第26話 血は争えない
ケイゴの顔色が優れない。沈んだ視線は窓の外に向けられ、会話も全て上の空。誰がどう話しかけても生返事ばかりが返ってくる。まさに心ここにあらずといった有様だった。
彼の不機嫌の原因は、兄より譲り受けたノートである。そこに書かれている父の真意とやらが、ケイゴの心から穏やかさを奪う。中身は未だに確かめてはいない。他の雑多な荷物と同じく扱うばかりだ。
「さてと。次の目的地はどうするんだい? このまま北に一直線でオッケー?」
タイゾウが少しおどけて言う。それに対し、ロジーが首を横に振った。
「いや、まだだ。できれば移動中に植物の種を入手したい。損壊を免れたスーパーなどが見つかると良いのだが」
旅の目的は地熱を利用した暮らしと、植物の保全である。特に食物と成り得るものは極力多く抱えておきたい。人類が存続していくためには、農耕は必須条件なのである。
「種? それならここにあるよ。トマト、ナス、キュウリ。それと冬瓜にメロン、とうもろこし……」
ヒナタが遺品のバッグを開け広げて中の物をあらためた。車が弾んだ拍子に、使い込まれたスコップが端からこぼれ落ちる。
「真か? どうしてそのような所に?」
「それ、うちのパパが持ってきちゃったのよ。家庭菜園が趣味だったのだけど、用具一式を避難袋と見間違えたみたい」
「やっぱりね。道理でスコップとか変わったものが入ってると思ったよ」
「随分と慌ててたからね。それにその頃にはもう真っ暗だったから、仕方ないわよね。他には避難所で貰った野菜なんかがあるかしら?」
「素晴らしい。ヒナタ君のお父上は、救国の、いや人類を救う英傑となるやも知れない。なぁケイゴ君?」
ロジーが助手席越しに話題を振った。それと同時に車内の全員が口を噤み、ケイゴの動向を見守るべく顔を向ける。だが、当の本人は漫然とした様子のまま口を開くだけだった。
「そうか。そうかもなぁ」
音のない溜息が車内に漂い、濃い沈黙が訪れる。それにもめげずに話しかけるのは、隣に座るヒナタであった。
「大丈夫? 元気出して?」
「ああ、うん。気にしないでくれ」
「アタシに出来る事って無いかな? 何だってやるよ!」
裏を感じさせない健気な励ましに、思わずむせてしまったのはタイゾウだ。彼は世間に揉まれた分だけ邪念が強い。そして肝心のケイゴはというと、顔色ひとつ変えぬままで素っ気なく答えた。
「とりあえず、そっとしておいてくれ」
「別に遠慮しなくても良いんだよ?」
「ヒナちゃん、こういう時は無理強いしないものよ。ケイゴ君の言う通りにしてあげなさい」
「分かったよ……」
ヒナタが意気消沈するのを期に、本格的な静寂が訪れた。駆動音ばかりが聞こえる車内。目を楽しませるものは無く、若干荒れた車道と白のガードレールだけが連なっている。あまりにも単調過ぎる景色を眺めていたせいか、緊張が自然と解れ、誰からでもなく空腹を訴える声が飛び出した。
「そろそろ晩飯の時間だな。どこかで車を止めても良いか?」
「もう夜の8時になるのか。タイゾウ君の提案に乗るべきだと思うが、どうだ?」
反対意見が無いとみると車を路肩に停め、食事の準備が始められた。決まりきったように乾麺が取り出されると、それに待ったをかけたのはコハルだった。
「せっかく周りに野菜があるんだから、それを使ってはダメかしら?」
彼女が道路の両端を指し示す。そちらにライトを向けてみると、広大な農地に、ナスやトマトなどの野菜が色とりどりに実るのが見えた。
「良いと思う。所有者とトラブルを起こさないようであれば、だが」
「災害から一週間近くほったらかしなら、見捨てたと考えても良いんじゃないか? 仮にオレたちが素通りしても、他の生存者が持っていくだけだろ」
「じゃあ、極力失礼の無いように気を付けるわね。ケイゴ君も連れていって良いかしら?」
その言葉で、ロジーは肩透かしを食らったような顔になった。助手席のドアロックを開こうとした手も虚空を掴む。
「構わない。その口ぶりからすると、2人だけで向かうつもりなのかね?」
「そうね。彼は気分が塞ぎこんでるから、体を動かした方が良いと思って」
「それならアタシも行きたいんだけど」
「うーん、そうねぇ。今回は遠慮してちょうだい。ケイゴ君、どうかしら? 嫌なら断ってもらって構わないけども」
コハルの視線は不服そうな娘の頭を飛び越し、今も仏頂面のケイゴへと向けられた。
「まぁ、オレは別に良いけど」
「じゃあ決まりね。行きましょうか」
「ママ。早く帰ってきてね? 絶対だからね?」
「心配しなくても悪いようにはしないわ。じゃあ行ってきます」
コハルが鼻歌でも歌いだしかねないような足取りで歩いていく。その背中を追うケイゴは、どことなく訝しがるようであった。
「ごめんくださーい」
農場の端で訪いの声をあげた。しかし返事どころか、物音ひとつ聞こえはしなかった。目の前に見えるトマト畑は、茎を支える竿が軒並み倒れてしまっている。その様子から、地震が起きて以来手付かずであることが予想された。奥に見えるキュウリやナスも似たような状態であり、人間による支配が終わりを告げているようにも感じられる。
「それじゃあ、少しだけ貰っちゃいましょうか」
コハルは身を屈めると、茎ごと転がるトマトを掴み、慣れた手つきで獲った。実の部分に着いた土を手で払い落とすと、それをケイゴに手渡した。そうして収穫されたものをリュックサックに詰め込んでいく。
「ありがとうね、ケイゴ君」
トマトの選別をしながらコハルが言う。ケイゴには心当たりが無く、ただ言葉を詰まらせた。
「ヒナタの事よ。これまでずっと守ってくれてたみたいね。心から感謝するわ」
「その事か。別に大した事じゃないってば」
「ふふっ。貴方のような子がヒナタを貰ってくれたら、親としても安心なんだけども」
唐突すぎる言葉が、再びケイゴから返答を奪い去った。この反応は予想外だったらしく、コハルはトマトを握りしめたままで小首をかしげた。
「あらぁ。ヒナタの事はお気に召さなかったかしら? てっきり恋仲くらいになってると思ってたけど」
「いや、確かにオレたちはしょっちゅう遊んでたけど、そういう感じじゃなくて」
「そうだったの。まぁ仕方ないわね、貴方にも好みってものがあるから。娘を押し売りするような真似はできないわ」
「ええと、そういうのでもなくて!」
ケイゴの思考回路はショート寸前だ。そのせいで、普段の彼とは似ても似つかないほど、要領を得ない回答が寄せられる事になる。
「なんつうか、ヒナタといると凄く落ち着くし、気が休まるんだ。好きか嫌いかで言えば好きなんだと思う」
「そうよね。嫌いなようには見えなかったわ」
「でも、女の子として好きかどうかが分からなくて。自分の気持ちに確信が無いのに、その、男女の仲になったら悪いっつうか。ちゃんとしなきゃいけない気がして。それに……」
自分の体内に流れる血がおぞましいから、とまで言いかけては飲み込んだ。彼はここにきて血筋というものを考えさせられていたのだ。
ただえさえ父を憎悪していたのに、兄と再会した事で嫌悪までもが上乗せされてしまった。あの狂人と血を分けたかと思うと、全身のありとあらゆるものを入れ替えたい気分に陥ってしまう。もしヒナタと結ばれたとしたら、間違いなく子供にまで類が及んでしまう。そう考えると、おいそれと愛だの恋だのと囁けなくなるのだ。
しばし無言で向き合う2人。その取り留めのない言葉に、コハルは彼の実直さを見た。そして、見つめる瞳にも慈しみが宿ったように細められる。
「そこまで真剣に考えてくれて、ありがとうね。世の中には、ちょっと遊んで飽きたら捨てちゃう人だって居るのに」
さすがにコハルは、苦悩までを読み取る事は出来なかった。話の主題はヒナタに限られたままだ。ケイゴも別に訂正しようとは思わず、会話は続けられていく。
「ヒナタはオレにとって、かけがえの無い人だ。それはこれからも変わらないよ」
「それは嬉しい言葉ね」
「だけど、自分の気持ちに自信が無い。それがハッキリするまでは、何もしないと思う」
「おばちゃんから1つアドバイスね。あまり難しく考えない方が良いわ。時には心の赴くままに行動するのも、正解だったりするものよ」
「それだと、行き当たりばったりにならないか?」
「まぁそういう事もあるだろうけどね。世の中に、完璧なものなんて無いのよ。何か長所があれば、必ず短所もセットになってるものなの。特に人間なんかそうね。誰もが不完全だし、失敗ばかり繰り返しているわ」
「それは分かる気がする」
「だからね、あまり考えすぎないで。一緒にいて心地よくて、信頼できる相手であれば、その人は貴方が生涯大切にすべきパートナーと成り得るわ」
「生涯の……ねぇ」
何の気無しにケイゴは足元に視線を落とした。ここでコハルは目的を思い出すと、矢継ぎ早にトマトを収穫し、3個ほどまとめて手渡した。
「さぁさぁ、あんまり遅くなるとヒナちゃんが妬いちゃうからね。さっさと行きましょうか」
気持ちを切り替えたコハルは、トマトを両手に抱えたままのケイゴをその場に残し、隣のキュウリ畑へと向かっていった。その背中を呆然と見送っては、やがて我に返り、リュックにしまい込みつつ後を追いかけた。
それからは大した雑談も無く、ただ淡々と収穫を終えた。それぞれの野菜が4個ずつ、都合12個分を頂戴した事になる。リュックが容量満杯になるまで収穫したのだが、畑の面積を思えば微々たる量だと言えた。その事実がケイゴの罪悪感を和らげてくれる。
「お邪魔しました。このお野菜はありがたくいただきます」
「どうもでした……」
姿の無い所有者へ感謝の意を示すと、2人は車へと戻った。すると、真っ先にヒナタが「何か変な事を聞かなかった?」と問いかけた。
これにはケイゴも苦笑を浮かべつつ、短い否定をするだけに留め、焚かれた炎に手をかざした。パチパチと心地よい音をたてるカマド。それは建材で設えたものであり、今は鍋が火にかけられている。
「あら。もうお料理が始められているの?」
コハルが問いかけると、火守り役のタイゾウが素早く否定した。
「お湯の準備をしただけさ。今日はカレーうどんを作ろうかって話になってな。夏野菜があるなら丁度良いだろうって」
「そうだったのね。料理の方は私に任せてもらえるかしら? 伊達に主婦業をやってないわ」
「そいつは助かるな。じゃあ頼むとしようか」
「じゃあ腕によりをかけるわね」
「えっ! ママが作るの!?」
ヒナタが弾かれたように顔を起こすが、この反応には誰も理解が及ばない。それは年単位で交流のあるケイゴですら同じであった。
「ちょっと、みんな止めて! ケイゴ君も!」
「ヒナタ、何をそんなに慌ててんだよ?」
周囲には困惑だけが広がる。そんな最中で動きを見せたのはロジーだけだった。
「恐らくは手伝えという事だろうか。確かに手慣れているからといって、1人に全てを任せるのもよろしくないな」
「違う! そうじゃなくって!」
「差し当たって、野菜を水洗いするとしよ……」
ロジーが採れたてのナスに手を伸ばした瞬間、彼の傍で鋭い風切り音が鳴った。遅れてハラリと舞い散る前髪。突如として払われた果物ナイフによって、伸びきった髪の毛が切り取られたのである。
仕出かしたのはコハルだ。開け放たれた彼女の瞳は威圧感が凄まじく、普段の柔和な微笑みなど見る陰もない。
「何してんだウスノロ。人の仕事にちょっかい出してんじゃねぇよ」
脅しの言葉も地を這う程に重たかった。不思議と『サムライ』という単語がカタコトで脳に浮かび上がってくる。そして、あまりの豹変ぶりにケイゴとタイゾウは目を剥いてしまう。当事者のロジーは平静さを崩さないが、ナスを元の場所に戻し、両手を挙げる姿勢で一歩退いた。
「何というか、あれだ。門外漢が失礼した」
「そうだよ素人はすっこんでろ! 貴重な水で洗うだなんて有り得ねぇだろが」
ここでヒナタが頭を抱え、恥じ入るように叫んだ。耳まで赤くなっている様が、暗がりでも分かるようだ。
「だから言ったじゃない! ママは料理が絡むと人が変わっちゃうの!」
「ええ? ヒナタの母ちゃんってこんな感じだっけ?」
「だって、ケイゴ君は作ってるところ見たことないでしょ?」
「言われてみれば。いつも出来上がった段階しか知らないな……」
「ギャースカうるせぇんだよ、腹減らしども。すぐに旨ぇもん作ってやるから、大人しくしてろ!」
鋭く一喝したコハルは、野菜を次から次へ手に取り、ナイフを煌めかせながら切り刻んだ。まな板はない。ボンネットに並べられた皿の上で、器用にも下ごしらえが進められていく。その立ち振舞いには鬼気迫るものがあり、誰一人として声をあげることが出来ない。
銀杏切りとなったナスは鍋に、短冊切りのキュウリはコップ、トマトはスライスされた上で皿に乗せられた。水洗いをキャンセルした代わりに、野菜の皮は全て絶妙な厚さにて取り払われている。まるで薄衣を剥ぎ取るかのように。
諸々が目まぐるしい疾さで整えられていき、あらゆる段取りには一切の無駄がなかった。
ただし、随所に設けられた決めポーズの様なモノを除いては。何か区切りが出来るなり、その残身とともに気を吐くのだ。景気の良い掛け声がひとつ、またひとつと何もない空に響き渡る。
「まだまだ終わらねぇぞオラァ!」
料理という名の闘いは佳境を迎えつつある。細かく刻まれたカレールーが鍋に滑り込み、味を確かめるとウドンを投入。それから、持参した塩とマヨネーズを両手持ちすると、皿と真正面から向き合った。
「とどめだ、覚悟しやがれ!」
謎の宣言とともにコハルは舞った。マヨネーズが幾何学的な模様をキュウリの上に作り、スライストマトには鮮やかに塩がまぶされる。
そこまで暴れまわると、長い長い息をついた。肩には丸みのようなものが戻り、足も棒立ち同然だ。そんな後ろ姿を晒しつつも、紙カップに盛り付けが為されていく。
「みんなお待たせ。もう食べられるわよー」
ここでようやく鬼は消えた。肌に突き刺さる程の闘気はすっかり霧散し、元の柔和な姿だけがある。
皆は呆気にとられながも、よそられた食事を受け取っては口に運ぶ。
「美味しい。絶妙な味付けに歯触りだ」
「確かにうめぇな。今の動きにはビックリしたけどよぉ」
「ごめんなさいね。料理となるとついつい夢中になっちゃって」
男性陣が口々に褒めるなか、ヒナタは小さく縮こまった。
「あぁ、だから人前でやらせたくなかったのに……」
その言葉にケイゴは思う。似た者親子だぞと。だがそれは、すぐにケイゴ自身へと返ってくる。
自分もあの父と兄から、何かを引き継いでいるのだと、血は争えないものなんだろうと。
ケイゴの悩みは尽きない。例のノートが脳裏を過るのだが、気を紛らわすようにしてウドンを力強く啜る。舌先にカレーの旨味と、そこはかとなく緊張感が感じられた。
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