第20話 とまどい
その男は名をタイゾウと言う。比較的大柄な体格で、肉付きの良さが厚手のコート越しでも分かるほど壮健である。濃紺のニット帽も虎髭のスタイルに良く似合っており、アクティブな気質を容姿だけで知らしめるようだった。
彼は事故車両の元に駆け寄ると、当事者となったケイゴたちの無事を確かめ、人の良さそうな顔を綻ばせた。それと同時に運転席の窓が開かれ、互いの声を隔てる物が消える事で、言葉の輪郭が確かなものとなる。
「おお、アンタら無事かい。良かったな。結構派手にやらかしてっから、エライ事になったかと思ったぜ」
「面目ない。まさか道が塞がれているとは思わず……」
「だから停めようとしたんだがなぁ。まぁ、こんなご時世だ。オレがギャングか何かに見えちまっても無理ねぇなぁ」
「我々は死線を潜り抜けた経験を持っている。そのため、酷く警戒してしまった。誤認した事については詫びよう」
「良いってことよ。それよりもさ、ちょいと手伝ってくんねぇか?」
タイゾウが言うには、標識をどうにか排除したいとの事だ。柱の高さは車高の半分程度である上に、道の端から端まで横たわっている為、現状ではどうあがいても通り抜けは不可能なのだ。予期せぬ障害物を前にして、思案に明け暮れていた所をケイゴたちが通り過ぎたという次第である。
撤去作業は、道を同じくするケイゴたちにとっても必須課題である。というより、車が破損した今となっては身動きが取れないので、タイゾウの提案を断る理由がない。ケイゴとヒナタが要請に応え、その間ロジーは車両の修理を担う。今も微かに煙をあげる車は脇にどけ、周囲に十分なゆとりを作り出した上で作業は開始された。
まずは標識の柱を綱で結び、もう片端をタイゾウの車のバンパーに繋ぐ。あとはギアをバックに入れ、強く引っ張るだけである。ケイゴたちも標識の向こう側へと回り、援護として押すこととなった。
外気に晒され続けた鉄柱は酷く冷えきっている。素手で触れるのは危険だった。袖を余らせ、手のひらを庇うように包んではみたものの、体温はビニル越しに奪われていく。
「よし! 始めっぞ!」
タイヤが地面を激しく擦る。しかし、中々思うようにはいかず、車も癇癪を起こしたようにエンジン音を響かせた。人と車でタイミングを合わせ、押し曲げようとする事数度。金属の軋む響きとともに、徐々にだが柱が前に歪む。その変化をケイゴは、正に体そのもので感じ取った。
「ようし、あと一息だ! 頑張ってくれ!」
車内から身を乗り出したタイゾウがエールを飛ばす。ケイゴたちも全力だ。指の感覚が失せかけるのを感じながらも懸命に押した。やがて願いが通じたかのように、柱は根元を軸にグニャリと湾曲した。これにて一車線は確保できた形となる。
作業を終えたケイゴたちの元へタイゾウが駆け寄った。そして差し出される右手。これは一般的な友好の証なのだが、手を握った瞬間に凄まじい力がかけられ、笑顔で応じる事には失敗してしまう。
「助かったよお二人さん! これでようやく先に進めるってもんよ」
「あの、あなたも茨城に行きたいんですか?」
「いや違うね、オレはもっと北だ。福島の伊達に向かう途中なんだ」
「そうなのか。じゃあ途中まで一緒みたいだな」
「それはそうと、お宅らの車は大丈夫なのか?」
会話を聞きつけてか、ロジーが3人の元へとやってきた。足取りは重く、瞳も暗い。言葉はなくとも状況を知るには十分であった。
「修理できるか覗いてはみたが、これは無理だ。とても素人の手に負えるものではない」
「マジかよ! これからどうすりゃ良いんだ!?」
「どこかで代車を見つけるしかあるまい。レンタカーショップなどが適切だろう。事務所に入る事さえできれば鍵も入手できる筈だ」
「そんな都合よく手に入ればいいけど……」
にわかに不穏な空気が立ち込める。目的地は遥か先だ。徒歩で向かうには遠すぎる上に、荷物も膨大である。かと言って車が手配できる保証も無く、彼らの旅は早くも暗礁に乗り上げかけてしまうが……。その前途に漂う暗雲を払ったのは、極めて快活な声だった。
「なぁ、良かったらオレの車に乗っていくかい? 6人乗りだからまだまだ余裕があるぞ」
「ええっ!? 良いんですか?」
「構わねぇって。つうか嬢ちゃん、期待してたんじゃねぇのかい?」
「あ、はい。実は……」
「アッハッハ、正直だな! 話が決まったなら、荷物を持って来ちまいなよ」
「唯で同情させてもらうのは悪い。せめて運転は私が任されようか?」
「おっ、そいつは良いねぇ。ここまで運転し通しだったから、流石にくたびれてた所だよ」
豪快に笑う姿を、ロジーは目を鋭くして眺めた。様子を窺っていたのはケイゴも同じであり、2人は視線を合わせて頷くと、タイゾウの提案を受ける事にした。誘拐目的で無い事を確信したからである。
「では諸君、シートベルトを締めてくれ」
引っ越しを終えるなり、すぐに移動となった。運転席にはロジー、隣にタイゾウ、後ろにはケイゴとヒナタが座る。
タイゾウのミニバンは言葉どおり広々としていた。お互いの荷物を乗せた後であっても、手足を伸ばして過ごす事が出来る。あわや足止めを食らいかけた所を、こうして快適に移動しているのだから、事故も不幸中の幸いだと言えた。
「タイゾウさんは、どうして福島に?」
車内での話題は、自然と自己紹介から始まり、やがて身の上話となった。既にケイゴたちは説明を済ませており、質問はタイゾウに集中する。
「向こうにはオレの家族が居るからな。だからこうして神奈川から遙々やって来たって訳よ」
「随分と家が離れてるんだなぁ。単身赴任だったとか?」
「いや、それはな、あんまり格好の良い話じゃねぇんだが……」
タイゾウは不意に言葉を濁してしまう。指先を忙しなくいじくり、話しにくそうに四苦八苦するが、彼の持つ快活さが押し勝つ結果を迎えた。
「実はオレさ、離婚してるんだわ。だから故郷の福島から飛び出して、伝手を頼りに神奈川で一旗挙げたっていう訳さ」
「それじゃあ家族っていうのは……」
「別れた元嫁さんと、8歳になる娘だ」
タイゾウは持ち前のサービス精神から、彼の生い立ちについて大まかに説明してくれた。
離婚は今から5年前の事。当時のタイゾウは仕事が長続きせず、職を転々としては自己都合で退社を繰り返していた。当然蓄えは尽きてしまい、夫婦喧嘩は絶えず、家庭は荒む一方だった。そして最後の喧嘩は特別に酷いもので、とうとう警察が出動する事態となってしまった。
そこそこの騒ぎに発展したにも関わらず、口頭による厳重注意で済んだ事は幸いだった。しかし、夫婦仲はもはや限界だ。ほどなく離縁し、3年越しの婚姻関係は呆気なく終わりを迎えた。離婚届けから感じる冷ややかさは、今でも忘れられないと彼は語る。
「今思えばね、オレは甘ったれだったんだよ。理想ばっか掲げてさ、上手くいかねぇとヘソ曲げちまうんだよな。そんで全部が嫌になって辞めるっつう事を繰り返してきた」
「世の中、不条理な物事は星の数ほどにある。気にしていたらキリが無いだろう」
「ほんとそれ。昔のオレに言い聞かせてやりてぇわ」
「それで、別れた奥さんと娘さんの為に、こうして向かってるんですか?」
「アイツには散々迷惑をかけたからな。恩返し、いや罪滅ぼしか。償うには今しか無いって思ってさ、使えそうなもん片っ端から集めてきたんだよ」
「そうですか。無事に会えると良いですね……」
ヒナタが胸元で手を握りながら言うのを最後に、会話は途切れた。誰も言葉を繋ぐことができず、車内の空気はにわかに重たくなる。どこか身につまされたかのような面持ちだ。遠慮気な咳払いも、どこか乾いたように響く。
そんな最中で、タイゾウが再び口を開いた。十分に声を落とし、柔らかくした口調が、周りに潤滑油を差すようであった。
「大丈夫。きっと会えるさ」
「そう……ですよね」
「勿論だ。というかさ、見えねぇ知らねぇものをアレコレと考えても意味ねぇんだわ。人間っつうのは考え込むとネガティブになっちまう。ああなったらどうしよう、こうなったら大変だってな」
「あぁ、スゲェ分かる……」
「ケイゴ君もそうなの?」
「割とな」
「人間ってのは希望が無くちゃ生きらんねぇ。明日は良い日になると思えてこそ今日を頑張れるんだからな。そんな訳で希望を見つけたら疑わない。不安はスパイス程度にチラッとだけ。これこそ真理よ」
豪快な笑い声が車内を埋め尽くす。運転席からは「これはロサダ……いや違うか」という独り言が漏れるも、それより遥かに大きな声によってかき消された。
そんな前向きな空気とは裏腹に、移動は思うように進まなかった。道路状況が芳しく無い為である。通行自体は可能であるものの、オービスが柱からへし折れて邪魔をしたり、植木が車線にまではみ出したりと、やたらと障害物が目につくのだ。
車両の代替えが利かない今となっては、些細な事故すら致命打に繋がりかねない。必然的に速度は緩やかになり、一般道を行くよりも鈍重となった。それでも時おり急ハンドルを必要とするのだから、時速3桁での走行など夢のまた夢である。
「なぁ、そろそろ良い時間だ。今日はあそこで一晩泊まらないか?」
ケイゴの指差す先にはサービスエリアがあった。車内の時計も20時に迫ろうとしている。疲弊の見えだした一行から反対意見は無く、特にヒナタは車酔いを覚えた為に、強く賛成の意を示した。すると無人の駐車場へ向けてハンドルは切られ、敷地内への侵入を果たす事となる。
サービスエリアにある建物は2軒。物販所に小じんまりとした公衆トイレだ。手始めに大きな施設から探索が始められた。メンバーはタイゾウとケイゴ。残りは車内で休憩と言う名の留守居である。
「こいつは酷ぇや。寝泊まりでも出来たらと思ったんだがなぁ」
一歩足を踏み入れた所で、タイゾウがやや芝居染みた反応を示した。それも無理はない。2階の崩壊が激しく、物販エリアやフードスペースのほとんどが埋もれているのである。天井も所々で抜けており、1階からでさえ星空が覗けてしまう程だ。
更には構造上、吹きだまりの様になっているために、店内の床は至る所でゴミや枯れ葉で埋め尽くされていた。これならば車中泊の方が遥かに衛生的というものである。
収穫と呼べるものは、被害を免れた調理場の水源だ。シンクだけが在りし日のままであり、蛇口を捻ればすぐに清水が溢れ出す。指先で水に触れ、軽く舌先で確かめてみるも、特に不審なものは感じられない品質であった。
「よし。今日の晩飯に使えそうだぞ」
「タイゾウさん。枯れ葉も集めておかないか? 燃料が浮くじゃん」
「そうだな。早速取りかかるとするか。物は十分にあるから、火は2つ造るとしよう」
「2つ? どうして?」
「まぁまぁ。後で分かるさ」
話半分のままでケイゴは背中を押され、要領を得ないままで作業を手伝わされた。廃材で簡易式のかまどを2基造り、中に枯れ葉や枝を詰め込むと、続いて湯を沸かし始めた。
片方は調理用の両手鍋が火にかけられ、その中で麺と鯖の切り身がユラユラと踊っている。味付けは醤油ベースであり、濃い飴色の汁が対流を繰り返している。もう一方はというと、単身者向けの片手鍋に水を張っただけである。何かを煮込む気配は全くと言って良いほどに無い。タイゾウはそちらの方を頻繁に覗き込み、度々指先で中の様子を探っては、長い唸り声を漏らした。
「うーん。もう良いだろう、十分暖まったな」
「これで何を作るんだ?」
「作るんじゃねぇわ。まぁ待ってな」
そう言い残すと、タイゾウは車の方へと歩いていった。そして再びかまどに戻った時には、片手に一枚の白タオルを持ち、車内に残っていた2人も連れていた。
「アンちゃんら、風呂に入ってねぇだろ。たまには体くらい拭かなくっちゃな」
「言われてみれば、そっちの方はスッカリ忘れてた。かれこれ何日洗ってないんだろ」
「ちょっと痒いかなーくらいには思ってたけど、何というか、生きるのに必死で……」
「確かに衛生的に問題はあった。だが、臭いが気になるまでは構わないとも思っていた」
「ねぇケイゴ君。アタシ臭い? 臭いかな?」
「いや、何でオレに聞くんだよ」
「あー、ちなみに嬢ちゃん。男は体臭フェチってのが割と居るからな。清潔だから良いとは限らんぞ」
「ケイゴ君はどうなの? 今の言葉をどう思った!?」
「だからオレに聞くな! タイゾウさんも変なこと吹き込むのはやめてくれ!」
ケイゴは乱雑にタオルを引ったくると、それをヒナタに押し付け、次いで鍋も手渡した。後ろ髪を引かれる想いのヒナタだが、すぐに物陰へと向かって歩き始め、やがて姿が見えなくなった。
「そんじゃ、次はアンちゃんが行ってきて良いからな」
「オレが? 何か悪い気がするけど」
「ケイゴ君。さすがの私も、君とヒナタ君の間に割り込む程図々しくは無い。それはタイゾウ君とて同じであろう」
「んん? それってどういう意味だ?」
「察しが悪ィな。フィアンセの残り湯を、オッサンらが使うのは気が引けるって事よ!」
「なっ!? オレたちは別に付き合ってねぇし!」
「そうなんかい? 学者センセー」
「嘘偽りでは無いようだ。彼らはパートナーシップを結ぶ一歩手前という所だろうか」
「かぁーーッ! 一番良いときじゃねぇか、羨ましいこったな!」
「だから! オレとヒナタはそういうんじゃねぇの!」
「そうかい。じゃあアンちゃんは、あの嬢ちゃんが誰かとくっついても平気だっていうのか?」
「えっ……?」
タイゾウの言葉は不思議なまでに耳で響いた。今の台詞だけ魔法がかったような、あるいは音響設備で強調でもされたかのように明瞭で、ケイゴの心にまで瞬間的に浸透した。それは彼の存在意義に鋭くヒビを刻み、意識を大いに揺さぶるものであった。
その一方で、向き合う2人は特別顔色を変えては居ない。タイゾウがいくらか、呆れでもしたように眉尻を下げたばかりだ。
「何を驚いてんだよ。人ってもんは縁がありゃ結婚するもんだ。アンちゃんが貰わないってんなら、別の誰かが手を出すに決まってんだろ」
「そりゃ、そうだけどさ……」
「今のは正論だ。ましてや今は災害時。そのような状況下では、子孫を残そうという意識が働くようになる。付かず離れずのままで1人の女性を抱えていられるのも、そう長続きはするまい」
ケイゴは反論が出来なかった。2人の言葉は一々もっともであり、自身でもボンヤリと考えてはいた事だ。それでもヒナタが居なくなる事に現実味を感じられず、意識の奥深くに沈ませていたのだ。2人がかりで苦言を浴びせられる事で、空想はようやくリアリティを帯びるようになる。
ーーアイツが、オレの側から消える?
そう考えた瞬間、世界は光を失った。もはや天と地すら消え失せ、意識は虚空の闇へと放り出されてしまう。そして、酷く凍える手足を抱え込み、終わりの無い地獄を延々とさ迷うのだ。
足元から崩れ去るなどという言葉とは次元が違う。自分が正気を保つための唯一無二の存在、それがヒナタという少女だったのだ。手放す訳がない。決して手放して良い筈が無い。腹の底から沸き上がる言葉は汚泥よりも粘着質であり、内臓を汚しながら登るかのようだ。
その粘性は、顔すら知らぬ何者かに対する敵意、そして嫉妬に塗れている為である。自分が固執する想い、情念の強さには驚きを隠せない。どちらかと言うとドライな性格だと思っていた分、その衝撃は大きかったのである。
「ただいま戻りました! いいお湯だったよー!」
素っ頓狂な声がケイゴを浮き世へと引き戻した。顔の側に寄せられた手持ち鍋からは、今も暖かな湯気が立ち上っている。差し出されたタオルも強く搾られており、僅かな湿り気が感じられる程度だった。
ケイゴは生返事で感謝の言葉を述べると、上の空の面持ちでそれらを受け取り、物陰の方へとやって来た。脱いだコートと鍋を床に起き、タオルには存分に湯を染み込ませた。軽く搾って湯を切り、腕を拭こうとしたその時だ。鼻腔が濃厚な香りで満たされたのだ。
仄かに甘く、だが極めて濃厚であり、どこか奥行きのようなものの感じられる。かつて味わった事のない不思議な匂いだ。すぐにタオルが発しているものだと気づき、これがヒナタの体臭であるのだと知った。
すると、タオルを雑巾のようにキツく絞り、水分の失せたそれで力強く肌を擦り始めた。乾いた布が小さくない痛みを生む。もはや乾布摩擦と変わらない。特に顔を拭く時などは、息を止めながら手早く済ませた。
ーーまったく、何やってんだろうな。
当事者をもってしても過剰反応だと感じている。しかしだ。何となくヒナタを裏切っているような、性欲の捌け口としているような気がして、とうとうまともに湯を楽しむ事は出来なかった。
不自然にまで気疲れをしたケイゴは、身支度を整え、鍋を片手に戻ろうとした。その時、湯が溢れてハタと気づく。それから足取りを右往左往させ、散々に悩んだ挙げ句、湯は全て捨てた。そして新たに蛇口から水を汲むと、一抱え分の枯れ葉を携えながら皆の元へと戻っていった。
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