお前の一族は、私や父、祖父に千年来よく尽くしてくれた。王国の再興が叶わなくなってしまって、すまない」

「若。我らに頭を下げる必要はございません」

 元昊が初めて口をきいた。天の岩戸を押し開けるような、重々しい声だった。

「二百年間、月蘭王家の末裔の方々を見守る、宰相の一族の皆様をお助けすることが我らの役目でございました」

「二百年だって⁉︎」

 主従の会話の端を聞き取ったセイヤが、大声を上げた。愕然とした様子のセイヤの視線にさらされた宰相は、口を一文字に引き結んでいる。

元昊が言葉を続けた。そのまぶたのない金色の目玉の奥から、誠実なまなざしを主君に向けて。

「放浪の果てに探し当てた王家の方々は、すでに異国に根を下ろし、庶民として生きておられました。市井に下られた王家の方々を、当時の宰相閣下が、陰ながら守りたてまつるとお決めになったとき、それが月蘭の再興を諦めることを意味すると気づいていても、我らは閣下に従ったのです」

「じゃあ、セイヤさんのことをレスターはずっと昔から知ってたんだ! 道理で、セイヤさんが国外に逃亡した途端、手際よく迎えに来れたわけだ」

 一成が合点のいったように言うと、葉月がぽつりと口にした。

「レスターが、セイヤさんを最近になってようやく見つけたなんて言ったのは、嘘だったんだね」

 葉月は息を継いだ。

「レスターさんのご先祖様は、セイヤさんの一族が昔は王様でも、いま普通の人として幸せに暮らしているなら、そのままでいいと思ったんだね。でも、セイヤさんの幸せが危うくなったから、レスターさんは姿を現すことにした」

 月蘭も王国の臣下のことも、おとぎばなしとして忘れ去ってしまった王に、それでもなお忠誠を誓っていたから。

「若の願いを実現することが、我らの望みなのでございますよ」

 元昊の生真面目な口調に、レスターはありがとう、とほとんど聞き取れない声でつぶやいてから、顔を上げ、

「そのようなこと、改めて聞くまでもない」

と、傲岸不遜に言い切った。

「葉月! 乙姫! 一成! 大丈夫か⁉︎」

 中国庭園に響いたその声を聞いて、葉月はぱっと顔を明るくした。

「おじいちゃん! それに伯母さん! 黄浩さん、朱偉さん、白敏さん!」

 名前を呼んだ五人のあとに続いて館から出てきた六人目を見て、葉月は声を詰まらせた。

「パパ!」

 眼鏡をかけた背の高いその人がこちらへたどり着く前に、葉月はその人の胸に弾丸のように突っ込んだ。ぎゅっと抱きとめてくれた腕の中で葉月が顔を上げると、眼鏡の奥でパパの目が優しく笑っていた。

「助けに来てくれてありがとな、葉月」

「そういえば、パパどこも怪我してない? 大丈夫? レスターさんが『実験に使わせてもらう』とか言ってた気がするんだけど」

 葉月が、パパの体をぺたぺた調べながら言うと、

「ああ。おかげで若返ったような気がするよ。新開発の男性用化粧品の実験で」

とパパは、拉致される前より何だかつやつやしている顔をなでた。

 劉武以下五人は、多少の切り傷を除けば元気な様子だった。劉武が、セイヤに歩み寄って尋ねる。

「どう決着がついたのだ?」

「月蘭王国は、滅びました。———ずっと昔に、滅びていたんです」

 トーマスが陽気な声を出した。

「さあ、アメリカへ帰りましょ。アル、着いたらすぐにきりきり働いてもらうわよ!」

「うひゃあ、お手柔らかに」

 セイヤは悲鳴を上げてから、葉月のほうに少しかがみ込んだ。

「———この僕に、世界を変える勇気があると思うかい?」

 葉月は笑顔で答えた。胸が痛いほど嬉しくて、笑い出したいほど切ない気持ちで。

「あるよ、もちろん! セイヤさんは勇気あふれる人だよ!」

 セイヤは照れた顔をした。その肩をトーマスが叩く。

 「あんたはこれからどうするんだ?」と一成がレスターに尋ねた。青年はその美しい顔に、つん、と冷たい表情を取り戻している。

「二百年間やってきたことを、これからの二百年も続けるまでだ」

「買い取った砂漠はどうする? この城の外も見渡す限りチャン財閥の所有地なんだろ。大赤字じゃないか」

 レスターがふっと笑った。葉月たちが初めて見る、肩の力の抜けた自然な笑みだった。

「さて。石油でも掘ろうか」

 レスターのまなざしの先で、セイヤがおずおずと笑みを浮かべる。その気弱な笑みに向かってレスターは、翡翠色の瞳を閉じ、恭しく一礼した。


 美貌の総帥が、石油ならぬ砂漠を利用した太陽光発電によって成功を収め、チャン財閥にますますの繁栄をもたらすのは、まだ先の話である。









エピローグ


 煉瓦造りの家々の間を抜けると、胡楊の木陰に皿や楽器、日用品を並べた市に出る。通りの終わりには高い門が立ち、少し視線を上に転じれば、目に映るのは何百もの窓を持つ王宮である。

「『古代都市遊歩バージョン3・5 月蘭王国』だ。今回も兄貴の加わった発掘結果が元になってるんだぜ」

 一成が得意げに言った。一成の家の、冷房の効いたリビングで、葉月たちは大きなモニターを見つめていた。そよ風が窓のすだれを揺らし、オレンジジュースの氷がカラン、と鳴る。

「壁画に描かれた古代の風景やなんかも参考にして、今度のバージョンアップでは人物も登場させているんだ」

 確かに、市場には買い物をする人がそぞろ歩き、少年たちが犬と一緒に駆けていった。

「これがロプ・ノールかしら」

 乙姫が声を上げる。街のはずれに、大きな湖が満々と水をたたえていた。岸辺にはたくさんの蓮の花が咲き、さざなみ立つ水面に小舟が浮いている。

 月蘭に帰ってきたロプ・ノールはあのあと、まもなく水を減らし霞のように消えてしまったという。あのビニールプールほどの小さな池は、伝説の湖ではなかったのだろう。一六〇〇年前月蘭の地を出奔したっきり、ロプ・ノールの行方はようとして知れないままだ。湖は近い将来戻ってくるのかもしれないし、本当にその昔、永遠に消滅してしまったのかもしれない。

聡い乙姫には、レスターがそれを知っていたような気がしてならなかった。そうでなくて、そのうち水かさを増すはずの池のすぐ近くに王の館を建てるものだろうか。

「セイヤさんにもこれ、見せてあげたいね」

 葉月がつぶやいた。画面の中の失われた街並みを眺めていると、外国の使節が乗ってきた象の声や、王宮の奥で爪弾かれる琵琶の音まで耳をよぎるような気がする。

 月蘭がもう一度滅びたその日にさよならをしたくしゃくしゃ頭の青年は、いまアメリカにいるはずだ。パグウォッシュ会議の科学者の一員として、トーマスとともに素数暗号の解読法を公表する準備を進めているらしい。世界が混乱の渦に巻き込まれないように全力を尽くしてみるよ、と別れ際微笑んだセイヤを思い出して、葉月は心がふわっと浮き上がると同時に、きゅっと胸が苦しくなった。

 葉月のつぶやきを聞いた乙姫が、親友に微笑みかけた。

「セイヤさん、元気でいるかしら」

「きっと元気だよ」

「また、必ず会えるわ」

「でも、外国にいるし……」

「だって隣の国じゃない。海なんて、越えればいいんだわ」

 日頃とお互いの立場が逆転したセリフに、葉月は目をぱちくりさせた。しかし、胸の中で大太鼓がどん、どんと鳴らされるように、だんだん愉快になってきた。

「そうだよね。海を越えて、会いに行けばいいんだよね」

 一成が、渋い顔をして言った。

「実は、『古代都市遊歩』の開発には、とある企業が莫大な寄付をしてくれてるんだ」

「その企業ってまさか……」

「チャン財閥さ。だから今回のソフトも、間違いなくセイヤさんの手に渡ると思うぞ」

 レスター・チャンはその後、おとなしくシンガポールに帰った。そして、本社をアメリカに移転すると発表して、経済界に落雷級の衝撃を与えた。世界中の経済新聞が、一面で突然の理由なき移転を不思議がったが、葉月たちだけは、ニュースを見てぽかんとして、それから顔を見合わせて、くすりと笑った。

 モニターは、月蘭王国からほかの失われた古代都市を映し出していた。八世紀のイスラーム王朝期のバグダード、古代ローマの支配する隊商都市パルミラ、ヒンズー教寺院を中心に広がるアンコール王朝の都、アステカ王国の湖上都市テノチティトラン……。

 次々に移り変わる画像を見つめるうちに、葉月はかつて地上に繰り広げられた、数々の王国の興亡を追体験しているような気持ちになった。

「月蘭王国は、滅びちゃったんだ。それまでたくさんの国がそうなったように。これからもたくさんの国がそうなるように」

 葉月が言うと、乙姫がにっこり笑って手を重ねた。

「だけど、いつの時代も人は生き続ける。そして人の想いも」

 開け放たれた窓から入ってきた風が、葉月たちの頰に優しく触れる。風は何千回繰り返された夏の、その中のたった一つの夏へと、吹き抜けていった。

                                  




                                 〈完〉

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星の王とさまよえる湖 紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi

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