第32話 彼は微笑んだか
怪我人を屋内に運び入れると、目につく人を手当たり次第に警戒を呼び掛けた。今現在は多くが出払っており、残るのはコハルを含めた調理担当の数名のみ。皆は青ざめながらも騒ぎ立てる事なく、傷の手当てに着手し始めた。
続いてケイゴたちは玄関へと向かった。周囲の索敵と、万が一熊の接近を許したなら追い払う為だ。もし仮に館内への侵入を許してしまえば、甚大な被害がもたらされる事は確実だ。それを水際で止める役目を、なし崩し的に背負うことになったのだ。
「アンちゃん、これ使うけ?」
ゲンシチから差し出されたのは長い鉄パイプだ。先端に包丁が縄で括りつけられただけの、いかにも頼りない武器である。
「あの、もっと良いのは無いんですか? 例えば猟銃とか」
「これしか無ぇなぁ。マタギなら知り合いにテッつぁんが居るけどよ、とっくに山の避難所に行っちまったよ」
「そうですか……」
選択肢など無かった。お手製の槍を受け取り、玄関脇の物陰に身を寄せた。ガラス戸の両端を守るように待機し、屋内から外の様子を窺う形となる。
防衛法は極めて単純。入り口から侵入した熊を不意討ちし、両脇から腹を一突きにしようというのである。ケイゴにはとても成功するとは思えなかった。間に合わせの武器、それを用いる素人が2人。戦力としてはあまりにも乏しすぎるのだ。せめて男手を増やしたいと思うが、今も方々に散ったままである。
(助けを呼びに行くべきか……でも)
その間に熊と遭遇しないとも限らない。暗がりで急ぐ横から襲われる可能性は十分に考えられた。恐れがケイゴの足を縛る。まるで石膏(せっこう)によって固められたかのように、1歩たりとも動けなくなった。それはゲンシチも大差無く、荒い息をつきながら佇むばかりだ。
もはや幸運にすがる他に無い。熊に見逃してもらう、そうでなくても、皆が戻ってきた頃に。槍を小刻みに震えさせながら、祈りにも似た願望を並べ立てた。しかし、現実は相も変わらず無情だった。
「来たぞ……気を抜くんじゃねぇべ」
視線の先、門を照らす灯りが異質な物を照らし出した。4つ足で、焦げ茶の体毛に覆われた獣。体格は思いの外小さく、ヒグマに比べたら随分と小振りだ。そして、胸元に浮かぶ三日月にも似た白い毛。それがケイゴの目を強く引き寄せた。
「音を立てんな。熊は鼻と耳が良いっつうぞ」
その言葉を肯定するような動きを、熊は本能の赴くままに披露した。地面の臭いを嗅いでは辿り、玄関近くまで寄ったかと思えば、身を起こして意識を耳に傾けた。そして迷いが生じたように門と玄関口をしきりに彷徨く。唸り声混じりの息は重たく、眺める者の恐怖心は臓腑を伝って這い上がってくる。
(行くなら行っちまえ。早いところ消えてくれ!)
手汗で湿る槍を握りしめながら、ただひた向きに祈る。小刻みに震える柄が音を立ててしまわないよう、足の甲で受けつつ、静かに成り行きを見守った。持久戦、根比べ。今すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを懸命に抑え、どうにか熊の動向に目を向け続けた。
その時だ。遠くから静寂を掻き乱す程の大声が、突如として鳴り響いた。
「えっ! なんで熊がいるの!?」
門の外側で愕然としている姿がケイゴの目にありありと映る。それに気づいた瞬間には既に体が動いていた。
「ヒナタ! 逃げろ!」
ガラス戸から外に飛び出すと、有らん限りの声で叫んだ。それでも、恐怖に駆られたヒナタは凍りついたようにして動かない。
「お前の相手はこっちだ! よそ見してんじゃねぇ!」
決死の覚悟で怒鳴る。しかし熊は意に介さず身を翻し、門の方へと歩み始め、やがて駆け足となった。その頃になってようやくヒナタも我に返り、転がるように逃げ出した。だが遅すぎる。
両者の速さは比べるまでもなかった。このままではケイゴが追い付く前に、ヒナタの背に牙が突き立てられるだろう。そもそも追い付けたとしても、正攻法で歯が立つ相手では無い。
(どうすりゃ良いんだ。何か工夫を……!)
焦るケイゴの瞳に飛び込んできたのは、発電機へと伸びる配水管だ。それを見るなり熊の背中から遠ざかり、その管にすら飛び越して、切り立った崖の上から覗き込んだ。
浜辺へと続く道。懸命に走るヒナタを見過ごし、背後から迫る熊の姿を捉えた。チャンスは一度きり。心臓を鷲掴みにする重圧に堪えながらも、目測でタイミングを計り、その瞬間を待った。
(……今だ!)
崖の縁を蹴って宙に身を踊らせた。脚力に加え、重力までも味方につけて、槍の穂先に全てを集約する。狙いは思いの他に正確だ。でっぷりとした体が瞬く間に大きくなり、その背中に刃が飲み込まれていく。見事な的中だった。
「ダメだ、浅すぎる!」
熊の防御が、いや進化の結晶がケイゴの攻撃を防ぎきった。穂先は刃の半分も刺さらずに骨とぶつかり、内臓にまでは到らない。多少の肉を抉り、皮を割いただけに留まる。当然だが致命傷には程遠く、乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに敗れた瞬間であった。
しかし、全くの失敗とも言い切れない。熊の進軍を止め、更にはヒナタとの間に割って入る事が出来たのだ。狙いの半分は達成した事になる。
「グズグズすんな、早く逃げろ!」
背後の足音は止んでいた。驚愕したヒナタが立ち尽くした為である。
「でも、ケイゴ君が……」
「良いから行け! お前がいても邪魔なんだよ!」
そこまで言うと動きがあっと。気配は、どこか戸惑いを覚えつつも、次第に遠ざかっていく。やがて何も聞こえなくなると、ケイゴの胸にひとつの安堵が押し寄せる。それと同時に、ドス黒い何かが膨らんでいった。
死への恐怖である。
(オレも逃げねぇと殺されちまう!)
左右は切り立った崖、背後にヒナタ。逃走路は正面にしか無いのだが、目の前の獣が突破を許してくれそうにない。浅からぬ手傷が怒りを買い、身の毛もよだつ程の唸り声が鳴り響いた。
視線にも純然たる殺意が込められている。蛇に睨まれた蛙。歯の根が噛み合わずにカタカタと震え、膝も恐れおののく心を隠さない。文字通りの絶体絶命であった。
(先手を、先手を取って走るしかない!)
闇雲に繰り出した突き。狙うは鼻先だ。唯一体毛の無い部位が、弱点のように思えたからだ。
しかし、ここでも相手が勝る。瞬時に頭を下げて突進する事で、顔への攻撃を避けたのである。切っ先は背中に当たり、丸みのある形状によって見事に弾かれてしまう。
「や、やばい……!」
懐まで掻い潜られた。前足による爪打がケイゴの腹を急襲する。咄嗟に槍を引き戻し、柄で防ごうとした。爪による裂傷は防いだものの、膂力(りょりょく)までは対抗できない。体は大きく追いやられ、崖の側面に背中を強打した。
痛みで呼吸が止まる。そこへ追撃の爪が胸に迫った。転がるようにして避け、片ひざ立ちで再度熊と向かい合った。更に飛びかかろうとする巨体を、刺突による牽制でようやく止める事が出来た。
(速い、そして強い!)
睨み合いが続くなか、改めて彼我の違いに畏れを抱く。予想通り生半可な相手ではなく、勝ち目の薄い戦いだった。本来なら隠れてやり過ごす所を、こうして命を賭けたのも、ヒナタを思えばこそだ。すべてはヒナタの為。そんな想いが過ると、ケイゴの心に看過できない程の余白が生まれた。
(あれ。何でオレはこんな事を……?)
ヒナタは既に別の男を選んだ。つまりは、この危険な役目もユウジが担うべきものであり、今からでも代わって欲しいくらいだ。そんな計算すら考えもせず、無謀にも飛び出した自分自身に後悔の念がよぎりだす。
このまま無惨にも食われてしまえばどうか。ユウジたちにとって、邪魔する者が消滅することになる。そうすれば結ばれる事は確実だ。結婚祝いを包む代わりに亡骸を贈る。自分の死が悲劇という美酒になり、2人の愛はどこまでも燃え盛るに違いない。そこまで未来を予知すると、胸の奥が爆(は)ぜるのを感じた。救い様の無い道化師ぶりが人生の幕引きを飾るのである。その事実がケイゴに嗤(わら)いを促し、やがて高らかな声となる。
これには熊も酷く警戒した。前足を半歩だけ引き、急変した獲物を尚も観察しようとシフトしたのだ。その怯みに対し、ケイゴはとっておきの冗談を聞かせるような口調で、矢継ぎ早に語りかけた。
「おい聞いてくれよ。こんな傑作が他にあるか? 家族の虐待から逃げられたかと思えば、とんでもない災害に襲われてさ、それも一段落した矢先に女まで盗られちまったよ!」
尚も言葉は続く。
「どうだ。これが人間ってヤツだ。クソ塗れのゴミッ溜めで這いつくばる人間様の生涯だよ。お前は良いよな、気楽に食い散らかすだけで。さぞや面白おかしく生きてんだろうな!」
槍がおもむろに顔をあげ、切っ先が熊に向けられた。愉快そうに笑う顔は、既に別の色を帯びている。
「食いたきゃ食え、熊野郎。だがな、オレにも意地がある。テメェも地獄の道連れにしてやるからな!」
言い切るなりケイゴは地を蹴った。槍は大きな瞳に向かって一直線の軌跡を描く。それを熊は前足で払い除けた。反動で僅かに体が泳ぎ、半身がひととき無防備になる。
囮だった。ケイゴは跳ね上がる槍から右手だけを放し、熊の顔の傍で腰を深く落とすと、渾身の拳を鼻に叩き込んだ。
痛みに苦しむ熊は顔を押さえながら立ち上がり、大きな咆哮(ほうこう)を撒き散らした。ひとしきり吠えると再び身を屈め、前足を地に戻した。しかしその時にはもう、眼前で構える相手を喪失した後であった。
「こっちだバカ野郎!」
ケイゴは熊の背に跨がっていた。さながら馬に乗る格好になる。それからは足で胴を全力で締め上げ、振り落とそうとする揺れに耐えた。それだけでなく、体毛を指に絡める知恵まで回し、激しい揺さぶりを寄せ付けなかった。
熊が荒い息とともに動きを止めた。今こそが反撃の機である。手元の槍を、というより括りつけた包丁の柄を逆手に持ち変え、頭上にまで掲げた。
そして、迷い無く背中に叩きつけた。一撃では通用しない。何度も、何度も、何度も何度も刃を突き立てる。やがて皮膚を破り、肉も裂いた。温かな鮮血が噴水のように吹き上がっていく。
ケイゴの体には溢れんばかりの力が漲っていた。原資は恨み。長年虐げられ続けた境遇が、苦しみに満ち満ちた記憶が、爆発的なエネルギーを生み出しているのである。瞬間的にではあるが、肉食獣を凌駕する域にまで達していた。
「どうした。弱者に逆襲されるのはどんな気分だ!?」
ケイゴは血に酔いしれた。躍動する肉の筋を切りさく感触が、得も知れぬ高揚感をもたらすのだ。本能に突き動かされ、大きな体を掘り進めていく。やがて切っ先が内臓を掠めると、いよいよ熊は竿立ちとなり、背中のものを振り落とそうとした。
予期せぬ動きにケイゴは背中から落下してしまう。したたかに体を打ち付け、身を起こすのが遅れる。そしてようやく片膝立ちになった所を、爪撃が襲いかかった。避ける間は無い。武骨な爪がケイゴの胸を削り取り、大地が別の血によって彩られた。
「しくじった……!」
目眩を覚える程の痛みがケイゴの視界を揺らす。止めどなく溢れる血も、服だけでなく下腹までも赤く塗り替えていく。もう長くは無い。まるで他人事のように命を勘定した。そして、ここが死に場所であると確信し、槍を手放そうとした。
だが、1人の乱入者が事態を大きく変える。
「やだ! 死なないで!」
「何……?」
逃げおおせたはずのヒナタが、いつの間にか舞い戻ってきたのだ。更にはケイゴの首に抱きつき、身を挺して庇おうとする。なぜだという想いが、ケイゴの胸で黒く吹き出した。
「逃げろ、バカかよ……」
「ダメ、できない! ケイゴ君を死なせたくないもん!」
泣きじゃくるヒナタ。ケイゴは思わず感極まるが、野生の熊に、ましてや手負いの獣に情など通じるはずもない。涙に濡れる顔の向こう側に、大きく開かれた口が迫るのを見た。ケイゴの脇腹に噛りつこうというのである。
(ここでお終いか……)
いよいよ諦念が過る。すると、脳裏には数えきれないほどの幻影が目まぐるしく駆け巡った。これが噂に聞く走馬灯かと、やはり他人事のように浸り続けた。あまりにも膨大なデータ量。パンク寸前の大脳が焼けつくような痛みを発する。
(最期の時くらい、穏やかでいさせてくれ)
そんな言葉が漏れると同時に、幻影は駆け足を止めた。脳裏に映るのはありふれた光景。ヒナタの部屋でゲームに興じるという、日常そのものだった。
ーーおい、こんな化け物をどうやって倒すんだ!
ーーえへへ。この敵はね、口の中に手榴弾を投げれば倒せたんだよぉ。
ーー何だよそれ。これまで散々に、腹やら足やらに投げつけたじゃねぇかよ。
ーーダメダメ。これは外側が硬いヤツなの。その代わりに中は脆くってね。その辺は野性動物なんかと一緒でさ……。
そこで幻は消え、ケイゴは現実世界へと引き戻された。しかし名残がそうさせるのか、全てがコマ送りのようにゆっくりと移ろい行く。開け放たれた大口に槍を差し込むことは造作も無い事だった。
柄から伝わる振動が、ケイゴに覇気を取り戻させた。今こそが分水嶺。運命の別れ道。呼吸の怪しくなった体は、もはや吠え声すら放(ひ)り出せない。叫ぶ代わりに渾身の力を乗せ、槍を深く深く突き立てた。
切っ先が柔らかいものに触れた。構わず押し進めると破けたような感覚がある。それでも手を休めずに、全身を躍動させて中身を掻き乱した。くぐもった断末魔の叫び声が、ケイゴの全身に降り注ぐようだ。
「グォォオオーーッ!」
熊は口から槍を突きだしたままで、勢いよく竿立ちになった。そして顔を大空に向けてまま制止すると、おもむろに背中から倒れた。体を痙攣させるばかりで、再び起き上がろうとする気配はない。
(やった、やっちまったぞ……)
その様を見届けると、ケイゴの四肢から力が抜け落ちた。ヒナタが慌てて支えようとするも、崩れ落ちる体を持ち直す事は出来ず、全身を地面に打ち付けてしまう。
「ケイゴ君! お願い、しっかりして!」
悲痛な叫び声。耳元のはずなのに遠い。不条理な感覚が興味をそそるが、今となっては指ひとつ自由にならない。
「誰か、誰か助けて! ケイゴ君が死んじゃうよ!」
頬に温かな物が滴るのを感じた。血では無いだろう。だとしたら涙だと当たりをつけた。
(泣くだけ泣いたら、ユウジのクソ野郎に慰めてもらえ)
皮肉は言葉にならず、心の中で消えた。不思議と悔しさは無い。ただ漠然とした達成感があるだけだ。オレの死に顔は笑ってるんだろうか。自問に答えを見つける前に、意識は急速に霞がかった。
そして闇に飲み込まれた。
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