第25話 実像の兄
シンイチロウはケイゴより2歳上の長男である。成績は極めて優秀。地元の進学高では常に学年トップを維持し、東大法学部に現役入学するという快挙まで成し遂げた経歴を持っている。
では運動面はどうかというと、こちらも中々に眼を見張るものがある。父より直々に剣術を習い、学業に励む傍らでの稽古であったにも関わらず、有段者という肩書きを得ていた。他にも学内で経験するスポーツや、絵画などの芸術分野に至るまで人並み以上にこなす事が出来る。よって、世間から神童のように扱われる事も少なくなかった。
容姿もそこそこ整っており、実家は裕福。さらに頭脳明晰であれば人気者となりそうであるが、彼の場合は違った。選民思想が激しかったのである。
「僕は神に愛された存在だ。君たちのような雑多な命とは訳が違う」
そう公言して憚らない。これには周囲の人々も辟易とし、シンイチロウを讃える事を止めた。すると彼の傍に残ったのは、友というよりは下僕に近い人種だけとなる。信愛や尊敬の念から寄りつくのではない。破格の財力から溢れ落ちる恩恵に与る為だ。彼の行く先々で数人の下僕が集まっては横柄な態度に終始するので、学友たちは睨まれることを恐れるようになった。それが尚更まともな人を遠ざけてしまう。
不人気の理由は他にもある。実弟の扱いについてだ。ケイゴが真面目に高校へと通う姿を街中で見つけるなり、「死人がせかせかと道を急ぐ。浮き世の未練が重たいのか」などと言い放ち、取り巻き連中と笑い者にしていたのだ。
街の人たちは皆が眉を潜めるが、割って入ろうとする者は1人として居ない。それは彼らの父の権威を恐れたというよりかは、火の粉を忌避したが故である。執拗で徹底した人格から生じた悪名は一部で名を馳せていたのだ。そのような実態など露知らず、シンイチロウの高笑いが商店街に響き渡る。
「凡人ども、誠心誠意働け! 僕のような貴族を下支えするためにな!」
彼の祖先を辿れば確かに偉人が現れる。しかし、自身の身分は分家であり、与えられた広大な屋敷と土地は捨て扶持のようなものだ。一方で本家は都心に邸宅を構え、事業をいくつも手掛けるという大人物である。
果たして、尊大に威張り散らすだけの家格が備わっているのかどうか。少なくとも街の人々は懐疑的であり、よそよそしい態度には必ずと言って良いほど冷たさが伴う。それすらもシンイチロウは嫉妬の類いと断じ、振る舞いの一切を省みること無く、今日までのうのうと生きてきたのだった。
◆
ケイゴは首だけになった父を見て絶句した。憎悪の象徴たる男であっても、さすがに遺体を弄ばれたとあっては言葉もない。思考だけでなく四肢までも固まり、ただ唖然とするばかりだ。
「どうしたケイゴ。痴呆でも患ったか。それとも、人間の言葉すらきけなくなったのか?」
口調がいくらか上ずっている。まるで秘宝を自慢するコレクターのように聞こえなくもない。それが肉親の生首で無ければ何らかの言葉を返せるのだが、狂気を前にして口が凍りついてしまう。どのような経緯があったにせよ、この残忍すぎる仕打ちは異常と言わざるを得ない。
「これは、お前が?」
やっとの想いで言葉を返す。それに対し、悪びれた様子の無い返事が被せられた。
「他に誰がやるというんだ」
シンイチロウの手元が怪しく煌めく。効き手には今も軍刀が握られており、それは今は亡き祖父が若かりし頃に戦地で使用した真剣である。普段は押し入れにしまわれていた為に、ケイゴも実物を見るのは初めての事であった。
「一体どうして。恨みか?」
兄と父の間柄も決して良好であったとは言えない。それでも自分ほど悪くない事は知っていた。
「勘違いするなよ。何も唐突に斬り殺した訳ではない。随分と苦しそうにしていたから楽にしてやったんだ。つまりは慈悲だよ」
「これのどこが慈悲なんだ?」
「父は虚栄心の塊だった。自分の死後に遺影が並ばないとなったら可哀想だろう? だからこうして願望を叶えてやってるのさ。これが優しさでなければ何だというつもりだ」
シンイチロウは腹を抱えて笑い始めた。奇をてらう様では無く、純粋で、心底楽しそうな声だった。その無邪気さが彼の狂気を色濃く鮮明にした。あまりにも常軌を逸した言動に、ケイゴは又もや言葉が出ない。それは同行するヒナタたちも同様で、微かな呻き声だけが溢れては消える。
そんな『世間』とのズレを気にも留めずに笑い続けたシンイチロウだが、唐突にそれを止めた。そして今度は怒りの形相に顔を大きく歪めると、頭上の父に視線を向けた。今にも唾を吐き出しそうな面持ちを隠そうともせずに。
「思えばこの男も愚者だったな。不思議な力で壁に叩きつけられた事で持病が急激に悪化したらしい。やたら苦しそうに呻いていたよ。大人しくしていれば良いものの、書斎からノートを持ってきて僕に懇願したんだ。『これをケイゴに、ケイゴに』なんて馬鹿みたいに繰り返してさ」
「オレにだって!?」
「そうさ。父の要求に応え続け、家の行く末を担う僕ではなく、放逐された出来損ないの名を出したんだ。とうとう頭に来てしまってね。気づけば刀を持ち出してしまったよ」
「そこで首をはねたのか」
「もちろんだよ。刀を見せたらアイツさ、『殺さないで』なんて言い出すんだ。あんだけ普段から威張り倒してた、下らないゴミみたいな命の癖にさ、死ぬのはやっぱり怖いらしい。恨みなんて買うもんじゃないな」
おどけた素振りとともに、シンイチロウは足元を探った。そうして取り出されたのはA4サイズの学習ノートだ。飾り気の一切無い、極めてシンプルなものである。
「さて、我らが父上より託されたこのノート。果たしてどのような重要事項が記されていると思う?」
ケイゴに心当たりはない。それよりも、いまわの際に自分の名前が出てきた事に驚かされている。
「知るかよ。どうせ資産がどうのとか、金の話だろ」
「僕もそう思った。だから中を読んでみたんだが笑ってしまったよ。何の事はない、ただの日記だよ」
ケイゴの胸めがけてノートが投げられた。開いてみると、神経質そうな文字でページが埋め尽くされている。数値や表といったものは見当たらず、シンイチロウの言葉に嘘は無いようであった。
「それは貴様にくれてやるよ。その代わり、僕は家と土地をもらう。遺産ってのは分け合わなきゃいけないからねぇ」
「好きにしろよ。そんで、母親はどうした?」
「母親ァ? あの金目当てでやって来たゴミクズの事か。あれはもう死んでるぞ」
「それもお前が……」
「おっと、早合点するなよ。僕は手を下してなんかいない。あのゴミ女、父が死んだと知るなり金を持ち逃げしようと企みやがった」
父が凶刃に倒れたのは自転異常の直後だ。それから程なくして大地震が来ることを、同じ被災者であるケイゴたちは知っている。
「だが幸いな事に、地震が起きたおかげで金庫が倒れた。それで盗人は頭からペシャンコさ。余震で家までも潰れた事は残念だが、ザマァないね」
「別に持ち逃げされても構わないだろ。金なんか金庫ごと瓦礫の中なんだから」
「下賎者の手に渡るよりはマシさ」
淡々と語られる家族の死。恨みの積もるケイゴが胸を痛める事はないが、大事に扱われたはずの兄の口ぶりはどうか。行きずりではなく、ひとつ屋根の下に暮らした相手の最期である。悼む気持ちや、死者に対する尊厳は欠片も無く、むしろ玩具のように弄ぶ節すらある。
とにかく酷薄なのだ。他人の痛みには恐ろしく鈍感で、自分本意の発想しかもたぬ男。それがシンイチロウという人物像であった。法や秩序という2本の楔が抜き放たれた今、腹を空かせた猛獣に近しい存在だと言える。そんな男が刃物を握りしめている。迂闊な動きを見せたなら斬りかかりかねないと、ケイゴは警戒心を改めて胸に抱いた。
「さてと。下らない雑談はもう止めにして、そろそろ建設的な話をしないか」
「何の事だ?」
「ケイゴ。オレの手下になれ。貴様はどうしようもない愚図だが、僕と同じく偉大な血を引き継ぐ男だ。他の雑魚どもよりは良い暮らしをさせてやるぞ」
シンイチロウが左手を差し伸べた。その演技めいた仕草や語り口調から、さながら舞台の一幕のようにも映る。
「そんな誘いに乗ると思うか? オレとお前の仲を忘れたのかよ」
「やれやれ。これだから愚者は困る。過去の確執に囚われるあまり、盲目になるまで眼が曇るのだから」
「それを加害者のお前が言うのか!」
「被害者ぶるんじゃない! 僕が貴様に何の恨みも抱いてないと決めつけるな!」
数歩先から切っ先がケイゴに向けられた。しかし、それ以上に気を引いたのはシンイチロウの言い草である。これまでに嫌がらせや罵倒された記憶はあっても、恨みを買った自覚は無い。
「理解が追いつかないか。では教えてやる。貴様は母に溺愛された。父の命令を健気にこなし、結果を残してきた僕ではなく、愚図で阿呆で救いようの無い貴様の事を母は愛した!」
「待てよ、それはオレのせいか!?」
「まだあるぞ。貴様は母の死に目にも会えた。僕は一度も病室に入る許可を貰えなかったのに、貴様は何の努力も無しにその権利を得た! これが恨まずにいられるか!」
「だったら親父の言いつけなんか破って、強引に会いに行けば良かったじゃねぇか!」
「何も知らされていないのに探せる訳が無い! 中学受験などという糞のような理由の為に、この世で唯一の母との別れを奪われたんだ。僕が勉強を強制されている最中にも、貴様は母との時間を独り占めにしただろう!」
「完全に逆恨みじゃねぇかよ……」
シンイチロウの瞳に憎悪がありありと浮かび上がる。冗談や虚言の類で無い事は、その気迫が寡黙なる証左であった。思い返してみれば、兄の当たりが強くなりだしたのはケイゴが中学にあがった頃である。それ以前はどちらかというと無関心なようであり、会話を交わすことすら稀であった。少なくとも、『口撃』されるような仕打ちを受けた事は無い。当時は心当たりの無かった憎悪も、理由は思いの外単純であり、そして異様に子供じみていた。この時、いよいよ兄は道理が通じない存在なのだと確信するようになる。
突きつけられたままの刃。怒りを宿した事でカタカタと震え、刀身が小さな音を鳴らす。しかし、それも長くは続かず、刀は下げられる事で覇気を霧散させられた。
「聞け。僕はもう水に流した。何もかつての恨みを晴らそうとは考えていない。智者の責務として、世界を正しい方向へと導こうとしているだけだ」
「それと、オレが手下になる事と、どう繋がるんだ?」
「知れた事よ。ここに我が一族を頂点に据えた国を興すのさ。尊き血を引き、明晰なる頭脳を持つ僕は王となるのに相応しいというものだ。だから出来が悪くとも、血を分けた弟を迎え入れてやろうとしている。どうだ?」
「断る。呆れて物も言えねぇよ」
「その強がり、これを目にしても貫けるかな?」
不敵な笑みを浮かべたシンイチロウが足元から竹籠を取り出した。茸や山菜などで溢れかえっているのが見える。
「どうだ。これは裏の林で採れたものだ。下民どもが飢えに苦しもうと、広大な領地と実りを持つ僕には無縁の事だ。これこそ正に、特権階級のみが持つ富と言えるだろう?」
見せびらかすように差し出された収穫物は多彩であった。ワラビやゼンマイ、小ぶりな椎茸が大量にあり、一人で食うには十分過ぎる量だと言えた。しかし、それらに紛れるように横たわる物を見て背筋に寒気を覚えた。それは茎から傘に至るまで、全てが真っ白な茸だった。見た目は愛でたくなるほどに美しいのだが、ケイゴはなぜか身が震える想いに包まれてしまう。
「ねぇアナタ。茸の知識はお持ちなの?」
ここでコハルが初めて口を開いた。シンイチロウは僅かに驚きつつも、すぐに鼻息混じりの言葉を吐いた。
「詳しくは無い。それでも毒の有無くらいは選別がつく。地味な色彩で、縦に割けるものは食用に適している」
「それは迷信なのよ。素人が野生の茸を採って食べるのは危険過ぎるわ。例えば白い茸にドクツルタケという……」
「女ごときが偉そうに講釈を垂れるな! そんな戯言で惑わそうとして、どうせ茸をかすめ取ろうとでもいうのだろう」
「あのね、ちゃんと聞いて頂戴。別にやましい気持ちは……」
コハルの言葉は、刀が一閃される事で阻まれた。そして矢継ぎ早に怒気を孕んだ声が続く。
「せっかくの温情を足蹴にしただけでなく、子供扱いまでするとは。それは僕の厚意に甘えすぎなんじゃないのか?」
「もう良いよママさん。コイツは何言っても聞きやしないよ」
「でも、本当に命に関わる話でね……」
「そういう訳で交渉決裂だ。オレ達は二度と現れない。それで良いだろ」
「フン。どうせ食うに困って帰ってくるさ。その時も優しい僕で居る事に、期待はするなよ」
「言ってろ」
ケイゴが促す事で一行は道場から退室した。石畳を戻る間も襲われる気配は無く、無事に車へと辿り着いた。そこで出迎えたのは、車外でタバコの煙をくゆらせるタイゾウの姿であった。
「おうお帰り。対面は終わったのかい?」
屈託のない言葉は尻すぼみになって消えた。ケイゴたちの顔色を慮ったためである。
「もしかして、ダメだったのかい?」
「ちゃんと会えたよ。だから早いとこ出発しようぜ」
「お、おう」
意味深な重圧に押されたようにして、タイゾウは煙草を揉み消すと、運転席に身を滑らせた。次いでケイゴたちも乗り込み、車は屋敷を後にする。
車内には重たい沈黙が漂う。そんな最中、コハルだけは後ろ髪を引かれるような態度を隠さなかった。
「ねぇケイゴ君。本当に良いの?」
「良いのって、なにが?」
「茸の毒ってとても危険なの。場合によっては命取りになりかねないわ。特に今はお医者さんにかかれないでしょう」
「毒茸って、中じゃどんな話をしてたんだい?」
事情を知らないタイゾウにとって唐突すぎる話題であった。確かに家族との再開と菌類では、接点を探す方が難しい。
「何かね、地味な見た目で、縦に割けるキノコは食べても平気って言ってたよ」
「何じゃそりゃ! だいたいの毒キノコはそうだって。どこの馬鹿が言ってんだか」
「馬鹿じゃないみたいだよ? なんせ東大生だからね」
「はぁー、そいつはアレだ。点を取るのが上手いだけで、生きる知恵が無いタイプだな」
「もう良いって。こっちは忠告までしてやったのに、一蹴したのはアイツなんだから放っておけよ」
憤慨するケイゴに対し、ロジーが皮肉めいた苦言を呈する。
「ほんの一時ではあるが、我々も似た状態に陥ったことがあったな」
「あそこまで酷くは無かったろ」
「まぁ何にせよ、拗らせるとロクな結果を生まないという事だろう。選民思想にしても、独善的思考にしてもだ」
シンイチロウがこの先も生き長らえるかは、最後の助言を聞き届けるか否かにかかっている。その危うさについて、ケイゴは心を痛める事は無かった。
ーー死んだら死んだで、親父と仲良く戯れていれば良い。
そんな事を、遠ざかる生家を横目に考えていた。
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