第19話 極論の果てに

 鼻先に漂う味噌の香りでケイゴは目覚めた。微睡みの残る眼が写すのはプラスチック容器から昇る湯気。そして、満面の笑みを湛えるヒナタの姿であった。


「おはようネボスケさん。そろそろ起きようね」


 ショートスリーパーであるケイゴが起こされる側に回るのは、比較的珍しいことである。普段はヒナタを夢の世界から引き戻す役目を担っており、場合によっては『強め』に対処する事もあるので、本日は意趣返しに近い様相を呈している。


 少し意地悪気に笑うヒナタ。その声を途中で遮るようにして、ロジーが机向かいから話しかけた。


「ようやく目覚めたか。それを飲み終えたら出立準備を手伝ってもらおう」


 荷物の選定は既に始められており、物の配置が昨晩と比べて変化している。部屋の空気も心なしか埃臭い。そんな事を漠然と考えながら汁を啜り、奥歯で青ネギの欠片を噛み締めた。


 腹を暖かな物で満たした頃には、作業はもう大詰めの段階だった。ケイゴは率先して大荷物を運び、トランクや後部座席に乗せた。乾麺や缶詰を満載した段ボール箱、ガスコンロとボンベ、飲料水としてウォーターサーバの詰め替えボトルをひとつ。そして衣類や毛布を緩衝材代わりに、荷物の隙間に詰め込んでいく。


 これが持ち出すのものの全てだ。重量面ではゆとりはあるものの容積の問題により、これが限界であった。


「よし。それでは出発しよう。まずは中央環状線を目指す」


 運転はこれまで通りロジーだ。慣れた手つきでレバーやハンドルを操作し、スムーズに道路へと躍り出る。


 片側3車線の幹線道路は思いの外快適であった。瓦礫や廃材で埋まる歩道側とは異なり、中央付近の状態は極めて良い。たまにコンクリート片を踏むことはあるにせよ、通行が可能というだけで、この世界においては上等な方である。


 ここでケイゴはふと疑問に思う。以前に自分たちを遮ろうとした、倒木の類いが一切見られないのだ。今は前回と真逆の方角に進んでいるので、被害状況に違いがあったにしても差が大きすぎる。


 首を捻りたい気分に浸っていると、ヒナタが答えを探し当て、それとなく告げた。顔を窓の向こうへと向けたままで。


「避難所の人たち、ここにも居るんだねぇ」


 暗がりに浮かぶいくつもの光。避難所に属する収集隊たちの登場である。彼らは道沿いに幾つもの小集団を作り、何かの作業に没頭していた。ケイゴを驚かせたのは、その装備である。鉈やノコギリといった物に混じり、見覚えのあるチェーンソーまでも手にしていたのだ。


「おい、アレはもしかして……」


「木を切り出しているのだろう。おあつらえ向きに良き道具も『落ちて』いたのだから、作業も捗るというものだ」


「街路樹をどうするつもりなんですかね。燃やして燃料にするとか?」


「生木なんて火が着かないだろ。道を整備する為じゃないか?」


「いや、確か燃やす手段は有った筈だ。うろ覚えだから説明は出来かねるが」


「ふぅん。わざわざ集めてるって事は、避難所の人たちは知ってんのかな」


「どうだろう。まぁ知らなかったとしても、それは彼らの問題だ」


 ロジーは別に興味を抱いた風ではない。その証拠として、アクセルペダルを緩める事無く、予定進路を進み続けた。周辺で作業する人々も、去り行く車を目で追う事すらしない。誰もが生存の為に必死なのである。


 しばらくは順調に飛ばしていく。だが、荒川を目前に控えた所で、速度を大きく落とした。進行を妨げられたのではない。ガソリンメーターの心細さから、一度給油すべきだと判断したのである。もちろん、それは容易い事ではない。


 記憶を頼りに各所のガソリンスタンドを巡るのだが、案の定、店の体は為していない。屋根は崩落し、巻き込まれた給油機が横倒しになり、場合によっては爆発につながる危険すらある。これでは迂闊に立ち寄る訳にはいかなかった。


 いっその事、このまま強行してしまおうかと悩んでいると、1軒の店が目に止まった。そこは他のスタンドとは異なり、状態が悪くない。更には事務所スペースからは灯りが漏れており、何者かが控えている事は間違いなかった。


「営業中という訳では無いのだろうが、寄ってみる価値はありそうだ」


「もし相手が襲って来たらどうする?」


「その場合は一目散に逃げよう。窓は全部閉まっているな。ドアロックを頼む」


「ええと、警戒しすぎじゃないですか? まだ悪い人とは決まってないんですし」


「ヒナタ。どんな奴か分からないんだぞ。これは当然の備えだって」


「話は済んだか? 行くぞ」


 車は敷地内に入り、給油機の脇に着けた。すると事務所の方から2人組の男たちが現れ、傍まで近づいて来る。どちらもフードを目深に被り、口元をマスクで隠しているため、その表情は見えない。更には黒のロングコートを着込んでいる事から、挙動や装備も眺めただけでは知る事が出来なかった。


「アンタら、客かい?」


 片方の男が一歩前に出ると、両手を開け広げながらそう言った。丸腰である事のアピールだ。ただし後ろの男は両手をポケットに突っ込んでいるため、完全な非武装と決め付けるには気が早いというものだ。現にロジーは問いかけに対して、車を降りもせず、助手席側の窓を僅かに開ける事で対応しようとした。


「給油を希望するのだが、ここでそれは可能か?」


「もちろん。出すものさえ出してくれりゃ、油くれぇ売ってやるさ」


「レギュラーを30リットル程分けて欲しい。対価として何を払えば良い?」


「うぅん。そうだな……」


 男は窓越しで車内を一瞥した。後部座席の方を向いてしばらく目を止めると、小さく頷いてから答えた。


「アンタら、随分と食い物を溜め込んでんだな。10食分で手を打とう」


「何をバカな事を。この状況下では食料の価値は青天井。出せるのは4食分までだ」


「そっちこそ吹っ掛けすぎだろ。オレたちには売らないって選択肢もあるんだぜ? 8食」


「我々とて、絶対に補給しなくてはならない、という訳ではない。あくまでも保険としてだ。5食」


「そんなレートじゃ死ねって言ってるようなもんだ。6食。これは譲れねえぞ」


「話にならない。では、ここで失礼させてもらう」


 ロジーがギアをバックに切り替え、その場を去ろうとする。しかし、それは男の提案によって引き止められた。


「待て待て。サービスで道の情報を教えてやる。通れるルートについて知りたいと思わないか?」


「それはどのエリアについてだ?」


「オレたちは普段、物漁りに行くときは車を使ってるんだ。周辺5キロなら大抵は分かる。6食は譲れねぇが、どうだ。悪い話じゃないだろ?」


「ふむ……。無闇に道探しを強いられるくらいなら、聞いておいた方が良いかもしれない。中央環状線までの道は分かるか?」


「もちろんだとも。荒川を越えるには正規ルートじゃダメだ。裏道を駆使する必要がある。快適な旅をしたいっつうなら、オレの話は重宝するぜ」


「良いだろう。6食分渡す。まずは給油を頼む」


「まいどあり。ちょっと待ってな」


 男はそう言い残すと、事務所の方へと消えた。しばらくすると給油機から音が発せられ、やがて赤い光が点灯し始める。どうにかして電源を確保しているようだが、方法については車内から眺めるだけでは判明しなかった。


 そして男は大股開きで車の元へ戻り、続けて給油を始めた。希望通りの量を出し終えると、報酬を催促する手が窓の向こうに伸ばされた。


「ヒナタ君。カップ麺を適当に6つ出して貰えないか」


「分かりました。缶詰とか混ぜなくて良いんですか?」


「必要ない。缶詰は火が無くても食べられるので、食料の中でも価値が高いのだ」


「わかりました。勝手に選んじゃいますね」


 ヒナタは無作為にと言いつつも、ある程度物を見てから選んだ。中を漁るうちに気づいたのは、とある品が妙に多いという点だ。それは、力うどん。明かされていないがロジーの趣味である。


 他の品とバランスを取る意味も含めて、それが『生贄』の比率を多く占める事にした。ロジーは思わず制止しようと腰を浮かす。しかし、より強い制止によってヒナタの動きが止められた。


「待て、オレが渡す。ドアは開けなくて良い」


 ドアロックを解除しようとしたヒナタを寸前で止めたのである。ケイゴは食料を受け取ると、窓を少しだけ開け広げ、そこから一つずつ男に手渡した。約束通り6つ全てが支払われると、男は次に道の状況を説明し始めた。ロジーが差し出した地図に赤入れまで応じてくれたのだから、サービスとしては悪くない部類であろう。


「じゃあ話は終りだ、またよろしくな」


 去り行く車にそんな言葉が投げかけられる。ケイゴたちはそれに対し、手だけで返事をして先を急いだ。


 道案内を受けた事も手伝って移動は順調だった。いくつかの路地を抜け、荒川を遡上するようにして進み、通行可能な橋を渡れば環状線だ。ここまで詰まる事は一度も無く、実にスムーズであった。にも関わらず、ヒナタはどこか不機嫌であり、その様子がバックミラー越しに有り有りと映し出された。


「何か不満でもあるのかね?」


「……アタシ、ですか?」


「他に誰が居るという」


「まぁ、そのね、さっきのお店でちょっと失礼だったかなと。何だかんだ言って良くしてくれたのに。ケイゴ君だってドアを開けるなとか、まるで犯罪者みたいに扱ってさ」


「いやいや、あの状況じゃ普通は警戒するだろ。無言だった男はずっと睨みを利かせてたんだぞ。お互い様じゃねぇか」


「でもさ、ちゃんと道を教えてくれたじゃない。ガソリンだって誤魔化さなかったでしょ? 良い人だったんだから、もっとこう、被災者どうしフランクに接しても良かったじゃない」


「それは早合点というものだ。連中はこちらとの戦力比を計った上で、あのように接してきたのだ。もし仮に君が一人で赴いていたとしたら、同じ結果になったとは到底思えない」


「あいつら、絶対隙を窺ってたよな。そんな気配がヤバかった」


「そうかなぁ。考えすぎな気もするけどなぁ」


「ともかくだ。警戒するに越した事はない。人を見たら泥棒と思うくらいで丁度良いだろう」


 ロジーとケイゴが意見を一致させたのは、どちらも大学で暴漢たちと直接矛を交えたからだ。あの時、全身に浴びせられかけた殺意が、敵愾心(てきがいしん)が他者への不信感を強くするのだ。


 これに同調できないのはヒナタである。彼女も攻撃を受けたとはいえ、車を隔てての事であった為に、ケイゴたちほど心に陰を落としてはいない。それゆえに、ついには納得ができなかった。いくら治安に問題があるからとはいえ、極論にしか感じられなかった為だ。その感覚は環状線を通り、首都高を順調に進めば進むほど、より色濃く心に浮かび上がった。


 ケイゴたちが常磐自動車道まで進んだ時の事だ。暗闇の中で、非常灯を振る男の姿が見えた。何もない道の真ん中にワゴン車を止めたままであり、その振る舞いがどこか不審に感じられた。


「何やら停まれと言っているようだ」


「どうする。関わり合いにならない方が無難だと思うぞ」


「でもさ、何か困ってるように見えるけど。見捨てちゃうの?」


「素性の知れぬ者だ。無視して通り過ぎるのが良いだろう」


 話が決まれば、行動は早い。こちらに駆け寄ろうとする男を大きく避け、アクセルを踏み込んで一気に突き放した。バックミラー越しに映る男の姿がみるみるうちに小さくなっていく。安全圏までやって来れた、と思った矢先の事だ。それは不意に起きてしまった。


 突然、轟音とともに、車内の全員が吹っ飛ばされそうになった。シートベルトが体に痛いほどめり込み、あちこちから呻き声があがる。そして車は勢いから何度もバウンドした挙げ句、どうにか静止する事が出来た。


 霞む視界で見たものは、ひしゃげたボンネットからモウモウと立ち昇る煙。そして道路を塞ぐようにして立ちはだかる、折れ曲がった標識だった。


「おーい、大丈夫か? だから停まれと言ったじゃないか!」


 遠くからそんな言葉が投げかけられると、車内は失笑と自嘲を混ぜ合わせたような声が漏れた。


「なぁヒナタ。オレはひとつ謝りたい事がある」


「奇遇だな。私も2人に、特にヒナタ君に対して詫びねばならぬ」


「はい。何ですか」


「すみません、暴走しました!」


「本当だよ! 次からは無茶しないでよね!」


 極論に問題がある事は、このような世界にあっても同じようである。排他的思想を自信満々に押し出した直後の大事故だ。自責の念と羞恥心から、2人はともかく平謝りという状態になり、それは生存者が窓を叩く時まで続けられた。

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