第31話 かつてない感覚

 空虚な日々だ、ケイゴはそう思った。今の暮らしに苦痛は無い。避難所の住民は快く受け入れてくれている。寂しくもない。見知った顔に会えば程ほどに話し、仕事でも少なからず達成感を味わえている。それでもなお満たされない気持ちでいる自分に、小さくない戸惑いを覚えた。


(そこそこ良い暮らしをさせてもらってんのにな……)


 午後の仕事は予定よりも早く終わった。すると、途端に手持ち無沙汰となってしまう。気兼ねなく話せる仲間はおらず、そうでなくても目にする人は誰もが忙しなく働いている。する事も見つからないままに、結局はロビーの談話室に腰を落ち着けた。


(独りきりになるなんて、いつぶりだろう)


 虚空を見つめながら思う。過去を振り返れば、必ずと言って良いほどに誰かが傍にいたものだ。車内泊の間はもちろん、国立公園や農場での探索でさえそうだった。ロジーが、コハルが、そしてヒナタが独りにしなかったのである。


 無為に浪費する時間。それは解放感よりも苦痛の方が勝っており、1秒1秒が酷く長いものに感じられた。暇潰しの文庫本すら持ち込まなかった事を、ここにきて改めて後悔する想いだった。


(こうなったらスマホでも……)


 電池の温存などもはや不要だった。電源を入れ、慣れ親しんだ起動画面の変遷を無感動のままに眺める。通信機能はダウンしたままなので、アプリやネットサーフィンを楽しむ事は出来ない。必然的に、手慰み感覚で内部データをさすらう事になる。


 流れ着いたのはフォトフォルダ。そこを掘り下げてみても、面白味の感じられるものには中々行き着かない。メモ代わりに撮った電車の時刻表、散歩中に気が向いて写しただけの景色。記憶の端をくすぐる事はあっても、気分の俯きを正すには至らず、指先は漫然と画像を切り替えていく。しばらくして、とある画像が機械的な指の動きを止めた。


(これ、高校3年のやつか……)


 思いがけず当時の光景に胸が踊った。季節は春。桜の散り際。画面には、風に流される花びらと、カメラ目線で写り込むヒナタの笑顔が橙色に染められていた。アプリによる加工ではなく、夕暮れの時に撮影した為だ。当時のケイゴは、気紛れに桜の風景を収めようとしたところ、ヒナタが強引に割り込んできた。それがこの写真である。


(こんな事もあったっけな)


 色とりどりの世界が、何気ないワンシーンが今となっては懐かしい。虚ろな目で眺めていると、その時の会話までもが甦るようだ。進路や授業の話、お勧めの動画に音楽、そして週末の予定。明日も平和のままで、今日と大差ない日が来ると信じて疑わなかった。それが日常だった。


「楽しかった……のかな」


 呟きが暗がりに消えると同時に、懐かしさも静かに霧散していった。代わりに残されたのは鈍い痛みだ。胸が重苦しくなるのだが、どこか暖かみのようなものもあり、単なる体調不良とは様相が違う。ケイゴはただ困惑した。いっそ不快さで塗り固められていればと思うが、痛みと暖かさは分離せず、胸の中で混在してしまった。


 不意に押し寄せた異常に混迷を深める最中、外から楽しげな会話が響いた。それは徐々にこちらへと迫り、やがて館内にまで到達するように思われた。


「やだなぁ。そんな事ないですよー」


 ヒナタの声だ。それを耳にするなり、ケイゴは弾かれたように飛び起き、思わず身を潜めてしまった。明確な理由はない。ただただ、体がそう動いてしまったのだ。


「いやいや、本当に美人だと思うよ。間違いないって」


 入り口にやって来たのは、漁に使う網を抱えたヒナタ、そして彼女の倍以上の網を片手で抱くユウジだった。空いた手でガラス戸を開け、少しおどけた仕草でヒナタをエスコートする。


「うーん。確かにママは歳の割に綺麗ですけど、アタシはねぇ……」


「そんな事ないよ。ヒナタちゃんだって凄く可愛いから、自信持って良いよ!」


「ユウジさんはお世辞が上手いなぁ」


「マジなんだってば、信じてくれよ」


 和気あいあいとした空気を振り撒きつつ、肩を並べて2号棟の方へと消えた。ヒナタの浮かべた笑顔は、ケイゴの知るものと違っていた。記憶の中にもデータフォルダの中にすら無い。正真正銘、初めて見るものだった。


 胸が痛む。そして今度は暖かみすら消えている。体の中を内臓ごと握りつぶされるような気がして、呼吸もにわかに荒くなった。手を胸元に当てていないと張り裂けてしまいそうな、未知なる衝動が恐ろしく思えた。


 そんなケイゴの気も知らずに、鳩時計が呑気な音を鳴らした。午後6時。夕食の時間だった。


(ともかく、気持ちを落ち着けないと……)


 深呼吸。それで見せかけの平静を取り戻し、食堂へと向かった。調理場の側で食事を受け取り、空いた席に腰を降ろす。比較的早い到着だったようで、視界の端には三々五々と集まる住民の姿が見えた。


「あれ、もう食べてるんだ? お腹が空いてたんだねぇ」


 食事を手にしたヒナタが、いつものように隣に座った。彼女をどう受け止めるべきか迷い、つい曖昧な返事で答えてしまう。そんな些細な変化を知ってか知らずか、ヒナタは饒舌だった。海は海で楽しいだの、真っ暗だから波に拐われたら大変だの、身近な話題びかりを喋り倒す。その間ケイゴは気の利いた答えが見当たらず、無難な相討ちを繰り返すばかりだった。


「それでね、その時ユウジさんがねぇ」


 その名が出た瞬間に鋭い痛みが走った。それで迂闊にも箸を落としてしまうが、椀の中身は既に空である。箸を互い違いに握りしめ、食器を乱雑に掴むなりすぐに立ち上がった。


「あれ? もう行っちゃうの?」


 呼び止める声が僅かに心を暖める。しかし、それよりも強い痛みに堪えかねて席を後にした。去り際に漏らした「今日は疲れてるから」という嘘も、彼の良心を激しく糾弾する。そうしてほうほうの体になりながら、足は大浴場へと向けられた。


 木の香りが残る脱衣所を抜けると、大きな内風呂が出迎えるのだが、そちらは空だった。湯温の高い源泉を冷ますだけの資源が無いため、今は屋外だけが利用されているのだ。それが引き戸の向こうにある露天風呂。左右と天井が閉ざされているものの、開け放たれた正面には満点の星空が広がっている。今宵は予め準備でもされていたかのように、雲ひとつ無い好天だった。


 指先で湯に触れてみると、痺れるくらいに熱い。何度もかけ湯して温め、そのついでに石鹸で体を手早く洗うと、ようやく湯船に体を預けた。全身が一旦は熱で強ばるものの、次第にあらゆる筋肉が弛緩(しかん)した。それに伴ってケイゴの心の荷も解けていく。


「何やってんだろうな、オレ……」


 独り言は誰にも聞かれる事なく消えた。食事はもとより、入浴も早すぎたために一番風呂だ。目の前の星々も、湯を囲う檜(ひのき)の感触も独り占めで、頬を打つ外気の風でさえ心地良く感じられる。まさに夢のよう。上質なひとときが別世界へと誘い、心が体から遊離しそうになる。しかし、それを黒い真円が許さない。姿を失った月が現実をまずまざと突きつけるのである。


 太古の昔より片時も離れず、地球の危機となった今でさえ傍にある存在。ちょっと口煩い幼馴染みが世話を焼くかのように、地球に住まう人々の顔を覗き込むのだ。そこまで考えると、どことなく親近感らしきものを感じてしまう。


「地球がヒナタなら、オレは月って事になるのかな……」


 自身の境遇をなぞらえては、すぐに取り払った。姿を消しても傍に居るとは不吉すぎたからである。これが平時であればいざ知らず、明日の命すら保証されていない毎日なのだ。死という絶対的な存在は、終焉の地であってもケイゴを見逃したりはしない。


 自業自得ながらも薄気味悪さを感じ、間もなく湯船から飛び出した。水の滴る髪は後ろに撫でつけ、衣服を乱雑に着込むなり寝床へと向かった。帰路で出会ったロジーとは足を止めずに挨拶を交わし、大食堂の一区画、自分に割り当てられたスペースへと戻る。通路向かいにあるヒナタの区画は無人のままであり、今は入浴中だと察しがついた。顔を合わせなかった事に安堵と、僅かな寂しさを織り交ぜつつ布団を頭から被った。


(オレって、ここまで面倒臭い奴だったのか……)


 今頃になって見つけた新たな一面を嫌悪しなくもない。そんな失意にあっても、いつしか入眠の波が押し寄せ、意識は闇に溶け込んでいった。夢は見ない。見たとしても、目覚めた時には忘れていた。


 翌朝。朝食時を迎えた室内は、既に活気を取り戻していた。ケイゴも目覚めてはいるが、どうにも気まずく思え、顔を出すのが憚られた。直接作業場に向かおうかとも思うが、腹そのものは減っている。どうすべきか悩んでいると、ふと頭を過るものがあり、枕元のバッグを漁った。


 取り出したのはブレッドメイト。地下空間を思い出させる携帯食料はまだ半分ほど残されていた。個装された包みを切り、1本を丸ごと頬張る。あの頃は分け合ったもんだという思い出も、甘い塊とともに飲み込んだ。そうして最低限の腹ごしらえを済ませると、極力目立たぬよう足音を殺しながら部屋を出て、真っ直ぐ作業場へと向かった。


(いつまでも、こんな事を続けてられないよな……)


 仕事は同じく枝払い。しかし、ケイゴは身が入らず、作業は精細さを欠いた。動きもとにかく漫然としているので、効率はこれまで無いほどに悪いものだった。その様子を気遣ったゲンシチが「眠たいなら散歩でもしてこい」と、やや見当外れな提案がされる。訂正するのも面倒になり、その言葉に従う事にした。


 駐車場から玄関口を周りこむと、中庭に通じる道に出る。かつては人工池と花壇が楽しめた庭も、今となっては物置に近い場所となっている。ケイゴはその辺りをノンビリ歩く事で適度に時間を潰そうと考えた。だが、その足は角を曲がる前に止まる。向こう側に、ただならぬ気配を察知したからだ。


「頼むよヒナタちゃん。オレは本気なんだ!」


 中庭のライトが2人の姿を薄く照らし出す。ユウジは、立ち尽くすヒナタの両手を握りしめ、強い口調で迫っていた。それが冗談でないことは、真に迫った声が如実に物語る。それに対してヒナタが何らかの言葉を返した。だが離れすぎている為に、ケイゴの耳元にまでは届かない。聞こえるのは抜けの良いユウジの声ばかりだった。


「絶対に幸せにしてみせる。だから信じてくれ!」


 この場で何が語られているのか、もはや考えるまでもない。ケイゴの血は急激に滾(たぎ)り、それと同時にかつてない程にまで胸が締め付けられる。ヒナタが頷く訳が無い。少なくとも、知り合って数日の男を受け入れる筈は無い。そんな信頼を寄せていても、鼓動は早鐘を打つのを止めようとしない。


 ヒナタが再び何かを言った。聞こえない。どうしても気がかりで、物陰から耳に神経を集中させた。そうしてようやく届いた言葉は、思わず夢かと疑ってしまうほどの、ともかく受け入れがたいものだった。


「分かりました、ユウジさんの気が済むようにしてください!」


 胸の塊が弾けた。頭は白く染まり、強烈な眩暈が意識を剥ぎ取ろうとした。何度も言葉が去来する。肯定して、気が済むようにしろ。肯定して、気が済むようにしろと……。それは相手を受け入れた言葉ではないのか。自分の勘違いであることに一縷の望みを託し、再び2人の様子を窺った。しかし、より深い傷を負わされるだけの結果となった。


「本当かい? 嘘じゃないよね!?」


「もちろんですって、そんだけ強く言われたら断れないじゃないですか!」


「よっしゃぁ! 最高の気分だぁーーッ!」


 我が世の春を謳歌するように、或いは夏の盛りを全身で堪能するような足取りで、ユウジは遠くへと駆けて行った。疑問を差し挟む余地は無い。ヒナタはケイゴの事など省みる事なく、行きずり同然の男を伴侶に選んだのである。ケイゴはそう解釈した。


 信じられない。到底認められない。しかし、ケイゴに口を出す権利まであるだろうか。これまでの経緯と、普段の親密さに過剰なものはあったにしても、ただの良き友人同士でしかない。果たしてこの結末に対し、気に食わぬからと苦情を投げつけられるだろうか。少なくともケイゴの哲学が、他者を尊重する想いが強硬手段を遠ざける。それを証左するように、重い足取りで立ち去るヒナタを見ても、何一つ声をかけずに見送るだけだった。


(所詮、世の中ってこんなもんか)


 声にならない呟きは胸の中でのみ響いた。その度に涙腺が綻び、涙が溢れ出そうになる。そうしてボンヤリと時を過ごし、星空を眺め続けた後、作業が途中であった事を思い出した。どれだけの時間が過ぎた事だろう。ゲンシチに怒られるかもしれない。よりにもよってユウジの親であるゲンシチに。


(そうなったらそれで良いや。居づらくなったら何処か遠くへ行くだけだ)


 捨て鉢な気分を携えたままで駐車場へ戻ろうとした。だがその途中、門の入り口あたりが騒がしい事に気づいた。よく見てみるとゲンシチの姿もある。おもむろに近寄ってみると、想定外な言葉が投げつけられた。


「アンちゃん、ちと手伝ってくれっけ!?」


「わかりました。何かあったんですか?」


「熊だ、熊! 木を伐ってるうちに一人やられちまった!」


「熊……!?」


「手遅れになる前に手当てしてやらねえと。タネ婆に見せっから、そっちの肩ァ頼んだべ」


 うずくまる男を左右から支え、覚束ない足取りで施設に向かった。まだ意識はある。だが、胸に刻み付けられた爪の傷は、厚手のコートが血に染まる程に深い。早急な治療が必要だった。


「マズイ事になったべぇ……」


「確かに、これは命に関わりますよね」


「いや、それもなんだがよ。熊っつう生き物は鼻が利くし、執念深いって聞いた事あんだよ。一度狙った獲物は絶対逃さねぇらしいんだ」


「それって、つまり……」


「ここに来るかもな。そしたら、どうにかして追っ払わねぇと」


 背筋に悪寒が走った。野生動物に、しかもよりによって人間を遥かに凌駕する生物に目をつけられてしまったのだ。只事で済む筈も無かった。


 公平なる死神の鎌は、決してケイゴを捕らえて離さない。失恋の傷心に浸る猶予すらも与えず、掛け値のない生存競争は今もなお続いているのだった。

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