第27話 その花が開く頃

 父はケイゴを頻繁に殴った。中学校にあがるまでは主に学業の不振に関してだが、ある程度の年齢に達した頃から、もはや分別すらつかなくなった。少なくとも殴られた側はそう感じている。特に、女子生徒と会話をしたというだけで折檻を受けた事は、理不尽を飛び越して犯罪的だとすら思ったものだ。


 今、いつものように父から殴られている。それを他人事のように脇から眺める自分。夢の中だ。これまでに幾度となく同じものを見せつけられたので、彼は覚醒する前から現実でない事を確信していた。


ーーまたこの場面かよ、いい加減飽きたっつうの。


 高校2年も折り返しを迎えたある日、特に激しい暴力を振るわれた事がある。父は口先で叱りながら殴るのだが、それはもう何万回も耳にしたであろう言葉で、ケイゴにとって響くものは一切なかった。


「もっと勉学に励め。家名を貶めるだけの愚息めが」


 その台詞をバカのひとつ覚えのように繰り返すのだから、受け手としては堪ったものではない。これなら九官鳥の方が遥かにマシというものだ。


 更に言えば、街の人たちが白い目で見るのはケイゴのせいではない。確かに彼の通う高校はごく平凡な県立高校で、地域屈指の進学校に通う兄とは雲泥の差がある。それでも後ろ指を差されるのは兄弟の学力格差ではなく、一家の異常な精神性についてだ。


 執拗で狷介な父と、親子程に年の離れた継母。そして過剰なまでにいばり散らす兄。噂話はこの3人に集中していたのだが、そのような事実はこの家では無関係である。全ての不都合を末子に押し付けてひたすらに殴るばかりだった。


 この日は特に激しく、とにかく拳の雨が降った。度を超した暴力にケイゴは死の恐怖を感じ、それと同時に突如として憤激に襲われた。なぜ自分はこんな男に殺されなくてはならないのか。そう思った瞬間、渾身の力で殴り返していた。鳩尾に深々と突き刺さる拳。贅肉の弛んだ感触が怖気に近いものを誘った事は、今でもハッキリと覚えている。


「ケイゴ! 父さんになんて真似を!」


 間髪をいれずにシンイチロウが書斎に乱入してきた。隣室で折檻の様子を見物していたため、異変をいち早く察知したのである。


「当主に手を挙げるだなんて、只で済むと思うなよ!」


 うずくまって喘ぐ父の代わりに兄が吠えた。しかしケイゴにとってはもはや雑音でしかない。白い目で見下ろし、赤く晴れ上がった頬を気にするでもなく、万感の想いを乗せた言葉を吐き出す。


「オレはオレらしく生きる。こんなクソ塗れの家なんか知らねぇよ!」


 書斎を飛び出すなり自室を目指して大股で歩き始めた。兄の絶叫が背中を追うが気にも留めなかった。


 ボストンバッグを引っ張り出し、手当たり次第に荷物を詰めていく。父の性格を思えば、自分は勘当される事は確実だ。そうなれば高校の学費すら払う事は出来ずに中退となる。この時点ではヒナタとも出会っていないので、頼る当ては全くと言って良いほど何もない。それでもケイゴの気持ちは後悔からは程遠い。草の根をかじってでも生き延びてやると思うばかりだ。


 整理が粗方終わった頃の事だ。使用人がケイゴの傍に現れ、おずおずと声をかけてきた。何の用かと聞けば、ご当主様がお呼びですと言う。まだ殴られ足りないのかという言葉が口の端から溢しつつ、父の待つ居間へと向かった。


「お前との縁は今日限りとする。二度と敷居を跨ぐな」


 室内には父だけでなく、継母とシンイチロウも顔を並べていた。当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす2人だが、背を向けたままの父の顔だけは見えない。わざわざ眺めに行こうという気も起こらず、ただ短く「あっそう」とだけ返事を返した。


「近日中に新居としてアパートを借りてやる。以後、高校にはそこから通え」


「……父さん、お待ち下さい」


「そして大学卒業までは面倒を見る。だがそれは金だけの話だ。それ以外の事は全て自分でやってみせろ」


「ねぇあなた。どうしてこんなヤツに大金を出すのですか? そんな無駄遣いするくらいなら、もう一台車でも買ったほうがずっと有意義じゃありませんか!」


 予想外の展開に酷く狼狽える兄と継母。その様子が妙に面白く思え、場違いながらも口元が自然と歪んでいくのを感じた。


「黙れ。これは決定である」


 更に意外な事に、父は頑として意見を曲げなかった。何故こんな結論に至ったのか、周りの意見を無視してまで押し通したのか。当時のケイゴにはもちろん、今でさえ分からず終いである。そして答えが見つからないままで目覚めるのも、これまで通り変わらなかった。



「……クソ寒いな」


 暗闇に染まる車内でケイゴは目を覚ました。時刻は午前7時に差しかかろうとする頃。車の前座席で眠る2人も、後ろ側で眠るヒナタ親子も起きる気配は無い。もうしばらくすれば、誰かしらのアラームがけたたましく響くようになっている。それで三々五々と目覚める事だろう。


「便所でも行くかな」


 意図せず独り言を漏らしながら、静かにドアを開けて降りた。相変わらず星だけが広がる空に、ケイゴの吐いた白い息が昇っていく。地球はいよいよ本格的に冷え始めたのだ。外気は真冬の朝と変わらない程にまで達しているが、これが下げ止まりで無い事は察しがついている。連日のように『温暖化対策』が叫ばれた頃が、今となっては懐かしく感じられてしまう。


 雑木林で小用を終えて戻ると、車外に降りたタイゾウと出くわした。彼は手元で火花をちらつかせ、大きく息を吸い込み、空に向かって盛大に吐き出した。ケイゴの作ったそれとは比較にならないほどの白いモヤが、しばらくの間宙を泳ぎ続ける。


「タイゾウさん、おはよう。朝っぱらからタバコ?」


「朝だからこそだよ。それがスモーカーって人種なんだ。アンちゃんも吸うかい?」


「オレは未成年だよ」


「法律だのお巡りだの欠片も無えのに、真面目なこったねぇ」


 ケタケタと愉快そうにタイゾウが笑う。それが呼び水にでもなったかのように、今度はロジーまでもが車外に現れ、平坦な挨拶が交わされた。


「おはよう諸君」


「おはよう」


「おはようさん学者センセー。どうだ、アンタも一服しないかい?」


 ロジーにタバコの箱が差し出される。しかし彼は僅かに視線を向けただけで、手に取ろうとはしなかった。


「折角だが禁煙中でね。遠慮させていただく」


「なんだいそりゃ。もしかして、健康にでも気を遣ってんのかい?」


「まぁ……そんなところだ」


「まったく、センセーまでお堅いな。オレたちゃいつまで生きられっか分かんねえってのによ!」


 タイゾウが輪をかけて笑い出す。その間にケイゴは、ロジーの返答にいくらかの違和感を覚えていた。彼が言い淀む事など滅多にないのだが、今のは妙に言葉が不明瞭だった。訳ありなのかもしれないとボンヤリ思いつつ、話題を別のものへとすり替えた。


「どうしたんだ? 鍋なんか持って」


 ケイゴの言う通り、ロジーの手には両手鍋があった。中は既に半分ほどの高さにまで水が満たされていた。


「朝食の用意をしようと考えている。朝からあれを見せられるのは、少々堪えるだろう?」


「まぁ確かに。コハルさんって料理の腕は確かなんだけどなぁ」


 昨晩の記憶が各人の脳裏に蘇る。鬼と遜色の無い気迫。あの強烈なギャップを早朝から拝むのは中々に重たく感じられそうだ。


 やがて話題の人と娘が目覚めた。その頃には鍋に暖かなコンソメスープが作られており、コハルはどことなく寂しげに、若干名は胸を撫で下ろしながら腹ごしらえが為された。


 食事が終われば次は移動である。手早く出立の準備を済ませると、次なる目的地について検討をし始めた。


「目的地は県北だったよな。それでいて温泉のある所っつうと、北茨城市。あと大子町や袋田もあるか」


「北茨城にすべきだ。源泉温度が低ければ、わざわざ赴く意味が無い」


「そうかい。即答したけどよ、センセーは湯温なんか知ってるのかい?」


「この本の記載情報が正しいという前提で話すが、北茨城は源泉が60から70度。一方で大子や袋田は30度弱だ。悩むまでもない」


 ロジーの手にあるのは観光誌だ。大乱闘の末に大学図書館から持ってきた雑誌である。そんなものまで持ち込んでいたのかとケイゴは呆れたような気分になるが、今まさに役立っているところだった。


「分かった、北へ向かう分には異存ねぇよ。アンちゃんたちもそれで良いのかい?」


 反論するだけの素材は無い。提案は満場一致で可決、今日も軽快に車を走らせていく。


 選ばれたルートはひたちなか方面だ。東へ大きく移動し、海が近くなれば海岸線を一気に北上しようというのである。道としては分かりやすいのだが、大きな懸念がひとつだけある。先日の地震で津波が起きていたとしたら、地図通りに進むのは極めて困難だ。そうであれば道路は様々なもので埋め尽くされ、車での進行など夢のまた夢となってしまう。


 そんな心配事も、タイゾウの笑い声が一蹴した。「行けなきゃ戻ればいい。そして別の道を通るだけさ」と言い、クラクションを短く2回鳴らした。どことなく暢気なニュアンスを辺りに振り撒きつつ、車は無明の闇を切り開いてゆく。


「思ってたより酷くないね」


 標識がひたちなかへの到来を告げた頃、ヒナタが呟いた。彼女の言う通り、道の状況は至って普通であった。しかし無事という意味までは込められておらず、実際に多数の家が全壊、良くて半壊という有り様。道々の電柱も根本から傾き、今にも倒れそうだ。単純に津波が押し寄せていない、というだけの言葉だった。


「懐かしいなぁ。ここに大きな公園があるんだよ。家族3人で何回も遊びに行ったよね」


「そうね。お父さんはお花も好きだったから」


 確かにこの辺りには大きな国立公園が在る。雄大な花畑が広く知られる名所で、連休ともなれば各地から観光客が大勢押し寄せたものだ。当然至るところに案内板が設置され、道を知らぬものでも容易に辿り着く事が出来る。


「あれ。タイゾウさん。そっちは……」


 ハンドルが右に切られ。進行方向から真横に逸れた。そしてすぐに公園から目と鼻の先という位置までやって来た。


「思い出の場所だってんなら、軽く寄ってみようぜ。売店で何か見つかるかもしれんしな」


「寄っても良いけどさ、なんか唐突だな。別の目的もあんじゃないの?」


「さすがアンちゃんは勘が鋭いね。タバコを吸う口実だよ!」


 笑ってごまかすタイゾウだが、まずまず利に敵っている。食料にしろ雑貨にしろ多いに越したことは無い。今現在は困窮していなくとも、物資は有限で、いつかは必ず尽きる。そして、おあつらえ向きにもロジーが観光誌を所有している。お陰で無駄の無い探索も実現できるというものだ。


 車が入場口付近に停められると、ケイゴたちは2手に別れた。喫煙者と非喫煙者。すなわち、タイゾウだけが留守番という形をとった。


「なんか海の匂いがするね。良い香りだなぁ」


 ヒナタが伸びをして上機嫌に言うが、その気分も長くは続かない。園内屈指の見所であり、一家の思い出深い場所は、往時の面影すら残して居なかったのである。


「全部萎れちゃってるね」


「そりゃあ、まぁ。陽を浴びてないもんな」


 暦の上では8月。本来であれば満開の向日葵や、色鮮やかなスカシユリを楽しめるはずである。しかし、それも太陽の恩恵あってこそ。向日葵は老人のように茎から緩み、ユリも頭を垂れるようにして俯き、葉を萎ませている。草木による美しき命の胎動など、この世界においては微塵も堪能する事が許されなかった。


「何か食い物くらいあるかと思ったら、もうお手付きの後かよ……」


「仕方あるまい。被災してから日数が経ちすぎたのだ」


 2軒の売店も期待はずれである。観光地ではお馴染みの銘菓や変わり種の食品は、何一つとして見当たらなかった。それでもペンと葉書は使えそうだと思い、ひと抱え分だけを回収した。


 それから車へと戻った。上機嫌に出迎えるタイゾウとは対照的に、ケイゴたちは無表情を作り、紙やらペンやらを見せつけつつ乗り込んだ。車内には「そんな日もあらぁ」などという笑い声で満杯となる。


「空振り多いぞマジで。スタートダッシュって大事なんだな」


「今や誰もが生き延びる事に必死だ。それこそ津々浦々で。失敗しても悔やまぬ事だ」


「ねぇケイゴ君。アタシは良いもの見つけたんだよ」


 ヒナタはそう言うと、バッグから幾つもの小袋を取り出した。透明なビニル袋は無数の種で膨らんでおり、片手で持つには骨が折れる様子である。


「これって、向日葵の種か?」


「そうそう。用具入れみたいなところに一杯入ってたんだぁ。だから少しだけ貰って来ちゃった」


「それだけあれば大層立派な花畑になりそうだ。そして、向日葵の種は食用でもあるな」


 ロジーがバックミラー越しで会話に参加した。唯一と言って良い戦果に眼が吸い寄せられたかのようだ。


「そうね。炒って塩をまぶすと美味しいのよね。絞れば油も取れるし、それは燃料にもなるかしら?」


「極めて有能な花ではないか。ヒナタ君、お手柄だぞ」


「えへへ。アタシってやっぱりツイてるね!」


 ハイタッチを求められたケイゴは、片手だけで応じた。小気味良い音が周囲を明るく染める。


 その時、違う種の袋が混じっている事に気付いた。ものを尋ねるなり、ヒナタは小さく印字された文字を読み取ろうとして顔を近づけた。


「ええと、これは、ネ……ネモ……」


「ネモフィラよ。まん丸くて可愛らしい花が咲くのよね。ある程度涼しくても育てられるわ。食用でないのは残念だけど」


「パパが好きだったっけ。いっつも庭のプランターで育ててたような」


「ちなみに花言葉も素敵でね、『どこでも成功を収める』なんて意味があったかしら」


「へぇ、それ良いね。今のうちらには縁起が良いじゃん」


「そうなんだぁ。いいなぁ、余裕があったら育ててみたいなぁ」


 ヒナタは早くも情が芽生えたようだ。ゴマ粒大の小さな種の詰まった袋を、まるで赤子か何かのように優しく撫で回している。


「他にもあったわね。花言葉が」


「何だろ。気になるな」


「ええとね。うろ覚えだけども、『あなたを許す』とか『罪を忘れる』みたいな言葉だったと思うわ」


「えっ……?」


 ケイゴは肺腑(はいふ)を突かれた想いだ。彼にとって許すべき存在が、何者を指すのかは考えるまでもない。まるで自分の心の内を、運命か何かに見透かされたような気分になり、思わず押し黙ってしまう。


 ヒナタは聞いていなかったようで、種を大事そうに抱えたまま微笑んでいた。場合によってはヒマワリと並んで植えられるだろう。それが開花するのはいつ頃か。そして芽生えた花弁を見て、自分は何を思うのか。ケイゴには予想すらつかなかった。


 車は一本道をひたすら北上していく。その規定路線じみたルートが、ケイゴには赦免を要求されているように感じられ、思わず視線を正面から反らしてしまった。

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