最終話 星々の瞬く下で

 ケイゴの手には父の日記がある。これまで幾度となく、もっともらしい理由を見つけては避けてきたのだが、それもとうとう嫌気が差してしまったのだ。話相手の居ない午後の一幕。仮に激情で心が溢れかえったとしても、住民が出払った事から醜態を見られずに済む。御膳たては完了している。後は紐解かれるのを待つばかりであった。


(マジで気がすすまねぇ。でも、いい加減ケリをつけねぇと)


 表紙を飾る父の神経質な文字を見るだけでも、思わず投げ捨てたくなってしまう。例えば、図書館に所蔵されている都市伝説やミステリーに関する書物が、妙に汚れていた時の感覚に似ている。ありえないと分かってはいるのだが、何かしらの呪いのようなものが掛けられているのではと気味悪く感じるのだ。


 なのでケイゴは、指先でつまむようにしてその書を開いた。罠や毒物らしきものを警戒したような動きだ。これはただの日記であるので、彼を害する仕掛けなど無い。その代わり、恨みを抱いてやまない心には、ある種強烈な精神攻撃として突き刺さるのだった。


(……何だよこれ。随分と昔の事まで書いてあるな)


 これは自伝ではなく、あくまでも日記である。なので、その中身は断片的な情報しか綴られていない。しかし、呪いを刻み込むかのように過去の出来事が書かれているので、ケイゴは理解するのに困りはしなかった。自身の父がどのような人物であったのかについて。


 まとめると次のようになる。父が若かりし頃、本家は大騒ぎであった。跡取りを残さないままに先代までもが亡くなったからである。このままでは血脈が途絶えてしまう、そう危惧した関係者は、ケイゴの父と叔父のどちらかを本家の当主として迎え入れる事になった。


 父は生真面目で、法学部に在籍する秀才として知られており、年長者であることからも弟よりも有利であった。一方の叔父も同じく大学生であるが、こちらは勉学をおろそかにしがちであった。夜な夜な仲間うちで飲み歩いていたのだから、どちらが有望かは火を見るより明らかである。日記にはそのように書かれている。いい加減で不真面目な弟よりも、自分の方が大器であるはずだとも。


(叔父さんには一回だけ会ったけど、凄く優しい人だったな)


 叔父との記憶は法事だ。たまたま席を隣合わせた格好だが、どこか茫洋として、棘のようなものを一切感じさせない人物だった。寄り添う叔母も柔和な笑みを終始浮かべたままで、とても幸せそうだった事を覚えている。父にとって肉親であるその人が、日記では罵詈雑言の嵐に見舞われてしまう。


 父は学生のうちは順風満帆だったのだが、司法試験に大きく躓(つまず)いてしまう。初年、次年と落ち続け、決死の思いで受けた三回目にも失敗した。家の事情から更なる浪人生活は許されず、祖父の伝手より一般商社に就職することを余儀なくされた。もちろん、近しい者たちからの株を大いに下げる結果となったのだ。


 一方で叔父は目覚しい成果をあげてみせた。就職活動を脇に置いてまで起業したのだが、それが大成功を収めた。学生時代に築き上げたコネクションを大いに活用する事で、毎年右肩上がりの成長を実現し、一族に多大な富と名声をもたらした。


 こうして次期当主は決定した。父は元々の分家として生きる事となり、その恨みは深い。文面でも「口達者なだけの怠け者。今に父祖の財を食い尽くす寄生虫」とまで痛烈に罵倒していた。それと同時に、いかに自分が優秀で勤勉かについて、見飽きるまでに繰り言されていた。分析というよりは願望だ。事実の羅列ではなく、ただの病的な自己愛だった。実際に叔父は上手くやっている模様で、当主の座に落ち着いてから20年は経つのだが、ケイゴの耳に悪い噂は届いていなかった。


(随分と執心だな。そこまでして本家が良いもんかね)


 あまりの固執ぶりに辟易としていたが、読み進めるうちに理由が判明した。シヅエという女の存在である。


 本家の当主には半強制的に結婚させられる事になっていた。相手は良家の子女であるとの事。ケイゴにとって叔母に当たる人物だが、この女性に父が異様なほどに執着していたのだ。随所にシヅエ、シヅエ、シヅエ。良い景色を見かけたので、いつか共に肩を並べたい。この秘湯に連れて来たなら、美しさにより磨きがかかるに違いない。それらの相手は自身の妻ではなく、義理の妹を相手に書き綴られていたのだ。血を分けた弟の配偶者に対する横恋慕。その病的とも言える執着心は、もはや狂気すら感じられるものだった。


(マジかよ、こんな背景があったのか……)


 ケイゴの実母についても扱いは散々だ。あくまでも世間体の為だけに交わした契りであり、子を成したのも務めのため、心は一切許していないと断じていた。母の写真を残さなかったのも、この『一途な想い』を証明させる為だったと書かれている。これにはケイゴも怒り心頭し、思わず声を荒げてしまった。


「テメェの糞な理由のせいで、母さんを蔑(ないがし)ろにしたっつうのか!」


 静かな室内に反響する。その様子を肌で感じとると、やがて平静さを取り戻し、書物と向かい合った。何度も手に取りたいものではない。この一回だけで読破してやろうと気を持ち直したのである。


 日記にはたびたびケイゴと兄の名前も書かれていた。兄のシンイチロウについては一応満足していたらしい。自分と同じ法学部に入学したことも喜んでいたようだ。


 それに引き替え、ケイゴには不満しか無かった。学業は振るわず、金をかけても納得のいくような伸びをみせなかった。その為、つい手が出てしまう。そして殴った後には後悔がつきまとっている。末子との接し方が皆目見当もつかず、酷く思い悩む様子が事細かに記されていた。


(……だからって、許してやろうって気にはならねぇ)


 積年の恨みが容易く晴れる筈もない。だが晴れはしないが、暗雲の一画が薄らぎはする。いつの日か、雲の切れ間から光が差すように、父の所業を許せる時が来るのだろうか……。などと感傷に耽る間もなく、ケイゴは更に衝撃的な事実を知るのである。


(嘘だろ、おい……!)


 兄とともに勉学を強要された理由は、『他者に笑われないため』という名目だった。だが真相は違う。ここでさえもシヅエという女の影がちらつくのだ。


 父の目的は叔父夫婦との子育てで勝ちを収めること。しかも圧勝する事だけが考えられていた。かつて破れ去った自分の生き方が正しかったと証明するだけでなく、失望したシヅエが夫を見限り、自分の所へやって来ると信じて疑わない。そして、子供達の将来については微塵も考えていない様子だった。


 後半はもはや読めたものではない。妄執、妄言の山。実母への言葉は皆無に近く、父が率先して見つけた継母についても辛辣だ。『見た目だけはシヅエに似ていても品性下劣。似ても似つかぬ紛い物』などと蔑み、それからも想い人だけが延々と持ち上げられた。


 極めつけは最後の行。殴り書きされた一文には「この魂、永遠にシヅエと共に」とある。それを目にした瞬間、血が沸き立つほどの激情が押し寄せてきた。


「全部、全部お前の執着のせいか!」


 日記を両手で鷲掴みにし、力づくで捩(ね)じ切ろうとした。虐げられた自分の幼年期を、こんな男と生涯を過ごした母を思えば、怒りはマグマの如く吹き出して止まない。全ては父の失敗を肩代わりさせられただけだったのだ。


「ふざけんなよマジで、地獄に落ちやがれ!」


 指先にあらん限りの力がこめられ、ブルブルと震えた。日記も背表紙から裂け始める。このまま引き千切られてしまうのも時間の問題でしかない。だが、そこで体は止まる。


(嫉妬に狂ったのは、オレも同じか……)


 ユウジとの一件はまだ記憶に新しく、あの時の心境はどんなものだったかは思い出すまでもない。居たたまれないなどという言葉では到底表せない程の絶望。身体が胸から裂け、四肢が弾け飛ばんばかりの心痛。今になっても振り返るだけで苦い味が胸に広がっていく。


 結果的に自分は結ばれたが、もし想いが実らなかったならどうか。自暴自棄の勢いを止められず、この世の果てを目指して駆けずり回った筈だ。そして、人知れずつまらない死に方をしただろう事は、想像するに難くない。それ程までにヒナタの存在とは大きなものだったのだ。


 父を簡単に許せはしない。自分と母は元より、関わりのあった大勢に被害をもたらした、迷惑極まる男なのだ。真相を知った今も、ケイゴの胸には怒りと蔑(さげず)みで占められている。だが、毛の先ほどに微かな憐憫の情が生まれたのである。失恋の味を知るからこそ、遂には恨みきる事が出来なかった。


 ケイゴの怒りは凪ぎ、不穏な静寂が漂う。遂に日記は損壊を免れたのだ。ただし、中身の保全までは叶わない。最後の一文。シヅエと書かれた部分を『ユカリ』と上書きされた。実母の名である。


「今はこれで勘弁してやるよ、クソ親父が!」


 日記がバッグに叩きつけられた。これにて過去との決別も、一応は成った事になる。だが、ケイゴの心は晴れずに布団の中でふて寝を繰り返してしまう。脳裏に駆け巡る苦痛塗れの日々。それをひとつひとつ解きほぐす作業へと移ったのだ。自らわざわざトラウマの海に飛び込むのだから、心には重たい暗雲が立ち込める事となる。


 その鬱々とした気分を変えたのは、こちらへ迫る軽やかな足音であった。


「ケイゴ君! 仕事を早上がりしたから遊びに来ちゃったー!」


 それは春の暖かな旋風。あるいは雲の裂け目から降り注ぐ陽光のような心地よさだった。


「よく来てくれた、オレの太陽」


「たい……ええっ? 急にどうしたの?」


「何でもない。今日は結構早いんだな」


「そうなの。だから夕飯まで散歩しない?」


「良いよ。もう歩く許可貰ってるし」


「やった! じゃあ、辛くなったら教えてね」


 ヒナタと連れ添うように室内を後にする。段差に差し掛かる度に怪我を気遣う仕草が見られ、その度にケイゴの心は暖かくなる。そして、彼女の優しさに触れられる自分は、どこまでも幸せなのだと痛感した。


「ねぇ、あそこ見てよ、あそこ」


 ヒナタが玄関口で声を潜めた。視線は外へ向けられており、その先には煙草を吸う2人が居た。明滅する赤い光は、足元に段差でもあるかのように、左右の高さが随分と非対称だった。 


「あの2人ってさ、ちょっと怪しくない? いっつも一緒に居るし」


「煙草仲間ってだけじゃないの?」


「いやいや。あれは元サヤに戻るパターンだよ。距離もすんごく近いし」


「そういうもんかな」


「ケイゴ君は鈍いなぁ。もっと人に興味持ちなよ」


「まぁ、その辺はおいおいな」


 玄関は雑談ながらに通りすぎ、2号館へと続く通路の真ん中で中庭へと降りた。ケイゴにとって仄かにむず痒くなるスポット。だが、そこさえも通りすぎ、とうとう敷地の端までやって来た。


 正面はなだらかな崖があるだけで、空には満点の星。波が寄せては返す音も耳に心地良い。肌寒い事を除けば心安らげる場所だった。


「イイでしょ。潮の香りがするし、波の音もするしで」


「悪くないけど、ちょっと寒いかな」


「じゃあ、手を繋ごうよ」


 どちらからでもなく握られる手。柔らかで、温かい。いつまでも触れていたい欲求がにわかに湧き上がる。


「いろいろあったな。ここまで来るのに」


 ケイゴは水面の見えぬ海に向かって呟いた。


「すごく濃い時間だったよね。まだ災害から一ヶ月も経ってないのに」


 ヒナタも同じ方を見ている。波の音だけは近い。


「地下に閉じ込められた時はヤバイって思ったよ。餓死か圧死かって思った」


「アタシはそれよりも、地上に出た時の方が怖かったな。無人だし、真っ暗だしで」


「確かに。食うものも無いしさ。ロジーに出会わなかったらと思うと、ぞっとするな」


「避難所に駆け込んでたらどうなってたんだろ?」


「さぁな。たぶん、何の希望も持たずに、延々と物資を漁る日々だったかもな」


 改めて振り返ると、今の暮らしが想像以上に素晴らしいものだと思う。食料は多く、暖かな寝床で安眠し、極め付けは風呂まで気兼ねなく入る事ができるのだから。そしてもちろん、それらの幸福を何倍にも押し上げてくれる存在を忘れてはならない。


 握りしめる手を強めた。それでヒナタがこちらに顔を向けるのが、気配だけで分かる。


「長生きしようね、ケイゴ君。いっぱい、たくさん」


「シワシワの爺になっても傍に居てくれるか?」


「もちろんだよ。その頃にはアタシだって腰の曲がったお婆ちゃんだもん」


「そうだな。いずれはそうなるんだよな」


 ヒナタの顔を正面から見据える。明かりは星の煌めきがあるだけ。夜目に慣れだしたとはいえ、細部までは見分けらる程ではない。


 腕を引き、抱き寄せた。拒絶の意思は無い。むしろ胸に飛び込もうとするようですらあった。自分から引き込んでおいて、鼓動が弾むのが分かる。暖かで柔らかな感触に思わず蕩けそうになるが、今宵はそこで止まらなかった。


「ヒナタ。大好きだよ」


「アタシも大好き。ずっと大好き」


 互いの視線が重なる。遮るものは何も無い。ヒナタの顔が視界で徐々に大きくなる。そして、互いの唇が重なった。甘い吐息が鼻腔をくすぐり、思わず脳が痺れそうだ。昂ぶる想いの分だけ強く抱き寄せる。ヒナタも応えるように、絡める腕の力を強めた。その拍子に離れかける口を、擦り合わせるようにして元に戻し、深く長く口づけを交わす。比類なき幸福感を全身で味わいながら。




 突如として異変に巻き込まれたケイゴとヒナタ。今や安息の地を得て、2人は結ばれはしたのだが、未来が明るいとは言えない。10年後はおろか、来年まで命があるかどうかすら怪しい。今後も押し寄せるであろう世界の異変は決して生易しい物では無いのだ。だが、どのような困難が待ち受けていようとも、どちらも離れようとはないだろう。それほどに培った信頼は篤い。


 星は今宵も瞬く。か弱い光ではあるものの、喪失した太陽に代わって2人の前途を照らしていた。


 いつの日も、いつまでも。

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