第33話 幸せのカタチは

 目が覚めた向こうも闇の世界だった。視界に取っ掛かりは一切無く、天と地の区別すら曖昧だ。耳に聞こえる音も無い。辺りは静けさを保ち続けており、空気の対流すら感じ取れなかった。


 独りなのだ。そんな言葉が浮かび上がっては、小さな棘を刺した。


 あるのは骨まで凍るような寒々しさ、それと胸に居座る痛苦ばかり。身体が滅びて魂魄(こんぱく)となった今でさえ、苦しみを忘れさせてはくれないのだと、ケイゴは絶望に染まる想いがした。


(何か無いのか……?)


 意を決して闇をさすらおうとした。見えず聞こえずの世界を恐ろしく思いもするが、徒(いたずら)に孤独と痛みを重ねるよりはマシである。どこか違う所へ。ここではない別の場所へ。そんな想いに急き立てられて、前に進む。


 だが、一歩踏み出したのも束の間。それまでには無かった、何か人らしきものの気配を感じた。遠くはない。それどころか、手を伸ばしたなら触れてしまいそうな程に近い。監視する為なのか。何者かが物を言わずに一寸先で待ち構えているのだ。


(誰だ、お前は?)


 声が思うように出せない。代わりに唸り声に近い音が発せられただけだ。それでも相手は反応を示し、あるか無きかの気配を徐々に強めていく。地を這うような不明瞭な声に始まり、次第に輪郭が定まり、やがて耳に覚えのあるものへと変質した。


「ケイゴォ……出来ソコなイのケイゴォ……」


 忘れもしない父の声だ。姿形は見えなくとも、目前に佇むのは実の父に間違いない。咄嗟に半歩後ずさり、身構えようとした。だが、その瞬間にも背後で触れる何かを感じた。それも両肩にだ。


「酷いガキだヨ。陰気だシ鈍臭クッてムカツくのヨネ」


「ヨクモ僕を見殺シニしたなぁ。薄情者メェ」


 継母、そしてシンイチロウ。2人はケイゴの身体を絡め取ると、地中へと引きずりこもうとした。気づかぬうちに足元は泥濘の海へと変貌していたのである。引き込む力も凄まじく、とても人の力とは思えない。


 身体は徐々に徐々に奥深くへと飲み込まれていく。そこへ父までも加わる事で、ただでさえ抗い難い力が一層強められた。


(やめろ、離せ!)


 身体を包むのは唯の泥では無い。痛覚を奪う程に冷たく、そして酷く粘性の強いものだ。そんなものが足首を、腿を、腰までも埋めようとしていた。泥から伝わる不快感も堪えがたいが、それよりも恐ろしいのは慣れを覚え始めた自分自身だ。いつしか、抜け出そうとする気持ちさえ損ないそうで、己の成れの果てを想像しては恐怖で胸が詰まる。


 何かを掴もうと懸命に伸ばす手。虚空を泳ぐばかりで指先に触れるどころか、掠りすらしない。どうしたら、どうすれば良い。抜け出す切欠すら分からないままに、とうとう胸までも埋没してしまった。


(誰か! 助けてくれ、誰か!)


 切望、渇望。ただ一心に、見えない何かに向けて手をさ迷わせる。それでもやはり触れる物も、すがる様な物も有りはしない。やがて腕が気怠くなり、脚はもがく事を休み、か細い抵抗も弱々しくなった。身体が諦念とともに泥に塗れていく。後はどこまでも沈むばかりだ。絶たれた望みを抱きながら、どこまでも、どこまでも。


 だが突如として、右手が暖かなものに包まれた。それは安らぎや慈愛も孕んでおり、凍てつきかけた身体さえも蘇らせるかのようである。


(これは一体……?)


 目の前に新たな人物が現れた事は分かる。しかし、依然として姿は見えず、視界は闇一色だ。微かな微笑みがケイゴの耳元をくすぐる。鈴の鳴るような声。笑っているように思えた。


 すると辺りは、前触れなく眩い光で溢れ出した。目を閉じていても痛みが走る光量も、どこか不快ではなく、思わず身を委ねそうになってしまう。


(泥が……消えた?)


 両手を着いた地面には硬い手触りがある。全身に絡まる汚泥もことごとく乾き、音もなく剥がれ落ちていく。それどころか、身体にしがみついた連中さえも霧散していた。助かったのだ。理屈はどうあれ助けられたのだ。


 ケイゴは立ち上がり、前を見据えた。眩さの中には確かに誰かがいる。しかし後光が邪魔をして、何者かまでは判別出来なかった。体つきから女性だろうと察し、シルエットから古風な装いをしているのだと思った。着物や和服とは違う。それよりも更に古めかしく、しかし威厳のようなものさえ感じられた。


 裾や袖口がたなびくのが見える。無風であるのにも関わらずだ。その不可思議さも相まって、ケイゴは畏敬の念に近いものを抱いた。


「幸福とは、容易に見て取れぬ。その尊さのあまり眩しく映るからだ。さながら燦然(さんぜん)と輝く太陽を、直視能わぬのにも似て」


 先程の笑い声と同じく、鈴の音を思わせるような、儚くも透き通った声だ。それはケイゴの胸に瞬く間に沁み込んでいった。反発や疑問の生じる余地の欠片も無く。


「そして、清水の如く捉えどころがない。時に形を変え、掴んだ筈の掌からも逃れようとする。幸福を我がものとするのは、極めて困難であると言えよう」


 いつまでも聴いていたい。朝も夜もなく、延々と傍で囁いていて欲しい。そんな欲求がふと胸に湧き上がった。目の前の人物が途方もないまでに貴い事は、おおよそ察しが付く。それでも、無理を推してまで叶えたいとすら思えた。言い尽くせない程の親愛さが、敬愛の念が強い。


 しかし、その願いは早くも絶たれてしまう。眼前の気配に変化が生じたのである。声も口調も別人に成り代わり、シルエットも洋装のものとなったのだが、それはそれで記憶の奥深くに訴えかけるものがあった。


「幼いあなたを、あなたの成長を見守れないまま離れてしまって、ごめんなさい」


 身体中に電流が走る想いだ。それはかつて病室で聞いた、母の最期の言葉だった。


(母さん。母さんなのか!?)


 相変わらず姿は見えない。宙に漂う光は今もなお陰りを見せず、ケイゴの視界を白く染め上げるばかりだ。改めて目の前の物を不思議に思う。これは誰なのか、そもそも人なのかすら分からなくなる。ただ1つだけハッキリしているのは、自分の右手には今もなお、何者かの両の手によって包まれる感覚が続いている事だ。


「遠くから、いつの日も見守っています。あなたの幸せを、幸多き人生に恵まれる事を祈りながら」


 光が訥々(とつとつ)と語る。それにはケイゴも胸の疼きを覚えた。言葉に嘘偽りがない事は、響きからひしひしと伝わってくる。儚さすら漂うその願いを、自分はとうとう実現せずに生涯を終えたのだ。何故だかは知らないが、酷く裏切ったような気分にさせられてしまった。


(ごめん。オレは本当にダメな奴なんだ。どんなに頑張ったところで、何も手に入らなかったよ)


 呆気なく終わりを迎えた18年もの人生。幕を閉じた今、自分の手元に残ったものは何か。ささやかな物すら有りはしない。両手を開け拡げたところで砂粒ひとつすら見当たらないのだ。


 虚しさが心を苛む。無力感が指先から意志を奪い去る。生まれた意味すら見出せない人生だったのではないか。打ちのめされたような気持ちが、胸の疼痛(とうつう)となって暴れ始める。


「そんな事ないよ!」


 ここで光が再び様子を変え、気配は別人のものとなった。輝きは比較にもならない程に強く、もはや眼を開けていられなくなる。


「アタシたちはツイてるの。ラッキーなんだって!」


 幾度となく聞いた台詞だ。誰の言葉かなんて思い出す必要すらない。


(何でお前が……?)


 言い終えるまで意識は保たなかった。光は際限なく輝きを増し、終にはケイゴの身体すら消し去ってしまう。そして魂は、本人の意志などお構いなしに、どこか違う場所へと運ばれていった。


 次に意識を取り戻すと、視界は酷くぼやけていた。見慣れぬ天井、体にかけられた毛布。そこから飛び出した自分の手を包み込むように握る何者かの両手。霞む眼を酷使し、視線を腕伝いに滑らせると、傍に誰かが居るのがようやく分かった。


「良かった、気がついたんだね!」


「ヒナタ……」


「もう、何て無茶をしたの! 本当に死んじゃうところだったじゃない!」


 熱い頬が肩に寄せられた。声までも涙で湿っているのが耳に伝わる。


 ひとまず体を起こそうとして身動ぐと、ヒナタの助けを借りる事でようやく半身だをけ起こす事が出来た。周りには衝立の列と、雑然とした寝床が並べられている。避難所の一室だ。そこまでを目に映すなり、口の端から呟きがこぼれ落ちた。


「オレ、死ななかったんだ……」


 感慨深さよりも、驚きの方が大きい。虚空に目を泳がせながら、死の淵から生還した実感を、少しずつゆっくりと噛み締めていった。 

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