第21話 感謝と悔恨

 翌日になると運転手をタイゾウに代わり、北へ向けて走り始めた。本日の天候は微風で、更には粉雪がヒラヒラと舞い降りる。車窓の景色を眺めていると、もはや暦が夏であることすら忘れそうになった。


「見て見て、雪が降ってきたよ! 積もるかなぁ?」


 ヒナタが子供のような声ではしゃぐ。身を屈ませ、窓から空を覗き込む仕草などは正にそれだ。星明かりでは判別のつかない天候を、しばらくの間その様にして眺め続けた。


 これはいつもの空元気だとケイゴも確信している。彼女の癖は『石岡』という地名を標識に見てから、一層顕著なものとなっていた。不安の裏返しからくる騒がしさにより、車内は仮初めの小気味良さに染まる。


「積雪を望むかね。あまり歓迎できる事ではないのだが」


「どうしてですか? もしかしてロジーさん、雪が嫌いとか?」


「好みの話ではない。一度雪が降り積もれば、溶けずに延々と残る。そうなれば不便であろう」


「ああそっか。寒くなる一方なんでしたっけ……」


「だったらよ、雪だるまなんて良いじゃねえのか。ガキんころは溶けちまう度に泣いてたもんだが、今だったらずっと残せるんだろ?」


「あーそれイイ! 凄くイイです! ケイゴ君、積もったら作ろうね?」


「そうだな。暇になったらやるか」


 付き合いの浅いロジーたちであっても彼女の心境を薄々と察しており、会話を無難に繋ぎ続けた。能天気な話題に対して、眉を潜めることもせずに。不安に苛まれる他者の心を支えるというのは、思いの外に手段が限られているものだ。


 ふと、ケイゴの指に触れるものがあった。ヒナタの震える掌が寄せられたのである。所在無く、拠り所を求めるそれを、ケイゴは握りしめた。冷えた肌の奥に体温が感じられる。すると彼の心にはさざ波がたち、胸の高鳴りと自責の念を同時に覚えてしまう。


ーーこんな時に、オレは何を考えてるんだ!


 


 ヒナタの苦痛を全て汲み取ってやりたいのに、邪な情が掻き乱す。不謹慎にも程があると、己に眠る肉情は厳しく戒め、繋いだ手を強く握りしめた。それはまるで、胸から湧き上がる想いを押し下げるように。


「ヒナタ君。そろそろ高速を降りる。君の家を詳しく教えて貰えないか」


「わ、わかりました!」


 車は既にインターチェンジまで辿り着き、一般道へと繋がるランプを周っている所だ。順調に進んだのであれば、彼女の生家まで1時間とかからない場所まで来ている。緊張のせいで、地図に描かれた赤丸は正円に程遠く、酷く歪んでいた。勿論あげつらうような空気は生まれず、ロジーによるナビゲーションは滑らかな指示の元で続けられた。そうしてタイヤは笠間の地を踏む事となる。


 この辺りの地勢はというと、県内でも内陸側に位置する丘陵地帯である。豊かな土壌を持つ茨城は農業が盛んであり、笠間もその例に漏れず、数えきれぬほどの田畑が広がる。緑の多さも手伝い、都心では味わえない程に空気は美味である。また、国道沿いには飲食店や土産物店が点在しており、週末にもなれば訪れた観光客で賑わいをみせたものだ。


 しかし、それもつい先日までの光景である。変わり果てた今となっては、在りし日の豊かさなど見る影も無かった。


「あっ……」


「どうしたヒナタ?」


「あそこのウドン屋さん、美味しかったのにな」


 ハイビームが照らす先に見えたのは、廃墟とさえ呼べない有り様だった。1階部分から倒壊したために、小部屋に至るまで全てが崩され、もはや跡形も残されていない。砕かれた瓦の数々により、ようやく住居があったことを知れる程であった。


 ヒナタは俯き、唇を引き結んだ。彼女は心のどこかで、都心よりも被害が少ないかもしれないという希望を抱いていたのだ。それが脆くも崩された今は、僥倖(ぎょうこう)にすがる他無い。


ーー大丈夫、アタシたちはツイてるんだから。


 胸中で何度も繰り返す。不吉で、最も恐るべき結末を、頭から追い出すかのように。


 その念仏にも似た独り言の端々は車内に漏れ伝わった。ケイゴに家族の情は理解出来ないが、苦しみを想像するに難くない。かけるべき言葉は見つからないものの、同じ願いを抱き、祈る。オレたちはツイてるのだと、何度か交わした言葉を心の中で唱え続けた。


「ヒナタ君。この道を右折で良いのか?」


「はい、その通りです」


「わかった。暗いから、道を踏み外さぬよう気を付けたまえ」


 緊張に強ばった声と、落ち着き払った平坦な声が車内で行き交う。地図から見るに、大きな畑を右手に路地へと入り、2つ目の曲がり角付近が目的地である。速度を落とした車が、徐々にそちらへと侵入していく。もはや言葉は必要としない。ただ正面を見据えて、現実と向き合うだけである。


 やがて、ギアが切り替わり、停車した。辺りを照らすハイビームは、取っ掛かりを得ず、果ての無い闇をひた走る。反応を示したものといえば、真ん中からへし折れるように崩れたブロック塀くらいだ。


 ヒナタは車から飛び降り、駆け出した。そしてすぐに歩みを止め、独り立ち尽くす。その背中にはケイゴが寄り添う。


「ケイゴ君。あそこ、リビング。一緒にご飯を食べたよね」


「そうだな。何回か御馳走になったよ」


「ママのビーフシチューが美味しくってオカワリしてさ。遅くまで居たらパパが帰ってきて、ケイゴ君も一杯どうだいなんて、ビール片手に言っちゃってさ」


「その後、ママさんに怒られてたっけ」


 ヒナタの指差す方には部屋など無い。へし折れた大黒柱と、無数の瓦が散らばるばかりだ。


「あっちはアタシの部屋。あそこでケイゴ君とさ、ゲームやったり、TRPGやったりしてさ」


「ヒナタ……」


「遊んでたらママがお菓子持ってきて、『あなたたち、もう少しくっついたら』とか、余計な事言うの。だから、アッチ行っててとか言っちゃって」


「ヒナタ!」


 ケイゴが言葉を遮ってヒナタの肩を強く抱いた。震える小さな体は、今にも壊れてしまいそうな程にうちひしがれている。魂の器は砕ける寸前だ。


 おもむろにヒナタが振り向く。落とした肩をそのままに、顔をケイゴの胸に強く埋めた。


「無くなっちゃった」


 無機質な声だ。血の通っていない、まるで機械音声のようである。しかし、その言葉がトリガーとなり、生来の彼女が持つものとなる。現実を、到底受け入れられない結末を、ようやく理解した瞬間であった。


「無くなっちゃった! 全部無くなっちゃった! パパも、ママも、思い出も全部!」


「……そうだな」


「どうしてこんな目に! なんで! どうしてなのよ!」


「辛い、辛すぎるよな。本当に」


 悲痛な叫びが寒空に響く。声に呼応したかのように、辺りには雪混じりの風が吹いた。それはやがて地を白く染め、残骸と変わり果てた思い出までもを埋め尽くしてしまうだろう。


 人間は無力だ。いかに運命を呪おうと、天候に憤ろうとも、改める術は一切無い。だからケイゴはヒナタを強く抱き締めた。自分の肩を傘代わりにし、咽び泣く体を守るために。せめて彼女が、濡れそぼる事が無いように取り計らうだけであった。 


 そうして、哀しみが一行の全員に行き渡った頃の事だ。隣の敷地から瓦礫を踏みしめる音が届いた。ケイゴは弾かれたように顔を向け、そちらをライトで照らした。すると、一人の女性が暗闇に浮かび上がった。


 相手は急に明かりを顔に向けられたことで、短い呻き声をあげる。無作法に気づくと、ライトを胸の辺りに向けた段階で、ようやくヒナタが反応を示した。


「もしかして、お隣さんですか?」


「その声、やっぱりヒナタちゃんだっぺ。よぉく無事で東京から帰ってきたもんだなぁ!」


「知り合いか?」


「隣のおばあちゃんだよ。ケイゴ君はあった事ないかも」


 その女性との親しさは極ありふれたもので、会えば挨拶を交わす程度の仲である。しかし、このような極限状態ともなれば、最大限の歓迎によって迎えられるものだ。実際にヒナタの両手を掴んでは握り、その無事を心から祝福したのだ。


「いやぁ怪我も無さそうだしよぉ、良がったなぁ」


「でも、こんな状態ですし……」


「そればっかりは仕方ねぇ、どこのウチも変わんねぇべよ。でもまぁ、一人娘に大事無ぇんだから、お母さんも安心したべ?」


「待ってください! ママは、お母さんは生きてるんですか!?」


「生きてるハズだよぉ。何日か前だけど、避難所で喋ったかんね。お父さんやお母さんらヒナタちゃんが心配で、ずいぶん辛そうにしてたっぺ」


「避難所に居るんですね! どこですか!?」


「小学校だよぉ。ほれそこの、丘の上。体育館やら無事だったから、みんなで寝泊まりしてんだぁ」


 その言葉を聞き終える前にヒナタは駆け出した。明かりすら持たず、独り闇の中に身を踊らせたのだ。ケイゴによる制止の声も徒(いたずら)に響くばかりで、足音は次第に遠ざかっていく。


「ロジー、行く先は小学校だ! ルートは……」


「道案内ならアタシがやってやるからよぉ、アンタはヒナタちゃん追っかけてやんな。この辺は危ねぇんだよぉ!」


「すいません、頼みます!」


 ケイゴは雑な会釈だけ残してヒナタの影を追った。耳を澄まし、音の鳴る方へ全力で駆けると、すぐに後ろ姿を発見した。


「ヒナタ、道は知ってるのか?」


「うん! 昔通ってたから!」


「ライトを貸すから、案内を頼むぞ」


「わかった、ありがとう!」


 2人並んで丘へと続く坂道を駆け上がっていく。やがて息は切れ、足取りが怪しくなるも、立ち止まりはせずに走る。そして呼吸が本格的に荒くなった頃、ようやく校門が見えた。周囲を雑木林に囲まれた一画が、避難所となっている小学校だ。


 ここは珍しくも、入り口部分がライトで明るく照らされており、大きな張り紙もある。しかしそれを一瞥(いちべつ)する間もなく、2人は敷地内へと雪崩れ込んだ。


「すいません通ります! どいてください!」


 体育館は思いの外に人が多く、2階部分に備え付けられた多数の懐中電灯が混雑ぶりを照らし出した。取り分け目立つのは彼らの立ち振舞いだ。壁に身を投げ出して寄りかかる者、足元を凝視するようにして歩く者。その姿を見ると、人には生きる希望が必要だという言葉が自然と思い返される。


 絶望に沈む人々を通りすぎ、屋内を半周した頃だ。ヒナタは、部屋の隅で膝を抱える人物の元へと歩み寄った。その女性は40代半ばくらいの容貌で、長いダウンジャケットで全身を包み、独りで何をするでもなく座り込んでいた。瞳は虚空をさ迷わせ、生気は一切感じられない。まるで生きる屍(しかばね)のようにすら見えてしまう程に。


 ヒナタは女性の側で膝を折ると、不審がる様子は微塵も見せず、首に腕を絡めて抱きついた。それは傍目から見ても、力強いものと分かる。


「ママ! 良かった、生きてたんだ!」


 女性の瞳に、有るか無きかの反応が示される。愛娘の頬に手を伸ばして擦り、固い動きで顔を引き離すと、しばし互いに見つめ合う。すると見開かれた瞳にはみるみる内に涙が盛り上がり、頬を伝って滴り落ちた。


「あなた、ヒナちゃん? 本当にヒナちゃんなの?」


「そうだよママ! アタシ、帰って来れたんだよ!」


「まさか、そんな、生きてもう一度会えるだなんて! あなたの顔を見れるだなんて……!」


「会いたかった! 凄く凄く会いたかったよぉ!」


 それきり言葉はなく、篤い包容だけが交わされた。互いの体を密着させ、羽もはや虫ですらも割って入ることは不可能である。


 ケイゴは無事に再会を果たしたことに胸を撫で下ろす一方で、父親を探した。荷物は2人分あるのだが、近くに姿は見られない。何らかの理由で外しているのだろう。その時はそう思っていたのだが。


「ねぇママ。パパはどこ?」


 ヒナタの問いに母親は身を固くした。にわかに漂う不穏な空気は、まるで無限のように長大に感じられた。その静寂を打ち破る声は深く沈んでおり、静かに訥々(とつとつ)と事の顛末を語り出す。


「パパはね、ママと一緒にここへ避難したの。大変な目に遭ったけど、どうにか無事でね。ウチもそうだけど、この辺は農家さんが多いでしょ。早起きしてる人が多かったから、避難そのものは順調だったのよ」


「そうなんだ。じゃあ今も元気なんだね?」


「昨日の朝までは、ね」


「えっ……?」


「避難所の若い人たちと、食べ物なんかを探しに街の方へ出ていったの。車を何台か出して」


 ケイゴは耳を塞ぎたい気持ちになり、思わず目を背けてしまった。空気を鋭敏にかぎとったヒナタも言葉に焦りの色を濃くさせた。


「それで、どうしたの!?」


「向こうで悪い人に襲われたみたいで、帰ったときには、もう……」


「そ、そんな!」


「ごめんなさい、ヒナちゃん! ママが付いていたら、助けてあげられたかもしれないのに!」


「ママは悪くない! アタシこそごめんなさい、もっと早く帰ってこれなくてごめんなさい!」


 1日だ。学生時代には何となく過ぎ去っていった極々短い時間が、父娘の命運を分けてしまったのだ。もしヒナタが間に合っていれば、父の行動が変わったかもしれない。ケイゴが側に居たならば、むざむざ死なせる事は無かったかもしれない。しかし、考えてみても虚しいだけである。


 父を亡くした事を不運と見るべきか、それとも母だけでも再会できた事を幸いとすべきか。そんな言葉が、今も泣き止まぬ母子を眺めては、ケイゴの心に浮かび上がる。それもやはり考えるだけ不毛だと気付き、ただその場に立ち尽くすばかりであった。

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