第34話 俺達はツイてる

「良かったよ、本当に。目を覚ましてくれて……」


 曖昧な声がポツリと落ちた。独り言とも、語り口調とも取れるニュアンスのものが。ケイゴは反応に迷い、小さな頷きをもって答えた。右手には今もなおヒナタの手が添えられている。この期に及んで、なぜ過剰な接触を止めないのか。なぜ気安く触れてくるのか。そう思うと、腹の底からフツフツとした怒りが込み上げてきた。


 乱雑に振り払いたくなる気持ちが膨れるが、どうにか宥めた。極力平静な声で語りかけ、しかし不躾な振るまいは咎めた。


「ヒナタ、離れて」


「ああごめん。傷が痛むよね」


「違う。そうじゃなくって、悪いから」


「悪いって、誰に?」


「もちろんユウジさんだよ」


「うん、どうして?」


 訝しむような顔が向けられる。とぼけているのか、それとも自分をからかう気なのだろうか。ならば追求してやると、胸のわだかまりを取り出して投げつけた。


 これは勇気ではない。破れかぶれ同然の、ささくれた感情に寄り添っただけでしかなかった。


「オレ、聞いちゃったんだよ。中庭で2人が話してるところを」


「中庭って……。ああ、あれね」


「幸せにするとか言われたろ? そんで、お前はオッケー出したんだろ?」


「うん。嫌だったけど引き受けちゃった」


「何でだよ! それなら断れば良かっただろ!」


「だってしつこいんだもん。顔を合わせる度に、ママとの橋渡しをしてくれって」


「……はぁ?」


 間の抜けた声だと、自分自身感じた。後にも先にも、こんな声を発する事は無いだろうと思える程に。


 ケイゴの脳内でつがえた第二、第三の矢は、今となっては物の役に立たない。それもそのハズ。何せ恋仲だという大前提が、ちゃぶ台返しでも食らったかのようにひっくり返されてしまったのだから。想定の外も外。もはや会話を繋ぎ止める事さえままならず、ただ無策に俯いてしまった。


 気不味い。予想とは違う方向に反れた気不味さが、2人の間に充満する。目を盗むようにしてヒナタの方を覗いてみれば、所在無さげに指先を弄ぶのが見えた。顔は困惑が主体で、目はいくらか吊り上がっている。割と怒っているだろう事は容易に想像できた。


(やべぇ。何か知らんうちに、追い詰められてないか……?)


 熊ほどでは無いにせよ、今は今で絶体絶命だ。逃走不可の、交渉は難事という状況。既視感あるなぁ、なんて呑気な言葉を吐けるような空気ではない。思わず打開できそうな何かを求めて、視線を四方八方へと飛ばしてしまう。


 そんなケイゴを救うかのように、場を荒らすほどの喧騒が室内にもたらされた。勢い良く開け放たれたドアが、当事者たちの感情を饒舌に代弁する。


「だから、そんな話は勘弁してくださいな。私は夫を亡くしたばかりなんですよ」


 衝立の向うからコハルの声が届く。口調こそ柔らかいものの、内側に苛立ちを包み込んでいることは顔色を見なくとも分かる。


 声は位置を忙しなく変えている。逃げようとするのを追いすがって話しかければ、こんな様子になるだろうと考えつつ、ケイゴは傍観者を決め込んだ。


「過去に囚われてちゃダメだ。オレたちは未来を見据えて生きるべきなんだよ、そうだろう?」


「お生憎様。主人の事をどう受け止めるかは、私だけの問題です。あなたに口出しされる謂れはありませんよ」


「平和な時ならそうかもしれないけどさ、今は明日の命も分からない世の中じゃないか。丁度旦那さんもいない事だし、オレと幸せな家庭を……」


「丁度ですって? 人死を喜ばしいものとでも言いたいんです?」


「ああ、いや、そうじゃなくて! 今のは失言っつうか、言葉の綾っつうか」


「ともかく、2度とその話はしないでください。軽蔑されたいのなら別ですけどね!」


 強めにドアが閉まる。続いて嘘みたいな静寂が流れた後にもう一度、どこか遠慮気に閉まった。


 予期せぬ事がたて続きとなり、ケイゴの脳は限界寸前だ。何の気なしにヒナタを見てみると、彼女は鼻を膨らませたような顔となり、「分かったか小僧」とでも言い出しかねない様子だった。


「今の、マジか?」


「そうだよ。ユウジさんはもうベタ惚れらしくって、もう凄いんだから」


「あぁ、そう。ふぅん」


「噂話くらい聞いてるでしょ? それでアタシに興味なんか無いって分かるじゃない」


「いや、オレはあまり皆と喋らなかったし……」


「これだもんなぁ」


 近現代戦は情報が命。孤独に慣れ親しんだが故の落とし穴に、ものの見事に嵌まったのだ。今回の事故は、もっと気安く交流をしていたのなら未然に防ぐことが出来たハズだ。しかし、吐いた言葉も過去の所業も、全ては不可逆だ。ユウジの言葉を借りれば、囚われてはならないものでもある。


 しかし、今一つ腑に落ちない。いくつものボタンの掛け違えたような、何かがズレこんでいる感覚が不快だった。それはヒナタも同様であり、先手は彼女に譲る事となった。


「そもそもさ、知り合って間もない人と付き合う訳無いじゃん」


「それはオレも思った」


「だったら、どうして疑っちゃうの?」


「何つうか、笑顔が引っかかって……」


「笑顔?」


「ユウジさんと楽しそうにしてたろ。そんときの顔が、見た事無い表情だったなって。特別な感情があるんじゃないかって思ったんだよ」


「……実を言うとね、あの人が苦手でさ。波風立てないように愛想を振りまいてたんだけど、気持ちが微妙に出ちゃったのかも」


「そっちかよ……」


 何かの感情が入り混じったような表情は、ネガティブな意味合いが込められていたのだった。ケイゴは意識しすぎるあまり、全く別の解釈をしてしまった事になる。


「まだあるぞ。ユウジさんの親父が言ってたんだ。歳の離れた嬢さんに夢中だって」


「そりゃあ、ユウジさんと比べたらママは10歳くらい上だよ」


「お嬢さんって言えばヒナタじゃないのか?」


「70歳くらいのお爺ちゃんからしたら、ママだって若者の括りなんじゃないの。知らないけど」


「そんな紛らわしい言い方なんてするか?」


「じゃあ聞くけど、ゲンシチさんは私の名前出したの? ヒナタがどうのって言った?」


「……言ってない」


「でしょうね」


 疑惑四天王が造作も無く討ち取られていく。その甲斐あって、ケイゴのわだかまりが氷解するのは喜ばしい事だ。しかし、彼の目的はいつしか姿形を変え、せめて一握り分くらいの正当性が欲しくなった。さすがに完敗だけは避けたかったのである。「ではお前だ、行け!」と四天王最強のカードを、そもそも4枚あるかどうかは怪しいものの内、暴走の決定打となった事件について投げかけた。


「そもそも中庭の件だよ。ユウジさんが幸せにするとか言ってたよな? 手を握りしめながら熱っぽくさ。これはヒナタも狙ってるって考えても……」


「だってママと夫婦になりたいなら、アタシを無視できないじゃん」


「そりゃそうだけどさ」


「それにね、お手伝いまで頼もうとしてたんだよ。それくらいの口約束はするでしょ」


「そこまで言うかな?」


「逆に聞くけど、想い人の娘をわざわざ敵に回すメリットってある?」


 考えてみる。走馬灯をイメージしながら全力で考えてみる。そうして脳裏に浮かんだのは、白色が映える旗だった。


「無いな。じゃあ、言うかも」


「うん。実際そうだったし」


「そうか。そうなのか」


「ケイゴ君。アタシに何かあるよね?」


「えっと……疑ってスミマセンっした」


「まだあるでしょ」


「それから、ええと、次からは独りで悩むのをやめます」


「ほんとだよ、もう。約束なんだからね!」


 壮大な勘違い。穴があったら飲み込まれたい気分だ。そこで母なる大地と渾然一体となり、自身の養分を還元する傍らで、今回の失態を帳消しにしたくなる衝動に駆られた。


 それにしても、と思う。事実を一切確かめようともせず、独りで自動的に落ち込んだ挙句、熊と真っ向から対峙までしてしまった。しかも、言葉の通じない熊相手に演説までやらかして。女に捨てられただの道化師がどうのと、好き勝手に喚き散らした事は、それはもう克明に思い出された。


(むしろ、今の方がよっぽど道化師じゃねえかよ……!)


 これが恥か、黒歴史かと痛感させられた。自ずと頬から耳まで赤く染まる。そんな顔を悪戯小僧のような、それか獲物を眺める猫のような面持ちで、ヒナタが冗長に覗き込んできた。


「ねぇ、もしかして、妬いちゃった? 他の人に盗られそうになって妬いちゃったのかな?」


 意趣返しか何かか、妙に楽しげな様子だ。ケイゴは咄嗟に否定の言葉を吐き出して、一握の自尊心を守りにかかる……とはならなかった。


「そうだよ」


「えっ……?」


「ヒナタが好きだから、妬いた。自分でも信じられないくらいに妬いた」


「えっ? えっ?!」


「好きなんだよ、お前が。世界中の誰よりも」


 今度はヒナタが赤くなる番だった。ただでさえ血色の良い顔が、瞬く間に熱を帯び始める。しかし、喜色を示すのはそれまでだった。やがて視線は下を向き、滑らかな口許も引き結ばれた。


 ケイゴはフラれたか、と思った。しかし今ばかりはダメージなどなく、むしろ清々しいくらいであった。熊との死闘が彼を強くしたのか、規定値超えの恥で感覚が麻痺したのか、当人は自覚できていない。それすら、どちらでも良いと思う程であった。


「びっくりした?」


 ヒナタが静かに肯首する。


「オレの事、嫌い?」


 今度は首を横に振った。


「じゃあ、友達にしか見えないとか」


 更に強く首が振られた。次は何を聞けば良いだろう、と思い悩んでいると、言葉を探す必要は無くなった。ヒナタの口から本心が静かに語られたからである。


「アタシだって、好きだもん。ケイゴ君のこと、大好きだもん」


 想いは通じた。しかし、その顔は苦悩に塗れている。こうして眺めていると、思わず真逆の意味に解釈してしまいそうな程だ。言動の一致しないチグハグさについて、ケイゴはどうにも理解が及ばなかった。


「どうした、なんだか辛そうに見えるぞ」


「だって……だって、今より好きになっちゃったら、居なくなった時が辛すぎるでしょ! 心がバラバラになって生きてられなくなっちゃうもん!」


「オレは居なくなったりしないよ」


「いつ死んじゃうかなんて分からないじゃない。ケイゴ君だってアタシだって分かんない。そうでなくても、こんな無茶しちゃう人なのに!」


「それについては、うん。悪かったよ」


「もっともっと傍に居たいの! でも怖くて、怖すぎて仕方ないのよ! 友達のままで居た方が良いって思ったけど、好きだなんて言われたら……アタシ、どうしたら良いか分からなくなっちゃうよ」


 ヒナタの湿り気を帯びた熱い頬が寄せられる。その真っ直ぐな想いが嬉しくて、堪らなく愛おしくて、自分も頬を押し当てた。胸の内が、真心が素直に伝わるよう祈りながら。


「オレは、ヒナタに愛された証が欲しい。誰よりも愛された実感が欲しいんだ」


「実感……?」


「自分の人生を振り返ってみて気付いたんだ。オレはまだ何も手に入れてないって。それがね、すげぇ寂しい事のように思えたんだ」


「アタシだって、多分似たような感じだよ」


「でも、もしヒナタの愛があったとしたら、全然後悔しないと思う。たとえ過ごした時間が短かったとしても、満ち足りた人生だったって、胸を張れると思うんだ」


「そんな風に思ってくれる?」


「もちろんだ。ヒナタ、オレと一緒に生きよう。お前のため、そして自分の為にも、二度と命を粗末にしない事を誓うよ」


「精一杯生きるって約束できる?」


「ああ、約束だ」


「じゃあ……信じてあげる」


 首に伝わる力が強まるのを感じた。それに伴って肩や脇に柔らかな体温も伝わって来る。命が放つ温もりを全身で受け止めてから、耳元で小さくささやいた。


「大好きだよ、ヒナタ」


「アタシも、大好き。すごく、すごく大好き」


「すごくって言うけどさ、どれくらいなの?」


「えっ。どういう事!?」


「いやさ、実際に形にしてみせてくれないと分かりにくいなーって」


「ええと、これくらい……?」


 ヒナタは両手を使って楕円の形を表現した。見えないボールを抱えるかのような仕草だ。それを見たケイゴが「ああ、それくらいなんだ」などと宣って肩をすぼめてみせた。するとヒナタは両手をピンと真横に伸ばし、懸命に限界レベルまでを表現し始めた。それが全力であることは息遣いと頬の赤みから察しがつく。


 その頑張りが、ひた向きさが愛おしく思え、ケイゴの心は暖かなもので満ち溢れた。自然と顔が綻ぶ。それからゆっくりと、ヒナタの手に向けて自身の手を伸ばした。そして慈しみを込めて優しく握りしめる……という事はなく、今も微かに震える指先の数センチ先まで手を伸ばすと「オレはこれくらい」と言ってのけた。


 ポカンと呆気にとられるヒナタ。それもケイゴの含み笑いを眺めるうちに、ようやく冗談であった事に気付いた。


「ちょっと! 今からかったでしょ!」


「あっはっは、ごめんごめん。あんまりにも可愛かったから、つい」


「ケイゴ君ってたまに意地悪だよね、そういうところ良くないと思うよ!」


「あれ、もしかして嫌いになっちゃった?」


「知らないよ! バーカバーカッ!」


 子供じみた悪態をつきながらも、やはりヒナタは離れようとしない。再び頬をケイゴに寄せ、文字通りベッタリと寄り添い続けたのだ。いつぞや感じた甘い匂いが鼻腔を優しく撫でる。あの頃はどう捉えて良いか分からずに慌てたものだが、今は心地よさと安らぎを感じるにまでになっていた。


(オレたちは、ツイてるよなぁ)


 胸の中でそっと呟いた。これまでに不運と呼べるものには幾度となく見舞われたが、今はこうして愛を育む事が出来ている。ヒナタと出会い、そして結ばれるに至った幸運を、無言のままで感謝するのだった。


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