第35話 今になって再燃

 手元には父の日記帳がある。興味が湧いて読もうと言うのではない。あまりにも退屈すぎて根負けしたが故である。


 ケイゴの仕事は当然ながら休み。今は作業どころか、ただ歩くことでさえも傷の痛みからままならない。話し相手のヒナタも海に出払っているため、雑談で過ごす事さえ叶わなかった。天井のシミを眺める遊びにもホトホト嫌気が差した結果、こうして過去の憎悪と向き合っているのだ。


(やっぱり、やめとこうかな……)


 表紙には細く尖った字で日付だけが書かれている。遊びもゆとりも感じられない神経質そうな文字。それが一層、ケイゴの心を萎えさせるのだ。


 明日に持ち越そうか。そんな考えを浮かべていると、ひとつの足音が近づくのに気づいた。やや摺り足気味のそれが傍で鳴り止むと、衝立から老婆が顔を覗かせた。手当てを一任するタネ婆さんである。


「小僧よ、具合はどうだっぺ。包帯さ替えっかんな」


「あぁ、はい。分かりました」


 返事をすると、タネは緩慢な動きで側に寄った。たくしあげた服から赤色の滲む包帯に手を触れる。それからは、先程までとはうって代わって鋭敏な動きとなった。


 古い包帯を瞬時に巻き取ると、ケイゴに刻み付けられた傷があらわになる。一文字に真横へと走る傷は縫われた後であり、出血はほとんど見られない。その傷に寄り添うように付けられたもう一本の傷は、薄皮を裂いただけに留まっており、早くもかさぶたが出来上がっていた。


 タネは懐をまさぐり、小瓶と綿を手にした。消毒薬の染み込む綿が胸元で跳ねる。それが傷口に触れるたび、もだえたくなる程の痛みに襲われてしまった。堪らず身動ぎしたケイゴに「生きてっから痛ェんだ」などという、気遣いなのか判断に迷う言葉が飛び出した。


「タネさんは、お医者さんなんですか?」


 苦痛を紛らす為に訊ねた。


「いんや違うね」


「でも、その割には手際が良いですよね。傷を縫ってくれたのもお婆さんなんでしょ?」


「ワシのはアレだよぉ。戦争中に鍛えられたんだべ」


「戦争って、太平洋戦争ですか?」


「んだっぺ。空襲だなんだで怪我した人らを、お医者様に引っ付いて手当てしたんだぁ。あん時はおっかなかったけどよ、もう無我夢中よ。ボサッとしてたら隣の婆さんに『こんのごじゃっぺが!』なんて尻蹴られちまうかんな」


「それは、なんか、凄いですね」


「まぁあれだ。お天道様がなくなっちまった今も大変だけどよぉ、弾が降ってこねぇ分、あん時よりもちっとばかし幸せかもしんねぇな」


 タネがしみじみと語る頃には、既に新たな包帯が傷を覆い尽くしていた。それから緩やかに立ち上がると『飯は食え、彷徨くのは明日から』という短い言伝てを残して立ち去った。とても素人とは思えない神業に、ケイゴは酔いしれたようにボンヤリとした。呆気に取られたと言う方が正しいかもしれない。


 やがて、手元の日記に気づきはするのだが、やはり読み耽る気持ちにはなれない。リュックの上に放り投げると、毛布を肩まで被って横になった。しばらく瞳を閉じていると、腹の奥で揺れるドプリとしたものが眠気を誘発し、やがて意識は途切れがちになった。


 浅く、時おり深く、また浅く。夢と現(うつつ)の往復を繰り返していると、微睡みの中で足音を聞いた。被さるように鼻唄まで耳に届く。それらが正面まで来ると、馴染みある声が語りかけた。


「ケイゴ君お待たせー。お昼ご飯だよー」


 眼を開いて身を起こすと、大きな椀を持つヒナタが居た。ホコホコと立ち上る湯気が何とも温かそうに映る。


「あれ? もしかして寝てたの?」


「いや、大丈夫。それよりも腹減った」


「なら良かったぁ。今日は熊肉スープの雑炊だよ」


 ヒナタが枕元に腰を落ち着け、スプーンで具をかき混ぜた。肉団子や長ネギ、銀杏切りの人参が踊るのが見える。それらを米粒とともに撹拌(かくはん)すると、ひと掬いしてから持ち上げた。


 桃色で膨らみのある唇から吹き掛けられる吐息。それがスプーンを満たす汁にさざ波をたて、湯気も揺られて消える。ハラリと溢れる前髪は後ろ毛に送り、吐息でゆっくりと冷ましていく。


 綺麗だと、素直に思う。これまでも均整のとれた顔を眺めてはきたが、今頃になって改めて実感した。この美しい女が自身のパートナーなのかと考えてみれば、過去を蹂躙する苦痛の数々でさえも、お釣りが返ってくるような気にさせられてしまう。


「ヒナタはもう食べたのか?」


「うん。お先にいただいたよー」


 普段通りの会話。それの尊さ、有り難み。ひとつひとつが心の奥深くまで染み込み、胸が膨らむような想いだ。一匙すら口に含む前から、早くも満たされる気分に浸った。


「そろそろ良いかな。アーン」


 目映い微笑みとともに差し出されるステンレスの匙。ケイゴは交互に眺め、どちらに唇を向けるべきか大いに悩んだ。


 目鼻の先から生姜の香りが漂ってくる。スプーンの上には温かなスープが敷き詰められ、海に浮かぶ群島のように米粒が並び、程よいサイズに切り分けられた肉ダンゴと人参が華を添える。何と言う美的センスと気遣いであろうか。見た目だけでなく、体に対する気遣いまで感じられる完全食品ではないか。彼女の気遣う体というのがケイゴのものであると分かれば、感激は一層深いものになる。事実、背筋には心地よい震えが駆け抜けたのだ。


 そんな喜びを噛み締める一方で、スプーンの奥に見える少女の顔にも刮目してしまう。それは闇夜に毅然と咲く一輪の華。暗がりを健気にも照らし、見るものの心を明るく染めあげる美の結晶体。彼女はもはや太陽の代わりである。そう評したならば、過言であろうか。否、無い。断じて無い。言うなれば第二の、新世代の太陽がケイゴの眼前に降臨しているのだ。熱い、眩しい。自分のような矮小な存在など、その光に容易く消し去られてしまうだろう。嗚呼、やめてくれ、照らさないでくれ……。このままだと比類無き美貌に魅入られて、どうにかなってしまいそうだ!


「ねぇ、食べないの?」


「えっ? あぁゴメン」


「もしかして、本当は食欲が無いのかな?」


「いやいや全然平気だから。くださいマジで」


「はいどうぞ。熱く……はないと思う」


 スプーンの先が口中に滑り込む。多少冷めた感覚があり、それだけ長く妄想に耽っていたという事になる。少しばかり享楽(ロマンス)が過ぎたようである。


 それはさておき、料理は絶品であった。ベースの鰹出汁は生姜と相性抜群であり、スッキリとキレの良い味わいが米の旨味を倍加させるようだ。熊肉も噛み締めてみればジワリと肉汁が溢れだし、それがスープに濃厚さと奥行きを与えてくれる。臭くはない。ジビエは臭いがどうのと耳にしたものだが、生姜の香りがそのほとんどを塗り替えているのだ。最後に人参の甘みを味わい、喉に通す。


 ともかく旨い。空きっ腹の奥底まで響くような一口であった。


「どう、美味しい?」


「旨い。マジで旨いから、もっとちょうだい」


「分かった、分かったから。大人しくしててよ、ね?」


 少し困ったような顔で小首を傾げるその姿。愛くるしい。次の一口が運ばれるまでの間、心の中で美辞麗句を並べ立てて待つ。


「みんながね、ケイゴ君の事を褒めてたよ」


「なんでだろ」


 次のひと匙はやや熱かった。口内へ頻繁に空気を送り込み、肉ダンゴを冷ます。


「お陰様でお肉をたくさん食べられるからね。今じゃちょっとした英雄みたい」


「ふぅん、そっか。まぁ喜んでるならいいじゃん」


「でもね、熊殺しだのベア・バスターだの面白半分に噂してるの。それはちょっと嫌かな。どれ程危ない目に遭ったのか知ってるくせにさ」


 実際のところ、ケイゴは僥倖(ぎょうこう)とも呼べる幸運に助けられた。あの一撃を見舞われた時、あと半歩ばかり前に居たとしたら、傷口は幾本もつけられた事だろう。そうなれば更に多くの血を失うだけでなく、治療も遥かに難しいものとなった。傷口が近い複数の裂傷は、縫合や体組織の癒着がしづらいのだ。

   

 本当にギリギリの戦いだったと、振り返っては思う。何が運命を分けたのかは解らないが、強者である熊は食料となり、半死半生の自分がそれを口にしている。ケイゴは改めて、生きる過酷さと難しさを思い知らされた気分になる。


「まぁ、好き勝手呼ばせときなよ。普通の男だって分かれば、そのうち無くなるさ」


「そりゃ、そうだけどさ……」


「あぁーーそれにしても旨ぇな。これは熊肉が絶品なんか、それともヒナタのおかげか、どっちだろうな?」


 口の勢いそのままにヒナタの顔をみた。相槌や返答は無い。彼女はただ、両目を開け広げて見返すばかりだった。


「どうした? そんな顔して」


「ケイゴ君さ。変わったよね」


「そうか? あんま自覚ないけど。とりあえず気分は良いかな」


「無自覚なんだね。すごく明るくなったよ」


「ふぅん。こんなオレはどうよ?」


「……分かってるクセに!」


 困り顔とはにかみが半々の表情で、ヒナタはスプーンを椀にさ迷わせた。その顔も良い、と思う。笑顔が唯一にして最高峰である事に疑問の余地は無いが、この味わい深い様子にも捨てがたいものがある。


(あぁ、困らせたい。他愛もない些細な事で、笑い話で済む範囲内で、困らせたい……)


 いくらか邪な欲求がフツフツと沸き起こる。頭では早くも悪知恵が働きをみせ、いくつかの策謀が生まれていく。どれかひとつお披露目してやろうと機を計っていると、ヒナタの給仕が先に出た。これでは食べない訳にはいかず、口を開けて迎えようとする。


 しかしその時だ。なんの前触れも無く、けたたましい音が室内に鳴り響いた。勢いよく開かれたドアが壁に衝突したからである。これにヒナタも全身で驚き、その手元を狂わせてしまった。ケイゴの口に向けられたスプーンは角度を変え、頬と衝突。そして、湯気放つスープやら具材やらの諸々が、彼の身に降りかかったのだ。


「熱いぃーーッ!」


「ごめんなさい! 大丈夫!?」


「熊肉が! 熊野郎が今になってもオレを……!」


 熱々の具材が割と効率の良い攻撃を繰り出してくる。特に肉ダンゴはスプーンから落っこちると、ケイゴの胸元からシャツの中へと潜り込み、転がりながら彼の肌にダメージを与えた。ヒナタは血相を変え、濡れタオルを取りに駆け出していった。それと入れ違いになる形で、息を切らしたルイーズが現れた。御髪(おぐし)の乱れた様子は、押取り刀という言葉が相応しい思える。


「居たか、熊殺し。お前に聞きたい事がある!」


 人差し指が芝居がかった動きでケイゴに向けられた。それを見ても特別驚いたりはしない。彼はこの短い付き合いの中で、ルイーズの奇癖について把握していたからだ。彼女は平静を失っており、少しばかり地が出ているのだろうと、仕草をひとつ見るだけで理解を示した。


「何だよ騒がしいな。大声なんか出さなくても聞こえるよ」


「う、うむ。すまん。つい慌ててしまって」


「そんで、質問って何なの?」


「では単刀直入に聞こう。エルイーザとは何者だ?」


 ケイゴは思わず耳を疑った。まさか今になってその名を聞くとは思わなかったからだ。しかし冗談を言ったつもりは無いらしい。ルイーズは真剣そのものだ。ケイゴの返答に窮する間すら許さず、さもタイムリミットでもあるかのように、切羽詰まった顔が近寄ってくる。口先だけでの説明で納得してもらえるとは考えにくい。


 どう説明したもんかと思案すると、先日のスマホが思い出された。すぐにバッグから引っ張り出し、データフォルダを展開。ズラリとサムネイルが並ぶ中で適切なものを選び出し、それを印籠よろしく真正面から見せつけた。


「これがそうなのか……アニメ?」


「まぁそんな所かな。正確にはゲームキャラだけど」


「そうか。つまりは、非実在の女って事になるな?」


 一度だけヒナタに降臨したことがある、とは言わないでおいた。ルイーズの意図するものが見えないものの、話が拗れる事は確実だからだ。


「もちろんだよ。それとも何か、2次元から飛び出す魔法でもあるって言うのか?」


「いや、その通りだな。騒がせて済まなかった」


 そう言うとルイーズは肩を落とし、登場とは真逆の勢いで踵を返した。そして去り際に「アイツの言った通りだ」など独り言を残し、部屋を後にした。最後まで話を理解出来なかったケイゴをそのままにして。


 唖然とした気持ちを隠さぬままで、遠ざかる小さな背中を見送っていると、別の方向から駆け寄る音が迫ってきた。今度はヒナタで、その手には濡れタオルがあった。


「お待たせ。さっきのはルイーズさんだよね、何か用でもあったの?」


「どんな用事だったのかは、オレにもよく分かんなかった」


「それはそうと、これ使って。傷の様子は大丈夫?」


「ありがとう。そっちは平気だと思う」


 ケイゴはシャツを捲り上げるなり、包帯に異常が無い事を確認した。だが脇腹の方に眼を向けると、うっすらと赤くなっているのが見えた。肉団子によって軽い火傷が出来たのである。患部をタオルで冷やそうとしたところ、ふと気づくものがあった。


(ここって確か、熊に食われそうになったよな……)


 左の脇腹。そこは最後の攻撃を寸でのところで回避した部分である。それが死闘を終えた今になって負傷するとは、しかも熊肉によって引き起こすとは、偶然にしても出来すぎていると感じた。どこか一矢報いたような形となっているのである。


 それでも特別に感慨深いものは無い。シャツから転がり落ちた肉団子を口に放り込み、やはり旨いと思うだけだ。勝者の味わいは、生姜の香り溢れるものだった。


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